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2013年10月

2013年10月28日 (月)

前方後円墳と骸=姓の身分秩序

 昨日は久しぶりに千葉市の奥の都川支流域へ自転車
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以下は、前方後円墳論であるが、すべて研究史と既発表論文なので、ブログにのせます。
 こういうことを考える上で、山折哲雄氏の『死の民俗学』が参考になりました。一種の骨カルトとでもいうべきものを考えています。


 柳田国男が次のように述べていることは、山折がいうような「骨」の観念を前提として考えるべきものであろう。

 古墳と名づけられる大きな人工の塚山、内に完形をもって古人の姿を保存しているものも、第二次の葬処だというかと質問する人があるであろうが、私は多分そうだろうと答える積もりである。(中略)土佐国群書類従に採録せられた御子神の記事などを読んでみると、死して六年とかの後には人を神に祀ることができるといって、その方式が載せてある。(中略)現実に骨を移し、且つこれを管理しなければ、子孫は祖先と交通することができず、従って家の名を継承する資格がないものと考えていたのではあるまいか。姓をカバネといい、カバネが骨という語と関係があるらしいから、私は仮にそう想像する(「葬送の沿革について」『定本柳田国男集』一五巻、筑摩書房)。

 ここで柳田が「カバネが骨という語と関係があるらしい」というのは、たとえば栗田寛「氏族考」などでもいわれていることで、昔は常識といってよいほどよく知られていることであった。
 中田薫も、論文「可婆根(姓)考」で、骨をカバネという語にあてることに注目し、恩師の宮崎道太郎が、倭国のカバネ制には新羅の身分制度、すなわち骨品制の影響があり、それは朝鮮語では「骨」という字は宗族親族の義をもつことと関係していると述べていることを引用している。中田はカバネ制度自体を韓国から輸入したものであると論じている。たしかに、新羅では王族を真骨と呼び、その中でも父母が王族に属する者を聖骨といった。カバネ制度それ自身が韓国から輸入されたかどうかは別としても、ここには骨自身を神聖視する観念があり、倭国のカバネ制度も本質的に同じものであることは明かだと思う。
 これは前方後円墳についての長いあいだの論争にかかわってくる。つまり、ヤマト王権と前方後円墳について、国家論というにふさわしいレヴェルの議論を最初に行ったのは、中国史家の西嶋定生であった。西嶋は前方後円墳という葬送の制度、葬制においてもっとも特徴的なことは、それが「殯によって骨肉を分離し骨のみを葬る」ものであったことにあるとしている。古墳の埋葬部には基本的に「骨」のみがあるというのが特徴だというのである。古墳を考える上では、この「殯」という「骨肉を分離」する二次葬法の意味が決定的であることは前述の通りであり、この指摘の意味は重い。言及がないところをみると、中国史家の西嶋は、柳田や中田などの仕事を参照しなかったのではないかと思われるが、しかし、その指摘は柳田・中田の先を行っているように重う。
 ようするに西嶋は、「姓=カバネ」は「同族関係の象徴的表現としての骨と同語となっている」ことの意味を重視し、古墳時代に列島のほとんどの部分にひろがった古墳のネットワークは、「骨」のネットワークであるとみたのである。古墳時代は骨が身分をもつ社会なのだというわけである。私は、この西嶋の見解は、遺骸そのものが社会や文化体系の中枢に位置しているという前述のような人類学の見解に見事に対応していると考える。
 しかも、西嶋は、古墳時代においては、このネットワークが国家と文明化の道に入り込んでいることを問題とした。西嶋は、中国史家として、柳田や中田などの仕事とはまったく別に問題を発想し、そこに東アジアにおける中華帝国の存在を前提とする国家システムをみた。つまり、古墳に葬られた大王・王族・首長たちの骨は、彼らの身分を表現するものであり、その意味で古墳のネットワークはヤマト王権の国家的な身分秩序を表現していると考えたのである。
 なお、西嶋は単に抽象的な発想をしたのではない。西嶋は千葉県の自宅近辺の古墳の保存問題にかかわり、「東国史」に並々ならぬ感心をいだいていたから、その発想の根拠には、おそらく『国造本紀』という記録の解釈があったように思われるのである。つまり、この史料によると、上毛野(現群馬県)の国造の始まりは、古墳時代(と仮託された時代)に、大王崇神の子ども豊城命の孫にあたる彦狭島命という人物が東方十二国を支配したことにある。ところが、これに対応する記事が『日本書紀』(景行五十五年条)にあって、それによると彦狭島王は実は東国に赴任しなかったという。そもそも祖父の豊城命は大王崇神から東国統治を命じられており、彦狭島王は、その血統をうけて東国の支配を命ぜられたのであるが、赴任の前に大和国で死去してしまった。それを知った東国の百姓たちは、王がやってこないことを悲しみ、ひそかに王の「尸」を盗んで上野国に埋葬した。この尸=遺骸は古墳に埋葬され、こうして彦狭島王は上野国の国造家の始祖として神格化されたのではないかというわけである。
 たしかに、「骨」あるいは「遺骸」の現物の衝撃力は強い。その人物が尊貴な身分にあった場合や強い威力をもっているとされた場合には、その全身骨格が、その人物の存在を代表するものとして特殊視されたということは容易に理解できる。それは都と東国の間のような一定の距離をもこえて効果を発揮したにちがいない。
 また、そのような感覚は時間をもこえる側面があったのではないだろうか。つまり、『日本書紀』(持統五年八月条)によると有力な氏族に、「その祖等の墓記」を上申せよという指示が下っている。大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿部・佐伯・采女・穂積・阿曇などの十八氏族である。これは当時編纂中の『日本書紀』の資料とするためであったといわれるが、白石太一郎がいうように、古墳論にとってなによりも重大なのは、「このような各氏の祖先伝承が『墓記』と呼ばれていることである。これは、当時、氏族の系譜を含む祖先の事績が『墓』を媒介として伝承されていたこと、いいかえると、『墓』すなわち古墳ないしはその系譜をひく諸氏の伝統的墳墓が、一族の系譜や祖先の事績を伝承する機能をもっていたことを物語っている」(白石「日本神話と古墳文化」)。これは「墓」についていえると同時に、その中の「骨=カバネ」こそが氏族の「身分=カバネ」にとって重大であったということではないだろうか。
 『新撰姓氏録』の序文には「ウジカバネ」を「氏骨」と表記しているというのは早くから指摘されていることであるが、それは、古墳時代が終わっても、「姓=カバネ=骨」の観念が実際には持続していたことの表現ではないだろうか。私が、この点で想起するのは、九世紀の恒貞廃太子事件(いわゆる承和の変)で、反逆の疑いをかけられて伊豆に流された橘逸勢の遺骸の運命である。彼は、配流の途中、途中の遠江国板築駅において、憤激のなかで命を終えた。彼に付き従って来た娘は、そこに父の屍体を葬り、出家して妙冲と名乗って八五〇(嘉祥三)年の恩赦の時まで、八年間墓を守って去らず、それを見る行旅の人は流涙しない人はなかったという。ようやく帰葬を許す詔をえたとき、娘、尼妙冲は、父の屍体を堀出し、それを背負って東海道を還ったという。『日本文徳天皇実録』は「時の人、これを異しみ、称して孝女となす」と伝えているが、この時、逸勢はすでに白骨化していたに相違ない。娘が白骨を背負うというのは、白骨信仰の極限を示しているといってもよいのかもしれない。九世紀にも王家の内紛が多く、それに関与して恨みをのんで死んだ王族・貴族はしばしば怨霊となって畏れられたが、橘逸勢ももっとも強力な怨霊として知られている(この事件については保立「東国の留住貴族」『中世東国史の研究』峰岸純夫編。東京大学出版会を参照)。

