BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

2013年9月

2013年9月30日 (月)

地震火山99「前方後円墳」の墳形と火山神話を書き直した

130929_074539

 自転車ででる。これは自宅から少し奥に入った谷戸の風景。このところに水引草があり、名前の分からない蔓草の赤い花があった(マルバルコウソウというものかもしれない。熱帯アフリカ原産で江戸時代に帰化した由緒正しい草)。こんど撮影してくる。水引草は、久しぶりにみる。

 「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
 水引草に風が立ち、
 草ひばりのうたいやまない
 しずまりかへった午さがりの林道を
 
 うららかに青い空には陽がてり 火山はねむっていたーーー」

 「前方後円墳」の墳形と火山神話という文章を書いているが、そのまえがきの部分、研究史の部分をしばらく前にアップした。不十分なところを確認して、書き直した。とくに近藤義郎説と、広瀬和雄、大久保徹也、北條芳隆氏の学説との関係部分を追加。考古学の研究史なので、本当にむずかしい。しかし、石母田ー近藤の研究の相互関係をどう考えるかという問題に関わってくるので勉強している。
 三品彰英氏の仕事をどう考えるかも大きな問題である。山尾幸久氏の三品彰英さんへのきびしい発言(『古代王権の原像』)を読んで、その部分も書き直した。
上の水引草の詩は立原道造。立原の詩は右遠俊郎先生に読み方を習った。立原が日本浪漫派に心酔したというのは杉浦民平の解説を読んでしったのは、10年ほど前か。本当に驚いた。立原の記念館が東大の弥生門のそばにあって、ずっと行こうと思っていたが、一昨年(?)建物の都合が悪くなってなくなった。
 三品の戦争中の立場にも同じような問題がある。それにしても、この部分も追加したが、三品の恩師がアルフレッド・L・クローバー(アーシュラ・K・ルグインの父)であるということを知って本当に驚いた。三品の伝記を知りたい。

以前のものを残した方がよかったかもしれないが、すでに置き換えてしまって、以前の原稿はPCの上でも消えている。
 今日もうんうんいって原稿を続けている。
 ついでに、次は高村光太郎の「激動するもの」


さういふ言葉で言へないものがあるのだ
さういふ考方に乗らないものがあるのだ

さいいう色で出せないものがあるのだ
さういふ見方で描けないものがあるのだ

さういふ道とはまるで違つた道があるのだ
さういふ図形にまるで嵌らない図形があるのだ

さういふものがこの空間に充満するのだ
さういふものが微塵の中にも激動するのだ

さういふものだけがいやでも己を動かすのだ
さういふものだけがこの水引草に紅い点々をうつのだ

2013年9月26日 (木)

日本史研究の基本の30冊、近藤義郎『前方後円墳の時代』

 日本史研究の基本の30冊のうちの「研究を進めるために」の部分におさめる予定。
 今日は庭にむくげを植えるために、以前から自然に生えてきたアオキを掘ってどかす。根っこがすごかった。知らぬ間に生えたものだが、こういうようにして時間が経っていくのかと感慨。
130926_181330


近藤義郎『前方後円墳の時代』 
 近藤義郎(一九二五~二〇〇九年)は、森浩一とならんで、第二次大戦後の考古学を代表する考古学者である。「はしがき」で近藤は”考古学の独自の資料のみを使って歴史を再構成してみたい」とその執筆の動機を語っている。ただ、この歴史の再構成とは、近藤にとって、まずは歴史的な社会構造論を組み立てることであり、この点の指向は森とは大きく違っている。
 この近藤の試みは見事に成功しており、現在でもこれだけ全面的なものは存在しない。各章を紹介しておくと、(1)弥生農耕の成立と性格、(2)鉄器と農業生産の発達、(3)手工業生産の展開、(4)単位集団と集合体、(5)集団関係の進展、(6)集団墓地から弥生墳丘墓へ、(7)前方後円墳の成立、(8)前方後円墳の変化、(9)部族の構成、(10)生産の発達と性格、(11)大和連合勢力の卓越、(12)横穴式石室の普及と群小墳の築造、(13)前方後円墳の廃絶と制度的身分秩序の形成、以上の一三章編成である。
 論の中心は(4)(5)(9)の各章、つまり社会集団を下から順に、単位集団(三から五戸ほどの竪穴の血縁体)→集合体(氏族共同体)→地域(部族)→部族連合と序列化する点にある。「世帯共同体」「農業共同体」などの歴史理論用語をつかわず、考古学的に確定された事象にもとづいて単純な言葉からはじめるというの近藤のセンスは好ましい。
 もちろん、そこで問題になっているのは集団所有と分割経営の矛盾という原始社会の分析のキー概念であるが、しかし、近藤の議論の特徴は、私有の拡大を中心に論ずるのではなく、早い時期から経営体の自立を認めた上で、家族体・氏族・部族の集団関係自身に焦点をあて、不均等な集団的変化が拡大・重層し、集団が移住・分岐していく様子に注目する点にある。この時代においては集団所有こそが構造的な所有の中心であって、それは下位集団の相互の調整や矛盾の関係を梃子としてそびえ立つ。共同体機能は首長=部族機関によって代表されるが、代表者は下位の代表される集団の構成そのものを否定してかかることはせず、そのまま自己の権威の下に編成していく。その中で、私的所有は、むしろつねに集団構成の規制力を強化する方向で働くという。
 近藤は、こういう弥生時代の部族連合の集団所有の重層化の運動の中から、部族連合権力が人々を支配する古墳時代の社会が成立したと説明している。著者は明言をさけるが、共同体の重層の中から階級的な性格をもった部族連合国家あるいは部族的な貢納王制が形成されたということであろう。都出比呂志が述べたように、古墳時代の権力が賦役、税制、流通支配などの点で国家というべき性格をもっていたことは明らかである(『古代国家はいつ成立したか』岩波新書)。ただ都出はそれを「初期国家」と規定するが、その概念内容は不鮮明なところが多く、学説史の現状では、近藤の議論はまだ有効性が残っている。なお、近藤の学説は石母田正の「首長制論」に相似する(『日本の古代国家』)。しかし、石母田の議論は、実際にはまず「郡」レヴェルで「首長」を措定するところから出発して、古墳時代の首長共同体を一枚岩と捉えがちで、近藤のような集団の重層関係の把握が弱く、奈良時代からみた結果論になっている。国家的・集団的な所有が社会をつらぬき重層化しつつ変化していくという歴史的視点では近藤の議論の方が説得的である(若干の解説をつけくわえると、普通、歴史理論では集団所有というと「無階級的なもの」と考えがちである。しかし二〇世紀に存在した「(自称)社会主義社会」は国家的・集団的な所有にもとづく全体主義社会で、政治官僚という独特な支配階級が存在していた。これを考えると、階級社会の発生時にも相似した集団的な社会構成が存在した蓋然性は高いだろう。いずれにせよ、ミケーネや殷の貢納王制など、血縁的・共同的性格を残しながら明らかに階級国家である事例はきわめて多く確認されており、氏族組織の破砕を国家成立の指標としたモルガンやエンゲルスなどの一九世紀の古典学説は維持できないことは確実になっている)。
 もちろん、近藤の議論は、石母田の仕事を前提としている。石母田説を前提として考古史料を総合する作業の中で整合性が高い議論が作り出されたのであろう。第二次大戦後の考古学的な調査は、この頃までには、弥生住居址、弥生墳丘墓、古墳時代の古墳と首長館址、そして多様な生産遺構、技術遺物にまで及んでおり、近藤の仕事の強みは、その蓄積にもとづいて全体の見取り図を描いたことにあった。弥生末期、吉備・出雲などで集団墓から墳丘墓に地域的な特色をもって変化していく様子、弥生墳丘墓から前方後円墳の形成、大和を中心にした部族連合中枢の首長の卓越化、その中での首長の神霊化と、そこに存在した祭祀的な擬制同族関係のネットワークなどの議論の大枠は現在でも、ほぼそのまま受け継がれている。
 本書はなによりも全体に論理の筋道がよく通っている。いまでもこの本を熟読することが考古学研究の出発点となる事情を十分に理解できる。著者は、この本の後、もっぱら前方後円墳の研究にたずさわった。本書でも各地域の首長の系図を前方後円墳の造営系列の中に探ると、ほぼ三〇〇以上の部族が大和連合に結集していることがわかるなどの興味深い試論を展開しているが、前方後円墳研究会の代表としての努力は特筆すべきものである。同会が編纂した『前方後円墳集成』(山川出版社 一九九一~九四年)は、全国に分布する前方後円墳に関する基礎史料であり、一定の規模をもった自治体図書館には備えられているから、これによって三世紀から六世紀にいたる、この国の古墳時代の基礎情報を誰でもがみることができるようになったのである。
 ここには、著者のよい意味でのアカデミックな姿勢が示されているが、著者は一九五三年、当時のいわゆる国民的歴史学運動の中で、岡山県(吉備)の月輪古墳の発掘に市民とともにとり組むという側面ももっている。この発掘の記録は映画にもなり、市民とともに歩む歴史学のあり方を示すものとして有名になったが、著者は、以降も、一貫して岡山県の遺跡の調査・保存運動に取り組んだ。そして、その実践が近藤の前方後円墳の理解を切りひらいた。
 その成果は、『前方後円墳の成立』(岩波書店一九九八年)、『前方後円墳の起源を考える』(青木書店、二〇〇五年)などの著作で発表されている。とくに重要なのは、著者の下でとり組まれた弥生時代後期(第三期)の岡山県倉敷市の楯築墳丘墓の調査と保存は、前方後円墳の成立の研究に決定的なステップをもたらした。楯築墳丘墓の主墳は直径約四〇メートルで、二つの突出部をもっていた。この突出部は著者らの知らぬ間に破壊されてしまって詳細不明なものの、後の前方後円墳の前方部に相似する先開きの形をとっていた可能性が高い。突出部が二箇所である事情は不明であるが、墳丘が大規模な立石や列石、そして後の葺石の源になるような円礫で覆われていることも前方後円墳に相似している。また何よりも明瞭なのは、一メートル前後もある特殊器台といわれる円柱状の装飾供器と(その上に載る)装飾壺が発見されていることである。これと同型のものが三世紀後半以降の箸中山古墳、西殿塚古墳などの大和の典型的な前方後円墳で発掘されており、これが円筒埴輪になっていく。
 この「特殊器台と特殊壺を作り出した祭祀思想と祭祀行為」が前方後円墳にそのまま引き継がれていることは確実で、今でも謎にみちている前方後円墳の墳形の由来や、その背後にあったイデオロギーの相当部分は吉備由来であること、そして、それに対応して大和南部をセンターとする部族連合は大和と吉備の連合であるということが、考古学界では確定している。この問題をふくめて、本書が、学説史上、根源的な位置をもっていることは明瞭である。
 もちろん、近藤の前方後円墳論がすべて正しいということではない。たとえば、近藤は、前方後円墳の上では「首長霊の継承儀礼」が行われたという。前方後円墳の上で、亡き首長の霊力を次代の首長が引き継ぐための祭式が営まれ、それは初穂祭(後の新嘗祭)にあたる共同飲食儀礼と同じものであったというのである。代替儀式=天皇霊付着=初穂祭というわけであるが、この図式は折口信夫のマドコオウフスマの秘儀を中心とした大嘗祭理解そのものである。しかし、岡田精司は群臣推挙にもとづく即位式こそが就任儀礼であって、大嘗祭の本質は饗宴という形式をもった服従儀礼(極点においては性的オルギーをふくむ)にあったことを明らかにした。江戸期国学は大嘗祭こそが皇位継承儀礼であり、即位儀は唐制の模倣にすぎないとするが、折口説は、昭和の大嘗祭という世情の中でそれを神秘的に繰り返したもので、実証的な根拠を欠くものであるという。その上に立って、岡田は、折口は大嘗祭と葬送儀礼を結びつけるようなことはいっていない。近藤説は、折口のようにエロスに神秘を求める代わりに、古墳におけるタナトス=死に神秘を求めるという結果になっているという趣旨の厳しい批判を行っている(岡田「古墳上の継承儀礼説について」)。
 この批判は正しいといわざるをえないが、しかし、逆に、近藤が学術的方法を異にする折口学説を読み込んでいることには感心する。論文集『日本考古学研究序説』(岩波書店)にみえる近藤の仕事の多様さは刮目すべきものである。また、現代考古学の最先達にあたるイギリスの考古学者、ゴードン・チャイルドの著書や伝記の翻訳も近藤が思想的な視野の広い本格的な学者であったことを物語っている。

2013年9月24日 (火)

創建期の大徳寺と王権

科研『禅宗寺院文書の古文書学的研究ーー宗教史と史料論のはざま』(課題番号14201031)2002年~2004年度科学研究費補助金(基盤研究A2)研究代表者保立道久、に載せた論文です。大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)の周辺を知りたく、またこれにつづく部分の研究を始めています。
これはあまりに長いので、全文はWEBPAGEに載せました。

創建期の大徳寺と王権
  ーー開堂前後の時期に視点をおいて
Ⅰ宗峰妙超と花園天皇・後醍醐天皇
 一三二六年(嘉暦一)一二月八日の大徳寺開堂において、宗峰妙超は鎌倉建長寺で師の大応国師・南浦紹明の印可を受けて以来、「嚢蔵」していた香木を五回にわたって捧げた(『大燈国師語録』))。第一は「今上天皇」(後醍醐)、第二は「太上天皇」(花園)であって、妙超はそのおのおのに対して祝詞を述べている。後醍醐に対する祝詞は「龍図永く固く、玉葉弥芳しからんことを」、花園に対する祝詞は「上徳を千載に超え、風声を後毘に樹てたまわんことを」と結論されている。前者は「龍図」(国家構想)の実現と永続、「玉葉」(子孫)の繁栄の祈願、後者は「上徳」(徳化)の永続と、「風声」(徳望)の後毘(後人)への継承の祈願ということになる。現王に対しては国家政策を問い、前王に対しては徳望をほめあげるというこの祝詞の使い分けは理解しやすい。ここで語られているのは王というものの理念であって、現王と前王が別の王統からでているというような実態とは関係ない。
 解釈上の問題はそれに続く第三の「香」の理解にあるが、その前に最後の方から、第五・第四という順に説明しておくと、第五の「香」は先師・南浦紹明に対して焚かれた。「前住建長禅寺、勅諡円通大応国師南浦大和尚に供養して、用て法乳の恩に酬ゆ」というのが結論である。そこでは南浦紹明に帰依し、国師号を与えた後宇多の存在も自然に語られることになっている。また第四の香は「法莚を光重する諸尊官および満朝の文武百僚」に捧げられている。若干の貴族官人が法会に臨席していたことは認めてよいのであろう。
 問題は「第三の香」を捧げた人物が誰であったか、また臨席していたかどうかにあるが、第三の焼香にかんする法語の文章は、全文、下記のようなものである。
又、香を拈じて云く「此の一瓣の香、金紫光禄大夫黄門侍郎、禄算を増崇せんがために奉る、伏して願わくは松栢の寿、甫・申の幹のごとく、国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを』
 この「金紫光禄大夫」という言葉は中国で「金紫」(金印紫綬)の貴顕身分の宮内職を示す言葉であるが、日本では「正三位」を表現する唐名として使用された。また「黄門侍郎」とは中納言の唐名である。それ故に、「金紫光禄大夫黄門侍郎」というのは、正三位の中納言という地位にいる人物を示すことになるが、この時の中納言のうち、これに該当するのは『公卿補任』によれば三条公明(侍従、四六歳)、洞院公泰(中宮権大夫、左衛門督、二二歳)、西園寺公宗(春宮大夫、一七歳)の三名のみである。このうち誰をあてるかは問題が残るが、ここでは西園寺公宗であった可能性を指摘したい。公宗はこの年七月二四日の量仁親王(後の光厳天皇)の立太子に際して権大夫となり、ついで十一月四日に正三位になるとともに大夫に転じている。さらにその直後、父の実衡が死去し、それにともなって公宗は西園寺家が西園寺公経ー(その子)実氏ー(その孫)実兼ー(その子)公衡ー(その子)実衡と歴代にわたって襲職してきた関東申次の地位に就任していることも特筆される。「国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを」という祝詞は、まずは開堂法語にしばしばみられる形式的なものというべきであろうが、しかし、公宗の立場が文字通りそのようなものであったことも否定できない。
下略

2013年9月20日 (金)

