ジル・ドゥルーズの『差異と反復』の翻訳2
今日は元の職場で残務の処理があって出る。なかなか調子がでずに遅れて迷惑をかけている。午前中は病院にすこし寄る予定。久しぶりの電車でのパチポチ時間であるが、このところこっているドゥルーズの翻訳を続けている。
日本語は、非構造的、説明的、名詞羅列的で、英語はそうではないといわれる。英語あるいはヨーロッパ言語は、構造的・説明的・動詞中心的という訳である。しかし、私は、ぎゃくに学問の言葉としての日本語は、きわめて正確な叙述を可能にする言語であると思う。少なくとも日本語を母語とするものにとってはそう感じさせる実力をもっている。つまり、英語では、-logyだとか、-tionだとかというラテン語由来の言葉が形式語、専門用語として存在しているが、日本語では、それが漢語・漢字語となっている。そしてこの漢語・漢字語がきわめて豊かで、厳密なニュアンスを感じとることができる。それに対して英語は文脈依存で、叙述内容も左右されるので、ぎゃくに構造的・説明的・動詞中心的にならざるをえないということなのではないだろうか。日本語が曖昧なのではなくて、社会の文脈が言語を曖昧にしているのである。これは、ぎゃくにいうと、そのうち言語からの反逆が社会の世俗に対して起こるであろうということであって、学術はその意味で、言語の仲介者とならねばならないと思う。
しかし、問題は、この事情が、哲学のような学術分野の文章に独特の困難をあたえているのではないかということである。つまり、欧米語では、日常語を哲学用語に転換する訳であるが、これが欧米人にとっての欧米哲学の読みやすさの条件となっており、それが欧米の学術の領域をこえた強さの隠された条件でもあるように思う。そこではどうしても文脈依存的なニュアンスは、それを母語あるいは職業道具にしている人でないとよみきれないのである。ダーザイン=現存在などというのは、その最たるものである。こういう問題を処理しないと、ともかく私には、哲学はわからない。
さて、ドゥルーズである。以下は、英文でいうと、141頁下段。河出書房新社の文庫(財津理訳)の377頁から。訳者が「プラトン哲学の両義性」と見出しをつけた一節である。主題になっているencounterを訳者は「出会い」と訳しているが、ここでは「啓示」という用語を選択してみた。ほかに「発見」という用語も可能かもしれないが、向こう側から「覚り」がやってくるという意味では「啓示」がよいか。「未知との遭遇」というやつである。これを訳していると、これはやはり一種の「禅」であると思う。
ドゥルーズの翻訳にとって、おそらく最大の問題はrecognitionをどう訳すかだろう。文庫本の訳者の財津氏は「再認」という言葉を作っている。たしかにre-cognitionだから「再認」という言葉を作るというのは考え方だが、ここでは、「認知」と訳した。この認知という言葉は、cognitive scienceを認知科学と訳すことから、学術世界で市民権をえたように思うので、一応、それを入れてみたということである。認知という言葉は、「ある具体的な質をもったものを「これはあれだ」という形で認定する」ということで、つまり意識作用としては「再」であるから、recognitionとなるので、訳語としても問題がない。しかし、認知という言葉が学術用語以上の流通性をもつかというと、「認知症」という言葉があるから、これも社会的通用性をもつようになるかもしれないが、しかし、私はむしろ「分別」という言葉を使ってみたいようにも思う。倭語あるいは禅などの宗教用語の中から適当な言葉をもってくる方が気持ちがよいように思うのである。これについては、そのうちもう一度考えたい。
もう一つの問題は「アムネーシス」をどう訳すかで、訳者は「想起」と訳している。たしかにプラトン論としては、そういうニュアンスがほしいが、ここでは「記憶」と訳してみた。現代歴史学にとって「記憶論」がきわめて重要な位置をしめるのは、私は自然なことと考えており、それを論じたこともある(WEBPAGE(「情報と記憶」を参照)。そこに結びつけるためにも「記憶」という言葉を使いたいのである。ドゥルーズの立論の仕方は歴史学でも利用できると思うので。
本当は地震問題の実務があるのでそれをやらねばならないのだが、週末は、少し時間を自由に使った。翻訳は以下の通り。
しかし、しばらく立ち止まって、プラトンが啓示のそれぞれの局面の本質を論ずる仕方について再検討してみよう。『国家』は、ただ認知(recognition、分別)ということとは異なるような啓示(encounter)というものがあるとしたら、それは「混沌とした感覚」をもたらすものであるといっている。まず認知の場合、たとえば、指は指という具体的で独特のものであって、指以外の何物でもないという形で認知が行われる。それに対して、一般に堅いものという場合は、逆の軟らかいものが念頭におかれている。こういうように反対のものと切り離せないということになると、ただ認知というだけではすまないことになるのである。一般的な事象では量が変化して、堅い場合も軟らかい場合もあるということになり、これはただの認知ではなくて、思考せよという予兆、あるいは出発点になる。これに対して、認知は、ある具体的な質をもったものを「これはあれだ」という形で認定して、間違うことのないようにする。こうしてプラトンは、「相互に矛盾した感覚」をもたらすものであるかどうか、感覚の中に質的な相違や矛盾があるかないかを中心にして啓示ということの最初の局面、感性的な局面を考えるのである。
