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2013年7月

2013年7月28日 (日)

97地震兵庫県高齢者放送大学からの放送の自己紹介

兵庫県高齢者放送大学からの放送の自己紹介
Cimg1177  むすめが植えた西洋朝顔の花がさいた。もっとのびるまでは花を摘んだ方がよいということで、コップに移す。

 私は、いま地震予知の研究計画を議論する文部科学省の委員会に参加していますが、その原点は阪神大震災の時にあります。あの時、ちょうど私は歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、震災ののちにとり組まれた歴史史料のレスキュー運動との関係で、神戸大学の方々と連絡をとり、しばらく後に行われた史料の保存と被害の国家補償をもとめる集会で小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。
 それ以来、歴史地震を考えてはいたのですが、その時は『方丈記』に描かれた平安時代末期の地震の前後にしか視野をもちませんでした。しかし、今回の三、一一の東日本太平洋岸地震の直後、東京大学地震研究所で開催された研究集会に参加し、8・9世紀の歴史地震の史料の全体を歴史学者として研究することはほとんど義務的なことであることを知りました。つまり、三、一一の大地震の歴史的な原型に869年におきた陸奥沖の大津波地震があったということが、津波痕跡の調査によって明らかになったのですが、それに対応する文献史学の側の研究がたいへんに遅れていたのです。そこで、私は、急遽、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)という本を書きました。
 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思いますが、とくに御話ししておきたいのは、神戸の番組ですので、この869年地震の前年、868年に、播磨国で発生した地震のことです。この地震の震源は播磨国の山崎断層にあることが明らかでしたから、地震学の人々も歴史史料を読んで、その震度や影響などを検討していたのですが、歴史学者として関係の史料をよむと、摂津国も大きくゆれたことがわかったのです。史料では広田社の神が怒っている。これが地震の原因ではないかとあります。
 また山崎断層は播磨国の広峰神社の北を通っています。それが六甲山地にはね返って京都をも大きく揺らしたのですが、これを知った京都の人々が、広峰神社の地震の神が京都までやってきた。そして祇園社に鎮座したと考えたようなのです。
 私は、これを知ったとき、本来、このことは阪神大震災の後に、さらにさかのぼって徹底的に史料を読んで明らかにするべきことであったと強く反省しました。九世紀は日本列島の歴史のなかでももっとも激しい大地動乱の時代でした。21世紀が、そういう激しい地震・噴火の時代になるかどうかは重大な問題です。どこまで明らかにしうるかは別として、この問題については、地震学を中心にして学術のもてる力のすべてをあげてとり組まなければならないと考えています。
 保立道久、一九四八年、東京生まれ、国際キリスト教大学卒業、東京都立大学史学科修了、東京大学史料編纂所教授、所長をへて、現在、東京大学名誉教授

2013年7月20日 (土)

霞ヶ浦

植物たちに
 めっきり少なくなり、人の目にふれることも希な沈水植物が、わたしの体内で揺れる。時には激しく、時にはゆっくりしたテンポで、羊水の中で動く幼児のようだ。湖の中で生を営む植物にとって、わたしはゆりかごだ。
 しかし、昔のわたしがどんな暮らしをしていたのかを探るために、長い年月をかけて調べてくれた学者がいる。学者は、大声でやや乱暴な意見を述べるが、その姿勢は一貫して、わたしの同居人を大切にしてくれる。
 人びとはわたしの鏡しか見ない。その方が楽なのだ。しかし、わたしの体内では多くのものが揺れながら陽炎のように生きているのだ。今確認されている植物は三百六十四種類もあるという。これから増えるか消えるのか、わたしには分からない。彼らの生き方は実に静かで、死に方も実に慎ましさを心得ているのだが、復活という玉手箱のような技さえ持ち合わせていることには驚きと尊敬がわたしの頬をなでる。
 これまで迷子になっていた植物が地上にその太古の姿を現す。浚渫されたヘドロから生命を復活させるのだ。そして、地上のひとは亡霊にひれ伏すように手をあわせる。こんな形で生まれ変わるとはと、わたしを見つめる。わたしは少しばかりの喜悦に酔う。緊張感の抜けたような世の中でもまだ、わたしに発信を忘れない植物たちの存在に恐怖を越えた慈しみを知るのだ。
 幾多の復活話を聞いてきたがこれまで信じられなかった。浴衣の襟元あたりに匂う少女の戯れごとだとさえ思っていた。白く無垢な柔肌と、透き通るような産毛を揺らして粛々と生まれてくる眠りからさめた植物たち。優しさではない。真実への探求に華を持たせようとしているのだ。