地震火山99「前方後円墳」の墳形と火山神話

以下は、現在執筆中の論文。研究史の部分であるので、オープンします。

「前方後円墳」の墳形と火山神話
はじめに
 倭国神話の中に火山神話が存在したのではないかという想定は、はやく松村武雄と益田勝実が述べたことである。松村と益田は神話学と文学史研究において大きな仕事を残した学者であるが、それにもかかわらず、この想定は注目をひくこともなく、長く忘れられていた。二〇一一年、私は『かぐや姫と王権神話』を執筆して、松村・益田の仕事の意味が大きいことを強調したが、これについてはさらに追加的な説明が必要である。
 とくに問題なのは、右の著書で、前方後円墳は火山神話を表現するものではないかと述べたことである。以下、その論拠を詳しく述べてみたいと思うが、考古学がおもな担い手となって進められている古墳時代の研究にとって、この問題提起はあるいは突飛なものにみえるのではないかと思う。前方後円墳は古墳時代の研究にとって決定的な史料群であり、そこには、平安・鎌倉時代を専門とする、私のような研究者が容易に突破できないような重厚な研究史がある。そこで、まず、前方後円墳のあれこれの特徴は別として、前方後円墳の本質についてのこれまでの考古学の学説を、私なりに確認するところから出発することにしたい。
 前方後円墳の本質に関する通説は、前方後円墳の上では「首長霊の継承儀礼」が行われるという考え方である。これは近藤義郎が主唱した学説で、そこで打ち出された図式は、おおざっぱにいって、(イ)前方後円墳においては亡き首長が担っていた祖霊からひきついだ霊力を、次代の後継者が集団を代表して引き継ぐための祭式が営まれ、(ロ)それは初穂祭すなわち後の新嘗祭にあたる秋の収穫祭における共同飲食儀礼と重なる実態をもっていたというものであった(『前方後円墳の時代』一七〇~一七四頁)。
 もちろん、近藤の前方後円墳論は、この図式の範囲を超える実証的な成果と含蓄ある見通しをもっている。とくに重要なのは、前方後円墳祭祀を祖霊祭祀ととらえることによって、それが古墳時代の支配層の間の同族擬制のシステムを反映している可能性を具体的に示したことである。よく知られているように、石母田正は倭国の国制を「始祖を系譜によって天皇氏に連結し、あるいは神代史の物語によって神話的に統合するという独自の形態」「系譜と族姓によって、あるいは神話と説話によって下層から上層にいたるまでが連結されていく擬制的・観念的な連続性」を想定しているが、近藤は、その実態を前方後円墳のネットワークとして示すことに成功したのである(石母田正『日本の古代国家』著作集3、四〇二頁)。
 しかし、問題は、この代替儀式=天皇霊付着=初穂祭という近藤の図式自体は、岡田精司が指摘したように、折口信夫の学説を借用したものであったことである。つまり折口は、代初めの新嘗祭=大嘗祭は、新天皇が天皇霊をその身に受容する秘儀(マドコオウフスマの共寝)を中心とする代替就任儀礼であるといった。近藤はこれを古墳時代に持ち込んだのである。そして、折口説は、岡田精司の徹底的な批判によって、すでに学説としての価値それ自体は否定されている。つまり、岡田は、群臣推挙にもとづく即位式こそが就任儀礼であるという現在では学界の常識となっている見解をはじめて述べた。そして、多くの場合は即位式の年の冬に行われる大嘗祭は、その付属儀式とすべきものであることを明かにした。大嘗祭の本質は饗宴、そしてその極点においては性的オルギーという形式をもった服従儀礼にあったのである。岡田によれば、折口説は、大嘗祭こそが皇位継承儀礼であり、即位儀は唐制の模倣にすぎないという江戸期国学以来の図式を無批判に受け継ぎ、昭和の大嘗祭という世情の中でそれを神秘的に繰り返したもので、実証的な根拠を欠く。これは、事柄が天皇制論にかかわる以上、歴史学としてはけっして曖昧にしてはならないことであろう(岡田「古墳上の継承儀礼説について」歴史民俗博物館研究報告』80集、一九九九年)。
 このような立場から、岡田は「首長霊の継承儀礼」学説をきびしく批判したのである。もちろん、岡田は支配者の権威の継承の具体相の中で前方後円墳をとらえること自体が否定している訳ではない。「古墳をめぐる儀礼には、生者と死者の告別の儀礼や、古代社会に一般的な死者を別の世界”あの世”へ送りだすための呪術的儀礼のほかに、民衆の葬送儀礼にはみられない支配者層だけの後継者決定を示威する政治的行為としての側面など、多面的な性格をみなければならぬことは当然であろう。だがそれは継承儀礼そのものではない」。つまり、前方後円墳は継承儀礼ではなく葬送儀礼である。その側面を中心に検討することが第一であって、それが「後継者決定を示威する政治的行為」として機能したことは別のレヴェルの問題であるという訳である。そして岡田は次のようにいう。
 墳墓はあの世への入口である。墳墓の性格を考えるには、それぞれの社会なり時代なりにおいて、死者の霊魂が埋葬したあとどうなるのか、どこへ行くのかということが前提であろう。墳墓の形態も内容も霊魂の行方に規定されているといえるであろう。墳丘上の祭祀の跡も、その時代の死霊のあり方、死霊の行方に即して考えるべきではあるまいか。墓制というものは、それぞれの社会の”死”の観念や来世観に、大きく規制されるものである。
 これは正論であろう。もちろん、首長霊の継承という以上、「霊」は次の首長に引き継がれる、つまり「霊」の終局的な行き場所は示されているのであるが、それでは「霊」が人の死後にどのような挙動をするかは不明であり、古墳はどのような「来世観」を示すかという根本問題がスキップされるのである。私は、近藤説は、それをスキップするために、当時、文献史学にも説得力をもっていた折口説を援用したのではないかとさえ考える。
 ただ、岡田は、このような批判はしたものの、それでは前方後円墳の本質をどのように考えるかについて述べることはしなかった。何よりも残念なのは、慎重な岡田は、それでは古墳時代における王や首長の権威継承の儀礼をどのように考えるかも述べなかったことである。しかし岡田は即位式と大嘗祭を区別するから、そこからみてあえて想像してみると、その考え方は、王権の継承儀礼は王墓ではなく王宮において即位、およびそれを反映する何らかの集会・儀式が行われた、少なくとも王宮の政治空間を除外して王墓を強調する理由はないというという理解なのではないかと思われる。もしそうだとすると、この問題は王宮と王墓の機能をおのおのどのように考えるかに帰着するであろう。つまり、吉村武彦が政治センターはあくまでも王宮であって王墓は政治的拠点を意味するものではないとしていることに関わってくる(吉村『古代天皇の誕生』角川選書、一九九八)。
 以上、やや踏み込んだ説明となったが、最近では、岡田の批判を意識したものと思われるが、考古学の側でも首長霊の継承儀礼という近藤学説に対して異論が提出されている。それを代表するのは広瀬和雄の見解であって、広瀬は、近藤のいうように首長霊が継承されたとすると、古墳の中に埋葬された遺骸は抜け殻ということになり、抜け殻にたいして最大の供儀が行われるというのはおかしい。そうではなく、前方後円墳儀礼は「遺骸主義」という原理、つまり「遺骸をそのままの形で保護し、それを外界から遮断して密閉する」という観念を中心にとらえるべきであるとする。この「首長の遺骸に外部から神が憑依する」、そして遺骸は共同体とその連合を護る「神」の生きた身体となり、新たな政治的身体を付与され、次代の首長はその亡き首長の威力を継承し、依存するというのである(広瀬『前方後円墳国家』)。
 このような観点はニュアンスは異なるものの、大枠では、大久保徹也の「呪物としての遺骸」(「古墳論」『古代日本の構造と原理』)、北條芳隆の「人身御供モデル」(「首長から人身御供へ」『同』)などの議論にも共通している。ここでは、このような観点は、「遺骸」を中間におくことによって近藤の学説の折口説に依存したニュアンスを大きく変更した。特に大事なのは、広瀬が「亡き首長は神として再生する」「前方後円墳は死した首長がカミとなって再生するための舞台装置であった」としたことである。つまり葬送儀礼から権威の継承にいたる時に、「遺骸の密封」に着目することによって、死せる首長がカミになるというイデオロギー的な仕組みをおくということになる。
 これは近藤の首長霊の継承論が、霊は次の首長の身体に移るというだけで、霊の挙動はスキップするのに対して、「遺骸」というものを間におき、「遺骸」というものに付着するイデオロギーを問題にしたということである。これは論理的にはたしかに一つの改善である。広瀬は、この段階におけるカミ観念自身が「首長的人格への依存が強固な段階」であるとする。「遺骸主義」的な立論はまだニュアンスも多様で、その全体系を明らかにしたという段階ではないが、大久保の場合も「この段階ではまだカミ観念が十分に醸成されていない」とするように、共同体的な抽象的な幻想・願望のレヴェルにとどまっていると考えるようである。そのために、遺骸の呪具としての使用よりも発展した観念のスタイルは考えにくいという訳である。岡田が問題にする霊魂の行方という点から取ると、この「遺骸主義」説は、ようするに霊魂はどこにも行かない、それは遺骸の中にとどまっている、それ故に、「遺骸」という物理的存在の呪術的な扱いがすべての根源にすわるというという見解であるといってよいであろう。
 たしかに、「遺骸主義」の立論においてカミ観念または「霊」という観念自身が社会的にどのように存在したかをどう考えるかというレヴェルから議論を出発させるのは正論であろう。しかし、その遺骸にとどまる霊が、次の生きている首長の霊とともに共同体を守る(広瀬)、遺骸は新王の身体の一部器官と観念される(大久保)ということであるから、「遺骸主義」的な立論も、実際上は、近藤の見解とほとんど変わらないということになる。近藤の理解も広瀬などの理解も、このようにして葬送儀礼と権威の継承儀礼を呪術というレヴェルで直結するのである。しかも、ある意味では「遺骸主義」の立場は、近藤説の問題点を拡大した側面がある。つまり、岡田は、近藤に対して、折口は大嘗祭と葬送儀礼を結びつけたるようなことはいっていないとして、即位式と死の儀礼を結びつけるのは折口説の正当な援用の仕方ではないとした。近藤説は、前方後円墳儀礼=首長霊継承儀礼説は、折口のようにエロスに神秘を求める代わりに、古墳におけるタナトス=死に神秘を求めるという結果になっているという訳である。これはまさに「遺骸主義」の立場にもあてはまるのではないだろうか。
 考古学は古墳の遺構・遺物の中の検討の中から、そこに明証できる機能、何らかの意味で物理的な痕跡を残す儀礼的な行為を復元しようとするから、このような傾向は、実際上、独自に考古学的な思考の優位性が発揮される側面である。とはいえ、古墳の墳丘における呪術儀礼とその内部の遺骸のみに焦点をしぼって、前方後円墳を考察しようという理解は、考古学的な方法としても対象のとらえ方が狭すぎるのではないだろうか。
 そもそも近藤の前方後円墳論には、首長霊継承儀礼という観点以外に、上記の前方後円墳にはそれ自体を「山頂・丘頂に相当する」と考える「思想」があったという考え方もふくまれていた(『前方後円墳の時代』)。この側面は、「遺骸主義」の立場をとる北條においても引き継がれており、前方後円墳は、山の世界を始祖の住処とする指向性に貫かれていたという。奈良盆地東南の西殿塚・端中山などの前方後円墳群は、盆地東部を走る龍王山塊の頂点を示準する形で序列的に位置をきめられていたというのである(「『大和』原風景の成立」『死の機能 前方後円墳とは何か』二〇〇九年、岩田書院)。
 さらに重要なのは、寺沢薫は箸中山近傍の纏向は、弥生時代最末期、古墳時代最初期、箸中山古墳が築かれる前に、一つの都市的集落であったとする(『柏原考古学研究所論集 第六』一九八四年、吉川弘文館)。松木武彦も、このような都市的な場は葺石におおわれた前方後円墳を初めとした耳目を引く知覚情報の集まる場であって、前方後円墳の独特な墳形は、そのような場の性格に関係しているとしている(『古墳とは何か』、角川選書)。寺沢も松木も、岡田による近藤説批判には前方後円墳儀礼の秘儀性を強調して反発するが、しかし、古墳の近くに政治都市の存在を指摘したことの意味は決定的である。「遺骸」をめぐる秘儀の評価については、まだ多くの議論が積み重ねられるであろうが、こうして、政治と王権の継承の場をもっぱら前方後円墳における儀礼に限定するような議論は実質上は乗り越えられているといってよい。広瀬のいう「人の死をめぐって形作られた関係性」、大久保のいう「遺骸を軸に(形成された)重層的な関係性」の場とは、他界としての「山」の世界や、前方後円墳の膝下に広がる都市的な場との関係において評価されねばならないということになるのではないだろうか。
 以上、考古学の側の議論のトレースが長くなったが、その上で、ここでの主題である神話の問題にふれておけば、山尾幸久が前方後円墳は「体系だった価値概念、一定された祭式や儀礼、祭神についての神話」なしにはけっして築かれることはなかっただろうと述べ、祖霊祭式を直接に「何らかの政治秩序」「身分制表示のシステム」などの制度的な秩序に結びつけてしまう傾向を強く批判しているのが大事であると思う(山尾『古代王権の原像』、二〇〇三年、学生社、145頁)。岡田が「墓制というものは、それぞれの社会の”死”の観念や来世観に、大きく規制されるものである」という場合の「来世観」というものも、まずは神話的な観念の問題としてとらえるべきであることは明かであろう。神話のような意識形態を葬送と墳墓という場よりも広い場所において考えること、これが研究を進めるためにはどうしても必要ではないかと考える。
 神話学の常識では、神話は呪術の体系であると同時に、呪術よりも広い世界を意味する。また、儀礼と神話は相対的に独立しながらも、一体となって価値観念や世界観を構成しているとされる。儀礼は人間の自己呪縛という点では呪術の変化したものであるが、その背後には神話の存在を想定しなければならないことはいうまでもない。すでに述べたように、近藤説の前方後円墳論の最大のメリットは、石母田説をうけて前方後円墳のネットワークを同族擬制として提示したことにある。しかし、そこで前提となっていた石母田説においては、それは神話的な同族擬制、擬血縁系譜を意味していたことを忘れてはならない(石母田正『日本の古代国家』著作集3、四〇二頁)。近藤の学説に残る折口説への依存を払拭し、石母田の議論のレヴェルにおいて再構築されなければならない。そして、その場合のキーは神話論にあると思う。
  儀礼的な呪物=古墳
Ⅰ壺型墳と「天空のスロープ」
 以上のような視点にそって、前方後円墳を神話論の観点から考察することにしたいが、これまで、前方後円墳と神話という観点からの研究はほとんどない。考古学の側には、黄泉国の神話的イメージを切り口として前方後円墳の横穴式石室を検討するという仕事はあるが、文献史学の側はこういう問題にまったく興味を示していないように思われる。ここには、研究の保守性という以上に、神話史料を正面から取り上げることへの躊躇あるいは忌避が存在しているのではないかと感じられる。研究史の現状は、そのような状況を突破する必要を示しているように思う。
1三品彰英の壺型墳論と「天的宗儀」
(イ)三品彰英のシンボリズム論
 そういう中で出発点とできるのは、現在のところ、三品彰英の仕事のみであろう。三品は朝鮮史を専門にする碩学であると同時に、いわゆる「日鮮同祖論」の展開に責任のある学者である。その位置は、山尾幸久が、一九四〇年に出版された三品の『朝鮮史概説』の徹底的な批判から出発できなかったのが戦後派歴史学の限界であったとしているように(『古代王権の原像』)、複雑な要素をふくむが、アメリカの人類学者アルフレッド・L・クローバー(アーシュラ・K・L・グィンの父)を師としており、その本領は神話学にあった。現在から見ると、その神話学も早い時期に十分な検討を必要としていたはずであるが、三品はその晩年に『前方後円墳』という著作を準備中であったという。残念なことに、それは成稿されることのないまま、その死去の年に行われた講演記録が現在残されているのみとなっている。しかし、幸いなのは、この「前方後円墳」と題された講演は、しばらく前の「銅鐸小考」と題された論文をうけたものであり、両者をあわせることによって、三品の構想の幾分なりともが追跡できることである。
 まず「銅鐸小考」において、三品は銅鐸は「地霊」の祭祀であると論じた。これが銅鐸論のすべての前提となっていることは、近藤の『前方後円墳の時代』が「銅鐸祭祀は、その特異な埋納状態から地霊を鎮め迎える祭りであった可能性が高い」として、この三品の論文を典拠にあげていることに明らかである。問題は、三品が、この「地的宗儀」(terrestrial cult)は、だいたい三世紀、邪馬台国の女王卑弥呼の時代には、北方アジア系のシャマニズムの流入と受容によって高天原の神話を背景とする「天的宗儀」(celestial cult)に推移していたという見通しを提出していることである。
 その上で、三品は前方後円墳の形状を論じて、それは大きな壺がなかば埋められている姿であると論じたのである。図◆は箸中山古墳の赤色立体図である。これが葺石におおわれている様子を想像してみてほしい。現在では、古墳の上に樹木が茂っているが、この赤色立体図を前提として考えると、これはたしかに大型の壺の形ではないだろうか。三品は、このような発想について、「前方後円という独特な墳形は、古代人がおそらく何かのアイディアをもって急に造り出したものであると考えるほかない」「古代の人たちが造り上げたものは、古代人的な思考に従って解釈するのが本道であろう」と説明している。神話学が、図形や意匠のもつシンボリズムに注目するのは当然であろう。
 これを意匠論、シンボリズム論の視角に経った前方後円墳=壺型墳説をと呼んでおくこととするが、このアイデアは、もっとも早くは島田貞彦によって主張されているが(「古墳」考古学講座『古墳・墳墓』雄山閣一九三〇年、東洋文化研究所図書館にあり)、三品はそれを知らずに発想したらしい(末永・三品など『神話と考古学の間』創元社一九七三年)。しかし、三品のそれは島田とくらべて、後にもふれるような『日本書紀』『古事記』に登場する壺・瓮の記事や日本・朝鮮の民俗事例を参照するのみでなく、古墳の上に飾られた壺型土器を具体的にとりあげて論じた点で、研究史上、初めてのまとまった仮説と評価できるものである。
 つまり、三品は奈良盆地東南の桜井茶臼山古墳の墳頂部中央の竪穴石郭をおおって存在する壇状の施設の周囲に一〇メートル前後の矩形をなすように並べ置かれた壺型土器に注目した。この壺は総数一一〇個にものぼり、直径が四〇センチ弱でほぼ球形に近い胴部からまっすぐに立ち上がる短頸部から大きく反り返る口縁が特徴で口径約三〇センチ、総高は四五センチほどになるという。このような墳頂中央の埋葬部の直上を多数の壺によって矩形に囲むという例は、以降、作山二号墳(丹後、加悦町)、上殿古墳(奈良天理市)、石山古墳(三重県)など、きわめて多く調査・発掘されており、三品の着目は先駆的なものといいうる。
 ここから、三品は「前方後円という異形の高塚古墳も巨大な一つの『壺』であり、またその石室の周囲に死者の御霊を護るがごとくに埋めてあるのも、これまた『壺』であります」とし、それを前提として日本・朝鮮の文献と民俗事例を取り上げて、壺は神霊がこもる呪物であることを強調したのである。そして、桜井茶臼山古墳の壺の底部に穴があいていることに注目し、それが円筒埴輪に開いている穴と同じもので、霊の通る穴だと指摘している。さらに興味深いのは、三品がすでにこの段階で、このような穿孔された壺こそが埴輪の原型であるとしていることであろう。そして、三品がこの穴を通ってやってくる神霊は「根の国」の神霊であるとしたことも従うことのできる想定であろう。壺の中には根の国の地霊がやってきて死者に随伴するのだという訳である。このような指摘は、三品が、前方後円墳のなかに銅鐸と同じような「地的宗儀」としての性格を認めようという考え方をもっていたことを示すように思われる。
 ただ問題は、前述のように、三品は、三世紀、邪馬台国の女王卑弥呼の時代以降は「天的宗儀」(celestial cult)が一般化していたとしていたことで、この点は一見矛盾するように思われる。三品のそういう考え方からすると、前方後円墳も「天的宗儀」と位置づけるのが当然であるからである。しかし、前述のように、この「前方後円墳」という論文は講演の録音テープから起こされたもので、講演が市民向けの夏期講座であったこともあって、この点の説明まではなかった。そして、この講演の年の年末に三品は死去してしまったのである。そのため三品の構想の全体は不明であるが、三品は高麗の朱蒙神話においては天帝の太子、解慕漱が閉じこめられていた革輿から逃げ出す時に、川神の娘の釵で革輿に小さな穴をあけ、「孔より独り出でて天に升る」という伝説に言及している。それ故に、もし準備中であったという著作『前方後円墳』が刊行されれば、同じように、壺からの昇天という形が論じられたに相違ない。そして前方後円墳を「天的宗儀」と評価する理由が詳しく論じられることになったであろう。

