日本史研究の基本の30冊、近藤義郎『前方後円墳の時代』
日本史研究の基本の30冊のうちの「研究を進めるために」の部分におさめる予定。
今日は庭にむくげを植えるために、以前から自然に生えてきたアオキを掘ってどかす。根っこがすごかった。知らぬ間に生えたものだが、こういうようにして時間が経っていくのかと感慨。
近藤義郎『前方後円墳の時代』
近藤義郎(一九二五~二〇〇九年)は、森浩一とならんで、第二次大戦後の考古学を代表する考古学者である。「はしがき」で近藤は”考古学の独自の資料のみを使って歴史を再構成してみたい」とその執筆の動機を語っている。ただ、この歴史の再構成とは、近藤にとって、まずは歴史的な社会構造論を組み立てることであり、この点の指向は森とは大きく違っている。
この近藤の試みは見事に成功しており、現在でもこれだけ全面的なものは存在しない。各章を紹介しておくと、(1)弥生農耕の成立と性格、(2)鉄器と農業生産の発達、(3)手工業生産の展開、(4)単位集団と集合体、(5)集団関係の進展、(6)集団墓地から弥生墳丘墓へ、(7)前方後円墳の成立、(8)前方後円墳の変化、(9)部族の構成、(10)生産の発達と性格、(11)大和連合勢力の卓越、(12)横穴式石室の普及と群小墳の築造、(13)前方後円墳の廃絶と制度的身分秩序の形成、以上の一三章編成である。
論の中心は(4)(5)(9)の各章、つまり社会集団を下から順に、単位集団(三から五戸ほどの竪穴の血縁体)→集合体(氏族共同体)→地域(部族)→部族連合と序列化する点にある。「世帯共同体」「農業共同体」などの歴史理論用語をつかわず、考古学的に確定された事象にもとづいて単純な言葉からはじめるというの近藤のセンスは好ましい。
もちろん、そこで問題になっているのは集団所有と分割経営の矛盾という原始社会の分析のキー概念であるが、しかし、近藤の議論の特徴は、私有の拡大を中心に論ずるのではなく、早い時期から経営体の自立を認めた上で、家族体・氏族・部族の集団関係自身に焦点をあて、不均等な集団的変化が拡大・重層し、集団が移住・分岐していく様子に注目する点にある。この時代においては集団所有こそが構造的な所有の中心であって、それは下位集団の相互の調整や矛盾の関係を梃子としてそびえ立つ。共同体機能は首長=部族機関によって代表されるが、代表者は下位の代表される集団の構成そのものを否定してかかることはせず、そのまま自己の権威の下に編成していく。その中で、私的所有は、むしろつねに集団構成の規制力を強化する方向で働くという。
近藤は、こういう弥生時代の部族連合の集団所有の重層化の運動の中から、部族連合権力が人々を支配する古墳時代の社会が成立したと説明している。著者は明言をさけるが、共同体の重層の中から階級的な性格をもった部族連合国家あるいは部族的な貢納王制が形成されたということであろう。都出比呂志が述べたように、古墳時代の権力が賦役、税制、流通支配などの点で国家というべき性格をもっていたことは明らかである(『古代国家はいつ成立したか』岩波新書)。ただ都出はそれを「初期国家」と規定するが、その概念内容は不鮮明なところが多く、学説史の現状では、近藤の議論はまだ有効性が残っている。なお、近藤の学説は石母田正の「首長制論」に相似する(『日本の古代国家』)。しかし、石母田の議論は、実際にはまず「郡」レヴェルで「首長」を措定するところから出発して、古墳時代の首長共同体を一枚岩と捉えがちで、近藤のような集団の重層関係の把握が弱く、奈良時代からみた結果論になっている。国家的・集団的な所有が社会をつらぬき重層化しつつ変化していくという歴史的視点では近藤の議論の方が説得的である(若干の解説をつけくわえると、普通、歴史理論では集団所有というと「無階級的なもの」と考えがちである。しかし二〇世紀に存在した「(自称)社会主義社会」は国家的・集団的な所有にもとづく全体主義社会で、政治官僚という独特な支配階級が存在していた。これを考えると、階級社会の発生時にも相似した集団的な社会構成が存在した蓋然性は高いだろう。いずれにせよ、ミケーネや殷の貢納王制など、血縁的・共同的性格を残しながら明らかに階級国家である事例はきわめて多く確認されており、氏族組織の破砕を国家成立の指標としたモルガンやエンゲルスなどの一九世紀の古典学説は維持できないことは確実になっている)。
もちろん、近藤の議論は、石母田の仕事を前提としている。石母田説を前提として考古史料を総合する作業の中で整合性が高い議論が作り出されたのであろう。第二次大戦後の考古学的な調査は、この頃までには、弥生住居址、弥生墳丘墓、古墳時代の古墳と首長館址、そして多様な生産遺構、技術遺物にまで及んでおり、近藤の仕事の強みは、その蓄積にもとづいて全体の見取り図を描いたことにあった。弥生末期、吉備・出雲などで集団墓から墳丘墓に地域的な特色をもって変化していく様子、弥生墳丘墓から前方後円墳の形成、大和を中心にした部族連合中枢の首長の卓越化、その中での首長の神霊化と、そこに存在した祭祀的な擬制同族関係のネットワークなどの議論の大枠は現在でも、ほぼそのまま受け継がれている。