2013年10月23日 (水)

奈良自然流の日々雑記より、海水注入もったいない

 この写真、先日近くの谷戸でみた「マルバルコウソウ」にタネがなった。いくつかタネをひろってきた。今日、庭に撒くつもり。
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奈良の庭の山野草木というブログの雑記から。
 庭の草花の写真をだしてくれているブログ。東大寺の境内の写真がある。
 以下の通り。
海水注入「もったいない」 東電本店が難色 テレビ会議映像
海水注入「もったいない」 東電本店が難色 テレビ会議映像で判明
日経2012/8/11
1号機に続いて2・3号機がメルトダウンに至ったのは、炉を冷却できなかったから
2,3号機は、津波で非常用電源が壊れECCSが動かなくなった後も、RCICは「最後の砦」となって動いていた。 最後の砦が稼働している間は、原子炉は「制御可能」の状態にあったわけで、この間に「ベントと海水注入」をしていれば「制御不能」の状態つまり「暴走」は起きなかった。

なぜ原子炉水位が下がり、燃料が露出されるまで 海水注入がなされなかったのか?

以下日経より転載
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東京電力が6日に公開した福島第1原子力発電所事故後の社内テレビ会議の映像で、危機的状況にあった2号機への海水注入に、本店が「もったいない」と難色を示していたことが明らかになった。東電の発表を国が止めようとしたため情報公表が遅れたことも判明。事故翌日に1号機で水素爆発が起きた後も事故対応の混乱が続き、事態悪化を止められなかった実態が浮き彫りになった。

 「いきなり海水というのは材料が腐ったりしてもったいない」(東電本店の社員)

 公開映像によると、第1原発の吉田昌郎所長(当時)は昨年3月13日午後8時半ごろ、2号機原子炉を冷却するため海水の注入を準備。これに東電本店の「復旧班」社員が異議を唱えた。

 吉田所長は「圧倒的に大量の水が必要なときに真水にこだわっていると大変なんですよ。海水で行かざるを得ない」と反論したが、本店社員は「いかにももったいないなという感じがする」と重ねて指摘。圧力容器などが海水の塩分で腐食し、廃炉になるのを恐れたとみられる。社員の氏名などは公表されていない。

 その後、海水注入は始まったが原子炉水位が低下、15日午前の格納容器損傷につながった。


2013年10月21日 (月)

