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2013年8月

2013年8月24日 (土)

最初に神保町に通い始めた頃

 旧職場のPCの中から完全にデータを移植した。以下は、ついでにPCのを整理していたらでてきたもの。ずっとまえ『歴史学研究』の月報に書いたものである。最後のところに削り残しが残っているが、そのままにする。
 それにしても、研究者は誰でもそうなっているのであると思うが、PCの中には自分の頭の一部がそのまま入っている。外部記憶とはよくいったものである。これが研究活動にどういう影響を及ぼすものなのか。以前に書いた「情報と記憶」という論文では、ローマ以来の記憶術ということについて勉強して書いたが、コンピュータは一種の新しい記憶術を必要にしている、あるいは実際上、徐々に生み出しているのであると思う。

最初に神保町に通い始めた頃
 私がはじめて買った『歴史学研究』は、大学一年の時、一九六八年一〇月号の特集号で、書棚で確認したところ、たしかに記憶通りに、黄色い表紙に「天皇制イデオロギー(明治百年批判)」という赤地に黒の見出しのものであった。色川さん、安丸さん、中村政則さんなどの論文をよく読んだ跡がある。
 後に、中村さんが委員長時代に委員をやることになるとは、その時は知るよしもなかった。歴研の研究者の中でもっとも早い記憶は藤原彰さんと佐々木潤之介さんで、大学の三年か四年の時に一橋大学の授業を盗聴にいった。藤原さんの授業が日本革命論なのに驚き、佐々木さんの授業で「農民的剰余」の概念の説明に感心した。ノートをなくしてしまったのが残念である。
 次の歴史学研究会についての記憶は、大学四年の時、「日本の中世史の勉強をやりたいのだが、どうしたらいいだろうか」と事務所に電話したことである。どうしたらいいだろうかといわれても困ったのではないかと思うが、その電話に答えてくれたのは、事務局の会務担当者で(『歴研半世紀の歩み』によると松崎さんか重松さんのどちらかということになる)、中世の委員であった渡辺正樹さんを紹介してくれた。おそらく渡辺さんの電話を教えてくれたのではないかと思う。それでは『平安遺文』の読み方を教えてあげるからということで、渡辺さんに高田馬場の駅のそばの喫茶店を指定された。たしか、目印に『平安遺文』をもってくるようにということであったように思う。もうほとんど記憶がないが、その後に、時々、中世史部会に出ることになり、古代史部会にもでるようになった。当時は事務所は狭かったのだと思う、よく学士会館で部会が開かれたが、大学のあった三鷹から通うと、会費のお茶代がぎりぎりのことが多くて不安だったことを覚えている。
 結局、一年留年をすることになったが、卒論は、渡辺さんに読み方を教えてもらった『平安遺文』の最初の方に並んでいた近江国大国郷の土地売券を題材にした。私の母校は国際キリスト教大学で日本前近代史の教員がいなかったが、指導教官はありがたいことに大塚久雄先生だった。しかし、ほとんど無手勝流で書いた。
 歴史学研究会の大会の記憶は留年中の一九七二年の東大本郷での大会で、小谷さん、峰岸さんの全体会大会報告を聞き、部会は古代史部会の関口裕子報告の印象が残っている。大会の全体会会場のそばで、部会でやはりいろいろ教えてくれた富沢清人氏に、当時、都立大学にいらした戸田芳実さんを紹介してもらい、いわゆるテンプラで都立の院の授業にでてもいいといわれた。そして翌年、戸田さんによると英語の点がよかったということで都立大学の修士課程に入学できた。大学は大荒れの状態で、自分の将来について考える余裕はないまま、多忙かつ不節制という状態であったから、大学院というものに入れて非常にうれしかったのを覚えている。
 歴研事務所については、ぎりぎり、すずらん通りのあたりにあった旧事務所の記憶がある。『歴研半世紀の歩み』によれば、歴研事務所が現在の事務所に引っ越したのは一九七三年七月のことである。その引っ越しの直前に旧事務所を覗いたような気がする。
 私の高校・大学時代、歴史に興味をもった一つの理由は、高校二年の時に提起された家永教科書訴訟だった。とくに大学時代、一九七〇年の杉本判決は教科書検定訴訟を支援する全国連絡会が発行した青いパンフレットでよく読んだ記憶がある。
 けれども何といっても、私などの世代にとって大きかったのは、ベトナム戦争であった。浪人中に、代々木ゼミで小田実氏の英語の授業でケネディーの就任演説のテープを聞かされ、その明解な文法の説明に感心した。小田さんが亡くなって、急に思い出したが、考えてみると、最初のデモはべ平連のデモで、最近まで神田外国語大学にいらした山領健二先生(その頃は私のいた高校の世界史の先生)に出会ったことも覚えている。『ベトナム戦争の記録』(大月書店)を取り出してみると、一九六八年のテト攻勢、一九七三年のパリ協定、一九七五年のサイゴン陥落の時期におのおの自分が何をしていたかを思い出す。
 私の場合、歴史が動いたという実感は、あれが唯一のものかもしれない。その頃から、社会党の解党、売上税導入、小選挙区制、そしてその先には憲法改悪だといわれ、その予測通りに歴史は「変化」している。だから、あまり動いたという実感はないということかもしれないが、ともかくパリ協定の成立をたしか国会議事堂の近くで聞いたときの強烈な印象が残っている。
 私は、大学時代に、自身の考え方は決めていたが、将来は混沌としており、ともかくも、そういう中で、徐々に方向を決め、歴史学研究会に通うようになった。