本書はなによりも全体に論理の筋道がよく通っている。いまでもこの本を熟読することが考古学研究の出発点となる事情を十分に理解できる。著者は、この本の後、もっぱら前方後円墳の研究にたずさわった。本書でも各地域の首長の系図を前方後円墳の造営系列の中に探ると、ほぼ三〇〇以上の部族が大和連合に結集していることがわかるなどの興味深い試論を展開しているが、前方後円墳研究会の代表としての努力は特筆すべきものである。同会が編纂した『前方後円墳集成』(山川出版社 一九九一~九四年)は、全国に分布する前方後円墳に関する基礎史料であり、一定の規模をもった自治体図書館には備えられているから、これによって三世紀から六世紀にいたる、この国の古墳時代の基礎情報を誰でもがみることができるようになったのである。
ここには、著者のよい意味でのアカデミックな姿勢が示されているが、著者は一九五三年、当時のいわゆる国民的歴史学運動の中で、岡山県(吉備)の月輪古墳の発掘に市民とともにとり組むという側面ももっている。この発掘の記録は映画にもなり、市民とともに歩む歴史学のあり方を示すものとして有名になったが、著者は、以降も、一貫して岡山県の遺跡の調査・保存運動に取り組んだ。そして、その実践が近藤の前方後円墳の理解を切りひらいた。
その成果は、『前方後円墳の成立』(岩波書店一九九八年)、『前方後円墳の起源を考える』(青木書店、二〇〇五年)などの著作で発表されている。とくに重要なのは、著者の下でとり組まれた弥生時代後期(第三期)の岡山県倉敷市の楯築墳丘墓の調査と保存は、前方後円墳の成立の研究に決定的なステップをもたらした。楯築墳丘墓の主墳は直径約四〇メートルで、二つの突出部をもっていた。この突出部は著者らの知らぬ間に破壊されてしまって詳細不明なものの、後の前方後円墳の前方部に相似する先開きの形をとっていた可能性が高い。突出部が二箇所である事情は不明であるが、墳丘が大規模な立石や列石、そして後の葺石の源になるような円礫で覆われていることも前方後円墳に相似している。また何よりも明瞭なのは、一メートル前後もある特殊器台といわれる円柱状の装飾供器と(その上に載る)装飾壺が発見されていることである。これと同型のものが三世紀後半以降の箸中山古墳、西殿塚古墳などの大和の典型的な前方後円墳で発掘されており、これが円筒埴輪になっていく。
この「特殊器台と特殊壺を作り出した祭祀思想と祭祀行為」が前方後円墳にそのまま引き継がれていることは確実で、今でも謎にみちている前方後円墳の墳形の由来や、その背後にあったイデオロギーの相当部分は吉備由来であること、そして、それに対応して大和南部をセンターとする部族連合は大和と吉備の連合であるということが、考古学界では確定している。この問題をふくめて、本書が、学説史上、根源的な位置をもっていることは明瞭である。
もちろん、近藤の前方後円墳論がすべて正しいということではない。たとえば、近藤は、前方後円墳の上では「首長霊の継承儀礼」が行われたという。前方後円墳の上で、亡き首長の霊力を次代の首長が引き継ぐための祭式が営まれ、それは初穂祭(後の新嘗祭)にあたる共同飲食儀礼と同じものであったというのである。代替儀式=天皇霊付着=初穂祭というわけであるが、この図式は折口信夫のマドコオウフスマの秘儀を中心とした大嘗祭理解そのものである。しかし、岡田精司は群臣推挙にもとづく即位式こそが就任儀礼であって、大嘗祭の本質は饗宴という形式をもった服従儀礼(極点においては性的オルギーをふくむ)にあったことを明らかにした。江戸期国学は大嘗祭こそが皇位継承儀礼であり、即位儀は唐制の模倣にすぎないとするが、折口説は、昭和の大嘗祭という世情の中でそれを神秘的に繰り返したもので、実証的な根拠を欠くものであるという。その上に立って、岡田は、折口は大嘗祭と葬送儀礼を結びつけるようなことはいっていない。近藤説は、折口のようにエロスに神秘を求める代わりに、古墳におけるタナトス=死に神秘を求めるという結果になっているという趣旨の厳しい批判を行っている(岡田「古墳上の継承儀礼説について」)。
この批判は正しいといわざるをえないが、しかし、逆に、近藤が学術的方法を異にする折口学説を読み込んでいることには感心する。論文集『日本考古学研究序説』(岩波書店)にみえる近藤の仕事の多様さは刮目すべきものである。また、現代考古学の最先達にあたるイギリスの考古学者、ゴードン・チャイルドの著書や伝記の翻訳も近藤が思想的な視野の広い本格的な学者であったことを物語っている。
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