峰岸純夫さんの本の書評と学術フォーラム「地殻災害の軽減と学術教育」

 ゼミの必要があって、峰岸純夫さんの本、『日本中世の社会構成・階級と身分』の書評のテキストをWEBPAGEに載せた。
 今週後半はまた台風が予想されている。災害科学を文理融合の学術体制の中核をなすものとして全力をあげて造り上げるということを考えないと、学術の社会的位置が確保できないのではないかと思う。
 各地域の詳細な地質学的な調査にもとづくハザードマップの作成が絶対的な必要なのではないだろうか。これを10年かかっても作成する計画を立てないのは、信じられない話しである。巨費を使用することになってもやむをえないのではないか。それがこの国土にいま棲んでいるものとしての世代的な義務ではないか。私はそういうように考えない人は政治や行政の中枢にいては困ると思う。
 それをすべての基礎にして、「災害予知」ということを考えなければならない。最近、「予知」という言葉は評判が悪いが、しかし、文理融合であたらしい分野を作り出しながら進める災害科学の創成という観点からしても、またその地にすむ人々の動物的な直感をも動員して未来をみる目を確保していくという作業の性格からいっても、ここでは「予知」という言葉が必要だと思う。「予測」という言葉でよいという一部の意見は、ようするに災害科学の全体を考えない。それは別の人の仕事と思っているということにならないかというのが心配である。私は、「予知」という言葉を非常にピンポイントな予測についてのみ、実際上、警報と同じような意味で使うブループリントの用語法には賛成できない。しかし、自然科学的な予測のみでなく、災害科学全体で、未解明の部分に取り組んでいこうという意味で、広い意味で「予知」という言葉を使うことは必要だと思う。
 峰岸純夫さんの仕事は平安鎌倉室町の時代を通して、はじめて災害史を構想し、研究を実践し、考古学との交流を作り出してきたことにあると思う。
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学術会議での11月16日に「地殻災害の軽減と学術教育」というテーマでもたれるが、この「地殻災害」という言葉も峰岸さんの作った言葉である。それにふれた今年3月の東京の歴教協での私の講演の一部を下記に引用しておきます(全文は『東京の歴史教育』42号、2013年8月)


 今回の東日本太平洋岸地震と原発震災の複合という事態の中で、今、どういう教材研究が必要なのか、そして小・中・高・大学でどういうカリキュラムを系統的につくっていくべきなのかということを、みなさん、御考えなのではないかと思います。問題はたしかにきわめて大きく、私は、歴史の研究者としても、それに対応して、基本的な部分から考えなおしていくべきことが多いのではないかと思います。
 まず御紹介したいのは最近の『歴史学研究』(2013年3月号)にのった峰岸純夫さんの「自然災害史研究の射程」という論文です。峰岸さんはたんたんと書かれているのですが、それを読んでいると、端的にいえば自然史を本格的に歴史学の研究と教育の中に組み込んでいくことの重要性を改めて認識させられます。とくに私はいま地震学や災害論の研究者と議論する機会が多いのですが、彼らと話して、この論文で重大だと思ったのは、峰岸さんが、自然災害を(1)気象災害(a風水害、b干ばつ・冷害、)、(2)地殻災害(a地震・津波、b火山爆発、)、(3)虫・鳥獣害(a昆虫の大量発生、b鳥獣の作物荒らし)と区分していることです。とくに(2)の地殻災害という言葉は、峰岸さんは「日本列島の地殻構造に起因する地震・津波・火山爆発などである」と説明されていますが、災害研究のキーワードの一つになるのではないかと感じています。ヨーロッパの災害研究では、災害はMeteorological Hazards Geological Hazards Biological Hazardsの三つに分類されているということですが、峰岸さんは、それとは独立に同じ結論に達したようです。このうち、二番目のGeological Hazardsというのは地質災害とも訳せるかもしれませんが、地殻災害という訳は新鮮だというのが災害研究の方の意見でした。
 ただ、三番目の虫・鳥獣害というのは、もっと広くBiological hazards、つまり直訳すれば生態災害とでもいうのがよいのではないかと思います。いま鳥インフルエンザのパンデミック(世界流行)の危険が問題となっていますが、これもある意味での鳥獣害ですが、生態系の攪乱からくる災害という広い意味で分類した方がよいように思います。
 話のはじめに、なぜ、この災害の三類型について御紹介したかといいますと、実は、今日お話しする奈良時代から平安時代は、温暖化、地震・噴火、そしてパンデミックがまさに日本の歴史上、最初に一緒にやってきた時代だからです。地震・噴火などの地殻災害は、そのような人間と自然との関係の歴史全体の中で分析する必要があります。
 (以下略)
なお、学術会議のフォーラムのポスターの趣旨文は、次のようになっている。


 東日本大震災の後、地震学・火山学を中心とした自然科学分野と実学としての人文社会科学の連携が強くのぞまれている。そこで地震学、火山学、地 質学、地理学、歴史学(文献・考古)、防災研究などの諸分野が集まって、状況を報告しあい、地殻災害の予知・予測・警告や情報管理のあり方、防 災・地学教育のあり方、歴史地震・噴火の研究など多様な問題を討議することとした。なお、科学技術学術審議会測地学分科会より、来年度から5年間 の地震火山観測研究計画(中間まとめ)が発表されている。この計画も地震学を災害科学の一環ととらえ、文理融合研究を強調するものとなっており、 その趣旨も討議の対象となる。現在、地殻災害をめぐって、学術の鼎の軽重が問われている。文理の連携と融合の実現をめざす、このフォーラムに多くの方々の参加をお願いした い。

2013年10月20日 (日)

割竹形木棺と竹珠の物忌女(かぐや姫)について

割竹形木棺と竹珠の物忌女(かぐや姫)について
古墳時代に『竹取物語』の原型があったという意見。
 この写真は、東北歴史館の作成した会津の大塚山古墳の埋葬部の「割竹形木棺」といわれる棺の模型をさつえいしたもの。歴史館は撮影自由であった。この割竹形木棺が『竹取物語』の「竹」の中に人間がいるというイメージに直結しているというのが、『かぐや姫と王権神話』で書いたこと。
 「夜郎自大」という言葉があるが、夜郎は中国南部貴州の西部にあった苗族の国で、その王が世間知らずで威張っていたという話しである。『後漢書』(南蛮西南夷列伝第七六)には、この国の河で洗濯をしていた女の両足の間を流れぬけた大竹の中に男児が生まれ、竹王と称したという伝承が記録されている。竹から人間が生まれたという神話は台湾南西の火山島、蘭嶼でも記録されている。
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 これについては、『かぐや姫と王権神話』で次のように書いた。

