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2013年9月20日 (金)

地震火山99「前方後円墳」の墳形と火山神話

以下は、現在執筆中の論文。研究史の部分であるので、オープンします。

「前方後円墳」の墳形と火山神話
はじめに
 倭国神話の中に火山神話が存在したのではないかという想定は、はやく松村武雄と益田勝実が述べたことである。松村と益田は神話学と文学史研究において大きな仕事を残した学者であるが、それにもかかわらず、この想定は注目をひくこともなく、長く忘れられていた。二〇一一年、私は『かぐや姫と王権神話』を執筆して、松村・益田の仕事の意味が大きいことを強調したが、これについてはさらに追加的な説明が必要である。
 とくに問題なのは、右の著書で、前方後円墳は火山神話を表現するものではないかと述べたことである。以下、その論拠を詳しく述べてみたいと思うが、考古学がおもな担い手となって進められている古墳時代の研究にとって、この問題提起はあるいは突飛なものにみえるのではないかと思う。前方後円墳は古墳時代の研究にとって決定的な史料群であり、そこには、平安・鎌倉時代を専門とする、私のような研究者が容易に突破できないような重厚な研究史がある。そこで、まず、前方後円墳のあれこれの特徴は別として、前方後円墳の本質についてのこれまでの考古学の学説を、私なりに確認するところから出発することにしたい。
 前方後円墳の本質に関する通説は、前方後円墳の上では「首長霊の継承儀礼」が行われるという考え方である。これは近藤義郎が主唱した学説で、そこで打ち出された図式は、おおざっぱにいって、(イ)前方後円墳においては亡き首長が担っていた祖霊からひきついだ霊力を、次代の後継者が集団を代表して引き継ぐための祭式が営まれ、(ロ)それは初穂祭すなわち後の新嘗祭にあたる秋の収穫祭における共同飲食儀礼と重なる実態をもっていたというものであった(『前方後円墳の時代』一七〇~一七四頁)。
 もちろん、近藤の前方後円墳論は、この図式の範囲を超える実証的な成果と含蓄ある見通しをもっている。とくに重要なのは、前方後円墳祭祀を祖霊祭祀ととらえることによって、それが古墳時代の支配層の間の同族擬制のシステムを反映している可能性を具体的に示したことである。よく知られているように、石母田正は倭国の国制を「始祖を系譜によって天皇氏に連結し、あるいは神代史の物語によって神話的に統合するという独自の形態」「系譜と族姓によって、あるいは神話と説話によって下層から上層にいたるまでが連結されていく擬制的・観念的な連続性」を想定しているが、近藤は、その実態を前方後円墳のネットワークとして示すことに成功したのである(石母田正『日本の古代国家』著作集3、四〇二頁)。
 しかし、問題は、この代替儀式=天皇霊付着=初穂祭という近藤の図式自体は、岡田精司が指摘したように、折口信夫の学説を借用したものであったことである。つまり折口は、代初めの新嘗祭=大嘗祭は、新天皇が天皇霊をその身に受容する秘儀(マドコオウフスマの共寝)を中心とする代替就任儀礼であるといった。近藤はこれを古墳時代に持ち込んだのである。そして、折口説は、岡田精司の徹底的な批判によって、すでに学説としての価値それ自体は否定されている。つまり、岡田は、群臣推挙にもとづく即位式こそが就任儀礼であるという現在では学界の常識となっている見解をはじめて述べた。そして、多くの場合は即位式の年の冬に行われる大嘗祭は、その付属儀式とすべきものであることを明かにした。大嘗祭の本質は饗宴、そしてその極点においては性的オルギーという形式をもった服従儀礼にあったのである。岡田によれば、折口説は、大嘗祭こそが皇位継承儀礼であり、即位儀は唐制の模倣にすぎないという江戸期国学以来の図式を無批判に受け継ぎ、昭和の大嘗祭という世情の中でそれを神秘的に繰り返したもので、実証的な根拠を欠く。これは、事柄が天皇制論にかかわる以上、歴史学としてはけっして曖昧にしてはならないことであろう(岡田「古墳上の継承儀礼説について」歴史民俗博物館研究報告』80集、一九九九年)。
