前方後円墳と骸=姓の身分秩序
昨日は久しぶりに千葉市の奥の都川支流域へ自転車
以下は、前方後円墳論であるが、すべて研究史と既発表論文なので、ブログにのせます。
こういうことを考える上で、山折哲雄氏の『死の民俗学』が参考になりました。一種の骨カルトとでもいうべきものを考えています。
柳田国男が次のように述べていることは、山折がいうような「骨」の観念を前提として考えるべきものであろう。
古墳と名づけられる大きな人工の塚山、内に完形をもって古人の姿を保存しているものも、第二次の葬処だというかと質問する人があるであろうが、私は多分そうだろうと答える積もりである。(中略)土佐国群書類従に採録せられた御子神の記事などを読んでみると、死して六年とかの後には人を神に祀ることができるといって、その方式が載せてある。(中略)現実に骨を移し、且つこれを管理しなければ、子孫は祖先と交通することができず、従って家の名を継承する資格がないものと考えていたのではあるまいか。姓をカバネといい、カバネが骨という語と関係があるらしいから、私は仮にそう想像する(「葬送の沿革について」『定本柳田国男集』一五巻、筑摩書房)。
ここで柳田が「カバネが骨という語と関係があるらしい」というのは、たとえば栗田寛「氏族考」などでもいわれていることで、昔は常識といってよいほどよく知られていることであった。
中田薫も、論文「可婆根(姓)考」で、骨をカバネという語にあてることに注目し、恩師の宮崎道太郎が、倭国のカバネ制には新羅の身分制度、すなわち骨品制の影響があり、それは朝鮮語では「骨」という字は宗族親族の義をもつことと関係していると述べていることを引用している。中田はカバネ制度自体を韓国から輸入したものであると論じている。たしかに、新羅では王族を真骨と呼び、その中でも父母が王族に属する者を聖骨といった。カバネ制度それ自身が韓国から輸入されたかどうかは別としても、ここには骨自身を神聖視する観念があり、倭国のカバネ制度も本質的に同じものであることは明かだと思う。
これは前方後円墳についての長いあいだの論争にかかわってくる。つまり、ヤマト王権と前方後円墳について、国家論というにふさわしいレヴェルの議論を最初に行ったのは、中国史家の西嶋定生であった。西嶋は前方後円墳という葬送の制度、葬制においてもっとも特徴的なことは、それが「殯によって骨肉を分離し骨のみを葬る」ものであったことにあるとしている。古墳の埋葬部には基本的に「骨」のみがあるというのが特徴だというのである。古墳を考える上では、この「殯」という「骨肉を分離」する二次葬法の意味が決定的であることは前述の通りであり、この指摘の意味は重い。言及がないところをみると、中国史家の西嶋は、柳田や中田などの仕事を参照しなかったのではないかと思われるが、しかし、その指摘は柳田・中田の先を行っているように重う。
ようするに西嶋は、「姓=カバネ」は「同族関係の象徴的表現としての骨と同語となっている」ことの意味を重視し、古墳時代に列島のほとんどの部分にひろがった古墳のネットワークは、「骨」のネットワークであるとみたのである。古墳時代は骨が身分をもつ社会なのだというわけである。私は、この西嶋の見解は、遺骸そのものが社会や文化体系の中枢に位置しているという前述のような人類学の見解に見事に対応していると考える。
しかも、西嶋は、古墳時代においては、このネットワークが国家と文明化の道に入り込んでいることを問題とした。西嶋は、中国史家として、柳田や中田などの仕事とはまったく別に問題を発想し、そこに東アジアにおける中華帝国の存在を前提とする国家システムをみた。つまり、古墳に葬られた大王・王族・首長たちの骨は、彼らの身分を表現するものであり、その意味で古墳のネットワークはヤマト王権の国家的な身分秩序を表現していると考えたのである。