「隼人は南方系海洋民に出自するとされるが、前述のように、東南アジアには太く高い竹があって竹は活発に利用されていたし、竹からの誕生神話も広く分布していた。たとえば台湾タオ(ヤミ)族は大岩が火山爆発によって割れ、大竹が大波に打たれて割れ、両方から神が生まれたなどという伝説が伝えられている。あるいは隼人の竹利用技術や前方後円墳に特徴的な割竹形の木棺(五メートルを越える長大な筒型木棺)、さらにはカグヤ姫伝説の源流も、このような南方との関係をたどれるのかもしれない」

 さらに、詳しく読んでいただければわかるが、これは次の「竹」と「物忌」の深い関係についてふれた文章とも関係する。

「ひさかたの 天の原より 生れ来たる 神の命 奥山の 賢木の枝に 白香つけ 木綿とり付けて 齋瓮を 齋ひ穿り居ゑ 竹珠を 繁に貫き垂り 鹿猪じもの 膝折り伏せて 手弱女の おすひ取り懸け かくだにも われは祈ひなむ 君に逢はじかも                (『万葉集』巻三、三七九番)
 この歌は、大伴坂上郎女が氏の祖先神を齋うにあたって作った歌であるが、この「竹玉を繁に貫き垂り」という『万葉集』にしばしばみえる常套句の「竹珠」とは、竹を輪切りにして管玉にして、長い糸に通した装身具のことで、物忌に入った女性は、それを何重にも手や首に巻いて垂らす風習があった。新しく切った齋竹から作った青々とした竹珠の環飾の呪力は特別のものだったのであろう。この時代の勾玉・管玉の色調が、緑色がかった青に限定されるのは、そのためであった可能性が高い」。

 上記の二つの文章は、考古学の対象である木棺と勾玉・管玉は両方とも竹のイメージであるというもの。ようするに、竹の姫、かぐや姫は竹の中にはいって降臨してきた、そして竹玉をみにまいた「物忌女」であった。それ故に、『竹取物語』の原型となるイメージと観念の連合は古墳時代から存在したのではないかということである。
 木棺が割竹形木棺という言葉は誰が使い出したのかは不明で、森浩一さんなどは、この言葉には根拠はない(『古墳の発掘』)というが、私は、『かぐや姫と王権神話』を書いて以来、ここには相当の根拠があると考えてきた。いま、その話しを続けて書いており、その内容を先日のゼミで話した。
 昨日・今日は家族にとって大事な時間。葬儀があった。いろいろありがとうございました。
 いま家に帰ってきて、電車のなかでのデータをまとめた。

2013年10月13日 (日)

倭国神話論のためにーーー民俗学との関係

 『物語の中世』という本を講談社の学術文庫で再刊行してもらった。そのあとがきである。
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 先日の自転車。公園のわきを上に登っていったところ、ほとんど山道である。ここを自転車で通るのはさすがに気持ちがよい。もっと長く続けばよいのであるが、ーー