2013年9月13日 (金)

高村光太郎の詩、「典型」

高村光太郎の詩、「典型」
 今日は編集者の人にあって、『物語の中世』の再校ゲラをわたし、基本的に校了。そのあとつづけて『地震列島の思想』の出版相談。40代に従事した遺跡保存運動以来の友人の編集者御二人である。40代で一番、時間と資金をつかった仕事であったと思う。なつかしく、勝手なことをいう。しかし、朝早く目がさめて仕事をしていた後遺症か、口がよくまわらない。こんなことははじめてである。
 そのあとは友人と飲み会。話題はやはり原発になる。
 最大の話題はマスコミのいい加減さ。みんな、日本の大マスコミは、主要論調では、中国などと同じで、ほとんど政府公報であるから、どうしようもないという。私は、問題は、事実上、伝えるべき肝心のことを伝えないのは大マスコミが一種の愚民政策をとっているということだ、より明瞭にいえば馬鹿の伝染構造であるという持論を展開。
 経済史学の友人は国庫の借金の話し。アベノミクスに対する経済学分野での批判は強いが、それにもかかわらず、全体としてはなれ合い状態であるという。国債と国庫の状態は、アカデミックな論理からするとどうしようもない破綻がくる可能性が高い。それにもかかわらず、このままで行くのは自分で闇のなかに飛び込むのと同じである。それをさけるためには、消費税もやむをえないという。
 私見は、それはそうかもしれないが、しかし、そういう状態にした責任者が、消費税というのは道理としては許されないだろうというもの。全体についての経済学的な見通しなく、みんなで渡れば怖くないとばかりに走る。これこそが日本社会の馬鹿構造の経済学的な基礎であるのかと、思いついた意見をいう。
 以下は高村光太郎の詩。これは敗戦の中で蟄居し、自己の「愚劣」を見つめた詩である。これは正確な日本社会論になっていると思う。「小屋にいるのは一つの典型,一つの愚劣の典型だ」。私は「そこにいるのは」と憶えていた。

  典型
今日も愚直な雪が降り
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にいるのは一つの典型,
一つの愚劣の典型だ。
三代を貫く特殊国の
特殊の倫理に鍛へられて,
内に反逆の鷲を抱きながら
いたましい強引の爪をといで
みつから風切の自力をへし折り,
六十年の鉄の網に蓋はれて,
端坐薫服,
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
今放たれて翼を伸ばし,
かなしいおのれの真実を見て,
三列の羽さへ失ひ,
眼に暗緑の盲点をちらつかせ,
四方の壁の崩れた廃城に
それでも静かに息をして
ただ前方の広漠に向ふという
さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる山の小屋,
小屋を埋める愚直な雪,
雪は降らねばならぬやうに降り
一切をかぶせて降りに降る。

 さて、昨日は少し飲み過ぎであった。紹興酒がよくなかった。朝まだ頭がボッとしている。食卓で連れ合いから、生活クラブ生協の宣伝紙『生活と自治』に京大の小出裕章氏の連載インタビュー記事がのっていることを教えられる。福島原発の「予断を許さぬ現状」についての説明。最後の部分。「私は政治の世界には絶対に足を踏み込まないといってきたし、いまもこれからもそうしたいと思っていますけれども、やはり政治が変わらなければいけません。そのためには、国民がまず自分から変わらなければ、『愚かな政治』はかわらないのです」。
 日本政治の特質として「無責任の体系」という丸山真男の著名なシェーマがある。ながく、これを批判することをテーマにしてきたが、私見の大枠は、しばらく前、成沢さんの『政治のことば』の講談社学術文庫版の解説に書いた。「『政事の構造』とは、ただしくは、王にとっては、マツリゴトは面倒な雑務という性格をもつのであって、そういうことは他人にやらせて、自分ではやらない。その代わりに、王のそばには、知謀をもってマツリゴトの処理をする「謀」担当者がいて、「政」担当の集団はそのさらに下にいるということになる。王は「無責任」というよりも、この重層的な仕組みによって責任を曖昧にしていくのである。成沢の指摘は、丸山のような説明図式ではなくて、具体的な仕組みに踏みこんだものである」と述べた。丸山真男の「無責任構造」というのは、一種の倫理的な批判として生きているところはあるが、その「仕組み」を具体的に問題にしなくては超歴史的な問題提起になってしまうということになるという批判である。
 もう一つの問題は、「無責任の構造」という前に、日本の政治は、いわゆる「天皇制絶対主義」の時期から現在まで、「無能の構造」あるいは「愚かな政治」というものが中枢にあったということではないかと思う。丸山より高村の方が正しいのである。そこにあるのは愚劣の構造という訳である。
 日本社会は中下層が賢いので、そのおかげで(明治後半以降)無能な上層でもやっていけたのであるが、それが以前として続いているのであろうと思う。なにしろ自民党という政党は、ほとんど戦前社会の反省をせず、国際標準では戦争犯罪者といわざるをえない人々が作った政党であるから、そういう連続性も引き継いでいる訳である。しかし、そうはいっても、敗戦後の自民党政治は福田・大平両氏まではまだ賢かった。日本社会の最大の危機に劣化した政党がトップにいるというのはなんといってもまずい。
 日本社会の中枢部の「愚かな構造」。これは信じられない話しかもしれないが、どうみてもそうなのであろうと思う。
 『生活と自治』には私のいた研究所の隣の研究所の友人、加瀬和俊氏のインタビューものっているのを発見。写真が元気そうである。正論に感心する。しかし、農業と漁業をここまで峻別するのは歴史学としてはどうなのであおろうか。彼と近代において土地とは何かというところから議論を再検討した丹羽邦男氏の仕事についてはなしてみたい。

2013年9月12日 (木)

『中世の女の一生』について、以前、茂田真理子さんが文芸に書いてくれたもの。

『中世の女の一生』について、以前、茂田真理子さんが文芸に書いてくれたもの。本の整理をしていたら、『文芸』がでてきた。最後の方の褒め言葉は省略。

 『源氏物語』などの平安朝女房文学は限dないの私たちにも馴染みが深く、専門家ならずとも平安期の貴族生活に関するそれなりの知識、あるいは少なくとも何らかのイメージは、誰もがもっているものである。ただしそれはあくまで貴族という特権階級の生活についてであって、彼らの豪奢な生活の外にあるものとなるとどうだろう。平安朝の物語や日記に現れる人の心の機微や葛藤に心を寄せて読めば読むほどに、時としてふと貴族達の悩みが贅沢なものに思えて鼻白むような思いに囚われることがあるのは私だけだろうか。そうした時、私は貴族生活の中にもちらちらと点描される「卑しき者」たちの姿に心ひかれる。庶民が女房文学の中に姿を現すとき、彼らは多く闖入者や見苦しい存在として描かれるのだけれど、これら「普通の人々」の生活の実態について、私たちは殆ど知らない。
『中世の女の一生』の第一部はこうした中世の庶民女性の生活と生涯史に焦点を当て、彼女たちの成長、仕事、恋愛と結婚など、まとめてみると現代の女性誌の広告でも見ているかのような、普遍的でありながらそれゆえに記録として残りにくい問題を中心に論じたものである。古文書などの文献資料にはなかなかその姿を現すことのない庶民女性の生活を再現する糸口として著者の保立道久氏が特に細部に渡って論じるのは絵巻物などの絵画史料であるのだが、更に中世に於ける女性の立場や意識を探る手がかりとして平安から鎌倉時代にわたる物語文学もその検討の対象となっている。こうした方法論に於ける困難とは絵画・物語資料のフィクション性を肝に銘じつつそこに反映された実際を正確に透視しなければならないことに他ならないのだが、庶民女性の生活を描き出すことに於いて保立氏は充分にその裏付けの抽出に成功しているといえるだろう。
 例えば興味深いのは前掛けの原型とも言える褶に関する考察である。それは労働着として実用的な役割も持っているのだが、保立氏はそれを女性が身につけ始める時期について貴族女性が十二単のうえに纏い後腰を装飾する裳との対応に着目し、褶にもまた成人女性の証としての象徴性を見出すことができるとする。婚姻を前提として、言い換えれば肉体的成熟を正式に証すように行われる裳着に対して、褶には更に一人前の大人の女性として労働に参加できる年齢に達したことを示す意味があったというのが著者の議論なのだが、紫式部に「汚げなる褶」と侮蔑的に言及されるこの衣服にも一定の装飾的意味あいがあったとすれば、それを身につける女性達にも小さなこだわりがあったのではないだろうか。証明など出来ることではないが、仕事の合間などにお互いの褶を誉めあったりしているような彼女たちの姿を思い浮かべるとなんだか嬉しくなってきてしまう。
 おそらくは褶のような細部こそが私たちを中世の女性達の元に連れていってくれるのであって、そうした意味で本書は、遠い昔の中世の庶民女性の生活へと私たちを導いてくれる格好の案内書であるとも言える。彼女たちが労働に用いていた細々と道具や、男女の出会いの場としての領主の館についての記述など、庶民女性の日々を思い描く端緒を得るだけでも、現代の私たちにとっては貴重な足がかりとなるのだ。
 更に本書は都の女房文化が地方の女性文化の原型となっていることに注目しつつ書かれた四つの小論をまとめた第二部、中世民衆の男性と女性を対応させつつそれぞれのライフサイクルを論じた第三部と続いていくのだが、著者の問題意識は一定していて、通読してみると読者はこれまで具体的に思い描くことの難しかった宮廷社会の外側、主に庶民女性の暮らしぶりについてある種の実感を持つことが出来るだろう。その中でも第二部の中の、下女の所有権を巡る訴状を論じた「下女の恋愛と呪詛」には、三角関係に苦しみそのライバルの呪いを恐れる下女が登場して興味深い。物のように所有された彼女たちではあるけれども、そこには今も昔も変わらず貴賤にも関わらない、一人の若い女性の姿が見えるのである。
 保立氏は本書を結ぶにあたって、遥か昔の時代のこととはいえ、男性という身で女性の生き方について論じることは「いろいろと案がゆれることでもあった」と書き記しているのだが、 

2013年9月11日 (水)

ル・グインの短編集『風の十二方位』

130910_105214


130910_105457

 『物語の中世』という20年ほど前にだした本が、講談社の学術文庫で10月にはでるので、その再校をした。これでいろいろたまっていたことが終わり、春から期待していた通り、やっと次の仕事に本格的にかかれる。
 今日は気持ちのいい天気。久しぶりに自転車ででて、次の仕事についてlの構想を考える。『地震列島の思想』となる予定。この間、話してきたこと、書いてきたことをまとめるつもり。食事をしながら考えるが、つまったので、また自転車で考える。クズの花とアザミの花がきれい。
 
 ル・グインの短編集『風の十二方位』の英語本を頼んだ。その中の「四月は巴里」というのを英語で読んでみたい。中古で600円。イギリスから動かすということで20日ほどかかるというが、忘れたころに届くのが楽しみ。
 「四月は巴里」は、バリー・ペニーウェザー博士と錬金術師ジャン・ルノアールの話。バリー・ペニーウェザー博士はアメリカ人、地方都市の大学助教授、フランスの15世紀の詩人、フランソワ・ヴィヨンの伝記の研究をしている真面目な、しかしうだつのあがらない学者。自腹をきって巴里に留学にきている。ジャン・ルノアールは15世紀のフランスの僧侶にして錬金術師。ペニーウェザーの下宿部屋が建った頃、同じ部屋に住んでいた。ルノアールが学業に倦んで出来心で黒魔術をかけたら、それがかかってしまい。ペニーウェザーが15世紀に呼び出されるという話し。
 ル・グインのものにはめずらしく、少し喜劇的な話しで、それが成功している。ルグインの短編の中ですきなものの一つ。この『風の十二方位』に収められた短編は、どれもルグインの長編に展開したものがいくつかあるが、この短編はなっていないと思う。しばらく前、どっかからでてきて就寝本になっていたが、今度読んでみてジャン・ルノアールの方の描き方に感心。以下、この短編の前書きを紹介する(Mさんありがとう)。


 これは、原稿料をもらった最初の作品であり、活字となって出版された二番目の物語である。そしておそらくわたしの書いた十三番目か十四番目の小説だろうか。兄のテッドが、読み書きもできない五つの妹の相手にうんざりして、本を読むことを教えてくれてからというもの、わたしはずっと詩や小説を書いてきた。二十のころには、そうして書いたものを出版社へ送るようになった。詩は何篇か本にのったが、小説の方は、三十になるまで、そうせっせと送ったわけでもないが、せっせと送りかえされてはきた。「四月はパリ」は、一九四二年以来はじめて書いた――一読してファンタジイないしはSFとわかる――〈ジャンル〉のはじめての作品である。一九四二年という年は、アスタウンディング誌のために"地球の生命の起源"をテーマとする話を書いたのだが、思いもよらないような理由で没になった(わたしはどうもジョン・キャンベルと性が合わない)。十二のころは、印刷した本物の不採用通知をもらって有頂天になっていたが、三十二ともなると小切手をもらって有頂天になった。"プロ根性"などというものは美徳でもなんでもない。アマが好きでやることを金銭のためにやる人間にすぎない。だが貨幣経済社会では、金が支払われるということは、作品が流布され、読まれるということである。それはコミュニケーションの手段であり、それこそ芸術家の意図するところである。一九六二年にこの作品を買ったシール・ゴールドスミス・ラリはSF雑誌の編集者としては進取の気性に富み、感覚も鋭かった。わたしのために扉を開いてくれた女史に感謝している。


 問題は芸術家のプロ根性の部分。芸術家の「金儲け」の「情熱」の出所についての率直なところだろう。これは学者だと「名誉欲」、学術の世界で、そしてそれを通じて社会的な名誉をえることということになるのだと思う。「名誉こそコミュニケーションの手段であり、それこそ学者の意図するところである」という訳だ。と、昨日、この部分を読んでいてはじめて自覚したが、歴史家が自分の仕事に名誉感と誇りをもち、それを維持した生活をするのはたいへんだ。むしろ先輩に対する負債の意識、やるべきことをやっていないという意識も強いと思う。それは学術が芸術とは違って、現実には集団的な知恵と思想と労働によって支えられているためであると思う。

 ともあれ、バリー・ペニーウェザー博士と錬金術師ジャン・ルノアールの話しは、まさにその学者心理に倦んできたところにおきた話し。ルグインは学者をこう観察している訳だ。ルノアールは20世紀の自然科学と原子論を教えられてすべてを知ってしまい、ペニーウェザーは15世紀にタイムスリップして専攻の時代のすべてを眼前にみてしまい、しかも、二人ともその知識を人に伝えることはできない。学術的な満足と「名誉欲」の放棄が一緒にきて、楽しく生きる。しかも最高の友をえて、しかも魔術によって息のあう孤独な女性まで呼び出して人生の別の享楽の世界にも入る。四月のパリで、というおとぎ話である。以前読んだときはペニーウェザーの方を主人公として読んだが、今回はむしろジャン・ルノアールがおもしろいということがわかった。
 

2013年9月 8日 (日)

30冊まえがき

はじめに
 日本史研究の分野には、誰でもが名著と認める著作は少ない。大著はあっても特殊すぎるか、偏っているかというのが実際で、その意味で日本史は発展途上の学問である。そこで、ここでは第一に研究の入門書、第二に各時代の歴史史料の読み方を伝える本、第三に他分野からの学際的な問題提起、第四に現在格闘するべき研究書、そして第五に学説史上の「名著」をあげるという方針をとった。
 私は、一九七〇年代に研究を始めたが、その頃の入門書というと、『日本史研究入門』のシリーズが代表的なものであった。ⅠⅡは遠山茂樹・佐藤進一の共編、Ⅲ・Ⅳは井上光貞・永原慶二の共編、最後に出された『新編日本史研究入門』は佐々木潤之介・石井進の共編である(東京大学出版会刊行。おのおの一九五四・六二・六九・七五・八二年)。これはいまでも有用なものであるが、しかし、このシリーズが約三〇年ほどまえに終了したことは、ほぼその時期、戦後派歴史学といわれた第二次世界大戦後の歴史学の潮流が失速したことを示している。
 戦後派歴史学は、アジア・太平洋戦争が皇国史観という「神話的」歴史観を最大の根拠としていた関係で、それを問い直すことを出発点として構築された。それを担った学者たちの最年長には戦争の時代に抵抗して行動した服部之総、渡部義通、羽仁五郎などがおり、さらに、その下の世代だと、早熟ですでに労働運動や反戦運動に参加した経験をもつ石母田正や、アカデミーの中枢にいながら反戦的な姿勢を維持していた古島敏雄、大塚久雄などがいた。そして、実際に、この歴史学を担った人々は、たとえば太田秀通や門脇禎二のように、戦争に参加し、片腕を失ったり、「戦友」の死の犠牲のもとで、どうにか生還してきたような世代がいたのである。
 戦後派歴史学はこのような諸世代が人間として歩み、格闘する中で作り出したものである。それは日本のどの学術分野でも同じことであるが、右に述べたように、戦争の重要な根拠が一つの歴史観におかれていただけに、歴史学の分野には、当時の知識人・学生の中でも、もっとも誠実かつ有能な人々が集まったということができる。彼らは若く未経験であったが、そのその社会構成史とよばれた全体史の方法のもつ意味は現在でもきわめて大きなものがある。
 しかし、長い伝統をもつヨーロッパ歴史学とは違って、日本の歴史学は、史料の公開・編纂・研究の点で立ち遅れがあり、さらには帝国本国の歴史学として一種の「帝国」意識が浸透していた。また第二次世界大戦が日・独・伊の枢軸諸国と、欧米諸国および「社会主義」勢力との間で戦われたという実態との関係もあって、戦後派歴史学のなかにもソ連のスターリニズムや中国の毛沢東主義など、社会主義を自称する全体主義的国家への濃厚な幻想が存在した。
 歴史学が、このいわば青春の蹉跌ともいうべき時期をどうにか乗り越え、一種の成熟の時期に入ることができたのはだいたい六〇年代の半ばであった。そして、最近の状況は、歴史学が養ってきた豊かな説得力をふたたび発揮する必要を示しているように思う。しかし、学術も、人間の営為である以上、その青春時代を忘れては立ちいかない。それをふまえて、研究の入り口から過去と未来とを眺めやっていただければ幸いである。

