BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 94九世紀の地震と現代は似ているのではないか。 | トップページ | 形而上学という訳をした御仁を「呪う」ーー一つの訳語問題 »

2013年5月13日 (月)

ジル・ドゥルーズの『差異と反復』を少し翻訳してみる。

130512_1313401  本当に久しぶりに自転車ででる。空ははれても心は闇という訳ではないが、気持ちはよいものの、疲れるようで途中で帰ってくる。
 連休は調子を崩して仕事が進まなかったが、少し必要があってジル・ドルーズの『差異と反復』を読んでいる。妻にはあきれられたが、歴史学の労働よりは、いろいろなものをひっくり返して探さなくてよいので楽なのです。彼の「時間論」は「歴史哲学」に関係するので、そのうち検討してみたいと思っている。しかし、翻訳が読みにくく、私はフランス語は駄目なので、英訳を買って、どうしようもないところは自分なりに翻訳しながら読んでいる。ともかく『差異と反復』という書名からしてわかりいくい。私とて、「差異」という問題が現代思想の基本にすわっているらしいということは知っている。私の世代はヘーゲルから読んだので、「差異?、それなに」という感じなので、ともかくどういう感じのものかということをつかむまで、もうしばらく時間がかかるだろう。
 以下は、序論「反復と差異」の最初の部分を自分で訳したもの。「反復」という言葉だが、「再帰・再現・回帰・持続・繰り返し」などのいろいろなニュアンスが入っているように感じて、repetitionとあっても、文脈と表現の中で勝手に訳している。哲学というものは、この程度まで日本語化しないと、どうしようもないのではないかとも思う。

 再帰性ということと一般性ということは違っていて、いくつかの点で区別されるのであるが、困ったことにどういう規定をする場合でも、これを混同することになってしまうことは多い。たとえば、われわれは「この二つのものは二つの水滴のように類似している」という。そしてまた私たちは「一般性についてのみ科学は存在する」ということと「再帰性においてのみ科学は存在する」ということも同じ意味としてしまう。しかし、再帰性と類似ということはまったく違うことだと、私は思う。
 つまり、まず、あるものが一般的なものであるというのはふたつのレヴェルをふくんでいる。質的なレヴェルでの類似ということと量的な意味での等置である。数学で言えば、前者はサイクルによって象徴され、後者は等号によって象徴されるといえばいだろうか。ともかく、一般性の観点というものは、数式の右側と左側が交換あるいは置換可能であるということである。個別的なものを別のものに交換し、置換してしまうということがわれわれの行動が一般的であるということそのものなのである。このようにして経験主義者は、個別的な観念の中に、それ自体として一般的な観念を定義するのであるが、彼等は、それらの個別的な観念を言葉の上での類似によって他の観念と置き換え可能である限りは、そこに何の問題もないという訳である。これとは逆に、われわれの行動がくりかえし回帰するような性格をもつというのは、それが必要で正当な行動であって、他のものに置き換えられないような場合にいわれることである。再帰的に行動すること、それは回帰とか再生とかいう考え方であるといってもよいであろうが、それは交換不能・置換不能であるような特別な事柄にかかわって生まれる。反省する、真似する、生き写しである、そして霊魂などというものは類似だとか、等置されるだとかいうこととは別の世界のことである。だいたい、一卵性双生児であっても互いに置き換わることはできないように、人が相互に霊魂を交換するということはできない。もし、交換ということが普遍性の指標であるとすれば、物の贈与あるいは盗みこそが再現し回帰することの指標であるといってもよい。そこには経済関係の相違もひそんでいることになる。
 再帰すること、それは一つの行動のスタイルである。ただし、類似物も等価物もないようなユニークで特別なことについての行動である。そしてこの外的行動の反復は、より密やかな震えがもっと深く響きわたるような内面の反復をもたらしているはずである。祝祭は明瞭なパラドクスのなかにある。それは繰り返すことができないようなことを繰り返すのである。繰り返しは、第一回目の祝祭に二回目、三回目を追加するということはできない。しかし、それは第一回目のそれにいわばn乗の力を加えていくのだ。この力との関係で、事柄は、いわば内側で再生し、すべてを巻き戻してしまう。ペギーがいったように、パリ祭がバスティーユの陥落を記念し再現するのではなく、バスティーユの陥落がすべてのパリ祭を祝い再帰させるものとして、毎回、新たに登場するのである。またはモネの最初の睡蓮がすべての睡蓮の中で反復されているのを発見するのである。こうして、個別的なものが一般化するという意味での一般性と、特別なものこそが普遍的な意味をもって回帰するという再帰性は反対する位置にあることになるのである。芸術の再現は認識的な枠組みからはずれた特別なものであって、詩が暗唱の繰り返しによって心にきざまれるものであるということはけっして偶然的なことではない。頭脳は交換の器官であるが、心は繰り返しにひたってしまう器官である(もちろん、再生には頭脳もかかわっているが、しかしまさにそれは頭脳にとっては一つの恐怖となり、既視感というパラドクスとなる)。ピウス・セルヴィアンは正当にも言語のあり方を二つに区分した。一つは科学の言語であって、等号によって支配され、その右項も左項も他の項によって代置されうるものである。もう一つは詩的な言語であって、どの項も代置されることはできず、ただ暗唱し再現されることしか可能でないものである。もちろん、再現は、極限的な類似、完全な等価として再構成されることはできる。しかし、人が次第に一つの事柄からもう一つの事柄に移ることができるからといって、それは二つの事柄が根本的に違うものであるという事態をなくすことはできないのである。

 歴史家にとってフランス現代思想の評価はむずかしいが、バタイユが肉体の唯物論だとすればドルーズには思考の唯物論という面があるように思う。その唯物論はモンテーニュの伝統とでもいうのか、人間主義的でシニカルでおもしろいと思う。サルトルよりはわかりやすい。どんなものでしょうか。

« 94九世紀の地震と現代は似ているのではないか。 | トップページ | 形而上学という訳をした御仁を「呪う」ーー一つの訳語問題 »

他分野の学問(哲学その他)」カテゴリの記事