しかし、プラトンは、そこですでに間違っているのでないか。つまりプラトンは、そこで指だとか、堅さだとか、ともかくも「感覚できるもの」の話をしていて、それと本来の問題であった「直観でしか感じられないもの」を混同して議論しているようにみえる。
啓示ということの第二の局面、記憶の局面についてプラトンのいうことを点検してみると、その疑いはいよいよ強くなる。記憶が認知のモデルと絶縁しているのは、外見上のことで、実際には記憶と認知は複雑さが若干異なるという程度のものになっているのである。プラトンのいうところだと、認知は感覚された、あるいは感覚する対象を相手にするが、記憶の対象はそれとは異なっている。思い出す対象は感覚の対象に連なっているか、あるいは実は感覚の対象の中に秘められているということである。しかも、それは感覚からは独立にそれ自身としてあらわれるような対象である。こういう対象は予兆のなかに秘められているので、「未視」であるとともに「既視」であり、そのようなものとして人を奇妙に不安にさせる。そうだとすれば、プラトンのような時代の人が、それはどこかで見たことがあるもの、つまり別世界でみたことがあるものであって、それが現在にあらわれた神話的な写像だーーというように詩人のように語りたくなるのは当然であろう。しかし、そうなると話はすべてくるってくる。
そこでは、まず啓示というものの本性が裏切られる。啓示は、複雑な神話や謎のような教条を認知させようといういうことではなく、そもそも認知・分別というものを否定するレヴェルのものである。そういう本性が裏切られてしまうのである。さらに記憶の想起ということの超越的な本質、ふと思い出し、あるいは思いつくということしか可能でないという本性も裏切られてしまう。なぜなら、こういう記憶というレヴェルで立ち現れる、啓示の第二の局面が、ここでは記憶から類似のものが現れるという具体的な形においてのみ理解されてしまうからである。その結果、感性という啓示の第一の局面の場合と同じような間違いがうまれる。つまり、ここでは記憶は過去それ自体と、過去に由来し類似する現在的なものの存在が混同されてしまう。こういう記憶の扱い方では、この過去がかって現在であったときの経験的な瞬間を復元することができないので、記憶は、現在のなかに、直接に根源的にみえるもの、ようするに神話をみてしまうのである。
もちろん、プラトンの記憶という考え方において重要であったのは、過去としての過去のなかに、時間の要素、時間の持続を持ち込もうとしたことである。こうすることで、記憶という概念が不透明な謎を呼び出すものとして構成された。この不透明性こそが思考の前提として必要なものなのであり、つまり、もろもろの悪しき予兆によって人を外部から揺り動かすものになるのである。しかし、すでに論じたように、この場合、時間は物理的な循環という形でのみ考えられており、時間という形式のもつ鋭い謎は考慮の外におかれているので、思考は、やはり、無前提に、そもそも善きもの、光り輝く明晰さをもつものものとされてしまう。その上で、思考が人を迷わせ、曇ってしまうのは自然的な時間の有為転変のためであるという訳である。
ようするに、プラトンのいう記憶の世界は、所詮、自己同一的な世俗的認知モデルのための飾りにすぎない。プラトンは、カントと同じように、超越的な記憶の発現を、記憶の世俗的なあり方を引き移すという安易なやり方で描いているのである。
さて、最後は、啓示の第三の局面、純粋思考の局面、つまり思考によってしか把握されないものが啓示される局面の問題である。よく知られているように、プラトンは、それをイデアと規定する。つまり、大きくあるほかない大きさ、大きさということそのもの。小さくあるほかない小ささ、小ささということそのもの。重さでしかない重さ。一でしかない一などなど。自分と反対のものとは異なる別々に分離した本質という訳である。こういうものが、我々が記憶の世界の中から生まれる力によって思考せざるをえなくなるものであるという訳である。したがってプラトンの「有」を規定しているのは、他のものにはならないような同一性そのもの、同一性の形式、同じものということになる。
さて、以上のすべては、次のような大原理を立てるレヴェルになると、絶頂に達する。すなわち、何があろうと、また何よりもまず、真なるものと思考とは親和力、血統のような親密性にによってつながっているという思想である。真なるものと思考の親和性が存在するということ、ようするに啓示の最後の局面では、善が相似したまま写像されるという形式にもとづいて、そもそも人間の中には、善なる本質をもつ思考と希求が存在するのであるというのである。
これを読んでいると、結局、プラトンは、思考のドグマティクで道徳的なイメージを打ち立てた最初の人物でなのだということがわかる。この思考のイメージによって、プラトンの作品は毒にも薬にもならないものとなり、もはや一つの「悔い改め」のための本でしかないものになっているのである。プラトンは、諸能力の高いレヴェルでの超越的な発現というあり方を発見しながら、その発現を、感覚されうるものにおける対立、記憶の世界における相似、「有」における同一性、「善」における写像という形式に従属させてしまった。そうすることで、プラトンは、はじめてイデオロギー的な表象世界の形成を準備し、その中に表象のもろもろのエレメントを組み立てる仕方を作りだし、そして早くも、思考の働きを、その思考を前提しながら裏切るドグマティックなイメージで覆うのである。
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