2013年9月 6日 (金)

98地震火山。学術フォーラム「地殻災害の軽減と学術・教育」の事務

 昨日は学術会議へ。企画課の方々とあって、11月16日に開催予定の「地殻災害の軽減と学術・教育」という学術会議の学術フォーラムの事務手続きの相談。久しぶりに出て、疲れて帰り、ビールを飲んで、さらに加賀の小堀酒造からいただいた梅酒がうまく、早々に寝てしまう。この梅酒が、昔、家で祖母が作ってくれた梅酒とよく似た自家製という感じのもの。さっき目覚める。朝、4時30分。
 学術会議の学術フォーラムのための予算が少なく、何ということであろうと帰りの電車の中で考え、事務のまとめを自宅でする気がせず、途中の喫茶店でやっていたのが疲れた理由。事務の人によると、学術会議の予算は10億ないという。昨年聞いたところでは、安倍自民党政権は学術会議の予算に冷たいということ。もちろん、10億というのは大きな金額である。しかし、いま、ちょっとしたビルを立てるだけでも2億はかかる。資産1億などという人も多いだろう。つまり、退職後25年・30年間生きるとして、一人年150万の生活費としても、(年金がないとすれば)夫婦二人で一億は必要な訳だ。これはあくまでも一般論だが、そうだとすると、そういう人の個人資産、10人分ということである。これは「日本学術会議」という団体の予算としてはいかにも少ない。
 「地殻災害の軽減と学術・教育」というフォーラムは、地震学・火山学・地質学・地理学・歴史学(文献・考古)、防災研究、防災教育の8分野が集まって、議論しようという会議である。東日本大震災の後、地震学・火山学を中心とした自然科学分野と実学としての人文社会科学の相互連携の必要が明瞭となっていることは明瞭で、歴史地震・噴火の史料や発掘痕跡の分析などの災害要因にかかわる文理融合研究、地球科学の発展と地震列島における防災教育・地学教育の在り方の再検討、地殻災害の予知・警告や危機管理に関わる情報論、減災と経済計画・国土計画の在り方などについて議論しようというものだ。
 このフォーラムは、学術会議の史学委員会、地球惑星科学委員会、地域研究委員会の主催。私は、科学技術学術審議会・測地学分科会・地震火山部会・次期計画検討委員会の専門委員に動員された関係で、その延長線上で、世話人の下で実務をとっている。測地学分科会の2014年よりの五ヶ年の地震・火山噴火予知に関する観測・研究計画の検討に参加したのだが、秋には科学技術学術審議会の総会にかける方向で、いまパブリックコメントに入っている。
 こういう文理融合研究は、社会的に必要なものであると考えるので、昨年から相当の時間をつかって参加してきたが、学術・科学に対する、日本国家(政府・財界・多数政党)のひどい冷たさというものにあきれる。そうであろうとは知っていたが、ここまで冷たいというのは、多数政党の政治家なる存在が、ようするに愚かさをもって職業としているためである。日本には様々な職業があるが愚かでなければできない職業というのは、多数政党の政治家をもって最とするということであろう。そこには本来、どのような職業にとっても必要な多様性というものがなく、一種の身分的扮装としての愚かさがお坊ちゃんの上に居直っているということである。身分的同一性としての愚かさ。そして集団的居直りはさかのぼっていくと腹黒さになるというのが社会法則く。ここまでというのは怒りの対象であり、怒りはどのような場合も疲れる。研究者の生活にとっては、あまりよい影響をもたらさない。
 朝、5時20分。新聞をみると、品川正治氏がなくなったと。
 千葉に九条の会の講演にこられときに、御挨拶をしたことがある。講演は中国での戦争経験と引き上げの経験。『世界』に連載されていた自伝も粛然とさせられる話であった。出征前にともかくカントを読み抜いた、そして日本火災海上保険の社長室にマルクスの全集をおいて読んだ、安保条約に反対する60年の国民会議の中で指導部にいた、昭和天皇死去のときに皇居での通夜に参加したなどというのも印象的な話し。
 我々の世代は、というよりも私のようにただの学者・研究者は、そういう粛然とさせられる経験をもたない。人間としては二級である。私も、そろそろ二級の人間が怒っていてもしょうがないと悟らねばならない。

2013年9月 4日 (水)

編纂と文化財科学‐‐大徳寺文書を中心に

以下、あまりに長いので、WEBPAGEを御利用ください。共著者に感謝します。また図、写真などは『東京大学史料編さん所紀要』23号を御参照ください。

編纂と文化財科学‐‐大徳寺文書を中心に
                   保立道久・高島晶彦・江前敏晴・
                   韓允煕・山口悟史・松尾美幸・
                   杉山巌・谷昭佳・高山さやか      
はじめに
 歴史学の基礎研究の基軸が史料の編纂にあることはいうまでもない。かつて黒田俊雄は歴史学の研究作業の第一階梯は「考証」にあるとし、その内容を「史料の発見、批判的検討、解釈、事実の関連づけ」にあるとしたことがある(黒田「歴史学の再生と発展」一九八一年、同著作集八巻)。編纂は、この考証作業を文字翻刻という工程として取り出したものである。そのためには一定規模以上の道具、予算、施設、そして何よりもデシプリンを共有する集団的な科学労働の集中が必要かつ合理的であり、そのために史料編纂所のような歴史学の基礎研究所が編纂事業を展開しているのである。
 問題は、考証を精密・着実に行うことは「細部」を重視する歴史学者にとって必要な資質であると同時に、歴史学者にとっては考証を越えた視野、つまり史料の向こう側に広がっている歴史的な実在世界を透視することが、人文社会科学者としての第一の給料分の義務、職能的義務であることである。これは編纂にしたがう研究者個人の研究生活に特別の矛盾や負荷をかけるが、この矛盾は大学論の中で長く議論されてきた研究と教育の矛盾とは異なる性格をもっている。編纂の中心を情報化におくという、この間の史料編纂所の動きの中心には、この矛盾を少しでも耐えやすいものにするために、考証の蓄積を知識ベース化し、編纂を合理化しようという研究者としての希望があったように思う。
 編纂は、人文科学としては大規模な組織性が必要な仕事である。現在のように支配的な文化や国家による大学管理が強く、批判的学術が冷遇される状況の中では、この世界は、いわば「史官」的な性格を帯びやすい。「学術の中心」としての自覚の下に、インターカレッジな学術世界を担うという原則を堅持しなければ、ややもすれば閉鎖的な世界になりかねない。その意味でも、黒田が右の論文で、研究の手段・方法の技術革新ともいうべきものが進展し、われわれの歴史学が「社会的・組織的な性格」を強めている状況の中で、学術体制のあり方を新たな形で問題にしなければならないと述べたのは至当であった。編纂にそくしていえば、それは単に刊本や史料データベースの公開ではなく、むしろ考証過程=知識生成過程そのものに協同で取り組む学界の研究体制をどのように作っていくか、そこに情報学的な手段をどう生かしていくか、という問題であったということができる。
 これは一種の先端的な研究であるが、基礎研究の蓄積方向を左右するに違いない。そして、この仕事がどうなるかは、現代的な情報化社会の中での歴史学の立場を規定していくであろうが、しかし、他方で、黒田が「古来からの個人的な作業や思索と新しい方法が組みあわされる」ことが必要であると述べているように、編纂は個別的・具体的な経験を必要とする作業である。それは断固として維持されなければならない。そしてそのためにも、、おそらく編纂考証作業においてもっとも情報化=共有化しにくい経験的知識、そしてその枢要に位置する史料の「もの」情報の扱いについて、現在の段階で、情報共有の方向性を検討しておくことは必要なことだと思う。
 永村真「コンピュータと歴史学」(『岩波講座日本通史』別巻5史料論)は、編纂結果において、史料原本のもつ情報の相当部分が切り捨てられることを「史料原本の伝達内容・空間・時間という四次元的な情報表現を、活字化・DB化という二次元平面へ投影したことに起因する宿命的な結果であろう」と述べた上で、「しかし、コンピュータが四次元から二次元への投影により失われた空間・時代にかかわる情報の復元機能を提供することは、日本史研究において極めて重要な意味をもつことを強調しておきたい」としている。永村の見通しはスパンが長く、本稿の述べることも、この指摘の範囲内にあるが、本稿では、おもに大徳寺関係文書の調査・編纂を対象として、古文書の編纂と「もの」としての諸情報について述べることとしたい(文書番号のみを掲げた文書は大徳寺本坊所蔵であり、真珠庵所蔵文書は真珠として番号をかかげた。番号は『大日本古文書』番号である)。なお、このように具体的な文書群の細部を対象としているという事情とともに、研究の現段階にも規定されて、本稿は概説的な説明を多く含んでいる。この点、了解をいただきたい。
 また本稿は『大日本古文書 大徳寺文書』『大日本古文書 大徳寺文書別集真珠庵文書』の編纂事業、および研究プロジェクト「禅宗寺院文書の古文書学的研究」(二〇〇二年度~二〇〇四年度科学研究費補助金基盤研究(A)(2)、代表保立道久。研究成果報告書は二〇〇五年五月。以下、禅宗史科研と略称)、および「和紙の物理的分別手法の確立と歴史学的データベース化の研究」(二〇〇八年度~二〇一〇年度、基盤研究(B)、以下、和紙科研と略称)に関係する執筆者の知見を前提としている。調査の機会をあたえられた大徳寺の諸和尚、および上記プロジェクトの関係メンバーに感謝する。

第一章翻刻と料紙の二次元情報‐改行や法量
 永村真が述べるように、古文書の編纂とは料紙に記される諸情報を文字列の二次元情報に還元する合理化の過程であるが、このような考え方は、編纂の情報化の前においても、編纂研究の世界にさまざまな形で存在した。たとえば、菊池武雄は、一九五八年に発刊された『大日本古文書、東大寺文書六、東大寺図書館架蔵文書之一』以降、版面に改行の位置を示す符号を記した。これによって、文字列の一次元情報のみでなく、文字の料紙上への二次元的な配列についてもデータが提供されたのである。またその後、『大日本古文書』においても史料料紙の法量(縦横)の記録が行われるようになった。これは文化財行政上の必要からすでに行われていた調査記録のあり方を導入したものであるが、法量は印刷版面上に、いわば仮想空間の設置を可能にする。このような形で、編纂刊本の版面に特定の文字の史料料紙内における位置を曖昧ではあっても指示できるようになったのである。なお、『大日本古文書』については、そのフルテキストデータベース化が実現し、書目によっては所蔵者の御理解によって影写本の画像も提供されるようになっている。永村のいうテキスト情報と画像情報のWEB上での連接への接近であるということができる。
 これは編纂体例についても若干の変化をもたらす。つまり編纂上のノート(注記・按文など)は、しばしばある文字の料紙上の位置に言及することが必要であるが、この改行符号・法量によって、斉一で正確な情報を提供できるようになった。これによって料紙の継目・綴目や欠損状態、行間書や裏書・裏花押などの位置指定などについて、ある程度具体的にイメージすることができるし、またたとえば「切紙・竪切紙・封紙(立紙)・包紙」などについても具体的なイメージをえることができる。
 本稿で対象とする『大日本古文書 大徳寺文書』においては、これを前提として、その料紙法量によって区切られた版面に、その料紙に記された情報を記すことに意識的になった。つまり文書面が複数存在する場合は、「○以下裏」「○以下裏紙」「○以下第二紙」「○以下折裏」などという情報によって、その情報が記された料紙あるいはその表裏を提示することが可能になる。このような考え方は、百瀬今朝雄が、従来、本紙・裏紙・礼紙の区別という文書における料紙の用法の基本を、文書現物や書札礼の検討によって明らかにし、同時に自らが編纂した『大日本古文書 蜷川家文書』において、料紙が変更される文字列のそばに傍注形式で法量を記載するという方式を採用したことにみちびかれたものである。これによって、たとえば、以前は「礼紙切封ウハ書」として注記をしたウハ書は、その機能に即して「切封ウハ書」(あるいは封の形式を封の場所に記す場合は「封ウハ書」のみ)と記し、「○以下裏紙」という情報は本文の該当位置に記入するにとどめるというような考え方が生まれた。