最近、『永原慶二著作選集』の『二〇世紀の歴史学』収録巻の解説を書くという難しい仕事を割り当てられ、必要があって『昭和史論争を問う』(大門正克編)を読んでいたら、和田悠氏が山領さんの「著名な亀井論」があるといっているのを読んだ。その論文の掲載されている『共同研究転向』は買ってもっていたのだが、大学院時代に金がなくて古本に売ってしまった。

Low moral and bad management

 久しぶりに総武線の中である。今日、仕事をすれば旧職場の残務の事務的な部分がようやく終わるはずである。
 昨日は連れ合いに教えられて、BBCの福島原発事故についての放送を聞く。たしかにLow moral and bad management といっている。英語での批判というのはこういうものかと思う。大人のやることではないといっているわけである。
 高放射能の汚水が漏れているというのはわかっていたはずである。わかっているけどやめられないというのは、破局に破局を重ねるということであろう。中枢部が責任をほうりだし、大多数がそのままではやっていけないという状態にならないと事態がかわらないというのは「変化」にとって通常のルートである。しかし、今回の場合はそういう「通常」のルートをとるべきものではない。問題の性格がそもそも取り返しがつかないのである。
 BBCは国家機構が責任をとれという声が大きくなっているといった。たしかに、早晩、国家機構が責任をもった対処にふみこまざるをえないだろう。日本の中枢部がグローバルスタンダードに立っていないのはいうまでもない。しかし、先日の麻生元首相の発言などは居直ることができようが、原発は最終的には居直れない。原発事故問題はもっともストレートに国際的な基準で処理せざるをえない問題の一つである。この問題ではグローバルスタンダードというものを日本の中枢もはじめて無視できなくなるはずである。危険度3ということは、「事故収束宣言」が虚偽であったことを白日の下にさらしてしまう。
 国家機構による対処に踏み切れない理由は、それが日本の政治の常態ではないためである。「私企業」のやることは私企業に委ねるということで重大な問題にはかかわらないというのがその習性である。これを変えて、政治が関わるということになると、ともかくも、これまでの方針と対処そのものを点検せざるをえないということになる。それは行政の側が、原発についての政策過程を内がわから点検することにもなる。それによってどういう結論がでるかという問題ではない。そういう点検そのものを政治や行政がやるというのが、これまでの習性と根本的に反するのである。原発の錯誤の事後処理というものは、その意味では、錯誤の事後処理というものを、この国の国家が行う最初の機会にならざるをえない。それが怖いのであろう。
 こういうように考えてくると、ようするに「原発事故の収束宣言」というのが、もう政治と行政はかかわりませんという宣言であったことがよくわかる。
 こういう考えながらの文章は時間がかかる。もう東京である。
 帰り、仕事がおわってほっとする。

2013年8月20日 (火)

