Low moral and bad management
久しぶりに総武線の中である。今日、仕事をすれば旧職場の残務の事務的な部分がようやく終わるはずである。
昨日は連れ合いに教えられて、BBCの福島原発事故についての放送を聞く。たしかにLow moral and bad management といっている。英語での批判というのはこういうものかと思う。大人のやることではないといっているわけである。
高放射能の汚水が漏れているというのはわかっていたはずである。わかっているけどやめられないというのは、破局に破局を重ねるということであろう。中枢部が責任をほうりだし、大多数がそのままではやっていけないという状態にならないと事態がかわらないというのは「変化」にとって通常のルートである。しかし、今回の場合はそういう「通常」のルートをとるべきものではない。問題の性格がそもそも取り返しがつかないのである。
BBCは国家機構が責任をとれという声が大きくなっているといった。たしかに、早晩、国家機構が責任をもった対処にふみこまざるをえないだろう。日本の中枢部がグローバルスタンダードに立っていないのはいうまでもない。しかし、先日の麻生元首相の発言などは居直ることができようが、原発は最終的には居直れない。原発事故問題はもっともストレートに国際的な基準で処理せざるをえない問題の一つである。この問題ではグローバルスタンダードというものを日本の中枢もはじめて無視できなくなるはずである。危険度3ということは、「事故収束宣言」が虚偽であったことを白日の下にさらしてしまう。
国家機構による対処に踏み切れない理由は、それが日本の政治の常態ではないためである。「私企業」のやることは私企業に委ねるということで重大な問題にはかかわらないというのがその習性である。これを変えて、政治が関わるということになると、ともかくも、これまでの方針と対処そのものを点検せざるをえないということになる。それは行政の側が、原発についての政策過程を内がわから点検することにもなる。それによってどういう結論がでるかという問題ではない。そういう点検そのものを政治や行政がやるというのが、これまでの習性と根本的に反するのである。原発の錯誤の事後処理というものは、その意味では、錯誤の事後処理というものを、この国の国家が行う最初の機会にならざるをえない。それが怖いのであろう。
こういうように考えてくると、ようするに「原発事故の収束宣言」というのが、もう政治と行政はかかわりませんという宣言であったことがよくわかる。
こういう考えながらの文章は時間がかかる。もう東京である。
帰り、仕事がおわってほっとする。
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