倭国神話論のためにーーー民俗学との関係
 この本は、一九七〇年代にさかんだった「社会史」という研究動向の中から生まれたものです。社会史というのは、史料の細部にあらわれる人々の生活や意識に沈潜し、そこから一挙にふり返って社会の全体を一挙に捉え直そうというものでした。日本史でいえば、これは網野善彦・笠松宏至などの中世史研究者を中心とした動きで、この本には、彼らの影響が強く出ていて、たいへんになつかしく感じます。ただ、「社会史」という言葉はヨーロッパ史の側が主唱した言葉で、網野さんなどは、そこから相当の距離をおいていましたから、日本史の側で具体的な研究を行うと同時に、やや先走るように社会史的な方法を強調していたのは、実際上、私ぐらいだったと思います。そういう経過については、最近、『歴史学のアクチュアリティ』(歴史学研究会編、東京大学出版会)で話しましたので、この国の、ここ三〇年ほどの歴史学の研究史に興味のある方は、参照を願えれば幸いです。
 しかし、いま、この本を読み直してみて、読者の方に理解していただきたいと思うのは、民俗学との関係です。この本は民俗学の柳田国男・折口信夫の仕事を読み込み、「社会史」の側から受けとめようとする仕事であったと思います。このあとがきでは、そこを現在の時点から追補し、とくに最近考えるようになった倭国神話との関係を述べておきたいと思うのですが、問題は、とくに折口でした。本書の各所に折口批判が隠れていることは、お読みになれば御わかりいただけると思います。しかし、折口は神話の理解について多くの発言をしており、そこに十分に踏みこむことはできませんでした。本書には『物語の中世』という枠がありますから、これはやむをえないことでしたが、私は、これをどうにかして追補したいと感じてきました。「神話・説話・民話」のベースとなるのはやはり神話の世界だからです。
 ちょうど本書のもとになる論文を書いた頃に、歴史神話学の重鎮、岡田精司氏が、折口に対して完膚無きまでの批判を展開されていました(岡田『古代祭祀の史的研究』、一九九二年、塙書房)。本書の発行後、すでに一五年が経ちますが、この岡田の仕事をうけて問題を見なおすことは、私にとっては長い間の希望でした。岡田の折口批判の魅力は、折口の史料操作の誤りの指摘から社会的・政治的な立場にまでおよぶ厳しい批判をしながら、同時に折口の視座の独自性を高く評価する、その篤実な姿勢にありました。
 私も、及ばずながらそのあとを追いたいということで、実は、最近、倭国神話の全体について、その大枠を見なおす作業を開始したところです。そこで、現在のところ大ざっぱな見取り図ではありますが、以下、そのエッセンスを紹介して、現在の時点での本書への追補ということにしたいと思います。
高皇産霊という神は、火山神・雷神であること
 倭国神話の全体像を見なおすという場合、鍵となるのは、倭国神話の至高神の姿を明らかにすることです。現在でも、世間一般では、倭国神話の至高神はアマテラスという印象ですが、それがタカミムスヒという神であったことは、江戸時代の本居宣長によって指摘され、折口も確認し、神話学でも認められていることです。しかし、明治国家が、皇祖神アマテラスの位置を喧伝したこともあって、日本民族は、その神話の至高神が正確にはどんな神であったのか曖昧という状態のままで、この間、過ごしてきた訳です。
 これには歴史的な事情がありました。そもそも、『古事記』『日本書紀』の編者自身が「この神は自身から身を隠してしまった」と称して、至高神であったタカミムスヒの姿を曖昧にしてしまったのです。これはタカミムスヒが律令国家のような文明的な国家にはふさわしくないということだったと思います。
 そのため、この神の本性はわかりにくく、本居はもっぱらこの神の性格を神名から解こうとして、「ムスビ」の「ムス」は「ムスコ・ムスメ」の「ムス」で生成を意味し、「ビ」は「霊威」を意味するとしました。この神は、物事を「生成する」力をもった「産霊神」であるという理屈です。折口は、その種の理屈が嫌いですので、本居の図式を踏襲しながらも、実態は「結び」の神という点にあると説明しました。
 しかし、言語学的に「ムスヒ」の「ヒ」は清音で読むことが明らかとなり、折口の意見は成り立ちません。私は、「ヒ」は「日」=「火光の精」、そして「ムス」の原義は、『字訓』などの用例からしても「熱」という意味であると考えます。熱光の神、つまりギリシャ神話のゼウスと同様に雷神であるということです。これはタカミムスヒが天孫降臨に対する抵抗を排除するために、天から矢を突き降ろしたことにうまく対応します。タカミムスヒは落雷によって立ち枯れた樹(霹靂樹)に宿るものとされ、その別名を「高木神」ともいいましたが、これが本書でもふれた神話的な巨柱と巨樹の信仰に通じてきます(本書第3章)。
天地鎔造神・タカミムスヒは高千穂に降臨した火山神
 「核爆発」の火のことをふくめ、いつの時代でも人間の世界観は、「火」を中心に組み立てられていたということでしょうか。本書の重要なテーマの一つに、竃神のことがありますが、このタカミムスヒが「天地を鎔造した」神であるといわれているのは(『日本書紀』顕宗紀)、そこにも関わってきます。この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというですから、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになります。『荘子』(大宗師第六)には天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」という一節がありますが、それが倭国に伝わっていたようにも思います。益田勝実『火山列島の思想』は、八世紀、海底火山の噴火が、雷電の神が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目しています。これも同じことでしょう。
 つまり、タカミムスヒは雷神であると同時に火山神だったということです。火山の噴火の時には、火山性の地震があり、さらに黒雲とともに火山雷が鳴り響くといいます。「天地鎔造」というのはまさにそれにふさわしい表現ではありませんか。