ドゥルーズと神知学と神話

ドゥルーズの翻訳「変差というものそれ自体」
 ドゥルーズの『差異と反復』の試訳。第一章のトップ

 変差のない世界という場合、二つのことが考えられる。それはまず、一切がとけ込んでいる未分化な深淵、漆黒の無であり、その中にすべてが流動化していて不確定な動物的存在である。次には何もない空白、死の静止をひたす液体の表面であって、そこには位置を外れたもの、頸からちぎれた頭、肩から外れた腕、眼窩から飛び出てしまった目などが浮かんでいる。前者の暗黒の深淵はまったく未分化な世界であるが、後者の死の隙間にある腐敗した水面も無関心によって支配されており、変差のない世界である。
 それでは変差というものは、この二つの極限の間にあるのだろうか。そうではなく、むしろ、変差ということそのものが、唯一の極限、そこではじめて現前し、精細な世界が存在する唯一の契機なのではないだろうか。変差とは、そこで位置決定そのものを語ることが可能にする状態をいうのである。二つの事物の「間」という形で捉えられるならば、その変差とは経験的なものにすぎず、おのおのの位置決定も外側からのもの(extrinsic)にすぎない。そうではなく、つまり事物が他の何かから区別されるというのではなく、変差を考える場合には、ある事物がそれ自身を区別するということを考えなければならない。あるものが自己を際立たせる背景は、それ自身としては際立たない。たとえば稲妻は背景の暗い空からそれ自身を際立たせる。稲妻は背景の天空を際立たせる訳ではないが、しかし、稲妻は天空を自身のうしろに従えていくことによって指し示す。下地が下地であるままに表面に浮かび出てくるとでもいったらよいだろうか。それはあたかも捉えがたい敵を捕捉しようとするかのようである。このような闘争には、両方の側になにか暴虐非常なもの、あるいは怪物的なものが生まれる。そのような闘争においては優位者が、それ自身と差別できない何かと対立し、その弱者の側は優越者から圧迫されながらも服従しつづけるほかないからである。変差とは、こういう優越的な決定が一方的な差別という形態をとる状況のことなのである。それ故に我々は、変差は作られる、または自己自身を作ると考えるべきなのであって、このことが「差をつける、少し変えてみる」などという表現に反映しているのである。
 変差と、その創出は非情なものとして印象されうる。プラトン主義者たちは、「《全一ではないもの》はそれ自身を《全一なもの》から区別するが、しかしその逆は成り立たない、つまり《全一なもの》は、それ自身を《非ー一》から区別することはできない。なぜなら、《全一なもの》から《非ー一》は逃げ出すことができるが、全一なものは何物からも逃げることがないからだという。また別の視点から、形は、それ自身を素材あるいは背景から区別し、際立たせるが、その逆は成り立たない。つまり素材や背景は形から区別され、際立ってくるということはない。なぜなら、形というのが、そもそも区別・際立ちということそのものだからだ」と語っていた。だが、それはプラトン主義者の考え方であって、実際に起こるのはそういうことではない。つまり形が浮かびでてきた下地に反映するとき、その形はすべて溶解してしまうのである。そうなると下地は、それ自身、背景にとどまる未規定なものではなくなってしまい、他方、形の方もまた、共存したり補完する諸規定であることをやめてしまう。浮き出る下地はもはや背後に退いてはいず、自律的な存在を獲得し、下地に映しだされた形は、もはや形ではなく、直接に魂に訴えかける抽象的な線になる。下地が表面に出てくると、人間の顔は、鏡のなかで崩れてしまう。そこでは、末規定なものも諸規定も、変差を「つくる」、単一の規定として混じり合ってしまうからである。怪物をひとつ産みだすために、いくつもの異常な規定を積み重ねたり、動物に何度も重ね書きを加えたりするのは下手なやり方である。むしろ下地を浮きあがらせ、形を溶解させる方がよい。
 ゴヤはアクアチントとエッチングの技法で、すなわちアクアチントでは灰色の濃淡をもちいて、またエッチングでは細線によって仕事をしていた。オディロン・ルドンは、明暗法と抽象的な線を使った。線は肉付けすることをやめる、つまり形の造形的な象徴と関係するのをやめることによって力を倍加させる。線は背景から際立ちながら、背景はひいていくので、いっそう激しく背景に食い入っていくのである。そういう線の中で顔はデフォルメされる。
 そして、怪物を産みだすのは《理性》の眠りでしかないなどと言ってもはじまらない。怪物を産みだすのはまた、思考の覚醒、思考の不眠症でもある。なぜなら、思考とは、そこにおいて規定作用が、末規定なものとの一方的で明確な関係を維持することによってはじめてひとつの規定へとつくりあげられる、当の契機だからである。思考は変差を「つくる」、がしかし、それが作られたものであるということは、作られた変差が怪物的なものとして登場するということなのである。我々は変差が呪われているものであるかのように登場するからといって驚いてはならない。またそれが錯誤、罪または祓われるべき悪の姿をもって登場するからといって、驚いてはならない。そこでは下地を浮き出させ、形を溶解させたということがやましいものと感じられただけなのだ。残虐非情というのは優越的な決定そのものの印象なのだというアルトーの発想を思い出してほしい。虐待が起こるのは、規定されるものが末規定なものと本質的な関係を維持している、まさにその地点においてなのであり、明暗法がその陰に飼っている悪寒のように幻想的な線形なのである。
 