 このような立場から、岡田は「首長霊の継承儀礼」学説をきびしく批判したのである。もちろん、岡田は支配者の権威の継承の具体相の中で前方後円墳をとらえること自体が否定している訳ではない。「古墳をめぐる儀礼には、生者と死者の告別の儀礼や、古代社会に一般的な死者を別の世界”あの世”へ送りだすための呪術的儀礼のほかに、民衆の葬送儀礼にはみられない支配者層だけの後継者決定を示威する政治的行為としての側面など、多面的な性格をみなければならぬことは当然であろう。だがそれは継承儀礼そのものではない」。つまり、前方後円墳は継承儀礼ではなく葬送儀礼である。その側面を中心に検討することが第一であって、それが「後継者決定を示威する政治的行為」として機能したことは別のレヴェルの問題であるという訳である。そして岡田は次のようにいう。
 墳墓はあの世への入口である。墳墓の性格を考えるには、それぞれの社会なり時代なりにおいて、死者の霊魂が埋葬したあとどうなるのか、どこへ行くのかということが前提であろう。墳墓の形態も内容も霊魂の行方に規定されているといえるであろう。墳丘上の祭祀の跡も、その時代の死霊のあり方、死霊の行方に即して考えるべきではあるまいか。墓制というものは、それぞれの社会の”死”の観念や来世観に、大きく規制されるものである。
 これは正論であろう。もちろん、首長霊の継承という以上、「霊」は次の首長に引き継がれる、つまり「霊」の終局的な行き場所は示されているのであるが、それでは「霊」が人の死後にどのような挙動をするかは不明であり、古墳はどのような「来世観」を示すかという根本問題がスキップされるのである。私は、近藤説は、それをスキップするために、当時、文献史学にも説得力をもっていた折口説を援用したのではないかとさえ考える。
 ただ、岡田は、このような批判はしたものの、それでは前方後円墳の本質をどのように考えるかについて述べることはしなかった。何よりも残念なのは、慎重な岡田は、それでは古墳時代における王や首長の権威継承の儀礼をどのように考えるかも述べなかったことである。しかし岡田は即位式と大嘗祭を区別するから、そこからみてあえて想像してみると、その考え方は、王権の継承儀礼は王墓ではなく王宮において即位、およびそれを反映する何らかの集会・儀式が行われた、少なくとも王宮の政治空間を除外して王墓を強調する理由はないというという理解なのではないかと思われる。もしそうだとすると、この問題は王宮と王墓の機能をおのおのどのように考えるかに帰着するであろう。つまり、吉村武彦が政治センターはあくまでも王宮であって王墓は政治的拠点を意味するものではないとしていることに関わってくる(吉村『古代天皇の誕生』角川選書、一九九八)。
 以上、やや踏み込んだ説明となったが、最近では、岡田の批判を意識したものと思われるが、考古学の側でも首長霊の継承儀礼という近藤学説に対して異論が提出されている。それを代表するのは広瀬和雄の見解であって、広瀬は、近藤のいうように首長霊が継承されたとすると、古墳の中に埋葬された遺骸は抜け殻ということになり、抜け殻にたいして最大の供儀が行われるというのはおかしい。そうではなく、前方後円墳儀礼は「遺骸主義」という原理、つまり「遺骸をそのままの形で保護し、それを外界から遮断して密閉する」という観念を中心にとらえるべきであるとする。この「首長の遺骸に外部から神が憑依する」、そして遺骸は共同体とその連合を護る「神」の生きた身体となり、新たな政治的身体を付与され、次代の首長はその亡き首長の威力を継承し、依存するというのである(広瀬『前方後円墳国家』)。
 このような観点はニュアンスは異なるものの、大枠では、大久保徹也の「呪物としての遺骸」(「古墳論」『古代日本の構造と原理』)、北條芳隆の「人身御供モデル」(「首長から人身御供へ」『同』)などの議論にも共通している。ここでは、このような観点は、「遺骸」を中間におくことによって近藤の学説の折口説に依存したニュアンスを大きく変更した。特に大事なのは、広瀬が「亡き首長は神として再生する」「前方後円墳は死した首長がカミとなって再生するための舞台装置であった」としたことである。つまり葬送儀礼から権威の継承にいたる時に、「遺骸の密封」に着目することによって、死せる首長がカミになるというイデオロギー的な仕組みをおくということになる。
 これは近藤の首長霊の継承論が、霊は次の首長の身体に移るというだけで、霊の挙動はスキップするのに対して、「遺骸」というものを間におき、「遺骸」というものに付着するイデオロギーを問題にしたということである。これは論理的にはたしかに一つの改善である。広瀬は、この段階におけるカミ観念自身が「首長的人格への依存が強固な段階」であるとする。「遺骸主義」的な立論はまだニュアンスも多様で、その全体系を明らかにしたという段階ではないが、大久保の場合も「この段階ではまだカミ観念が十分に醸成されていない」とするように、共同体的な抽象的な幻想・願望のレヴェルにとどまっていると考えるようである。そのために、遺骸の呪具としての使用よりも発展した観念のスタイルは考えにくいという訳である。岡田が問題にする霊魂の行方という点から取ると、この「遺骸主義」説は、ようするに霊魂はどこにも行かない、それは遺骸の中にとどまっている、それ故に、「遺骸」という物理的存在の呪術的な扱いがすべての根源にすわるというという見解であるといってよいであろう。
 たしかに、「遺骸主義」の立論においてカミ観念または「霊」という観念自身が社会的にどのように存在したかをどう考えるかというレヴェルから議論を出発させるのは正論であろう。しかし、その遺骸にとどまる霊が、次の生きている首長の霊とともに共同体を守る(広瀬)、遺骸は新王の身体の一部器官と観念される(大久保)ということであるから、「遺骸主義」的な立論も、実際上は、近藤の見解とほとんど変わらないということになる。近藤の理解も広瀬などの理解も、このようにして葬送儀礼と権威の継承儀礼を呪術というレヴェルで直結するのである。しかも、ある意味では「遺骸主義」の立場は、近藤説の問題点を拡大した側面がある。つまり、岡田は、近藤に対して、折口は大嘗祭と葬送儀礼を結びつけたるようなことはいっていないとして、即位式と死の儀礼を結びつけるのは折口説の正当な援用の仕方ではないとした。近藤説は、前方後円墳儀礼=首長霊継承儀礼説は、折口のようにエロスに神秘を求める代わりに、古墳におけるタナトス=死に神秘を求めるという結果になっているという訳である。これはまさに「遺骸主義」の立場にもあてはまるのではないだろうか。
 考古学は古墳の遺構・遺物の中の検討の中から、そこに明証できる機能、何らかの意味で物理的な痕跡を残す儀礼的な行為を復元しようとするから、このような傾向は、実際上、独自に考古学的な思考の優位性が発揮される側面である。とはいえ、古墳の墳丘における呪術儀礼とその内部の遺骸のみに焦点をしぼって、前方後円墳を考察しようという理解は、考古学的な方法としても対象のとらえ方が狭すぎるのではないだろうか。
 そもそも近藤の前方後円墳論には、首長霊継承儀礼という観点以外に、上記の前方後円墳にはそれ自体を「山頂・丘頂に相当する」と考える「思想」があったという考え方もふくまれていた(『前方後円墳の時代』)。この側面は、「遺骸主義」の立場をとる北條においても引き継がれており、前方後円墳は、山の世界を始祖の住処とする指向性に貫かれていたという。奈良盆地東南の西殿塚・端中山などの前方後円墳群は、盆地東部を走る龍王山塊の頂点を示準する形で序列的に位置をきめられていたというのである(「『大和』原風景の成立」『死の機能 前方後円墳とは何か』二〇〇九年、岩田書院)。
 さらに重要なのは、寺沢薫は箸中山近傍の纏向は、弥生時代最末期、古墳時代最初期、箸中山古墳が築かれる前に、一つの都市的集落であったとする(『柏原考古学研究所論集 第六』一九八四年、吉川弘文館)。松木武彦も、このような都市的な場は葺石におおわれた前方後円墳を初めとした耳目を引く知覚情報の集まる場であって、前方後円墳の独特な墳形は、そのような場の性格に関係しているとしている(『古墳とは何か』、角川選書)。寺沢も松木も、岡田による近藤説批判には前方後円墳儀礼の秘儀性を強調して反発するが、しかし、古墳の近くに政治都市の存在を指摘したことの意味は決定的である。「遺骸」をめぐる秘儀の評価については、まだ多くの議論が積み重ねられるであろうが、こうして、政治と王権の継承の場をもっぱら前方後円墳における儀礼に限定するような議論は実質上は乗り越えられているといってよい。広瀬のいう「人の死をめぐって形作られた関係性」、大久保のいう「遺骸を軸に(形成された)重層的な関係性」の場とは、他界としての「山」の世界や、前方後円墳の膝下に広がる都市的な場との関係において評価されねばならないということになるのではないだろうか。
 以上、考古学の側の議論のトレースが長くなったが、その上で、ここでの主題である神話の問題にふれておけば、山尾幸久が前方後円墳は「体系だった価値概念、一定された祭式や儀礼、祭神についての神話」なしにはけっして築かれることはなかっただろうと述べ、祖霊祭式を直接に「何らかの政治秩序」「身分制表示のシステム」などの制度的な秩序に結びつけてしまう傾向を強く批判しているのが大事であると思う(山尾『古代王権の原像』、二〇〇三年、学生社、145頁)。岡田が「墓制というものは、それぞれの社会の”死”の観念や来世観に、大きく規制されるものである」という場合の「来世観」というものも、まずは神話的な観念の問題としてとらえるべきであることは明かであろう。神話のような意識形態を葬送と墳墓という場よりも広い場所において考えること、これが研究を進めるためにはどうしても必要ではないかと考える。
 神話学の常識では、神話は呪術の体系であると同時に、呪術よりも広い世界を意味する。また、儀礼と神話は相対的に独立しながらも、一体となって価値観念や世界観を構成しているとされる。儀礼は人間の自己呪縛という点では呪術の変化したものであるが、その背後には神話の存在を想定しなければならないことはいうまでもない。すでに述べたように、近藤説の前方後円墳論の最大のメリットは、石母田説をうけて前方後円墳のネットワークを同族擬制として提示したことにある。しかし、そこで前提となっていた石母田説においては、それは神話的な同族擬制、擬血縁系譜を意味していたことを忘れてはならない(石母田正『日本の古代国家』著作集3、四〇二頁)。近藤の学説に残る折口説への依存を払拭し、石母田の議論のレヴェルにおいて再構築されなければならない。そして、その場合のキーは神話論にあると思う。
  儀礼的な呪物=古墳
Ⅰ壺型墳と「天空のスロープ」
 以上のような視点にそって、前方後円墳を神話論の観点から考察することにしたいが、これまで、前方後円墳と神話という観点からの研究はほとんどない。考古学の側には、黄泉国の神話的イメージを切り口として前方後円墳の横穴式石室を検討するという仕事はあるが、文献史学の側はこういう問題にまったく興味を示していないように思われる。ここには、研究の保守性という以上に、神話史料を正面から取り上げることへの躊躇あるいは忌避が存在しているのではないかと感じられる。研究史の現状は、そのような状況を突破する必要を示しているように思う。
1三品彰英の壺型墳論と「天的宗儀」
(イ)三品彰英のシンボリズム論
 そういう中で出発点とできるのは、現在のところ、三品彰英の仕事のみであろう。三品は朝鮮史を専門にする碩学であると同時に、いわゆる「日鮮同祖論」の展開に責任のある学者である。その位置は、山尾幸久が、一九四〇年に出版された三品の『朝鮮史概説』の徹底的な批判から出発できなかったのが戦後派歴史学の限界であったとしているように(『古代王権の原像』)、複雑な要素をふくむが、アメリカの人類学者アルフレッド・L・クローバー(アーシュラ・K・L・グィンの父)を師としており、その本領は神話学にあった。現在から見ると、その神話学も早い時期に十分な検討を必要としていたはずであるが、三品はその晩年に『前方後円墳』という著作を準備中であったという。残念なことに、それは成稿されることのないまま、その死去の年に行われた講演記録が現在残されているのみとなっている。しかし、幸いなのは、この「前方後円墳」と題された講演は、しばらく前の「銅鐸小考」と題された論文をうけたものであり、両者をあわせることによって、三品の構想の幾分なりともが追跡できることである。
 まず「銅鐸小考」において、三品は銅鐸は「地霊」の祭祀であると論じた。これが銅鐸論のすべての前提となっていることは、近藤の『前方後円墳の時代』が「銅鐸祭祀は、その特異な埋納状態から地霊を鎮め迎える祭りであった可能性が高い」として、この三品の論文を典拠にあげていることに明らかである。問題は、三品が、この「地的宗儀」(terrestrial cult)は、だいたい三世紀、邪馬台国の女王卑弥呼の時代には、北方アジア系のシャマニズムの流入と受容によって高天原の神話を背景とする「天的宗儀」(celestial cult)に推移していたという見通しを提出していることである。
 その上で、三品は前方後円墳の形状を論じて、それは大きな壺がなかば埋められている姿であると論じたのである。図◆は箸中山古墳の赤色立体図である。これが葺石におおわれている様子を想像してみてほしい。現在では、古墳の上に樹木が茂っているが、この赤色立体図を前提として考えると、これはたしかに大型の壺の形ではないだろうか。三品は、このような発想について、「前方後円という独特な墳形は、古代人がおそらく何かのアイディアをもって急に造り出したものであると考えるほかない」「古代の人たちが造り上げたものは、古代人的な思考に従って解釈するのが本道であろう」と説明している。神話学が、図形や意匠のもつシンボリズムに注目するのは当然であろう。
 これを意匠論、シンボリズム論の視角に経った前方後円墳=壺型墳説をと呼んでおくこととするが、このアイデアは、もっとも早くは島田貞彦によって主張されているが(「古墳」考古学講座『古墳・墳墓』雄山閣一九三〇年、東洋文化研究所図書館にあり)、三品はそれを知らずに発想したらしい(末永・三品など『神話と考古学の間』創元社一九七三年)。しかし、三品のそれは島田とくらべて、後にもふれるような『日本書紀』『古事記』に登場する壺・瓮の記事や日本・朝鮮の民俗事例を参照するのみでなく、古墳の上に飾られた壺型土器を具体的にとりあげて論じた点で、研究史上、初めてのまとまった仮説と評価できるものである。
 つまり、三品は奈良盆地東南の桜井茶臼山古墳の墳頂部中央の竪穴石郭をおおって存在する壇状の施設の周囲に一〇メートル前後の矩形をなすように並べ置かれた壺型土器に注目した。この壺は総数一一〇個にものぼり、直径が四〇センチ弱でほぼ球形に近い胴部からまっすぐに立ち上がる短頸部から大きく反り返る口縁が特徴で口径約三〇センチ、総高は四五センチほどになるという。このような墳頂中央の埋葬部の直上を多数の壺によって矩形に囲むという例は、以降、作山二号墳(丹後、加悦町)、上殿古墳(奈良天理市)、石山古墳(三重県)など、きわめて多く調査・発掘されており、三品の着目は先駆的なものといいうる。
 ここから、三品は「前方後円という異形の高塚古墳も巨大な一つの『壺』であり、またその石室の周囲に死者の御霊を護るがごとくに埋めてあるのも、これまた『壺』であります」とし、それを前提として日本・朝鮮の文献と民俗事例を取り上げて、壺は神霊がこもる呪物であることを強調したのである。そして、桜井茶臼山古墳の壺の底部に穴があいていることに注目し、それが円筒埴輪に開いている穴と同じもので、霊の通る穴だと指摘している。さらに興味深いのは、三品がすでにこの段階で、このような穿孔された壺こそが埴輪の原型であるとしていることであろう。そして、三品がこの穴を通ってやってくる神霊は「根の国」の神霊であるとしたことも従うことのできる想定であろう。壺の中には根の国の地霊がやってきて死者に随伴するのだという訳である。このような指摘は、三品が、前方後円墳のなかに銅鐸と同じような「地的宗儀」としての性格を認めようという考え方をもっていたことを示すように思われる。
 ただ問題は、前述のように、三品は、三世紀、邪馬台国の女王卑弥呼の時代以降は「天的宗儀」(celestial cult)が一般化していたとしていたことで、この点は一見矛盾するように思われる。三品のそういう考え方からすると、前方後円墳も「天的宗儀」と位置づけるのが当然であるからである。しかし、前述のように、この「前方後円墳」という論文は講演の録音テープから起こされたもので、講演が市民向けの夏期講座であったこともあって、この点の説明まではなかった。そして、この講演の年の年末に三品は死去してしまったのである。そのため三品の構想の全体は不明であるが、三品は高麗の朱蒙神話においては天帝の太子、解慕漱が閉じこめられていた革輿から逃げ出す時に、川神の娘の釵で革輿に小さな穴をあけ、「孔より独り出でて天に升る」という伝説に言及している。それ故に、もし準備中であったという著作『前方後円墳』が刊行されれば、同じように、壺からの昇天という形が論じられたに相違ない。そして前方後円墳を「天的宗儀」と評価する理由が詳しく論じられることになったであろう。

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