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2013年9月24日 (火)

創建期の大徳寺と王権

科研『禅宗寺院文書の古文書学的研究ーー宗教史と史料論のはざま』(課題番号14201031)2002年~2004年度科学研究費補助金(基盤研究A2)研究代表者保立道久、に載せた論文です。大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)の周辺を知りたく、またこれにつづく部分の研究を始めています。
これはあまりに長いので、全文はWEBPAGEに載せました。

創建期の大徳寺と王権
  ーー開堂前後の時期に視点をおいて
Ⅰ宗峰妙超と花園天皇・後醍醐天皇
 一三二六年(嘉暦一)一二月八日の大徳寺開堂において、宗峰妙超は鎌倉建長寺で師の大応国師・南浦紹明の印可を受けて以来、「嚢蔵」していた香木を五回にわたって捧げた(『大燈国師語録』))。第一は「今上天皇」(後醍醐)、第二は「太上天皇」(花園)であって、妙超はそのおのおのに対して祝詞を述べている。後醍醐に対する祝詞は「龍図永く固く、玉葉弥芳しからんことを」、花園に対する祝詞は「上徳を千載に超え、風声を後毘に樹てたまわんことを」と結論されている。前者は「龍図」(国家構想)の実現と永続、「玉葉」(子孫)の繁栄の祈願、後者は「上徳」(徳化)の永続と、「風声」(徳望)の後毘(後人)への継承の祈願ということになる。現王に対しては国家政策を問い、前王に対しては徳望をほめあげるというこの祝詞の使い分けは理解しやすい。ここで語られているのは王というものの理念であって、現王と前王が別の王統からでているというような実態とは関係ない。
 解釈上の問題はそれに続く第三の「香」の理解にあるが、その前に最後の方から、第五・第四という順に説明しておくと、第五の「香」は先師・南浦紹明に対して焚かれた。「前住建長禅寺、勅諡円通大応国師南浦大和尚に供養して、用て法乳の恩に酬ゆ」というのが結論である。そこでは南浦紹明に帰依し、国師号を与えた後宇多の存在も自然に語られることになっている。また第四の香は「法莚を光重する諸尊官および満朝の文武百僚」に捧げられている。若干の貴族官人が法会に臨席していたことは認めてよいのであろう。
 問題は「第三の香」を捧げた人物が誰であったか、また臨席していたかどうかにあるが、第三の焼香にかんする法語の文章は、全文、下記のようなものである。
又、香を拈じて云く「此の一瓣の香、金紫光禄大夫黄門侍郎、禄算を増崇せんがために奉る、伏して願わくは松栢の寿、甫・申の幹のごとく、国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを』
 この「金紫光禄大夫」という言葉は中国で「金紫」(金印紫綬)の貴顕身分の宮内職を示す言葉であるが、日本では「正三位」を表現する唐名として使用された。また「黄門侍郎」とは中納言の唐名である。それ故に、「金紫光禄大夫黄門侍郎」というのは、正三位の中納言という地位にいる人物を示すことになるが、この時の中納言のうち、これに該当するのは『公卿補任』によれば三条公明(侍従、四六歳)、洞院公泰(中宮権大夫、左衛門督、二二歳)、西園寺公宗(春宮大夫、一七歳)の三名のみである。このうち誰をあてるかは問題が残るが、ここでは西園寺公宗であった可能性を指摘したい。公宗はこの年七月二四日の量仁親王(後の光厳天皇)の立太子に際して権大夫となり、ついで十一月四日に正三位になるとともに大夫に転じている。さらにその直後、父の実衡が死去し、それにともなって公宗は西園寺家が西園寺公経ー(その子)実氏ー(その孫)実兼ー(その子)公衡ー(その子)実衡と歴代にわたって襲職してきた関東申次の地位に就任していることも特筆される。「国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを」という祝詞は、まずは開堂法語にしばしばみられる形式的なものというべきであろうが、しかし、公宗の立場が文字通りそのようなものであったことも否定できない。
下略

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