 稲妻、背景の暗い空、怪物というのは神話論をやっていると面白い問題である。

 明日からは、ゲラの校正が入り、さらに出張に続くので、今日はしばらく前から興味をもって読んでいたドゥルーズの話。ちょうど家族から、今日の夜にドゥルーズについての「哲子」さんのテレビ番組なるものがあると聞いて驚く。
 上記は、先日、ルドンをみたあとに続けていたドゥルーズのルドンについての解説をふくむ『差異と反復』の一節の翻訳。「哲学者」でない人、哲学ムラに属さない人、つまり私にもわかるように訳すということをしてみた。
 神話から神道へということを考える上でも、神話から神知学へ、そしてキリスト教へという道をみちびいた、プラト二ズム、あるいは新プラトン主義というものをどう考えるのかが基本的な問題であると思う。このような思想の動き方は、私はやはり「普遍的」なものだと思う方である。つまり、『古事記』『日本書紀』の体系でも、タカミムスヒ・カミムスヒは隠された神となる。隠された神、天空の彼方の彼方に存在し、独神となって「卒業」してしまった神というのが存在するというのはギリシャ神話論の基礎であるらしい。たとえば新プラトン主義者のはじまり、プロティノスの美しい文章は(「エロスについて」)、ウラノスの子どものアフロディテとゼウスとディオネの娘としてのアフロディテを区別し、前者を「母なくして生まれた女神」であり、天上には結婚がないとしている。
 こういうような神話の抽象化は、神話の神々の世界が多層化する中で生まれたものだろうと思う。これが倭国神話でも展開しつつあった。つまり東北アジアの神話と南アジアの神話の重層の上に、さらに倭国的な重層化が進展していたのだからそれは当然だろうと思う。タカミムスヒーアマテラスーオオクニヌシという形で三層にはなっているわけである。
 私はタカミムスヒの「隠身化」は、津田左右吉の議論を前提とすれば、きわめて政治的なものであろうと思う。水林彪もそう考えているように思う。ただし、そこには、一般的な思考の展開の仕方としての神話的神々の抽象化という動向もふくまれていた。タカミムスヒは、そういう意味で「生成」の神という抽象的な神格を獲得する手前にいたようにもみえる。タカミムスヒは火山の神であるというのが、この間、『かぐや姫と王権神話』などで主張してきたことだが、それが本居ー折口がいうように「生成」の神、そしてエロスの神としての神格を付与されるような動向があったことは否定しない。神話の神知学への展開というわけである。
 しかし、倭国神話から倭国の神知学が生まれるということはなかったし、それが「哲学」に展開するということもなかったのはご存じの通りである。これが「道教」と「神道」の問題であるというのが、私見。こう考えてくると、タカミムスヒに注目する本居ー折口の見解(生成の神、エロスの神)は、いわば遅れてきた神知学ともいえるのであろうと思う。
 