第二章料紙状況の光学的認識‐顕微鏡と透過光の利用
 料紙が作成され、筆記の環境のなかに入ってから、その役割を終えて保存状態に入り、編纂者の前に登場するまでの間に、料紙には様々な物理操作が加えられる。その操作の様子を詳細に点検し、記録するために、拡大鏡、顕微鏡などの機器、そして通常光のみではなく、透過光・赤外線などが利用されるようになっている。他方、ほぼ同時に、史料撮影が、白黒フィルムからカラーデジタルに移行したことも、色情報が加わったという点で大きな意味をもっている。もちろん、これは、印画紙の生産停止の問題もあわせて様々な問題をもたらしているが、ともかくも、調査・保存の形態が多様化し、精度がましたことは事実である。それに対応した調査の精細化とミクロな記録が必要になっているということができるだろう。
(1)筆記痕跡の細部認識
 編纂を意識する以上、問題の中心は筆記痕跡となる。この場合に基礎となるのは透過光の記録であって、これはとくに裏面の墨痕の存否や墨痕の表裏位置関係(裏書きや裏花押)を記録するために標準的な利用が望まれる。
 なお、読解困難な箇所や微細な墨痕については従来からルーペが必需品であった。しかし、ルーペによっても確定しがたい細部の墨痕の確定に一〇〇倍の顕微鏡を使用する人も増えているように思う。一般にルーペでは足りず、かならず顕微鏡が必要になるのは墨痕らしきものが墨か、あるいは汚れか木質繊維かわからない場合である。もちろん、透過光パネルによる観察・撮影でも用の済む場合があるが、顕微鏡によって確実な観察が可能になる場合も多い。とくに字画の欠損が虫食によってもたらされている場合など、虫食痕の周囲についた「黒」が墨かどうかを判断することは場合によっては文字の読みに関わってくる。
 たとえば写真1は『真珠庵文書』九一五号文書(1)と(2)の月日の部分を掲載したものであるが、まず左側の(2)の日付肩付の「明應」は明瞭だが、「八」と読んだのは起筆の「ノ」部分の残りが虫食穴の右側にかろうじて残っているのを顕微鏡で確認したからである。その部分の顕微鏡写真を写真2として掲げた。墨が繊維の中に入り込んでいるのが確認されるが、こういう画像の場合は汚れや虫糞の痕ではなく、筆痕である。これに対して、(1)の日付肩付の「延徳」の次の数字があるべき部分は略図3のようになっている。写真帳(『真珠庵文書』(6171.62/156/25)では「五」のようにもみえるが、写真4が、略図3でいうと右側に縦にある棒の部分の透過光顕微鏡写真である。虫糞の中に消化された墨があって黒くなっていることが確認できる。ようするにこれは虫糞の汚れで字痕ではないのである。この問題は修復のやり方にも関わっており、もし、これを記録せずに修復に際して汚れが洗われてしまうと写真帳との矛盾が生じることになる。また最近一般的になっている相似料紙を虫食部分に嵌入する修理法においては、(ある場合は一般の裏打ちよりも)虫食い部分に付着した微細な墨は確認しにくくなる場合があるようである。そのような場合は、実際上、修復の事前準備としての解読、実質上は編纂が必要であろう。
 また、日記の紙背には日記用の紙の調製の関係で墨映文書が多く、墨映文書の復元が可能なことはよく知られているが、その場合、文字解読のためにも、顕微鏡による墨痕の確定が有効なこともあるかもしれない。ただ、大徳寺文書において、とくに注意しておきたい墨映の例としては封紙にのこる切封墨引の墨映がある。たとえば現在は分離して保存されているが、『真珠庵文書』六七二号宗能書状封紙は七一〇号宗能書状の封紙、八四六号宗能書状封紙は七一一号宗能書状の封紙である。これは按文に記したように、現在残っている宗能書状の全体を調査した上で、虫損の様子や「本紙切封墨引の墨映」により判断したものであるが、どちらがどちらに対応するかは、墨映の高さと切封墨引の高さをあわせることで確定できた。この墨映は肉眼やルーペではなく顕微鏡によってようやく確認できるほどの小ささであった。写真5には典型的な例を挙げたが、このような封墨の墨映は封紙にはしばしば確認できるものであり、本紙・封紙の「物」としての対応関係、封紙として利用された証拠を確認するためには重要な情報である。なお、普通の書状などにはないが、聖教類などにある極細の墨線などは肉眼では墨か汚れかを区別することもできない場合も多く、確認のためには顕微鏡観察が必要となることも付言しておきたい。
 墨痕の調査については、その墨痕が書記面の墨かあるいは裏面からしみ通ったものかを判別する手法がないか、文字が読めない場合などについては、筆の重なりから筆順や補筆が推定できないか、さらには帳簿類の分析などで必須となる後筆・異筆などの同定は不可能か、墨の成分分析はできないかなど、より精密な観測についての話題がでることがある。これについてはまず(赤外線)透過光写真をもちいることにより、筆の動き方、重なりを観察しやすくしておく必要がある。さらに、博物館などで使用されているラマン分光分析は、分子単位まで特定することができ、あるいは墨の塗り重ね状態や筆順を細かく分析することも可能かもしれないという示唆をえたことがある。費用対効果の問題はあろうが、文字の解読に万全を期すためにも様々な実験的な検討は必要であろう。
(2)料紙使用法・使用痕跡の細部認識
 料紙の筆記環境や機能状態、あるいは保存状態の中で、料紙に加わってくる物理操作には、筆記のほか、磨抹、折巻、継綴、切貼、封緘などの意志的な操作から、虫害や劣化などの自然的・偶発的なものまで様々である。これを記録する上では筆記痕跡よりも多様な諸手段が必要になる。
(イ)料紙の表裏と繊維配向性‐‐手上執筆・机上執筆
 筆記環境の中では、まず料紙の表裏が注意される。つまり一般に書記場面には、料紙は「帖」の形で蓄積されているが、それを解いて料紙を筆記環境におく時にまず問題になるのが料紙の物理的な表裏である。もちろん、文書の調書作成などの用語法としては、物理的な表裏ではなく、字面を表とすべきである。それは簡易であるというのみでなく、たとえば紙背文書の扱いにおいて二次文書が目録掲載の主文書となるなど、筆記時における表裏と物理的な表裏は別の扱いが必要だからである。
 しかし、料紙の「物」としての扱いにおいてまず問題となるのは料紙の表裏の物理的区別であり、それを表現するためには、製紙科学の用語に準拠して、簀面(wireside)・液面(non-wireside)という用語が適当であろう。つまり、製造過程の中心をなす抄紙においては、繊維懸濁液が簀によって汲まれるが、その簀上に汲留められた懸濁液が、簀に接する面を簀面、逆に簀に接しない面を液面と称するのである。簀面にはしばしば簀の痕が残るので、簀肌面ということも可能であるが、簀痕の様子は料紙種類によって意外と多様であり、また雁皮紙の場合は簀に紗がかけてあることが多く、簀肌のような触感はない。それ故に、紙の物理表裏を表現する言葉としては簀面とのみいうのが適当である。液面については懸濁液を汲んだり、勢いよく捨てたりする運動が働く面という意味で、「取液面」「捨液面」などという用語も考えられるが、これも「液面」という単純な言葉が適当であろう。
 念のために簀の上に繊維懸濁液の層からなる原湿紙を形成した後の工程についても若干の説明をしておくと、原湿紙は、紙漉槽のそばにつまれた紙床の上に簀を置いて紙床の上面(加重面)に原湿紙を残すという方式で積み上げていく。その場合上から簀・原湿紙・紙床という順序になり、そこから簀を剥いで紙床の上に原湿紙を残す。そのため、紙床の上面はつねに簀面となって積まれていくことになる。そして紙床に加圧して水を絞り、若干乾燥させた後に紙床から原湿紙を一枚一枚剥いで紙干板につける訳であるが、その時には手返しの便宜によって原湿紙の簀面が紙干板に張り付くという形になるのが一般である(ただし、そうでなく、液面が紙干板につく場合もあり、その場合を「逆干し」と呼称することとした)。
 この表裏の物理的弁別は、一般に紙面に残る刷毛目、板目などの観察で行われる。刷毛目は、紙床から、紙を剥がし、それを紙干板に圧着する際の刷毛使いの痕跡が料紙に残ったものである。それ故に、一般には刷毛目は液面の側につくことになる。そして、刷毛を斜めに使うことが多い関係で、刷毛目は、斜めの方向の何本かの長く鋭い凹線として観察される。ただし、きわめて例外的であるが、紙床に原湿紙を積む際に繊維がよれたり、紙床から原湿紙を紙干板に移す際に、紙の繊維が下の紙床に引かれたりした場合に調整した刷毛目の痕が簀面に観察されることもある。この場合は通常のように液面=刷毛目ではなく、簀面に刷毛目があることになる。ようするに刷毛目面だけでは物理表裏が決められないこともあるのであって、その記録には注意する必要がある。
 次に、板目は紙干板の年輪の痕跡である。上記からも明らかなように、一般には簀面=板目面ということになり、刷毛目面とはちょうど逆の面につくことになる。板目面の方が、乾燥時の圧着効果によって相対的に緻密・平滑な紙面が形成されるので、板目面が執筆にあたっての表、逆に反対の刷毛目面が執筆にあたっての裏となることが多い。なお、明証は提出されていないものの、紙干板は早い時期から長い板材であったはずで、そこに圧着されることによって、料紙につく圧痕は、一般には横の圧痕となる。紙干板の年輪は日にさらされることなどによって深くなるので、この圧痕はしばしば料紙に段差をもって刻まれた鋭い線として観察される。この圧痕の全体的な観察は紙干板の樹種など何らかの有益な情報をもたらす可能性もあるが、この形状の記録は現在では不可能である。
 以上、一般には簀面=板目面=書記面、液面=刷毛目面=非書記面となることになる(ただし逆干しの場合があることに注意)。古文書学的な研究において、こういう料紙表裏の弁別が注意されるようになったのは、料紙研究の最初の開拓者、田中稔の仕事以降であるが、後には「角筆スコープ」(国語学の小林芳規が「角筆」の視認のために開発した紫外線カットの斜光発生装置)を利用することによって観察しやすくなった。また透過光パネルによって下から照射することも効果がある場合がある。
 しかし、従来から問題であったのは、この表裏観察に一定の熟練が必要なことで、かつそれでも刷毛目・板目が不鮮明な場合も多いことであった。もちろん、刷毛目・板目のみでなく、より詳細な紙面の繊維の状態の観察によって簀面をきめることができる場合もある。たとえば、簀目の濃線が目立つ場合に、その線の目立つ側を簀肌面とすることができる場合がある。これは簀のひごの間で填料や非繊維物質の濃度が高くなるためと考えられるが、その線は米糊澱粉の場合に白く、非繊維物質の場合はリグニンなどによって黄茶色になる傾向がある。また角筆スコープなどによって紙面を照射し、相対的に簀肌が目立つ面が決定できれば、そちらを簀肌面とすることができる場合もある。しかし、問題は簀目の発現の構造(でき方、見え方)は意外と複雑で、(1)簀の隙間部分に繊維が落ち込み、あるいは粗密ができる、(2)簀の揺上げと脱水の微水流とともに繊維が回転して簀の隙間部分にそって並ぶ、(3)簀間で填料や非繊維物質の濃度が高くなるなどの理由が考えられている(韓允煕・江前敏晴・保立道久「和紙の簀目の幾何学的構造と大徳寺文書における簀目数解析」禅宗史科研報告書、二〇〇五年)。ただ、(1)(2)は論証されているが、料紙種類のすべてに関する総合的な分析が完成している訳ではない状況である。とくに簀に規制されて簀面に紙面の凹凸面がでるようにも考えられるが、湿潤時にはたしかに簀面側に凸面があったとしても、板にはって乾燥する過程でそれは反対側に押し上げられるようであるという観察がされていることに注意しておきたい。
 この隘路は、料紙表面の微細な繊維配向の様子を反射光の顕微鏡によって観察することによって突破された。つまり、簀は何度か原液を汲みこむが、一般に行われている流漉では、その第一層目は簀で軽く水をすくって簀面に橋をかける作業になる。その時、前方に強く捨水するために水圧によって第一層目は簀に垂直に配向する。これに対して二層目以降は、一層目の上に原液を汲んで若干ゆらしながら紙を形成して捨水をするために配向率は低くなる。一〇〇倍の顕微鏡を使用して一方からは青いLED光線、一方からは黄色光を照射して観察すると、繊維配向が強い面をほぼ推定することができる。そして上記のような理由から、この繊維配向の強い面が簀面=物理的な表になるのである。そして、これを正確に観察し、記録に残すために、デジタルマイクロスコープによって(一〇〇倍)、周囲より低い角度で照明し、画像を2値化して繊維部分を抽出し、フーリエ変換によって繊維の配向性強度を算出する手法が開発された(必要なソフトは江前敏晴研究室からダウンロードが可能である。なお簀目が一寸あたり何本あるかの記録は目視によって可能であるが、目視が難しい場合について客観データを残すために、料紙の透過光写真からこのソフトを使用して簀目数を算出できることがある)。なお、問題は何カ所ほどの画像が必要かであるが、表裏解析のみならば、料紙の中央部分の画像を二箇所採取すれば(表裏で計四箇所)、むしろ明瞭なデータを確保できることがわかっている。これは捨水される繊維懸濁液が、簀のヘリにぶつかって料紙の端では複雑な波紋を作るのに対して、料紙中央部分では簀に垂直に動く水流の影響が純粋に現れるためであると考えられる。しかし、本稿では詳しく論ずる用意がないが、表裏での繊維配向の相違やその程度が紙の製法や、後に述べる料紙の種類などに関わってくる可能性も高く、製紙科学的なデータとして分析に慎重を期すために、いちおう表裏各一〇箇所の顕微鏡画像を採取することとしてきた。
 なお、百瀬が明らかにしたように、書状の場合は、帖から料紙を取る際に、二枚組でとり軽く巻いたものを手にもって執筆することが普通であるので、本紙・裏紙の書記面の物理表裏は逆になる。つまり、筆記面は本紙では普通、簀面=板目面となり、裏紙では液面=刷毛目面となるのである。ただし、この場合も、前述の乾燥時における逆干しの問題はあり、また料紙を帖から取る際に逆取をする可能性も残されている。そのため百瀬の指摘を古文書書状の現物によって確認することには一定の困難があったのであるが、大徳寺文書の重要文化財指定に協力する中で、大徳寺文書を素材として原本の板目・刷毛目の観察と繊維配向性の計測という二つの手法をあわせて詳細に確認する機会をえた。これによって百瀬の結論が支持されたのであるが、これについては「中世大徳寺文書に見る和紙の表裏と書状の習慣」(韓允煕・江前敏晴・高島晶彦・保立道久・磯貝明、『日本史研究』五七九号、二〇一〇年)で報告した。
 そこでとくに問題であったのは、右にいう逆干し、逆取りの場合のほか、帖から料紙をとる場合に、二枚組でとらずに一枚一枚とって机上で執筆する場合があることが確認されたことである。そして、この問題は、どのような文書が手上執筆され、どのような文書が机上執筆されるかという文書の性格に関わる論点につながる。机上執筆の場合の方が、いわば公的、証文的な要素を強いことはいうまでもない。また後に述べる強杉原などの強紙の場合は、そもそも手上執筆することは困難であって、例外的な問題となることはいうまでもない。これらは当然、一般的な原則を論ずる場合には排除しなければならず、その意味では田中・百瀬の立言が妥当であることはいうまでもない。これらの点は、「もの」としての文書を詳細に観察し、その結果をさらに体系化していく必要性を明示しているといってよい。
 なお、料紙の表裏の確定が、編纂上でかならず必要になるのは、たとえば綴葉装の冊子の折目が離れ、綴じの原状も不明になっているなど、史料の現状復元が必要な場合である。冊子本の作成にあたっては、料紙は表裏をそろえて扱われるので、このような場合は表裏を弁別し、記述内容との整合を取る作業がどうしても必要となる(事例として『真珠庵文書』巻八、一一一四号の例を挙げておきたい)。
(ロ)折巻・切継の詳細な調査・記録
 料紙に残る筆記利用の痕跡としては、意識的な磨抹、折巻、継綴、切貼、封緘などがあり、文書が宛先に届き、さらに現用を終えて保存過程に入った後にも必要な加工が行われる。またそれらの過程での偶発的あるいは虫害や劣化などの自然的な変化も無視できない。これらについても本来的には原本に即した詳細な観察と記録が必要である。
 そのためにもカラー写真にくわえて透過光写真の撮影が有効なことは認められつつあり、最近の重要文化財級の史料の修復で、この撮影が標準的な工程の一部になっているのはそのためであろう。その場合、欠損部や虫食痕の形に漉かれた修補用紙を作成する技術的便宜のためにブルーシートを敷いてカラー撮影を行う場合もあるというが、虫食は虫が食っている時の文書の折巻の様子の復元のためには重要な情報である。虫食やその模様の幅の変化で手継文書の順序、巻順などもわかることはよく知られている。
 折巻については、大徳寺文書の重要文化財指定にともなう調査協力の中で、縦半外折の文書を九一通確認した。これについては池田寿「文書料紙の縦半外折とその封式について」(禅宗史科研報告書、二〇〇五年)の分析があり、雑所決断所牒、御判御教書、幕府奉行人連署奉書(竪紙)、管領施行状、守護遵行状、打渡状、禁制、判物、公帖、書状などでの事例が分析されている。このような折り方はすでに上島有によって指摘されていたところであるが(上島有「初期の御内書について」『古文書研究』一三号)、池田論文は雑所決断所牒などについての新たな指摘を含むまとまった分析となっている。文書の折り方は、実に多様であり、これを含めて記録の仕方については(原本の取り扱いによっては消失してしまう情報であることもあり)、今後、十分に検討するべきであろう。ここでは、一応、書状の折りを記録した写真6畠山政長書状(二〇五号)を掲げておきたいと思う。
 次に文書の切断については、書状執筆の上で必須の封帯の切り出しについて論じておく必要がある。まず、封帯は刃物で切り出している場合と、その部分を折って(おそらく)唾で湿して切断している場合がある。また、封帯を書状の腰に回した上で垂直に折り返して封帯に挟み込んだ後に、余分の部分をやはり刃物で切断している場合がある。これは書状や文書作成の上での丁寧さの徴証になるということができる(なお右の畠山政長書状の場合には封帯は一巻きしたのみで、二重に挟み込んだ上で、余分を三、八糎も切っていることがわかる)。そして逆に、書状開披の際に封帯を丁寧に外した場合と、ちぎり取った場合を区別することができる。これも書状開披の際の丁寧さの徴証になるということができる。また立紙の封紙による書状のくるみ方についても問題であるが、書状は丸く巻いてから軽くつぶし折るため折巾不定であるから、封紙で巻いた時に、ウハ書きの左側に余分の紙がでることがあり、これも刃物で切断する(右の畠山政長書状の場合には約一糎を切断している)。このために、本紙・裏紙と封紙が同一の料紙でありながら、封紙のみが一方の法量が短いことがあるものと考えることができる。同じような問題としては、切紙書状の本紙と封紙を一紙からどう切り取っていたかという問題がある。これについても料紙の簀目・繊維状態を勘案して、復元できる場合があり、これによって切紙本紙と封紙の対応関係を確認できることになるが、これはあまりに細かな問題となるので省略する。
 重要なのは、料紙が何らかの事情で切断され、本来の文字の配列が不明になっている場合である。これは事例として多いと思うが、写真7に掲げたのは東大寺文書(人文科学研究科所蔵)の事例であるが、これは料紙の刷毛目の連続状態、繊維ムラの状態によって正確に復元できる事例として記録するに値すると思われる(高島晶彦「東京大学文学部所蔵『東大寺文書』の修理と記録」二〇〇八年一一月東アジア文書料紙日韓共同研究集会報告)。
(3)被装?史料の細部認識
 一般に透過光写真は、磨抹、継・切・貼などの料紙への加工を記録したり、また裏書きや裏花押の位置を一目瞭然とするほか、その他さまざまな料紙の物理状態の観察・記録の上で重要な役割をもっている。とくに装?・裏打ちされた史料、そのうちでも軸に仕立てられた史料などは調査・撮影に透過光は不可欠である。
(イ)被装?史料の料紙の細部状態認識
 料紙の状態は裏打・装?すると、とくに折伏を入れてある場合などは不明になってしまう場合がある。証拠性を考えれば、たとえば紙継目、磨消、虫食の形態などは透過光写真による記録が望ましい。写真8は南浦紹明の軸物の継目部分であるが(『真珠庵文書』一〇八〇号)、肉眼によっても、カラー写真によっても明瞭にはみえない紙継目が透過光写真によって確認可能なことを示している。
(ロ)裏面墨痕(裏花押など)の観察・記録
 編纂のためにもっとも普通なのは、裏打ちされた文書の端裏書や裏花押が読みにくくなっている時に透過光で観察・撮影することであるが、その場合、とくに墨痕を明瞭に拾ってくれる赤外線による透過光写真が有効である。たとえば写真9は、『大徳寺文書』一二三・一二四に残る紙継目裏花押の赤外線透過光写真を反転したもので、どうにか花押の形を推測することができる。この花押は『大徳寺文書一』(一九四三年刊行)では一二三号文書按文に「この文書、紙継目裏毎に花押あり」、一二四号文書按文には「この文書、紙継目裏毎に前第一二三号文書と同じき花押あり」として、存在を注記するだけで記主を充てていない。しかし、すでに『大徳寺文書目録』(禅宗史科研報告書付録。なお、禅宗史科研の調査結果が大徳寺文書の重要文化財指定と協力して行われたため、この目録は同文書の重要文化財指定目録と同内容である)に記したように、これらの裏花押は大徳寺第六世住持蒋山仁禎の花押であると考えられる。
 現状、一二三号文書の後に一二四号文書が継がれて装?され、軸子となっているが、以下、その装?の様子を復元してみる。すなわち、まず一二三号文書大徳寺寺務定文は定文でありながら、事書もなく、急に「一、修正五ヶ日ーー云々」と始まる前欠文書であり、全五紙よりなるが、冒頭の一紙は墨付がなく、第二紙との継目には継目裏花押はない。しかもその継目は、刃物の痕を残す食いさきによる接続という継目でありながら、第一紙目の紙質は第二紙目以降と同じである(右目録に既記載)。このような不自然な継ぎ方は、料紙の横幅より推定すると、一二三号文書の現状第五紙を途中で切断し、冒頭にもってきて接続したために発生したものと思われる。これは装?時に行われたものと思われるが、その理由はまずは前欠部分の痛みがひどかったために、そこを除去し、料紙末尾部分を前にまわしたということであろう(もちろん、この文書の保存状態が良好であることを重視すれば、前欠部分には何らかの内容上の問題があって除去されたと考えることもできるが、それはとらない)。
 こうしてこの文書の外見の不自然な点は、装?時の事情によるものであったことがわかるのであるが、この文書の装?時には、さらに料紙の相剥が行われたようである。それは明治期頃までの装?に際しては一般に行われることで異とするに足りないが、この一二三号文書の料紙が、写真帳(史料編纂所架蔵6171.62/195/2)でみてもわかるように簀目の強い強紙(「強杉原」)であることからして、軸装の裏打紙と本紙のなじみをとるためにも相剥が施されたのであろう。そのため一二三号文書に残る三箇の紙継目裏花押は、頭部を若干残すのみとなっていて、とても記主を特定できるようなものではなくなったのである。
 これは一二四号文書も同様であり、この文書では、端裏書までも相剥によって「□□□□」(文字数も不明)となって判読できなくなっている。しかし、ただその第一紙と第二紙の間の継目裏花押のみが、上記のように、花押の右側の末尾部分をかろうじて残しているのが透過光観察と赤外線透過光撮影によって確定できた。そして、これは一二三号文書に「前住」として登場して、「現住道均」の前に連署している蒋山仁禎の花押と推定されるのである。ただ、一二三号文書は仁禎も道均も法諱の下字を自署するのみなので、ここでは一二四号文書の末尾に据えられた仁禎の花押(写真10)を掲げた。両者がほぼ一致しうることを確認されたい。
(付)赤外線透過光属
 なお、赤外線透過光写真についてふれた関係で、さらに赤外線撮影が有効であった例として文書箱の撮影の事例をあげておきたい。大徳寺文書の文書は近代における文書整理の際の朱墨による注記や江戸期にさかのぼる貼紙などの層の下に箱に直接に書かれた墨書があるが、そのうち、乙箱、丙箱、丁一箱、戊箱は江戸期より前にさかのぼるもので、丙箱は元亀二年、戊箱には天文十一年の年紀がある。そして、年紀のない乙箱と丁一箱はむしろ室町期にさかのぼるのではないかと推定している。乙箱については赤外線写真に写真室の画像操作によって箱蓋上部にかすかに「大」の字を確認した(これはカラー写真でないとみえないため、掲載を省略した)。また箱身長辺の墨書は貼紙によって二字目が隠されているが、同じく赤外線写真によって「大用」と読むことができた(写真11)。丁一箱は箱蓋に「養徳院支證箱」あり、箱身の短辺の文字は摩耗が激しく肉眼では読めないが、赤外線写真によって「養徳院/散在證文」と読むことができた(対照のため、右に通常光写真12と赤外線写真13を並置してある。)養徳院の山城国散在所領の支證文書の量は相当にのぼり、その訴訟の様子を示す室町幕府奉行人奉書も伝わっているから、丁一箱はそれに対応するものであると考えることができる。別稿でもふれたように、文書箱が法衣箱とともに曝涼されることによって文書管理が行われていることが大徳寺文書、真珠庵文書からわかるのは興味深い問題である(保立「大徳寺の重書箱の調査と若干の考察‐箱撮影における赤外線写真の有効性にふれて」禅宗史科研報告書、二〇〇五年、同「大徳寺文書と法衣箱・重書箱」『紫野』第27号、二〇〇五年)。なお、この重書箱は重要文化財に指定されており、その目録は指定目録にあるが、上記科研グループと重要文化財指定事業の間で協力が行われたため、指定目録と同一の内容が報告書の付録『大徳寺文書目録』として刊行されている)。赤外線写真による観察と撮影なしには、そのような研究はなしえなかった。なお、木箱の年代推定は、本来は年輪学の支援を求めるべきであるが、これは時間切れに終わった。