なお、西嶋は単に抽象的な発想をしたのではない。西嶋は千葉県の自宅近辺の古墳の保存問題にかかわり、「東国史」に並々ならぬ感心をいだいていたから、その発想の根拠には、おそらく『国造本紀』という記録の解釈があったように思われるのである。つまり、この史料によると、上毛野(現群馬県)の国造の始まりは、古墳時代(と仮託された時代)に、大王崇神の子ども豊城命の孫にあたる彦狭島命という人物が東方十二国を支配したことにある。ところが、これに対応する記事が『日本書紀』(景行五十五年条)にあって、それによると彦狭島王は実は東国に赴任しなかったという。そもそも祖父の豊城命は大王崇神から東国統治を命じられており、彦狭島王は、その血統をうけて東国の支配を命ぜられたのであるが、赴任の前に大和国で死去してしまった。それを知った東国の百姓たちは、王がやってこないことを悲しみ、ひそかに王の「尸」を盗んで上野国に埋葬した。この尸=遺骸は古墳に埋葬され、こうして彦狭島王は上野国の国造家の始祖として神格化されたのではないかというわけである。
たしかに、「骨」あるいは「遺骸」の現物の衝撃力は強い。その人物が尊貴な身分にあった場合や強い威力をもっているとされた場合には、その全身骨格が、その人物の存在を代表するものとして特殊視されたということは容易に理解できる。それは都と東国の間のような一定の距離をもこえて効果を発揮したにちがいない。
また、そのような感覚は時間をもこえる側面があったのではないだろうか。つまり、『日本書紀』(持統五年八月条)によると有力な氏族に、「その祖等の墓記」を上申せよという指示が下っている。大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿部・佐伯・采女・穂積・阿曇などの十八氏族である。これは当時編纂中の『日本書紀』の資料とするためであったといわれるが、白石太一郎がいうように、古墳論にとってなによりも重大なのは、「このような各氏の祖先伝承が『墓記』と呼ばれていることである。これは、当時、氏族の系譜を含む祖先の事績が『墓』を媒介として伝承されていたこと、いいかえると、『墓』すなわち古墳ないしはその系譜をひく諸氏の伝統的墳墓が、一族の系譜や祖先の事績を伝承する機能をもっていたことを物語っている」(白石「日本神話と古墳文化」)。これは「墓」についていえると同時に、その中の「骨=カバネ」こそが氏族の「身分=カバネ」にとって重大であったということではないだろうか。
『新撰姓氏録』の序文には「ウジカバネ」を「氏骨」と表記しているというのは早くから指摘されていることであるが、それは、古墳時代が終わっても、「姓=カバネ=骨」の観念が実際には持続していたことの表現ではないだろうか。私が、この点で想起するのは、九世紀の恒貞廃太子事件(いわゆる承和の変)で、反逆の疑いをかけられて伊豆に流された橘逸勢の遺骸の運命である。彼は、配流の途中、途中の遠江国板築駅において、憤激のなかで命を終えた。彼に付き従って来た娘は、そこに父の屍体を葬り、出家して妙冲と名乗って八五〇(嘉祥三)年の恩赦の時まで、八年間墓を守って去らず、それを見る行旅の人は流涙しない人はなかったという。ようやく帰葬を許す詔をえたとき、娘、尼妙冲は、父の屍体を堀出し、それを背負って東海道を還ったという。『日本文徳天皇実録』は「時の人、これを異しみ、称して孝女となす」と伝えているが、この時、逸勢はすでに白骨化していたに相違ない。娘が白骨を背負うというのは、白骨信仰の極限を示しているといってもよいのかもしれない。九世紀にも王家の内紛が多く、それに関与して恨みをのんで死んだ王族・貴族はしばしば怨霊となって畏れられたが、橘逸勢ももっとも強力な怨霊として知られている(この事件については保立「東国の留住貴族」『中世東国史の研究』峰岸純夫編。東京大学出版会を参照)。