 私は、有名な高千穂への天孫降臨神話も、その延長にあると考えています。つまり、『古事記』などによると、タカミムスヒは天孫瓊瓊杵尊を真床追衾で覆って、天磐座を押し離し、天の八重雲をおしわけ、稲穂を投げちらし、「稜威之道別道別而」、天の浮橋に「うきじまりそりたたして」、日向の高千穗峯に天降ったといいます。高千穂は火山ですから、この様子は火山噴火の描写として読み解くことができます。つまり真床追衾というのは、史料で「綿のごとき」物などといわれるスポンジ状の火山噴出物。そして天磐座を押し離すというのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージで、八重雲は噴火の噴煙を表現したもの。さらに稲穂を投げ散らすというのも、九世紀の伊豆の神津島噴火で、白い火山灰が各地で「米花」と呼ばれたというのと同じこと。また「稜威之道別道別而」というのは、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということで、火山雷のイナズマを描写したものでしょう。天の浮橋というのは、火山弾の岩雲のことで、「うきじまりそりたたして」というのは、「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」ということで、火砕流、溶岩流の様子でしょうか。
 天孫降臨を司令したのはアマテラスではなく、タカミムスヒであるというのは神話学者はすべて一致していることですが、タカミムスヒが火山神であると理解すれば高千穂神話の理解はたいへんに簡明になります。
「根の堅すの国」とは、鍛冶神ヴァルカンの国をいう
 さて、本書第一章の「『竹取物語』と王権神話」の続きの位置をもつ拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で詳しく述べましたが、私はいろいろな経緯があって、神道に興味をもつようになりました。そのなかで、『中臣祓訓解』という鎌倉時代初期の神道書を読み、そこに「根国・底国は无間の大火の底なり」という記述を発見しました。
 これは『古事記』のいう「根の堅すの国」という観念と同じことに違いありません。この言葉について、本居は「カタス=片隅」という解釈をしていますが、「堅す」は動詞であることが明らかとなっています。「鍛す」とも書きますので、埴輪を焼くための場所を火をつかって物を堅くする場所の意味で「鍛地」というの同じことでしょう(『日本書紀』)。つまり、「根の堅すの国」とは、ようするに「地下の火の国・鍛冶場の国」ということでしょう。神話時代の人々も、マグマという言葉は知らなくても、地球の深部には巨大な火が燃えていると知っていたことは、ギリシャ神話のいう鍛冶神ヴァルカンの国のことを考えてもわかると思います。
 そして、日本でヴァルカンにあたるのは、素戔嗚尊と大国主命になります。彼らが地震の神であることは、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で必要なことを述べました。私が神話論の研究をすることを決めたのは、実は、三、一一東日本太平洋岸地震の後に、この本を書くなかで、地震・噴火の歴史は神話の時代までさかのぼって考える必要があることを知ってからなのです。その事情については、それを参照願いたいと思いますが、ここでこの「根の堅す国」に関係して述べておきたいのは、出雲神話のことです。話が飛ぶようで恐縮ですが、東北から下りてきた第四紀火山フロントは、近畿地方で西に方向を転じ、中国地方の日本海側を通って、九州につながっていきます。伯耆大山はそこに属する火山で、歴史時代の噴火の記録は残っていませんが、『出雲風土記』で「火神岳」と呼ばれていることからすると、人々は、この山が火山であることはよく知っていた訳です。
 神話時代の人々も、こういう列島の地勢を知っていたのではないでしょうか。ここに、倭国神話のなかでの出雲神話の独特な位置の理由があると、私は考えています。そもそも、「ミトのマグワイ」によってこの列島を生んだと伝えられるイザナミは火山の女神であったというのが、神話学の泰斗、松村武雄の結論です(『日本神話の研究』)。倭国の国土観に火山の影響がきわめて大きかったことは明らかで、しかもイザナミは『古事記』の説明では、その遺体は、「出雲国と伯伎国との堺の比婆山」に葬られ、スサノヲは、母をしたって出雲に降った訳です。私は、この立地は伯耆大山と関係していると考えます。
 こう考えると、よく知られたオオクニヌシと因幡の白兎の話もまったく違う視野からみることができます。赤裸になった兎の皮膚を蒲の穂で治したのは、オクニヌシが火山神であると同時に、温泉神として治病の能力をもっていたためであるとされています。しかし、さらに具体的にみると、これは蒲の雄花の黄色い花粉が、実際に治療効果があり、しかもそれが皮膚病の薬として使われた硫黄とダブルイメージになっているためでしょう。小路田泰直氏によれば、オオクニヌシとともに、この列島の国造りにたずさわった小人神・少彦名命(スクナヒコナ)の「スクナ」とは硫黄を意味するということです(小路田『邪馬台国と鉄』)。人々は、オオクニヌシースクナヒコナの神格を、火山ー温泉ー硫黄という連想の下に考えていたに違いありません。ただ、小路田氏は「スクナ」を「酸粉」と理解しますが、これはむしろ「スクモ」(泥炭)という語から理解した方がよいと思います。なお、折口はさすがに天才で、「手のひらにすくもはたけば光るなり」という歌があります(『定本柳田国男集』26巻)。オオクニヌシがはじめて会った時、スクナヒコナを手の中でもてあそんだため、小人神が怒って、オオクニヌシの頬を咬んだといいますが(『日本書紀』)、折口はそれに気づいて、この歌を読んだのではないかと思っています。
大和に侵入した「神武天皇」の神婚のカガイ
 タカミムスヒの話に戻りますが、この神は、オオクニヌシに「国譲」を迫り、天孫降臨を司令し、さらにその延長でいわゆる「神武東征」を導きました。実際に、天皇(イワレヒコ)が、大和征服の前後に、この神を祭っています。