第三章紙の同定と分類‐‐大分類と史料表記
 編纂作業において、ある史料料紙と別の史料料紙が同じ料紙束からでたものかどうかを判断することは日常的に行われている。「この文書、料紙紙質等よりみるにもと第何号文書と接続せしものなるべし」などという編纂者の按文は、そのような作業過程を示している。とくに本紙・裏紙・礼紙・封紙などが分離してしまった場合、料紙が部分的に切断されてしまっている場合などにおいては、これは必須の作業となる。作業は多くの場合は経験的に行われており、それでほとんど大過ないが、客観的な同定方法を蓄積すべきことは明かである。そしてその場合に当面急ぐべきことの一つは、製紙科学的な料紙の成分・製法分析とそれによる料紙分類と標準的な記録であろう。
 このような考え方にもとづいて、本稿の執筆者が参加した前記の和紙科研において、法量・重量・厚さ・密度・光沢度・白色度・簀目数・糸目幅・表裏配向性差などの機器計測と検鏡による調査を中心に、楮紙の大分類についての試論を組み立ててきた。その試論は、(イ)繭紙(純繊維紙)、(ロ)黄茶紙(柔細胞紙)、(ハ)糊紙(澱粉紙)の三大分類である。この試論は製紙科学的な成分分析にもとづくものであって、その意味では、その本質は、むしろ括弧内の「純繊維紙・柔細胞紙・澱粉紙」という部分に現れている。ただ、これではあまりに実感から離れることを勘案して、「繭紙・黄茶紙・糊紙」という用語を最初に掲げてある。この分類は料紙研究の先駆者の御一人である上島有氏の料紙分類との重なりや相違があるが、その趣旨は、これによって紙を物理的・客観的に分析する視点を確認するという点にあることを了解願いたい。今後の協同研究の蓄積のためにも、まずはこのような製紙科学的な分類とその基準なしには情報の交換と蓄積それ自身が不可能であろうと考えるものである。
 ただこの大分類は製紙材料の成分分析による抽象的な分類であって、現実には、複数の成分を有し、中間的な特徴を示す多様な料紙が無限に存在しており、大分類のみで客観的な結論をだすことは本質的に不可能である。湯山賢一がいうように、根本的な問題は「歴史記録上に見える紙の名称と現存する遺品との関係を、どのように合理的に説明するか」にある(「和紙にみる日本の文化」『文化財学の課題 和紙文化の継承』二〇〇六年、勉誠出版)。実際上は、料紙の物理的分別を行うためにも、物理分析と検鏡の詳細化による類別と同時に、料紙の歴史名称や文書の様式・「格」を切り口として類別を考えていく必要がある。それによってこそ、より具体的な料紙の分類と、それに対応する材料の調整や製法が明らかにしうるのである。
 物理的な料紙分類と歴史名称による分類を明らかにすることは両方とも必要であり、かつ同時に追求されなければならないとはいっても、歴史学的な和紙研究は製紙科学の研究ではない以上、その最終的目標が、和紙の史料名称に対応する現物を確定し、さらにそれを必須の条件として、発給者ごとに特徴的な料紙を推定し、また料紙の生産の時代と産地を明らかにすることにあることはいうまでもない。その意味では、物理分類を主眼とした私たちのプロジェクトにとって幸いであったのは、このような歴史学本来の研究課題を正面に掲げた富田正弘氏を代表とする科研プロジェクトが、先行して走っていたことであった。もちろん、物理分類は同グループの課題でもあったから、私たちは、そのために同グループに参加されていた大川昭典氏(当時高知県立紙産業技術センター技術部長)の教示をえて出発することもできたことも付言しておきたい。
 なお、富田正弘氏を代表とするプロジェクトは、『古文書料紙原本にみる材質の地域的特質・時代的変遷に関する基礎的研究』(総合研究A、一九九二~一九九四年度)と、『紙素材文化財(文書・典籍・聖教・絵図)の年代推定に関する基礎的研究』(基盤研究A、二〇〇三~二〇〇五年度)の二回にわたって取り組まれている。本稿では、おのおのを富田科研1・2と表記している。
 こういう中で、ここ一〇年ほどの間に大きく進展した料紙分類論の到達点をわかりやすくまとめた論文としては、富田「紙素材文化財の料紙判定法について」、および林譲「古文書料紙の使用法覚書(一)‐御判御教書と御内書」(両者とも富田科研2報告書)がある。本稿は、直接にはこの二つの論文に依拠する点が多いが、ただし、論争の状況が示すように、本格的な議論は、まだ出発点にあり、次に述べることも、実際には、あくまでも経過的な報告にとどまるものであることを御断りしておきたい。
 ともかくも、これらの分析情報は膨大・複雑となることが明かで、しかも原本分析の機会は限られているから、本来は、上記の法量・重量・厚さ・密度・光沢度・白色度・簀目数・糸目幅・表裏配向性差などの数値と検鏡調査などの多様な調査項目についてはできる限り標準化し、しかも公開的な環境の中に集中的に蓄積することが必要である。また十分な議論をふまえ、それらをマトリクスとして料紙を分析・類別する情報システムを構築することがのぞましい。それによって小分類毎に、各基本物性値を確定し、繊維写真についても典型画像を提供することができればさまざまなことがわかってくるに違いない。本稿の論点は、あくまでも、そのような議論のたたき台を作るために、歴史学・製紙科学・文化財保存科学相互でどのような議論を進めてきたかの報告にある。
 なお、本稿のもう一つの限界は、おもな対象が大徳寺文書であることである。これは大徳寺文書が重要文化財級の古文書群としては相対的にウブな状態であること、しかも、池田寿「大徳寺文書にみえる料紙とその利用」(禅宗史科研報告書、二〇〇五年)が示しているように、大徳寺文書には、料紙の史料名称について相対的に豊富な言及があることなどの利点をあたえるが、他方、どうしても、南北朝期から室町時代の料紙の分析が中心になる。また採取すべきデータも機器・技術の選択と利用方法の開発からはじめたことがあって、不十分なものに終わっている。そのため、現在、フルにデータを採取してあるのは右に掲げた図1の四八点の南北朝期から室町時代の料紙になっているのである。今後、このような限界が協同的な研究のなかで突破され、史料論の精密化のために有益な結果をもたらすことを願ってやまない。
(1)繭紙(純繊維紙)
 繭紙(純繊維紙)とは、ほぼ完全に洗浄・漂白した楮繊維からなる紙をいう。不純物・填料などがみえず、白色度・光沢度がきわめて高い。中国における最上級の用紙が絹であったこともあって、池田温「前近代東亜における紙の国際流通」(『東アジアの文化交流史』、吉川弘文館、2002)がいうように朝鮮の上質の紙は古くから「繭紙」と呼ばれたが、その技術をうけた日本でも『新唐書』日本伝に「使者真人興能献方物。興能善書、其紙似繭而沢」(七八〇年(建中元))とあるように繭紙というイメージはあったものと思われる。繭紙という名称は、白さと光沢、あるいはとくに上製の厚手のものの表面にあたかも繭皺のような細かな美しいシワがあるためであろう。中巌円月(一三〇〇~七五)の『東海一?集』には「金華王善甫善書、嘗用日本繭紙、為書□□□□□琳荊山収之、与予観之、且曰、此紙仙里之出也。退之之文、善甫之書、而紙亦遠来、可珍、是三絶也。予曰、物以遠見貴、人以遠見卑、荊山然之。繭紙日本謂之引合」とある。ここでは繭紙という言葉は中国風のものとされているようでもあるが、『碧山日録』(一四六二年(寛正三)一月二日)条に「濃関剃刀一柄・繭紙一束」とあることからすると普通名詞としても使われたと考えられる(美濃の一関とは鍛冶で有名な美濃の一関であろうが、書きぶりからすると、この剃刀も文具であり、繭紙も美濃産のように思える)。中巌円月の指摘で重要なのは、繭紙を「引合」といったということで、引合の語義は不詳であるが、少なくともそのころ、最上級の紙が「引合」と呼ばれた可能性は高いと思われる。
(イ)引合(檀紙)
 上製は簀目が細く、不純物はまったくない訳ではないが少なく、全紙を透過光観察すると独特のムラのような陰影があり、厚さは〇.二ミリほど、密度は〇.五五以上ある見事な紙である。王家文書や足利将軍御内書などの最上級の用途に供されるのが一般と考えられる。例として、写真1妙法院宮尊澄法親王請文(一六八号、[元徳元年]十一月七日)と写真2信濃伴野庄并下総葛西御厨相承次第(六四九号文書、年月日未詳)ついて紹介すると、写真3は前者の尊澄法親王請文の透過光による顕微鏡観察であるが、不純物がない美しい繊維の状態を知ることができる。この繊維写真が網目状の状態を示すのは引合の特徴で、それはこの種の料紙が溜漉の傾向をもち、捨水にともなう繊維配向性の一方向への揃いが低いことを示している。また注目されるのは、この場合、前者については書記面の繊維配向強度が一.一七、裏(非書記面)の配向強度が一.〇六であって、後者についてはおのおの一.〇九と一.一一というように書記面と非書記面の配向性が逆転していることである。繭紙全体についての調査が必要であるが、おそらく溜漉き風の製法を取っているのであろうか。そのため、引合の繊維配向性は表裏で大きく違わず、また一枚使用も多いのであろうか、筆記にあたって表裏の区別にこだわらないものと思われる。なお、また前者の一六八号は若干固い触感をもつが、これは打紙加工のためと思われ、写真3で繊維が平らになり折れもある様子がみえるのはその証拠である。純粋繊維紙というと、ある意味で素朴な感じであるが、この紙は見事であるだけに人工的に技術の粋を尽くしている可能性があると思う。詳細な観察や復元製紙を積み重ねる必要があるだろう。
 なお、ここで料紙名称をかりに「引合(檀紙)」としたのは、富田正弘が『言継卿記』(大永七(一五二七)年8月20日)や『大館常興日記』(天文一〇年(一五四一)八月朔日)に、檀紙のうちに引合とされるものがあることを示したことによっており、次ぎに述べるような引合(薄)などとはことなって、この引合が厚く大きい紙であることを示したものである。
 また、足利将軍御内書については大徳寺と幕府の関係もあって前期の引合を使用した典型的なものは存在しないが、後期になると、足利義晴御内書、足利義輝御内書の二通が確認される。ただし、これらは引合(檀紙)をつかった典型的な御内書ではないことは後に述べる。
(ロ)引合(薄)
 さらに、厚手上製の引合よりも薄いが、書状用紙としてはむしろ高級感の高い繭紙がある。いわゆる和歌懐紙用の上質の料紙はおそらくこれにあたるものであろう。写真4・5に花山院覚円(兼信)寄進状(三六六号、延文五年四月一三日)の透過光写真と繊維写真を掲げたが、透過光で観察される料紙全体のムラの感じや繊維写真が引合(檀紙)と相似していることがわかる。そして光沢度が四、六と高く、表裏配向性にほとんど差がなく、板目・簀目が不可視であることも(刷毛目は非書記面に微)同じである。厚さは〇.一九ミリと引合(檀紙)より薄いが、密度は〇.四六。引合(檀紙)には〇.一ほど劣るものの他と比べればきわめて高い。これはほかに一三七四号、一八一七号、二九三四号、二九四一号などでもほぼ同様である。
 なお、若干品質が落ち、この引合(薄)には入らないが、繭皺があり、澱粉がなく、それに類する引合(並)というべき紙の種類を設定する必要もあるかもしれない。たとえば「さうしゃう(北畠親子)敷地寄進状」(一四三一号)は文書名を訂正した関係で重点的に調査したものであるが、写真6・7はその透過光写真と繊維写真で、白色度はやや落ちるが、密度は三.五あり、紙の感じは上品で繭皺があることを確認した。
(ハ)引合(簀肌)
 問題は、戦国期に近くなると、「引合」という用語の意味に若干の変化が生じていることである。たとえば写真8後柏原天皇女房奉書(五三五号)の料紙のような、(1)不純物があり、(2)白さ・光沢で劣り、(3)密度は〇.三前後と本来の引合より格段に小さく、表面に(しぼのような)簀肌を残す文書の料紙が、その同時代案文の奥書で「料紙引合二枚、表書ニハ如常也」(真珠庵九一四(1))とされているのが、その証拠である。女房奉書には、このような料紙の利用は多いが、これは料紙のムラや繭皺などの点で繭紙的な料紙であり、製紙直後はその名にふさわしく白かったに違いないが、不純物も多く、上記の本来の引合とは相当に異なる紙である。
 なお寛正三年(一四六二)八月の「御成方算用状」(『東寺百合文書』タ167)には、高檀紙・椙原・引合・厚紙・奈良紙などの価格を伝える一節があるが、それによれば、引合一束は五百文、高檀紙一束は一貫八〇〇文であるというのも安手の引合の存在を示すといってよい。
 真珠庵紹岱(北海)祠堂銭取次状(二一九号)、大清軒宗球(天啄)田地寄進状(一七九八号)などの例からすると、これらが寺院でも公的な文書には使用されたことがわかる。ここでは省略するが、公帖の料紙もこれに近い。写真9・10に、同じような料紙を使用した徳禅寺納所敷地銭請状(真珠庵文書九六二号)の透過光写真と繊維写真を掲げた。繊維写真をみると、おそらく後に述べる柔細胞などの非繊維物質が引合(檀紙)(薄)よりも多いが、それを除けばムラの感じもふくめて全体として相似した画像をみることができる。
 問題はこのような料紙が武家においても使用されていることで、写真11の足利義輝御内書(二九三号)も、それに類する紙である。本紙・裏紙のセットで、紙色は白いものの、厚さも〇.一八ミリ、密度は若干高く〇.三七ほど、簀目や簀肌が目立ち、刷毛目もあって樹皮片が入っているというものである。また注意しておきたいのが、佐々木六角氏関係の文書に(二四八、二四九、二五七、二五八号など)に、この料紙がしばしば見られることで、とくに写真12の二五八号の禁制(写真13は同繊維写真)は奉行人花押の記主を特定できなかったが、伝存状況と筆跡、そして料紙の類似から奉者を佐々木定頼奉行人として重要文化財指定時の目録で文書名をあらためたものである。これは料紙分類が発給者の読解の条件となった好例であり、発給者毎に特徴的な紙を特定していくという作業の必要性を示す。
なお佐々木定頼による、このような料紙の採用はあるいは定頼の幕府・公家権力との独特の関係を表示するものかもしれない。もとより現在の段階では推測にすぎないが、武家による引合(簀肌)の料紙の利用は後期室町幕府関係文書における料紙の諸形態の点検という問題につらなってくる。そして、これは信長文書と秀吉文書への変化にも関わってくる。つまり、信長文書にも、このような引合(簀肌)がみられるが、とくに秀吉文書の大巾化と料紙選択は江戸期への文書体系全体の変容の理解に直結する。この秀吉朱印状の料紙から江戸期のいわゆる「大高檀紙」にいたる系譜については、今後、本格的に検討が進むことが予想されるが、その意味でも引合(簀肌)という料紙の検討が必要と思えるのである。
もちろん、秀吉朱印状の料紙の一つの源泉がすぐにふれる室町幕府の公文書で利用された「強杉原」にあることは、湯山賢一が述べる通りで、湯山は秀吉朱印状の料紙を「室町将軍権力の継承者たる立場を意識して用いた強杉原の発展した形」としている(「和紙にみる日本の文化」(『文化財学の課題』、二〇〇六年)。しかし、その上で、さらに注意すべきなのが、この引合(簀肌)と秀吉朱印状の料紙との類似ではないだろうか。
これを正確に議論する上では、料紙の巨大化にともなう製紙技術の調整の詳細の調査や、信長・秀吉の朱印状のうち、とくに薄手の柔らかいものの精査が必要であろうが、この共通性は両者の共通した紙質に原因する可能性があるように思える。とくに女房奉書の簀目の強いものに、写真14の後柏原天皇女房奉書(五三五号、裏紙を掲げた)、三条殿消息(七九八号)など、微妙に上端の角が引っ張られて尖った感じのものがあるのが注意される。これは原物でみると写真よりも目立つもので、仮にこれを「角張り」ということとするが、干板上での乾燥時に料紙の自重と収縮によって生じたものと思われる。そして、この角張りは信長朱印状や秀吉朱印状でもより明瞭に観測することができるのである。女房奉書にはつねに角張りがあるという訳ではないが、秀吉朱印状の場合の角張りはより意識的なもので、干板に張る時にやや中をたるませて、角を張り、それによって乾燥による平滑化とともに簀肌のシボの風合いが残る結果をもたらしたものであろう(なお、この突起を「吊り干し」によって生じたという議論もあったが十分な根拠はないようである)。ここからは、秀吉の文書料紙に公家系の料紙使用の影響もあったという推定も可能となるのではないだろうか。
(2)黄茶紙(柔細胞紙)
 次に黄茶紙(柔細胞紙)とは楮茎内から分離した非繊維物質を相当量含んだまま抄紙された紙をいう。基本的に澱粉をふくまない。黄茶というのは、これらの非繊維物質によって簀目や料紙の色合いが黄茶色を帯びるためである。
ただ、これまで紙の研究者の間では非繊維物質は非繊維物質として一括して話題になるだけで、それが製紙過程でどのように処理され、とくにどのような種類の非繊維物質が、どのように紙質に関わっていくかは不明なところが多かった。これをどう考えるかの議論が二〇〇九年一二月、和紙科研主催の「美濃紙検討会」で議論が行われ、それをうけて、史料編纂所の2011年度一般共同研究「中世古文書に使用された料紙の顕微鏡画像のデータベース化と非繊維含有物の分析」(代表江前敏晴)において、この非繊維物質のうちでも、柔細胞の位置が大きいことが、製紙科学的な立場からもほぼ確定されたのである。
この細胞は本来、貯蔵細胞で、繊維中にも、写真15のような長円形の虫糞のような柔細胞が見えることがある。黄茶紙は、この柔細胞を中心とした非繊維物質を意識的に残すために、いわゆる紙出しの工程(叩解した繊維を竹笊などに入れて流水で洗う)を省略しているものと考えられる。ただ、同じ黄茶紙でも、紙が固い強紙系は、余り紙打ちをせず、強い繊維がそのまま残されるものと考えられる。写真16は足利義政安堵御判御教書(三〇五八号)の透過光繊維写真であるが、あまり叩解されていない繊維の固さをみることができる。
 これに対して、美濃紙系の黄茶紙は、紙打ちを入念に行うなどの作業によって、前記の鞘状物の中に入った柔細胞が鞘のようなものもふくめて破裂し、膜状物を生成する製法が取られているものと考えられる。「美濃」という呼称は富田がいうように南北朝時代の『師守記』にはじめて登場するが(富田「紙素材文化財の料紙判定法について」富田科研2報告書)、のちに述べるように、その時代の美濃紙と考えてよい美濃薄白を確認している。ここでは、製紙実験・復元紙作成の実験を依頼した美濃加茂市の長谷川和紙工房における記録を紹介するが、楮繊維を写真17のように伸し餅状にまとめて何度も紙打ちし、写真18のように薄く延ばす工程を何度も繰り返す。この過程で柔細胞の膜状化が進むのである。そして写真19は、市販の美濃紙を王子製紙株式会社・研究開発本部、東雲研究センターのご協力により顕微撮影したものであるが、きれいな透明の薄膜が繊維間に張っているのをみることができる。この膜の実態は、偏光下では暗く見えたことから、結晶構造をもち偏光によって光るセルロースではなく、柔細胞が破裂して流出したデンプン及びヘミセルロースであると考えられる。
 なお、この膜の様子によってはやや不整形の透明の粒子状のものを観察することができるが、これを次にふれる填料として加えられた米澱粉粒と区別することは紙の物理分類において決定的な意味をもっている。その要点は、一応、(1)この柔細胞由来の小粒子は、一粒一粒の分離が米澱粉ほど明瞭でなく、また小さい、(2)米澱粉粒子はしばしば輝き透明であるが、この柔細胞由来の粒子は輝度・透明度は落ちる、(3)柔細胞由来の粒子は膜状物と同時に観察されるが、米澱粉粒子は膜状にみえることはないなどである。なお携帯型顕微鏡を使用した柔細胞の検鏡にあたっては、十分に輝度の高いLEDライトを直接に料紙の裏面にあてて光線を透過させることが必要である(10センチ離しても見えなくなる。二〇〇〇ルックス以上、紫外線カット)。歴史学関係で、一般に使用されてきた写真フィルム観察用の透過光パネルでは光度が不足して、上記の区別はむずかしい場合があり、曖昧に「膜状」のものがみえることはあるが、「膜」と粒子状のものの関係までみえることはないことに注意しておきたい。
(イ)強杉原
 黄茶紙の最上の紙である。写真20に足利義満御判御教書(三〇五八号)を掲げた(繊維写真は16に既載)。簀に太い萱簀を使用し(一寸当たり簀目一二本)、簀目が黄茶色で目立つ。澱粉をふくまず、厚さも〇.三八、密度も〇.二八ある強紙である。前述のように繊維の叩解度も低いために荒々しい感じの紙となっている。その堅さによって儀式的な場でも立てて持つことができるために、文書に公的な性格を付与するのに適当であったのではないかと考えられる(保立道久「絵巻に描かれた文書」『絵巻に中世を読む』吉川弘文館、一九九五年)。このような料紙を強杉原と呼んでいることは上島有氏が明らかにしたところで、氏は『東寺百合文書』ソ函二二九号に「強杉原」と料紙指定された文書が同函一六九・一七〇号にあり、それが右にいうような特徴をもっていることを示した。強杉原という言葉の所見は、現在のところ、『東寺文書一三』(た函一九)永和三年(一三七七)の宝荘厳院方評定引付に「宝荘厳院敷地指図事<強杉原四枚続之、指図写之>」とあるものである。中国に輸出された日本産の紙に「松皮紙」と呼ばれるものがあるというが、この紙はその語感にあうようにも思われる。
 安堵に関わる室町将軍家の御判御教書の料紙を典型とし、本坊文書では義詮(一九二号)、義満(一九四号・一九五号・三〇五八号)、義政(二〇四号)などが確認される。一般的な御教書よりも特に安堵関係の権利付与の御教書への利用が中心であるようである。これらは縦半外折となっている。もちろん、三〇八一号の土岐満貞寄進状のような文書にも使用されており、またすでにふれた大徳寺寺務定文(一二三号)のように寺家・公家でも公的あるいは証文的な文書にはしばしば使用される。
(ロ)美濃(薄白)
 成分は黄茶紙でありながら、品質がよく、薄さと白さにおいて引合(薄)に相似した感じをあたえる紙である。富田は応仁の乱の後に美濃薄白という和紙史料名称が登場することに注目しているが(富田「紙素材文化財の料紙判定法について」富田科研2報告書)、それに対応するものであろう。ここでは典型的な事例として、写真21、東京大学文学部所蔵東大寺文書(1括3号7番)の貞和三年の源義用茜部庄名田売券をあげる(簀目・糸目がみえず、厚さ〇.一二、密度〇.二九、白色度六〇.一七)。白色度が高く、写真22のように繊維間に柔細胞膜を確認することができる。茜部庄が美濃に属することからみて、これは和紙特産地の美濃において生産された良質な紙であると考えられる。美濃の和紙産地としての発展が、いつ頃からどのように始まったものかはわからないが、これだけの紙を作成できるということは、この段階を相当さかのぼる時点で、紙産地としての発展を遂げていることは明らかである。
(ハ)美濃(並) 
 一般的な美濃紙であって、厚さ〇.一前後、黄色がかった紙色、薄手のパリパリ感があり、簀目は細かく顕著で、上製のものは、簀のひごが細く、寸あたり20本以上、しかも糸目の幅が一般に広く、3.5~5センチにもなるのが特徴である。写真23に掲げた伊勢田年貢米算用状(一五九六号)は簀目本数が一四本と少ないが、糸目は四八ミリと大きく、厚さは〇.〇八、密度は〇.二三となっている。写真24はこの美濃紙の繊維写真であるが)柔細胞膜をもつ典型的な美濃紙である(なお、ここで美濃紙というのも美濃産地の美濃紙ということではない符丁であることを了解されたい)。なお、あくまでも経過的な観察であるが、配向角度絶対値を計算してみると、柔細胞紙=美濃では簀面を前後左右によく振り、それに対して捨液面は相対的に振りがよわく、また配向性強度について検討してみると、簀面・液面でほとんど変わらないようである。これは杉原系と比較してみた結果であるが、残念ながらあくまでも経過的な観察であって、確証は提示しえない。このような問題をふくめて、より細かな検討が必要であると考えている。
 これ以外にも美濃についてはやや厚い上製のものが帳面用に使われている例があるが、大徳寺本坊文書の中には適当な例が存在しない。事例からすると、美濃が濡れと虫食いに強いという評価はある程度早くから存在したのではないかと思われるが、これも今後の検討にゆだねたい。
(3)糊紙
 糊紙とは填料として米糊を使用した紙をいう。米澱粉は、滲み止め、白色度の上昇、柔らかな紙質などの効果があり、高級感をあたえることができる。非繊維物質は少なく、簀目はやや白くなる。写真25が紙繊維中に存在する米糊の澱粉の画像である(江前敏晴研究室撮影)。これを視認するには、透過光による顕微鏡観察が必要で、(1)繊維にカエルの卵が付着したような様子でみえる。(2)一つ一つをみると、繊維の細さの3分1から5分1くらいの、丸い独立した透明な球にみえる。(3)繊維から遊離して存在する場合もあるが、その場合も独立した丸い球にみえるなどの特徴をもち、慣れれば判別は可能である(なお、いうまでもないことながら、顕微鏡内部の画像は、普通の携帯用顕微鏡では一人でみるほかなく、共通したディスプレイで画像の確認ができない。そのため最初は、精細なディスプレイに投影した顕微鏡画像について視認方法を説明してもらう必要がある。禅宗史科研においては、二〇〇四年一一月二四日、史料編纂所において富田科研と料紙の合同調査を行い、写真室が設定して大画面に投影された顕微鏡画像によって大川昭典氏(当時高知県立紙産業技術センター技術部長)の教示を受け、澱粉画像についての紙の研究者の認識(「眼」)を一致させることができた)。
 澱粉紙の分析においては、さらに、料紙に含有されている澱粉量を推定することが必要となる。楮の乾燥重量に対して一定%の重量の米粉を入れたサンプル和紙を用意し、それとの対比で、調査対象紙に含有されるだいたいの澱粉量を推定するのが簡便である。澱粉量については、一応、多を40%以上、中を20%、微を10%、無を0として調書記録に記入したが、この基準は実際上の必要がどの程度のものであるかを勘案しながら、さらに検討する必要があろう(このサンプル和紙については、大川氏の提供をうけた)。
 なお、糊紙においては、漉返の繊維が入っていることが多いが、漉返繊維が入っているかどうかを客観的に判断する基準としては、検鏡によって、写真26(本坊文書二一二一号、長福寺宗守等連署書状、室町杉原)のような反故として再生された料紙の筆跡部分の繊維を確認するのがもっとも確実な方法である。これによって漉返繊維を含む料紙を確定した上で、(紙の風合やムラなど)検鏡以外の客観的な方法があるかどうかを検討すべきであろう。いわゆる再生紙や、反故紙のリサイクル率がどの程度であるかということは紙の生産と消費の研究において重要な課題である。
 このような糊紙がいつどのように生まれたかは現在のところ不明である。もちろん、和紙への澱粉の添加は古いと考えられるが、前記のように澱粉と柔細胞粒子の区別をした上での体系的調査はまだ存在しないように思われる。そして、米澱粉の精製には石臼を使用しているとすると、米糊を大量に入れた料紙は鎌倉中期以降に発生するのではないだろうか。これはあくまでも試論に過ぎないが、粉体加工(および醸造技術)の発展は南北朝期から江戸期にかけての生産諸力の発展の重要な特徴である。あるいは、それが「杉原」に澱粉紙という意味をあたえ、和紙の料紙種類と体系を変更するような結果をもたらしたのかもしれない。ただし問題は、紙研究者は「杉原」を澱粉紙の意味で使うが、その文献的な証拠は、江戸時代の例しかないことである。「引合」「強杉原」などについては若干であれ、和紙史料名称と現物を対応させるにたる文献があるのとくらべ、これが糊紙の研究における大きな問題である。
 ここでは、そのような留保を確認した上で、当面の符丁として「杉原」を糊紙という意味で使用することとする。なお、すぐに述べるように、本稿は、糊紙の中から、江戸時代の越前奉書が生まれてきたという判断をもっており、その意味で「奉書」という言葉を使用することも可能であると考えるが、富田正弘がいうように、室町以前の紙について「奉書紙」という用語はふさわしくない(「古代中世における文書料紙の変遷」(富田科研1報告書)。
(イ)杉原(檀紙)
 白く多量の澱粉をふくみ、極厚で、ほとんど折ることができず、丸い細筒状になって遺存している文書はほとんど、ここに属するといってよい。早く上島有氏は、このような紙を「第Ⅱ類」と称している。このグルーピングは経験や触感によるものであったが、それだけに先駆的な意味をもっていたといえる。本坊文書のうちで典型例は写真27光厳上皇院宣(一七二号)である(他に一七一号、三二〇号があるが、典型は一七二号である)。光沢度は低く、簀目数は一一本、厚さは〇.三二ミリ、密度は〇.三三。写真28に示したように封紙とともに丸い細筒状で存在する。透過光写真でみると強杉原と同じような画像となり、この文書でも樹皮片が入っているなど繊維の精製度は落ちるが、顕微写真29でもわかるように若干の不純物のほか、多量の澱粉が入っており、柔らかな触感からいっても強杉原ということはできない。いわば強杉原に澱粉が大量に入れられているという印象であって、正確には同質の料紙の復元実験が必要であろう。あるいは、澱粉を多量に入れてこれだけの厚紙を作ることになると、強杉原の製法をとって澱粉を添加するという方式になるのであろうか。
 このような料紙について、右に述べた意味での杉原という符丁を付与し、さらに(檀紙)としてみた。ここで檀紙という用語を採用したのも、あくまでも符丁と理解されたいが、檀紙の本来の意味が「しろくきよげなるみちのくかみに」(『枕草子』一五〇・こころゆくもの)、「みちのくにかみにて、年経にければ黄ばみ、厚ごえたる五六枚」(『源氏物語』若菜上)という点、つまり、「白く」「厚肥えたる」というところにあることに留意して採用したものである。この類の料紙について、富田・林譲の論文(富田科研2報告書)は、これを「檀紙」としており、これにしたがったものである。なお、そこで富田が、この種の料紙の顕微透過光観察について「繊維と繊維の間にかなりの間隔が認められ、そこに多少の不定形に丸い不純物が若干見受けられる。また、小さく透明な丸い米の粉を確認することも少なくない」としているのは卓見であり、私たちも同じように観察した。富田のいうように「小さく透明な丸い米の粉」は澱粉であるが、「不定形に丸い不純物」とは多く柔細胞またはその破裂したものであろう。
 なお、ややふみこんで言えば、富田が述べたように、記録史料などにおいて「檀紙」は、 たとえば「御分、小袖三領〈納平裹、〉引合三十帖、人々中檀紙二百帖置之」(『実躬卿記』永仁三年一月一二日)、「引合百帖、厚紙五十帖進入、又檀紙少々置之」(『実躬卿記』正安四年二月二日)などと、引合につぐ紙質をもったものと扱われている(富田「古代中世における文書料紙の変遷‐文献にみる紙種の名称の変遷」富田科研1報告書)。問題はこの料紙と「繭紙=引合(檀紙)」はまったく製法が異なっていることで、それにも関わらず、それが両方とも「檀紙」であったということになると、「檀紙」とは要するに大きく厚く立派な紙をいう一般語であろうかということにもなる。このような問題に、ここで回答をすることはできないが、いずれにせよ、大徳寺文書(本坊)の中で、引合につぐ紙質の料紙を考えると、どうしてもこの料紙になるのである。
 今後の問題は、たとえば、図1で同種の杉原(檀紙)とした写真30新田義貞寄進状(一七一号)などの、丸くなるというところまではいかず、やや格落の紙をどう位置づけるか、さらに次項の杉原(上品)との相違をどうみるかという問題となるように思われる。
(ロ)糊紙(杉原上・厚)と糊紙(杉原上・薄)
 色が白く、厚さは〇.一五から〇.二ミリ前後、簀目は細かく糸目も目立ち、澱粉量の多い紙を、いちおう杉原(上品)と呼称しておきたい。樹皮片がふくまれる場合もあるが、人工的な雰囲気のする料紙である。典型的な用例は室町幕府奉行人奉書の竪紙のものであるといってよい。大徳寺本坊文書からは写真31室町幕府奉行人連署奉書(二二九号)を掲げる。厚さは〇.一七ミリ(これは他とくらべてやや薄い)、密度〇.二七ミリほどで、簀目一寸あたり二一本で糸目も目立ち、場合によっては澱粉の量が一〇〇パーセント近いのではないかと思えるような紙である。縦半外折。漉返繊維が確認されているのが注目される。なお池田寿前掲論文は、こういう紙を「吉杉原」「上品杉原」というのではないかとしており、「杉原(上品)」という符丁はそれにそって設定したものである。
 これに対して写真32の畠山政長書状(二〇六号)は、厚さ〇.一九ミリ、密度〇.二二、澱粉は右の幕府奉行人奉書ほどではなく六〇パーセントという所見がある。幕府奉行人奉書の紙とよく似るが、薄い分、白さが目立つように思われる。なおこの文書については封紙内面に封墨痕がある。また写真33沙弥善忠(土岐頼康)書状(七三四号、裏紙を掲げた。刊本に下添香忠書状とあるのは錯誤)は、さらに若干薄く、厚さ〇.一六、密度〇.二五で、書状用紙としてはより洗練された感じがするが、同一のものというべきであろう。杉原(上品)は漉き方によっては、引合(薄)のような高級な書状用紙の風合いをもつことがあるといってよいように思う。いずれにせよ、幕府奉行人奉書と守護文書がほぼ同質の紙であるのは興味深い。
 なお、右でふれた室町幕府奉行人奉書(竪紙)や守護の書状は、室町時代も後期のもので、人工的で整った感じをある。これは幕府・守護の文筆環境整備の反映であったといえるのではないだろうか。これに対して、図1の通番で5から13までは南北朝期の文書であるが、これについても糊紙(杉原上・厚)と糊紙(杉原上・薄)という分類が可能なようにみえる。ただ、杉原上(薄)とした御判御教書についても精製されていないという感じはあり、それがどのようにして室町後期の料紙の体系に変化していくかは、議論が必要なように思われる。
 なお、注目しておきたいのは、写真34の五四九号文書である。これはやや薄いため、(杉原上・厚)といいにくい部分はあるが、しかし、基本的に同一の製法によっており、その薄さより固く精緻に作られた紙であるためである。一見、江戸時代の越前奉書のような風合いを感じさせる料紙である。そのためもあってか、刊本では氏名未詳書状となっているが、「当公方御内書」という押紙があって、足利義晴御内書として問題のない文書である。顕微写真35のように澱粉を多量に含み、簀目数は二一本、糸目が明瞭で精緻に作られている点が越前奉書に相似している。厚さは〇.二だが、密度〇.三四と高く、光沢度も高いのが注目される。将軍家御内書は一般に引合が使用されているが、室町後期には、前述の引合(簀肌)のような紙とともに、特製の杉原(上品)が使われているのが注目される。またこの料紙は、杉原(上品)の中から、江戸時代の越前奉書紙が生み出されていったという推定を可能にする点でも貴重なものと考える。もしそうだとすれば室町幕府奉行人の使用する上質の書類用紙の系譜を引く料紙が江戸時代の役所おいても使用されたということになる。これは、室町幕府奉行人奉書の書体が、秀吉文書から江戸幕府文書につらなっていくことに対応する事態であるといってよいだろう。
(ハ)杉原(並)
 室町期の杉原には人工的な風合いで、しかもやや粗悪な感じをあたえるものが存在する。このきわめて薄く、漉返繊維も多い杉原を、禅宗史・和紙の両科研においては「室町杉原」などと称したが、ここでは一応「杉原(並)」という符丁をつけた。澱粉紙の全体像については、漉返・再生紙の問題にからみ、未詳のところが多いというのが現状であろう。時代的な変化をふくめて検討するべき点は多い。まず上記の奉書的な紙についての検討を先行させつつ、もっとも普通に使われる杉原の並製品について慎重な分析を行うべきであると考える。料紙の学術的分析においては良質の紙の分析はあくまでも入り口であって、料紙の使い方や折り方、封式などの問題をふくめて、最終的にはもっとも普通・大量に存在する紙の分析・分類こそが重要であることはいうまでもないが、本稿では検討の現状もあって省略することとする。
(4)雑紙について
 上記の料紙は、用途や品質・価格の相違はあるものの、基本的には、専門的な紙匠集団による都をふくむ広域的な需要に対応した商品生産によって製作されたものと考えられる。これに対して、『東寺百合文書』の研究者のあいだで新見紙などといわれる地域紙とでもいうべき料紙が、早くから存在する。これらの紙は、しばしば縦約二六センチ前後、横約三五センチ前後以下で、一回り小さな簀を使用しているのではないかと思われ、広域的な販売ルートにはのらない紙である。大徳寺文書の中にも、「賀茂紙」とでも称すべきか、非繊維物質が多く、黄茶色をして堅い紙でありながら、小型でもろく、美濃紙のような紙匠によったものとは考えられない料紙をしばしば見ることができる。このような紙は平安時代から存在しており、基本的にその地域で作った紙である場合が多いとすると、それを追跡することは荘園史研究においても有効性をもつように考えられる。