 父の兄が死去した。もうすぐ九九歳というところであった。病院をたずねて手を握り、伯父の家にもどったところで容態が急変した。通夜・告別式が7月2日・3日。土浦で葬儀である。家族で参加。久しぶりに妹にも会う。上の文章は従姉妹のつれあいの写真家の御供文範氏のページの「わ・た・し・は・霞ヶ浦」から(http://mitomo.justhpbs.jp/index.html)。霞ヶ浦の伯父は土浦の自然を守る会の最初のメンバーの一人で、御供さんは、伯父につきあって、その活動を長く支えてくれた。
 火葬をまつあいだに親族と親しい人々が60人ほどもいただろうか。久しぶりの方々に挨拶をする。私は母方の大家族で育ち、大家族のもっている問題の大きさを知っているが、同時に、大家族と親族の間での経験によって人格を作られてきた部分が大きいことを知っている。いわば大家族の苦闘を食って生きてきたということである。
 現在、この列島に棲む人々の多くが送っている都市的な生活の中では、この親族というものが見えなくなりつつのではないだろうか。もちろん、親族に依拠せざるをえない局面というものはあり、大人になってしまえばそれではすまないとはいえ、ここ30年ほどの子供たちにとっては親族というものは目の前にいない存在であって、目の前にいない存在はみえない。現在の子供たちにとってはそれはいわば家族を動物としてとらえることができなくなる。人間の動物の繁殖網がみえなくなるということで、それは自分と自分の家族を動物として相対化し、そのようなものとして悟る機会をなくさせる。第二次世界大戦後の日本は、そういう意味での親族関係を地域社会とともに破壊してきた。物材を独占するためにという機能において、親族を「閥」という形で、残してきたのは一部の人々である。現在の政界・財界を構成している人々は、このような社会からの親族組織の排除を実施し、主導した人々である。この人々に退場を願うことは、これからの社会にとってどうしても必要なことである。
 
 以下は、控え室での挨拶。
 私は父を早くなくしたものですから、小学校・中学校の頃は土浦に入り浸りでした。伯父と伯母には本当によくしてもらい深く感謝しています。私は歴史の研究という仕事をしてきましたが、そういう道をえらぶ上で、伯父からは大きな影響をうけました。昨日、お通夜で和尚さまが伯父の歴史好きは武士や合戦ではなく、町や庶民の歴史が好きだったのだとおっしゃいましたが、私はその影響をうけました。
 私は、伯父が、そういう考え方のうえにたって土浦の自然を守る会の中心メンバーとして活躍されたことにつねに励まされてきました。私は50年前、豊かな霞ヶ浦の町、土浦をよく憶えています。

2013年7月 4日 (木)

オディロン・ルドンの絵と岡田精司さんの黒い本とドルーズ

 いま14時30分の総武線。新宿に向かう途中。損保ジャパンの新宿の美術館にオディロン・ルドンが来ているので、それを見に行き、その後に四谷の韓国文化院で「土俗の乱声」(監督前田憲二)をみる予定。一人である。こんなことは大学時代以来初めてのことではないかと思う。
Rudonn  電車の中で、今日の朝届いた岡田精司氏の『古代祭祀の史的研究』を読んでいる。岡田精司さんの前著『古代王権の祭祀と神話』と同じく真っ黒な布で装幀された本であった。
 折口信夫の『古代研究』を、私は角川文庫で読んだのだが、角川文庫は黒い本で、『折口信夫全集』も黒い本である。折口と岡田はまったく異なる思想と立場にいるが、しかし、何か共通性があるのであろうか、私には、折口ー岡田は黒い本というイメージがある。
 岡田さんの前著『古代王権の祭祀と神話』という本は、私などの年代に古い時代の歴史の勉強をはじめたのものにはなつかしい本で、私は国際キリスト教大学の図書館で借りて読んだ。黒布に金箔の題字の本である。私は、義江彰夫さんが自分の高校に来ていたので、彼が歴史学研究会の大会でやった報告が、長く、自分の前提であった。義江さんの報告とあの頃の「古代」の研究では岡田さんの位置は大きかった。
 さて、ともかく地震論・火山論の延長で神話論を考えているので、歴史学の立場からすると、岡田さんの仕事は隅々まで知っておかねばならない。『古代祭祀の史的研究』におさめられた論文は、いくつか雑誌などで読んだ論文はあるが、すべて読まねばならないということで、入手することにした。この二冊目の著書の題字は、前著とは相当に印象が違うが、両方とも奥さまの字らしい。
 折口の問題は、拙著『物語の中世』の中心的なテーマの一つであった。それを見なおす必要もあって、折口のことを考えている。それは後に岡田さんの仕事についてとあわせて書くとして、ルドンの「黒い絵」と岡田さんの本の印象が重なるのである。
 
 さて、ルドンをみて、「土俗の乱声」(監督前田憲二)をみたのは、6月12日であるから、もう相当経ってしまった。「土俗の乱声」は、中国・韓国・日本のシャーマニズムの場面を撮影して編集したフィルム。ともかく疲れた。シャーマニズムというものを実際に考えるというのは相当に疲れる作業であろうと思う。しかし、それが東アジアの基底に存在したことは事実であるから未整理なままであれ、そしてすでに相当忘れているとはいえ、見たのはよい経験であった。とても整理して述べることはできないが、異様にして異形の過去というものは事実として存在するのであるから、こういうフィルムは、ときどき、自由にみることができるといいと思う。
 ルドンの方は、一昨年、2011年5月31日のエントリーに記したのだから、その少し前の日曜美術館でみたことの続きであるということになる。いま、読んでみると、「黒の時代」を抜けだしたルドンが友人への手紙で「黒は疲れる」といっていたことにあわせて、「理論は疲れる」「歴史理論は疲れる」という感想を記したもの。
 ドゥルーズの『差異と反復』の第一章の最初の節「差異と暗い背景」は実質上、ルドンからはじまっている。ドゥルーズの言い方だと、「オディロン・ルドンは、明暗法と抽象的な線を使った。線は肉付けすることをやめることによって力を倍加させる。線は背景から際立ちながら、背景はひいていくので、いっそう激しく背景に食い入っていくのである。そういう線の中で顔はデフォルメされる」ということになる。区別、ディスティンギッシュというものが怪物をうみだす。「思考は差異を作る」。区別・分類が怪物を生み出すというのは、神話的な思考が思惟の幻想を作り出すという事情をよく示していると思う。怪物が複数登場することによって人格となり、そして人格となることによって神となるのだろうと思う。それ故に、人格神の基礎にはつねに怪物が居るのだろう。暗い空に光りわたる稲妻は、まさにそのようにして怪物=龍となり、世界のどこでも、それが神話の重要な根源となった。ドゥルーズのいうように、差異の思考はプラトンにもとがあり、それはやはり、神話からの哲学の直接の発生の形態なのだろうと思う。それが東アジアではそうならなかった理由は、私にはまだわからない。
 ただ、ドゥルーズは、思惟の諸様式に本当の意味で歴史性をみることはしない。ドゥルーズ自身の言い方をすれば、歴史が強制する思考、「思考は強制されることによって発生する」という事情を捉える方法を歴史についてはもっていないように思う。それは「純粋な過去」を捉えるにとどまっており、現実の過去を捉える方法は弱いのではないだろうか。その方法はやはり認識論、エピステモロジーにとどまっているのではないだろうか。神話的な思惟というものを根本から捉えるために、もう少し考えてみたいと思う。
 ともかく、折口信夫と岡田精司さんの本、さらに折口をある側面で継ぎ、岡田の先輩であった松前健氏の本『古代伝承と宮廷祭祀』も、黒い本である。もちろん、これは松前・岡田の本が塙書房という同じ出版社からでているという単純な事情ではあるが、しかし、こう黒い本ばかりを読んでいると、それが神話の研究者が折口のあとをおっている証拠とみえてくるのである。もちろん、この黒い本で岡田さんが展開するのは、冒頭から折口批判である。ここで岡田は、有名な「大嘗祭の本義」という折口の論文に対する完膚なきまでの批判を展開し、この点では折口学説は、成立する余地のないものであることがアカデミーでは明々白々になっているはずである。この点で、歴史学における神話と祭祀の研究の先達である岡田の執念たるやすさまじいものがあった。その意味はまだふれたいが、ともかく、それを前提として、「黒い本」、神話論を、いわばルドンのように「極彩色」のものに展開すること、そういうようなことを考える。

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