 面白いのは、大和征服が終了した翌々年、イワレヒコが野原で娘たちに声をかけ、先頭にいたホトタタライススキ姫をつれて河上の家に泊まったという説話です。これが八月のことであったというのが重要で、『竹取物語』によっても、八月は秋のカガイの季節なのです。つまり、イワレヒコ神話には、『竹取』まで続く大和国における男女の出会いの物語がふくまれているのです。問題は、この娘が、三輪山の神が「矢」に変身して溝から厠に侵入して娘の母のホトを突いて生まれたということです。最近、この神が溝から侵入した風情を髣髴とさせるトイレのミニチュアを備えた齋籠の家型埴輪が古墳の造りだし部分にしばしば確認されています。そして、それに対応する「木槽樋」のトイレ遺構が各地で発掘され、それら同時に産屋あるいは神婚儀礼の齋屋の遺構ではないかという意見もでています(黒崎直)。私もそれに賛成で、イワレヒコが泊まった河上の小家も同じような娘宿なのではないかと考えています。
 そして、この齋屋に来臨した神も雷神でした。右の三輪山の神(大物主神)は大国主命の後継者で、天孫降臨を前にして天上に昇ってタカミムスヒの娘神をあたえられていたといいますが(『日本書紀』)、龍の姿をもち、やはり雷神でした。ここには雷神=龍神の血が王家の血筋に入り込むという観念が示されているといってよいでしょう。
 本書でも、王の跡継ぎは雷鳴時の性交によって宿るという神話を論じました。私は、それこそが本来の「ヒ嗣=日嗣」の観念であったのではないかと考えるにいたっています。なによりも問題なのは、漢の劉邦が龍の血をひくとされているように、これが東アジアに共通する王権の血統観念であったことです(■■■頁)。ただ、ここで追加しておきたいのは、『史記』(周本紀)によると、神龍の吐いた泡を収めた秘函を開けてしまったところ、その泡から守宮が生じ、それが後宮の童女を身ごもらせて生まれた女(褒似)が周王朝を亡ぼしたという有名なエピソードです。
 龍神が転じて守宮神となるという訳ですが、これも本書でふれたように、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊が「守宮神」と呼ばれたというのは、こうして直接に倭国神話とその陰に潜む東アジアに普遍的な王権思想に結びつく問題であったことになります(二四二~三頁)。
倭国の王権は海の世界から生まれたのではないか。
 さて、以上、もっぱら火山神タカミムスヒの問題を中心に、追加的な説明をしてきましたが、本書では海の世界についても、第二章「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」、第六章「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」で論じました。とくに第二章では、王権と海上世界の関係がきわめて古くまでさかのぼることを述べてあります。
 御承知のように、柳田と折口は、この列島にいたる南の海の道を重視していました。とくに折口が倭国の王権には南方の「常世の国」に起源をもつ「水の女」の伝説がまとわりついていることを一貫して強調していました。折口の「水の女」論には、岡田の厳しい批判があって、私も、歴史家としては全面的にそれに同意するものです。しかし、現在の日本にとっての沖縄の位置を考えるたびに、私は柳田・折口の考えたことの視野の広さには感心させられることも多いのです。
 これに関係して述べておきたいのが、最近の学界では紀元前後に倭国の政治的中心が九州から近畿地方に移動したと考えられるようになったことです。そして、それとともにいわゆる「神武東征」の背後に何らかの事実があったのではないかという感じ方にだんだん抵抗感がなくなっているようにもみえます。ただ、私は、九州勢力が、長駆、大和を軍事的に征服したというのが事実とは考えられません。むしろ騎馬民族ならぬ朝鮮半島の「海民」の移住を重視する網野善彦氏の見解を前提とすると、列島の王権の萌芽は海の世界にあったのではないかと考えています。
 つまり、王家の直接の祖先神であるイザナキ・イザナミは海の匂いの強い神々です。イサナは鯨ですから、この名前は鯨男・鯨女ということになると思います。そして、岡田がその詳細な国生神話の分析において論じたように、この神の故郷は淡路島周辺の海人集団のなかにありました。ただ、この場合の問題は、火山島ではない淡路島に火山神話としての本質をもつ国生神話が生まれたことをどう考えるかということですが、しかし、これは南島から沖縄、南九州に連なり、朝鮮半島にも広がる火山地帯で縦横に活躍する海民が火山神話をもっていたとすれば解決するように思います。淡路から紀伊、さらに伊勢に固有の地盤をもつ海民集団。そして、彼らは海民によくあるように広域的な血縁関係を九州地方南部や朝鮮半島まで広げていたのでしょう。
 折口が重視したように、そもそも王権は淡路の海人を「海部馳使丁」として駆使していましたし、両者の間には皇子の養育をふくむ伝統的な関係がありました。また九世紀の氏族系譜、『新撰姓氏録』にこの両神を祖とする氏族がまったく現れないことは、王家それ自身の深層の記憶においてはイザナキ・イザナミの位置が大きかったことを意味します。乱暴なことをいうようですが、これは王権の淡路出自を示唆するのではないでしょうか。私はいわゆる「古代史」の研究者ではありませんので、自由に発言しますが、網野が論じたような「海原」の世界の大きさは神話時代の社会に構成的な影響をもっていたはずであると考えるものです。
 こうして、倭国王権が南九州ー北九州ー瀬戸内海をつなぐ海民勢力のなかから生まれた可能性があるとすると、理論的な見通しとしては、王権は石母田正ー網野善彦が強調する通り、地域間・民族間の交通関係から生まれた、あるいは交通形態そのものであったということになります。神話論のみで、こういう議論をするのが適当ではないことは知っていますが、『隋書』倭国伝(開皇二十年(六〇〇年)に「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあることの意味を考えてほしいと思うのです。倭王の姓は「アメ=海」であったのではないでしょうか。日本の天皇家は本来無姓であるとか、「倭」を姓とするという意見が一般ですが、私は、むしろ彼らは瀬戸内の島を出自とするということが記憶に残ることを好まず、もとの姓を隠したのではないかと考えています。王権はまず海民の出身であることを隠し、次ぎに至高神タカミムスヒを隠したということになります。