 おわりに‐‐歴史学のミクロ化
 以上、実際上、経験にもとづく曖昧な部分も多く、まだまだ実験的な研究段階にあることがらについて細かな問題を述べてきたが、やや長期的なスパンでみれば、これはいわば情報化を前提とした歴史学研究のミクロ化、精緻化というべき動向ということになるであろう。冒頭に述べたように、そういう中で、原本情報の共有や確認の手段についても徐々に議論が必要になっていくに違いない。所蔵者のご理解と許可をいただきながら、詳細な自然科学的諸手段による記録の援助をえて、誰もが必要な原本情報にアクセスできる体制が望ましいことはいうまでもない。
湯山などの見解にふれて述べたように、この研究の当面の目的は料紙の歴史名称がどのような料紙を具体的に意味していたものかを明かにすることであるが、いうまでもなく、料紙と古文書の格は深く関係しているはずであり、これは古文書学にとって欠くことのできない研究領域である。その他、研究は様々な形で蓄積され展開されていくであろうが、そのためには大量の慎重なデータ蓄積が何よりも重要である。本稿が、その一つの出発点となり、とくに研究と文化財保存技術のあいだの関係について考える素材となれば幸いである。このような方向が学界に開かれた協同的な雰囲気の中で、多様な研究分野や職種を超えて、またとくに文理融合の可能性を発展させ、研究と文化財保存技術との関係を緊密にする方向で進展することを期待したいと思う。

