形而上学という訳をした御仁を「呪う」ーー一つの訳語問題
少しともかくも時間があって楽しいのは、「哲学」遊びができることである。いま考えているのはメタフィジクスの訳である。「形而上学」という訳語はいつどのように生まれたのかを点検していないが、ここに一種の訳語問題があることは明らかである。私は日本社会の歴史的構造論を議論するのには「封建制」というカテゴリーは使えないという意見を述べたが(『歴史学の見つめなおす』)、ほとんど反応がない。これは明瞭には代案を示していない以上当然のことであるが、これが喫緊の問題であることは明らかなように思う。封建制という用語をいまでも使用しているのは、自然科学でいえばプレートテクトニクスの時代に、過去のパラダイム、たとえば褶曲説を主張しているようなものである。
しかし、この点では、哲学者は、歴史学者以上に鈍感である。ともかくもメタという言葉は、いまでは普通の言葉になっている。たとえばマンガでメタ発言というと、マンガ世界にとっての絶対者、つまり作者が、マンガ世界に介入してきて、主人公の言動についてあれこれ書き込むことであるという。手塚治虫でいえば、ヒョウタンツギである。だから、形而上学的などという言葉を使うより、メタ的の方がまだ意味が通じ、かつ正確であるということになっている訳である。こういうことになっているのは、日本の哲学者には文学者という感じの人は少なくなってしまったからやむをえないのであろうか。悪口をいえば、外から見ているかぎりでは、翻訳と哲学史以外にはほとんど無用の学問である。
ただ、実際に論理用語としての「メタフィジクス」をどう訳すかは難しい。というよりも詳しく点検しなければならない。たとえば「超感覚的、超肉体的、超物理的」などという言葉は、「メタフィジクス」の原義には近いとしても、一種の思想態度としての意味ももつようになった「メタフィジクス」の訳語としては使えない。つまり、哲学書や理論書で「形而上学=メタフィジクス」とある部分を、その訳語に置き換えてみて違和感がないということが必要なのである。もう一つは、「メタフィジクス」に関連する用語、トランセンデンシャルであるとか、ディアレクティクなどの用語の訳語も一挙に考えなければならない。そしてそれは「哲学用語」全体の切換の問題に連なっていく。
しかし、そこまで問題が大きいとすると、逆に、これは素人でも発言していいような問題であるということである。そこで、私案をだすとメタフィジクスは、超越論的ではどうだろうか。あるいは超次元論的あるいは異次元論的ではどうだろうか。ただ、その場合、以前、しばしば先験論的と翻訳していたトランセンデンシャルが、最近では超越的と訳されていることと衝突する。先験論というのも、もの凄い言葉であって。それが超越的と翻訳されるようになったのはよいことであるが、そういうことならもっと徹底的にやってくれればいいものをと思うのは、素人のひが目か。
そうすると、メタフィジクスを超越論的、トランセンデンシャルを超次元的とするのはどうだろうか。どういっても、メタとトランスが日常語になっている世界では小難しい感じになるが、それはあきらめるとして、哲学書・理論書で実際に置き換えをやってみて、どうするのがいいかを考えるほかないのだろう。
たとえばマルクスの商品論ではどういうことになるだろうか。よく議論になるのは「形式論理」と「形而上学」の関係であって、流通常識だと、形而上学のうちでも形式論理は必要である。形式論理なくして『資本論』冒頭は読めないなどという意見である。しかし、形而上学(ではない超越論)的な視点は、商品分析にそのまま必要であるというのが『資本論』の論理である。つまり、商品というものはメタの存在なので、それを分析するためにはメタの力がいるというのがマルクスの商品の呪物性(フェティシズム)論のテーゼであると思っている。たしかに形而上学は状況からの超越であり、瞑想・観想であるから、現実を静的にとらえることになり、それによって形式論理が一般化する。それ故にそれだけでは駄目なのであるが、しかし、状況からの純粋超越なしには、つまりプラトンなしには、哲学は出発しなかったのではないだろうか。私は国際キリスト教大学出身なので、大学時代にイリアスとプラトンの『国家』を読まされたことをいまでもありがたく思っている。
問題は、このようなメタの視点を前提にして労働論をやるとどうなるのかであるが、私はドゥルーズがやろうとしたのは、そういう問題につらなっているのではないかと思う。「力能」ピュイサンスをどう考えるかということである。
さて、私などにとって、一番問題なのは「ディアレクティク=弁証法」をどう訳すかである。堀田善衛に「ウルティマ」というエッセイがあって(『天上大風』)、スペインで生活していたとき、日常の些事で自己主張をせざるをえなくなって、筋は通したのだが、口喧嘩の相手に「セニョールは議論の仕方が下手だ」といわれてムッときたという話がある。この議論の仕方というのに「Dilectica」という言葉をそんなところで使われたことのショックもあったというのが堀田の説明。それは「ディアレクティカ、ダイアレクティクとは、私のアタマのなかでは”弁証法”なる、荘厳にしてかつ深淵なる哲学用語として居座っていたということを意味したであろう。かねて私は、この言葉を”弁証法”などという、面倒かつ得態の知れぬ日本語に訳した仁を呪っていたものであったが、それでもなおかつ、ディアレクティカ=弁証法として私のアタマは、この言葉を操作していたもののようである。哲学用語を日常語から隔離して、矢鱈に荘厳かつ深遠なことにしていたのでは、哲学の前途も危うしということになりかねないであろう」というのが堀田の観想である。
私なども、もう弁証法という言葉が頭に染みついている世代である。それがすべて悪いこととは思わない。哲学というのはやはり「覚り」のための近代的な御経という側面があるから、御経の言葉として弁証法というのが頭にしみついているのであろうと思う。しかし、考えてみると、世代がちょっと違うと、つまり高校生のころにそれこそ「深遠な」ものとして弁証法その他の哲学の用語をきき、それに毒されてしまったというのは、私などの世代までなのであろうと思う。ここからどうにかしないと哲学どころか、学術の未来全体がないのかも知れないと思う。堀田は「議論術」とでもしておけばよかったのにというが、文脈的な落ち着きを考えると、やはり「矛盾論的」というのが一番いいのだろうか。
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