 ドゥルーズが考えようとしたことは、キリスト教批判のさらに先、つまりキリスト教の教義のなかに流れ込んだ神知学と神話的思考にさかのぼって批判を展開して、西洋哲学史を相対化することであるということはよくわかる。『差異と反復』には何かというとプラトンがでてくるが、その理由は了解できる。プラトニズムの「美しさ」に惹かれるのは哲学者の心性であるが、これは現代的な意識としては感心できないものというほかない。彼らは哲学を名にして自分流の御経を作っているのだというのが、哲学という職業を否定する(ところにまでいったのであろうと思うが)ドゥルーズのいいたいことなのであろうと読む。
 そして、ドゥルーズにおいては、それがベルクソンを前提としたヘーゲルに対する弁証法的理性批判という形をとったことをどう考えるかというのが基本問題である。
 マッハの経験批判論にはじまった唯物論批判は、ヘーゲルのいう「直接知」への批判、つまり巨大な自己運動をはじめた科学(自然科学、社会科学)に対する哲学の職業的擁護の心情につながる俗論である。それは19世紀末期においてアカデミズムと大学組織の形成とともに、「哲学者」の職業的必要、自己の学術の根拠づけの確認、悪くいえば職業的利害の擁護、職業的誇りの擁護という形で展開したものであるというのが、年来の私見である。少なくともそういう側面があるというのは否定できないと思う。ようするに「学者」「アカデミズム」というものが成立したのである。この点で、マッハの経験批判論に対するレニン的な批判は正当な部分が多い。バクーリ批判は当然であると考えるし、レニンの哄笑に対応できる学者、哲学者、「愛知者」というものはそうはいない。
 もちろん、逆にマッハ・フッサールは学術の問題としてはそれなりの意味があったのだろうと思う。科学者用の哲学であって、根本的なものではないとしても、自然科学者も人間であって、「精神」労働者である以上、なんらかの哲学あるいは人生論的哲学のようなものはいるのである。それが哄笑すべきものであったとしても、そういうものでも有用性はあり、科学労働を進める上では実際に有用であるということはあると思う。学者用の哲学である。
 ただ、ベルクソンからドゥルーズへの弁証法批判の問題はそう簡単には片づかないのだろう。これはヨーロッパ思想史の全体に根拠をおいており、ヘーゲル弁証法批判が必要なものであることは明らかだからである。ヘーゲルの予定調和的な弁証法に対するドゥルーズのいらだちは、正しいものがあるのではないかというのが、いままで読んでいての感想。

2013年8月13日 (火)

オスプレイ配備

 以下は、今年一月に行われた沖縄県全41市長村の首長、議長が参加した東京集会での建白書。常識的に最大・最強の主張のはずであるが、こういうものを無視する人間というものは、自分をなにさまと思っているかということである。
 こういう「国」というのはどういうことなのかを、歴史学者として根本から考えていきたい。下記には「祖国復帰」40年という画期についての建白書の言葉を引用する。これは、列島に住むものすべてがうけとめるべきものであると思う。これを受け止めることなくしては学問などは無意味である。

「オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
 この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている」。


内閣総理大臣
  安 倍 晋 三 殿

建 白 書



 我々は、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。
 にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月も経たない10月1日、オスプレイを強行配備した。
 沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6,000件近くに上る。
 沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。
 とくに米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。
 このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
 沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2ヶ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。
 その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。
 オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
 この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。

 安倍晋三内閣総理大臣殿。
 沖縄の実情を今一度見つめて戴きたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行して戴きたい。
 
 以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出致します。


1.オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備され  
 るとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用 
 垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。

2.米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。



PETITION


The Okinawa Prefectural Citizens’ Rally Against Osprey Deployment was held on September 9, 2012 to protest with indignation against the forceful deployment of the aircraft and to call for the withdrawal of the deployment plans. More than 100,000 citizens participated in the rally.
However, the governments of Japan and the United States trampled down the collective will of the people of Okinawa and forcefully deployed Osprey planes on October 1, only less than a month after the rally.
Due to the presence of the U.S. Forces’ bases, Okinawa prefecture has been imposed with a multitude of damages related to the military facilities. Looking just at the years since the reversion of Okinawa to Japan in 1972, the number of criminal cases involving U.S. service members, civilians and their family members has reached close to 6,000.
As people of Okinawa have taken every opportunity to explain the situation where incidents, accidents, and noise damage related to the U.S. Forces persist, the Japanese government must be duly aware of the situation. Marine Corps Air Station Futenma, in particular, remains in the middle of a residential area, threatening lives and properties of Okinawan people. The governments of Japan and the United States must be aware that the air station is the most dangerous one in the world.
It is outright discrimination against Okinawans to deploy to the dangerous air station the unsafe Osprey which has had repeated accidents since its development stages and has caused a large number of fatalities. In the continental U.S. and Hawaii, trainings have been suspended after giving consideration to the residents’ concern over noise pollution.
Since the deployment in October and November, during these two months, more than 300 flights violating the Japan-U.S. safety agreement have been witnessed during the observation conducted by the prefecture and municipalities. It makes us believe that the agreement has already failed.
Furthermore, it was revealed that the remaining 12 Osprey aircraft in the U.S. Forces’ plan will be deployed to the MCAS Futenma by July this year. The special operation transport aircraft CV-22 will also be deployed to Kadena Air Base between 2014 and 2016. Such plans are outrageous.
The Ospreys were deployed to Okinawa in the year the prefecture celebrated its 40th anniversary of the reversion to Japan. We hope for the steady progress of Japan as members of the country, while preserving Okinawa’s own history and culture which have been passed on since the time Okinawa was called Ryukyu.
Forty years after the reversion, the U.S. Forces continue to be arrogant as if Okinawa is still under their occupation. Japan’s national sovereignty is being challenged.