2013年9月 2日 (月)

富田正弘『中世公家政治文書論』(吉川弘文館、二〇一二年)

130902_112008  情報化によって圧倒的な量の史料を処理するようになっているが、歴史学は、ともかくも史料を読むことから出発する。私などは、大学院の頃、『平安遺文』という全一一冊からなる平安時代の全古文書集をともかくも読んだ。一年もそれをやっていると、特定の歴史用語や地名などが、『平安遺文』の何冊目の真ん中辺の右頁にあったなどという形で、頭のなかにページのイメージがたまってくる。ところが、現在では『平安遺文』、さらに『鎌倉遺文』も、編者の竹内理三先生の御理解によって東京大学史料編纂所からフルテキストデータがオープンされており、これによって任意の言葉、活字の用例表を一瞬で自分のPCに落とすことができるようになっている。これは大学の内外をとわず、歴史学の研究を多くの人々に解放し、研究をやりやすくしたという点で絶大な意味をもっている。
 しかし、歴史家は史料を読むことによって、自我の中に独特な記憶領域のようなものを形成する。これは、以前も現在も同じことで、どんなに形がかわっても、学術は、ものごとを記憶し、その全体像をつかむ心術にもとづいているはずである。心配なのは、史料情報の量が自我の記憶領域からすぐにあふれ出す膨大なものになっていることである。私は、こういう状況で、現在、一種の新しい記憶術が必要になっているように思う。ギリシャのシモニデスに由来するといわれる記憶術は、文字情報が巻物から本、印刷物になるにつれて大きく変化してきた。記憶術が研究を精密化するという実務的な意味をこえて、まずは研究の全体性を可能にする心術である。それなしに、情報におぼれることは、全体性を喪失することにつながりかねないのである。
 さて、史料を記憶するためには分類が必要であり、その際の基準は古文書学に求められる。個々の史料は、たとえば、紙の大きさ、縦横比、折り方、紙質、墨の色からはじまって、字体、日付や位署・差出の書き方、さらに書出、書止などにあらわれる特徴的な文言や様式など、無限の外形的な変異をもっている。人の名前を忘れても顔は覚えているように、こういう外形の差異は意外と記憶に残るものである。それはけっして付随的なことではない。『平安遺文』のページのイメージなどというのは偶然的なもので無意味な記憶であるが、これらの外形的な差異は、文書に表現されたA・Bという人間相互の意思関係、文書を取り交わす社会の諸階層、諸身分の間の関係を端的に表現している場合が多いのである。
 古文書学とは、一言でいえば、史料を読むものの記憶の世界を秩序づけるための基礎知識を提供する学問である。それは文献歴史学における記憶術の基礎であるといってもよいだろう
 さて、現在、研究者が総覧するべき史料情報が無限にふくらんくるなかで、古文書学を刷新し、文書に表現された意思関係・社会関係を、その文書の外形的な差異をふまえ、的確に分類し、体系的にとらえる必要がきわめて高くなっている。本書の著者、富田正弘は、私たちの世代の中でもトップの位置にいる研究者であるが、アーカイヴズの仕事から研究歴を出発し、長く史料の整理や編纂、さらにデータベース化の仕事にたずさわってきた。富田は「古文書の整理をする仕事に携わることになったとき、いつも興味を覚えた」のが古文書の分類と体系の変遷であったと述懐している。富田は、その中で黒板勝美・相田二郎・佐藤進一などの古典的な古文書学を誠実に読み抜き、本書において新しい古文書学の基礎を作りだしたものである。
 以上、前置きが長くなったが、いちおう、本書の内容を説明しておくと、まず序説「古代中世文書様式の体系・系譜論に関する先行研究」は、黒板勝美・相田二郎・佐藤進一・林屋辰三郎・上島有などの先行の古文書学的業績の紹介・批判である。これによって、文書とは差出と充名の間の意思関係を表現する書面であるという古典的な定義が、物ごとを同定する記録機能や、音声記録などをふくめたものに拡大していき、それが文書の様式論・機能論の豊富化と直結していた様子を、わかりやすく知ることができる。著者の仕事が、文書体系とその系譜から政治社会形態論を論ずるという佐藤進一の議論の系譜に属することを確認しておきたい。
 次ぎに第一部は「古代中世国務文書論」となっていて、「平安時代における国司文書」と「国務文書の展開」の二論文からなる。平安時代から鎌倉時代の研究の研究をする場合には、どうしても読んでおくべきものである。私は、この論文の発表時、文書の様式・機能の整理にもとづいて、国司・国衙制度についてここまで議論が可能になることに驚いたことを記憶している。結局のところ、支配制度というものは、貴族・官人のあいだの意思関係が社会の上層から下層にかけてどのように伝わっていくかという問題であるから、その分析においては、意思関係を体系的に捉える古文書学が基礎となるのである。
 第二部の「中世公家政務文書論」は「中世公家政治文書の再検討」「公家政治文書の発給過程と系譜」「図説東寺百合文書における公家政治文書」「口宣・口宣案の成立と変遷」の四本の論文からなり、おもに公家・寺社の文書を取り扱っている。これらの論文のなかではまず三章目の「図説東寺百合文書ーー」という論文から読み始めることをお奨めする。多くの文書の写真がおさめられており、平安時代から室町時代の古文書というものがどういうものかを知ることができる。どれも見事な筆跡であって、すべてではないが釈文もついているので照らし合わせて読まれるとよいと思う。それを一覧することによって、当時の貴族・官人・僧侶などが、現在では忘れられてしまった政治文化をやしなっていたことが実感できると思う。
 公家・寺社の文書は、この時代の文書の中でも量が多いものであるが、従来の古文書学はどうしても武家文書を中心とする傾向があった。そういう中で、この分野の文書の古文書学は、著者がほとんど独力で開拓してきた分野である。そこで明らかにされたのは、平安時代から室町時代の文書は、太政官の「太政官符・官牒・宣旨・官宣旨」に由来する「下文様文書」と、院政において形を整える綸旨・院宣・御教書・奉書に由来する「書札様文書」に大区分するという図式である。問題は、前者が「天皇制と太政官」、後者が「院政」という政治支配のスタイルに対応しており、「政務」の地位にいる院は書札様文書を政務文書とし、形式を必要とする場合に太政官的な文書を発給させるという二重構造になっていることである。そして、政務をになう院が不在の「親政期」には、天皇の綸旨が院宣にかわって、政務の中心文書の役割に担うこと、さらに、足利義満以降は、室町殿が「政務」の地位について、天皇の綸旨・口宣案を発給させるという構造になっているという。この著者が明らかにした図式は、現在では、古文書学のみならず、中世国家論の基礎認識になっているものである。
 以上、本書のような専門的な論文集を駆け足での紹介したために分かりにくい部分も多いことを恐れるが、しかし、第一部の中心論文「国務文書の展開」と第二部の中心論文「公家政治文書の発給過程と系譜」は、どちらも古文書学の入門書に執筆されたものであり、第三部「新しい文書体系論への助走」も、もと『岩波講座日本通史』の別巻に掲載された古文書学の概論である。こういう事情によって、本書は古文書学の入門書としても読みやすい仕上がりとなっているということができる。
 もちろん、本書は武家文書を取り上げておらず、これについては佐藤進一『古文書学入門』を併用する必要があり、これは、本書がやや高価すぎることとあわせて、早晩、補充される必要がある問題点である。しかし、学界では佐藤の著作が不朽の価値をもつことは広く承認されており、このような併用は、当面は自然なことなのである。
 なお、以下、二点をつけくわえておくと、第一に、第三部「新しい文書体系論への助走」では、古文書の情報を、関係的情報、様式的情報、機能的情報、「物」形態情報、文書群管理の構成情報にまで広げて考えることが提言されている。これは史料情報論の現在の到達点を示すもので、アーカイヴズ(文書館学)との関係においても重大な意味をもっている。とくに興味深いのは「関係的情報」というカテゴリーであって、それは「研究者が個々の文書と文書の関係を考え、新たな情報をそこに読み取る」ことであるという。残念ながら、詳しい展開はないが、歴史学は、たしかにこの関係的情報を蓄積し、拡大することを研究の推進力としている。この考え方によって、古文書学と歴史学それ自体の関係についての議論を深めることが可能となるように思うのである。
 第二点目は、天皇・太政官システムと院政システムの二重構造という著者の国家論についてである。著者の国家論は論文「室町殿と天皇」(『日本史研究』三一九号)によって提示されたものであるが、この論文は、義満以降、「政務」の地位が「院」から「室町殿」に受け継がれ、最大の公家権門である「院」にかわって「室町殿」が天皇・太政官システムを担ぐという形式ができあがったことを明らかにした。これは、古文書学を基礎とするだけにきわめて説得力なものとなった。そして、本書でも別にふれることになる黒田俊雄の「権門体制」論は、おもに院政期国家を対象に構築されたもので、南北朝期以降についてはあくまでも仮説に過ぎなかったが、著者の仕事によって通史的な見通しを確保し、現在、平安時代から室町時代を説明する唯一の通説となっている。残念ながら、私は、権門体制論自体に賛成することはできないのであるが、しかし、それを批判し乗り越えるためにも、富田の古文書学の世界に沈潜することが必要となっていると思う。

2013年9月 1日 (日)

奈良へ、ホケノ山古墳と大三輪神社

 昨日でお寺の調査は終わり。早お昼をご馳走になって、奈良へ。地震学の人と考古学の人の相談の場所に立ち会って、天理へ。
お寺の早お昼の時に、テレビでフランスの洞窟に立ち入って撮影した長編映画をやっていた。ホモサピエンスとネアンデルタールが共存・競争していた渓谷であるという。
 7万年前にほぼ現在と変わらないような描画と、音楽と、そして神話が存在したというのが説明。有名な笛の分析にも驚く。考古学では最新の科学分析技術が動員され、1ミリ、1ミリ地層を剥いでいき分子レベルの分析をやっているという説明。
 笛の音は聞こえないが、なんといっても有名な馬の絵は見事であった。そして、ライオンの絵の詳しい説明があり、また祭場のようになっている場所に入った映像には驚愕。祭場の中央の天上からさがる鍾乳石に女体が描かれているが、その頭部はバイソンになっている。その向こうの壁には一面に野獣が描かれている。祭場は有毒ガスが発生しており、まだ詳細の撮影はできないとのこと。鍾乳石の向こう側の画像もえられていないとこのこ。
 無事におわって、夕方は天理泊まり。駅の近くの古本屋で文庫がやすく、高校のころに読んだニーチェの『道徳の系譜』をかう。さらにベルグソンの『創造的進化』(上下)とあわせて300円。
Cimg1357  山辺の道を通る。大学院の頃、田名網宏先生のお宅で行われていた『続日本紀』の読書会にでていた。田名網先生は山辺の道から飛鳥がお好きで、その御話しを何度か聞いたが、点は訪れたことがあるものの、道を辿るのは始めてである。(他の大規模古墳とは違って)ボケノ山古墳の前方部が東南に向かって開いているのを確認。墳頂からの眺望はさすがによい。一番北西には生駒が見えるのを確認。目の前の箸墓はやはり大きい。大和東縁断層帯の上に聳える龍王山系の麓にもう一つ出山を作ったという感じであるということがよくわかる。写真はホケノ山古墳から前方部を振り返って三輪山をとったもの。ヤマやまの辺の道からみると、大三輪神社の大鳥居の向こうに耳成がちょんと飛び出ているようにみえるのにも感心。ようするにいわゆる歴史好きではなく、非常識なのであるが、その分、少しづつても見聞が増えると感心することが多い。
 さすがに暑く、大三輪神社参道の素麺屋で氷を食べて身体を冷やし、以上を記録。いまからにゅうめんをたべて、御山に登る(8月31日)。
 山頂の広い範囲に高さ二尺ほどの大石が奥まで広い範囲にひろがっている。それからさすがにサカキが多い。

« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »