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2013年9月13日 (金)

高村光太郎の詩、「典型」

高村光太郎の詩、「典型」
 今日は編集者の人にあって、『物語の中世』の再校ゲラをわたし、基本的に校了。そのあとつづけて『地震列島の思想』の出版相談。40代に従事した遺跡保存運動以来の友人の編集者御二人である。40代で一番、時間と資金をつかった仕事であったと思う。なつかしく、勝手なことをいう。しかし、朝早く目がさめて仕事をしていた後遺症か、口がよくまわらない。こんなことははじめてである。
 そのあとは友人と飲み会。話題はやはり原発になる。
 最大の話題はマスコミのいい加減さ。みんな、日本の大マスコミは、主要論調では、中国などと同じで、ほとんど政府公報であるから、どうしようもないという。私は、問題は、事実上、伝えるべき肝心のことを伝えないのは大マスコミが一種の愚民政策をとっているということだ、より明瞭にいえば馬鹿の伝染構造であるという持論を展開。
 経済史学の友人は国庫の借金の話し。アベノミクスに対する経済学分野での批判は強いが、それにもかかわらず、全体としてはなれ合い状態であるという。国債と国庫の状態は、アカデミックな論理からするとどうしようもない破綻がくる可能性が高い。それにもかかわらず、このままで行くのは自分で闇のなかに飛び込むのと同じである。それをさけるためには、消費税もやむをえないという。
 私見は、それはそうかもしれないが、しかし、そういう状態にした責任者が、消費税というのは道理としては許されないだろうというもの。全体についての経済学的な見通しなく、みんなで渡れば怖くないとばかりに走る。これこそが日本社会の馬鹿構造の経済学的な基礎であるのかと、思いついた意見をいう。
 以下は高村光太郎の詩。これは敗戦の中で蟄居し、自己の「愚劣」を見つめた詩である。これは正確な日本社会論になっていると思う。「小屋にいるのは一つの典型,一つの愚劣の典型だ」。私は「そこにいるのは」と憶えていた。

  典型
今日も愚直な雪が降り
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にいるのは一つの典型,
一つの愚劣の典型だ。
三代を貫く特殊国の
特殊の倫理に鍛へられて,
内に反逆の鷲を抱きながら
いたましい強引の爪をといで
みつから風切の自力をへし折り,
六十年の鉄の網に蓋はれて,
端坐薫服,
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
今放たれて翼を伸ばし,
かなしいおのれの真実を見て,
三列の羽さへ失ひ,
眼に暗緑の盲点をちらつかせ,
四方の壁の崩れた廃城に
それでも静かに息をして
ただ前方の広漠に向ふという
さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる山の小屋,
小屋を埋める愚直な雪,
雪は降らねばならぬやうに降り
一切をかぶせて降りに降る。

 さて、昨日は少し飲み過ぎであった。紹興酒がよくなかった。朝まだ頭がボッとしている。食卓で連れ合いから、生活クラブ生協の宣伝紙『生活と自治』に京大の小出裕章氏の連載インタビュー記事がのっていることを教えられる。福島原発の「予断を許さぬ現状」についての説明。最後の部分。「私は政治の世界には絶対に足を踏み込まないといってきたし、いまもこれからもそうしたいと思っていますけれども、やはり政治が変わらなければいけません。そのためには、国民がまず自分から変わらなければ、『愚かな政治』はかわらないのです」。
 日本政治の特質として「無責任の体系」という丸山真男の著名なシェーマがある。ながく、これを批判することをテーマにしてきたが、私見の大枠は、しばらく前、成沢さんの『政治のことば』の講談社学術文庫版の解説に書いた。「『政事の構造』とは、ただしくは、王にとっては、マツリゴトは面倒な雑務という性格をもつのであって、そういうことは他人にやらせて、自分ではやらない。その代わりに、王のそばには、知謀をもってマツリゴトの処理をする「謀」担当者がいて、「政」担当の集団はそのさらに下にいるということになる。王は「無責任」というよりも、この重層的な仕組みによって責任を曖昧にしていくのである。成沢の指摘は、丸山のような説明図式ではなくて、具体的な仕組みに踏みこんだものである」と述べた。丸山真男の「無責任構造」というのは、一種の倫理的な批判として生きているところはあるが、その「仕組み」を具体的に問題にしなくては超歴史的な問題提起になってしまうということになるという批判である。
 もう一つの問題は、「無責任の構造」という前に、日本の政治は、いわゆる「天皇制絶対主義」の時期から現在まで、「無能の構造」あるいは「愚かな政治」というものが中枢にあったということではないかと思う。丸山より高村の方が正しいのである。そこにあるのは愚劣の構造という訳である。
 日本社会は中下層が賢いので、そのおかげで(明治後半以降)無能な上層でもやっていけたのであるが、それが以前として続いているのであろうと思う。なにしろ自民党という政党は、ほとんど戦前社会の反省をせず、国際標準では戦争犯罪者といわざるをえない人々が作った政党であるから、そういう連続性も引き継いでいる訳である。しかし、そうはいっても、敗戦後の自民党政治は福田・大平両氏まではまだ賢かった。日本社会の最大の危機に劣化した政党がトップにいるというのはなんといってもまずい。
 日本社会の中枢部の「愚かな構造」。これは信じられない話しかもしれないが、どうみてもそうなのであろうと思う。
 『生活と自治』には私のいた研究所の隣の研究所の友人、加瀬和俊氏のインタビューものっているのを発見。写真が元気そうである。正論に感心する。しかし、農業と漁業をここまで峻別するのは歴史学としてはどうなのであおろうか。彼と近代において土地とは何かというところから議論を再検討した丹羽邦男氏の仕事についてはなしてみたい。

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