Prime Minister Shinzo Abe,
We request you to re-examine the situation of Okinawa and implement measures to realize the united call of its people for alleviation of the burden of hosting the U.S. military bases.

This petition for the below requests is hereby presented by the Executive Committee for the Okinawa Prefectural Citizens’ Rally Against Osprey Deployment, Okinawa Prefectural Assembly, municipalities and municipal assemblies.

1.  Immediately revoke the deployment of Osprey and call off the deployment of the additional 12 aircraft slated by July this year. Also, immediately withdraw the plan to deploy the special operation transportation aircraft CV-22 Osprey to Kadena Air Base.

2.  Close and remove MCAS Futenma, and renounce the plan to relocate it within the prefecture.

2013年8月 3日 (土)

池上裕子さん 『織田信長』

Ccf20130803  東京新聞をみていたら(7月28日)、池上裕子さんの大きな写真。歴史学研究会の中世史部会で結城氏法度の勉強会をやったころ、つまり30年以上前からの友人なので、なつかしい。この史料はむずかしい史料で、みんなで読んだその解釈は活字にしようということになって、ちょうど、永原先生が結城市史を編纂されていたこともあって、結城市史にのった。解釈では、みんな池上さんの側に立ちたがった、または池上さんの判定が自分にくだることを競った。ポーシャ姫である。
 この前御会いしたのは、去年の歴史学研究会か、一昨年の同部会の中年部会で国立で飲んだときからだから、もうしばらく御会いしていない。もっと会う機会を作らないと、我々も若くはないので、研究上の交流を十分にしないままになってしまう。
 さて、このインタビゥーは吉川弘文館の人物叢書の『織田信長』の話。私もいただいて通読した。見事な本であると思う。信長は「統一政権」とはいえないというに感心。私も京都を押さえるという点が問題で、都市占領がキーだと思う。そのうち京都論をやってみたいというのが夢であるが、いつ自分の研究でそこまでいけるかというのが、最近の地震研究と神話論があって、見通しが立たなくなった。
 この本への感想では「もっと信長を評価すべきだ」という意見が多かったということで、池上さんの感想。「歴史学者って案外、権力者が好きなんです」。痛烈な人である。「歴史学界の権威者からは『信長は統一政権として評価すべきだ」とい意見があったということであった。こういう馬鹿なことをいう権威者とは誰だ? 
 「権力者は史料も多く、研究成果もえられやすい。村のことを調べようとすると史料は少なく難しい。でも民衆を知りたい」というのは、研究者としての職業倫理であると私なども思う。プロになったら難しいことをやるべきだ。上からつめていかないとならないというのは事実ではあるだろう。若い人がそれをやるのはいい。歴史は史料が第一だから地層のように、上からはいでいかないとならない。しかし、それはいわば考古学でいえば準備仕事で重機でやるべき部分だ(といっても近代の地層を重機ではいでもよいという訳ではないが)。そこは集団労働でみんなでやる部分だ。そこに責任をもちながら、地層の下の方に触覚を働かせるのがプロのはずである。信長などは、重機で掘る部分であり、いわば歴史のゴミ部分であり、正味ではない。私の場合は、清盛とか頼朝とか義経にあたるので、私も早くそれらのゴミ処理を終えたいものである。
 さて、池上さんがよく立派な歴史家が出身するところとして知られる新潟、そして佐渡のご出身であることは知っていた。ただ、農作業の経験があるというのはうかがったことがなかった。以下、それを引用して池上さんへのオマージュにかえる。
 記者の質問「池上さんが農民とか、支配される側に目を向ける原点はどこに」。
 池上さんの答え
 「実家は新潟県佐渡市の農家で、田植え、稲刈りも手伝いました。農民の生活はある程度分かっているし、村という共同体の状況も大体分かります。どのくらい田畑を持っていれば、どんな生活が成り立つか。あんまり成り立たないんですけど。村のみんなで水路をいくつも造り、その先をそれぞれの田んぼに分けていく。そういう共同作業がありながら、みんなが仲良く暮らしているわけではなく、それなりに大変だということも知っています。
 村人が生産にどう携わり、家や家族をどう成り立たせていたか。地域はどうつながっていたのか。権力者は資料も多く、研究成果も得られやすい。村のことを調べようとすると資料は少なく難しい。でも民衆を知りたい」。

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