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2013年6月23日 (日)

祇園信仰、牛頭天王像と河音さんーーG大で授業

 電車の中。今日はG大で授業の日。私は授業というものが駄目で、基本的に御断りしているのだが、急な依頼につい御引き受けしてしまって緊張している。何処かで青木和夫先生が『万葉集』の「百姓読み」ということを書かれていたと思う。「百姓読み」というのは、すごい言葉であるが、当時はよく使われた言葉なのであろう。要するに素人読みということである。私は都立大で青木先生の授業を受けたのでわかるが、先生などは史料の読みでは玄人中の玄人であるが、『万葉集』の読みとなるとやはり素人という意識が強い御様子が、この短文からは伝わってくる(岩波の思想大系本『万葉集』の月報であった)。
 私は学部からのいわゆる正規の史学科での授業を受けていないので、どうしてもそこにコンプレクスが残っているようで、それが授業で緊張し、不得意なことの理由であるように感じる。史料読みなどというのはようするに職人的な技術であるから、こういうコンプレクスは一生抜けないのだろう。ただ、G大の院生には専攻が似ている人は少ないので、これが気が楽ということもあるのか、あるいはさすがに人さびしいということでもあるのか、今のところは破綻なくやれているようである。
 今日は、先週の授業で残った話しのコメントをせねばならない。『歴史のなかの大地動乱』を読んでレポートをしてもらっているのだが、先週の質問は、9世紀の民衆が国土を意識したという同書の叙述について、それは本当か、そこまでいえるのかという本質的な質問。
 これについては、先日、副島弘道氏から恵与をうけた東京都の檜原村の五社神社に鎮座している「木造菩薩形座像」についての論文を紹介する積もり(『国華』一四〇一号「五社神社所蔵 木造蔵王権現立像及び菩薩形座像」)。つまり、いまから、質問への答えの素案を書こうという訳である。
 さて、副島氏は、この「木造菩薩形座像」が、平安時代の牛頭天王像である可能性を指摘している。その根拠は「今、右手に執る持物は本体と同じカヤ材とみられ、相当時代が古く、当初のものとみられる。それが斧や三叉戟であったとすれば、憤怒相をとる牛頭天王像などであった可能性なども考えられよう」という点が第一点。そして第二点は、この座像の髻(もとどり)の前後に枘が確認できるが、「今、頭上に牛を頂かないが、髻の前後に造られた枘には、牛頭などの標識が取り付けられていたかともあるいは想像される」ということである。この論文には平安時代の牛頭天王像として何例かがあげられているが、地方のものとしては、大阪の堺と、福井県八坂神社の像、そしてこの五社神社の座像ということになる。
 この像はおそらく当初の位置から動いていないようであるから、もっとも京都から遠い例ということになるのであろう。こういう木造は破損しやすいから、残った例としては稀有であっても、実際には多く造られたのではないだろうか。平安時代の祇園信仰についてはほとんど史料が残っていないから、地方における祇園信仰を示すものとして重要な作例であると思う。
 そして、もし、そうだとすると、『歴史のなかの大地動乱』で書いたように、祇園信仰の広がりは相当に広かったという推定も成り立つのではないかと思う。静岡県磐田の一の谷中世墳墓群の保存運動の中で義江彰夫氏が書いた論文では祇園社の意味にふれていた。「舞車」という謡曲には磐田(見付)の祇園祭についてもふれられていた。この祇園社も平安時代末期にさかのぼるように思う。
 さて、院生からの質問であるが、「9世紀の民衆が国土を意識した」ということをどう論証できるかはむずかしい問題である。私たちの世代だと、河音能平氏の「国風文化の歴史的位置」という論文の影響が大きく、ようするに、この時代にフォルクの基礎がすえられたというのが無意識の前提になっている。フォルク、つまり民族である。この列島における民族の形成過程をどう考えるかということになると、これも古いことになるが、第二次大戦の頃に早川二郎が書いた論文があって、これがもう一つの前提である。早川も似たようなことをいっていたと思う。早川のものは論理のみで今では意味がないといわざるをえないが、河音の見解は私などはそのまま維持している。
 もちろん、これは、『歴史のなかの大地動乱』で述べた、この時代には神話意識がまだ生きていたという考え方からするともう一度立ち戻って検討しなければならないが、ともかくも、もし、拙著で述べたような、祇園の牛頭天王が素戔嗚尊と同体であって、地震の神であるという見解が正しければ、この時代の祇園信仰の広がりは、この国土が地震という自然現象をもっているという認識の広まりをも意味していたということになる。
 もし、このようにフォルクと地震という二つの問題が結びついてくるということが正しいとすると、フォルク論と御霊信仰論の基礎の両者に最初の鍬をいれた河音の仕事の意味の大きさを再認識させられるのである。
 そしていうまでもなく、私たちの世代にとっては、民族・フォルクというと、その定義をどうするか、フォルク、民族というものをどう理論的におさえるのかという、いまでも議論が区々になっている始末の悪い問題がある。民族というものをどう考えるかは、現代にとっても依然として本質的な問題であることもいうまでもない。もちろん、現代的な民族は、労働力市場には特定の言語的能力の共通性が大量現象としては必要になるという歴史性にもとづいている。これには異論がない。またこの問題が「特定の言語的能力」が情報化の中でこうむっている変化と労働市場のグローバル化の中で大きな変化が起きていることについても異論はない。
 しかし、問題は前近代である。これまで、対外的な契機を中心に民族は考えられており、それは依然として正しいとしても、共通して広がっていく自然と、そこらかあたえられる災害その他の自然規定性が民族というもののベースになるというのも当然のことである。これを具体的に認識できるようにすることが河音の仕事を継ぐものの仕事の一つなのだろうと思う。
 数日前にあげるつもりが、昨日は地震の会議でどうしようもなく、おそくなった。明日は自転車に乗ろう。

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