 以上、気になっていた、折口ー岡田の仕事と向き合うという仕事について、さきは長いですが、ともかく、このあとがきで、中間的な経過を報告できるところまで来たことにほっとしています。そして、この追補によって、ともかくも、本書から徐々にさかのぼって古典神話世界を理解し、この国の歴史の解明と神話理解の刷新に新しい道がついていくかもしれないという可能性を読みとっていただければ、たいへんありがたく思います。

2013年10月 5日 (土)

所有と社会構造

 昨日は、非常勤のゼミが始まって、地震の関係の仕事も入って、久しぶりに東京まで出る。疲れるが、ひさしぶりに考えさせられることも多い。
 今日は雨で、自転車にも乗れず、週末なので、趣味の歴史理論である。私のPCは理論とうつと、『共同体の基礎理論』に変換してくれるのであるが、この種のメモを大塚久雄先生の授業を聞いて以来、ため込んできていて、PCの中に作ってきている。お経の一種である。「人間をつらぬく、目のくらむような無限の連鎖」ということを詠んだ「詩」があったと思うが、それが思い出せない。
 メモのテーマは所有論である。しばらく前、西谷地晴美氏に『古代・中世の時空と依存』(塙書房)をいただいて考えている。西谷地氏jの議論はナガール・ジュナ『中論』と依存論という話しで、私には勉強がまだ必要なものだが、ともかく、所有論の前のレヴェルをどうふまえるかといことが重要なのは、以前から分かっていることであるというのが、私などの世代の感じ方であると思う。

所有と社会構造
 ある意味であたりまえのことで、また下手に厳密にやり出すのも無意味なのでいままでふれずにきたが、ここで「所有」という言葉をどういう意味で使っているかについて説明する必要がある。それなしには社会構造の説明ができないからである。
 この場合、ややっこしいのは、所有というのは腑分けしていくとそんなに単純な関係ではないということである。所有ということを最初から自明なものと考えてしまい、そういう法的な意味での所有から社会のすべてを説明してしまおうというのは簡単なようにみえて根本的な理解にはなりえないと思う。
 この所有というのは、人間とその外側にある物質の関係を、そのもっとも奥深い基礎にもっている。人間も身体としては物質それ自体であるから、これは一面で物質(物としての人間)と外界の物質との関係、ようするに物が人間の中に入ってきて、出ていく関係である。これを人間と外界の物質代謝の関係という。
 入ってくるものは口・鼻・目・耳・肌の五感を通じて入ってくるものすべてである。問題は、人間の場合は、身体には道具や機械がくっついていることで、さらに道具といい、機械といってもその先にはさらに様々なシステムがくっついている。たとえば目の前にあるテレビからは物質としての光が人間の中に入ってくるが、テレビの先には一方ではそのエネルギー源として電力供給の施設とネットワークがあり、他方では映像をつくるテレビ会社がひかえている。こういう風に、人間はその身体にくっついている五感の先に膨大なシステムをもつようになっているわけで、身体の拡大である。現在では、誰の身体でも、実際上は、こういう膨大なネットワークとシステムにまといつかれている。それはほとんど地球の大きさにまで広がっている。
 もちろん、たとえば膝の上にいる猫という動物をとってみても、猫の身体は実際には無限の広がりをもっている。猫のキャットフードの中に入っている魚は地球上のどの海からきたものかはわからないし、もし、キャットフードの材料のカツオが日本近海を泳いでいたものであったとしても、それは太平洋の遠くで成長して回遊してきたものである。そして、空間のみでなく時間をさかのぼっていったとすると、この猫も無限の連鎖の結果として、ここ、私の膝の上にいる存在である。この猫の親の親という形で、先祖にさかのぼっていけば、この猫の存在はほとんど地球の歴史のたまものとして、ここにいるということになる。
 つまり、こういう目のくらむような無限の物質代謝の連鎖の中にいるのは、人間だけではない。動物も植物も、この地上にいるものは同じ連鎖の中にいる。この連鎖に参加している植物・動物、そして動物の一種としての人間、つまり「生けとし生けるもの」は平等である。私と膝の上の猫は平等である。それに気づくことによって、人間の意識は消えてしまう。別の言い方をすれば、個々の人間にとっては、この物質代謝の諸関係の全体は感覚できず、意識もされないのである。それは動植物が物質代謝の全体を感覚できず、意識できないのと同じことである。物質代謝の諸関係の全貌は個々の人間によっては、所詮、感覚されず、意識されないのであるから、人間は傲慢になっていはいけないというのが、普通の感じ方であろう。
 もちろん、人間の場合は、この連鎖を感じる範囲、意識する範囲が、他の生き物より広い。人間は身体を拡大することができる。それを実感できるのは、最初は「道具」が届くという狭い範囲に限られている。けれども、物質代謝の脈絡が身体を越えるレヴェルに広がっているというのは決定的なことである。力を伝導する道具をつかい、道具が空間をこえて運動し、さらに火・水・土、さらには空気それ自体を道具として使う。石器・木器・土器・煮沸器・発火器その他。これは人間が人間になった時から、現在まで続いている人間の他の動植物と異なる特徴である。ようするに、物質代謝の関係を他の動植物より広い範囲で、意識して作り出すことができる。これがすでにふれた合目的的な労働、有用労働ということであることはいうまでもない。
 この意味で、私は、人間は労働によって人間になったというフリードリヒ・エンゲルスの古典的な考え方は、いまでも十分に正しいと考えている。ただ、これは人間と外界との関係から問題をみた限りのことで、それが同時に個々の人間にもたらしたもの、人間の内側にもたらしたものが明らかにならなければ問題は解けたとはいえない。つまり、エンゲルスの図式では、おもに労働の有用労働としての側面、意識的な側面しか論理化できていない。有用労働を支える特殊な動物類の能力、抽象的労働としての側面がどういう発達経路をたどったかは曖昧である。もちろん、人間の類としての動物的能力が重大な役割をもったのは、この労働が集団労働として存在したという基本点は押さえられているとしても、それは集団能力としての言語と身振りその他のコミュニケーション能力という形で意識の側面、頭脳の側面が主要なものとして数え上げられてしまう。もちろん、それはエンゲルスが当時の若干の人類学的な知識からほとんど推理によって問題を組み立てている以上、やむをえないことであるが、人間が立ったことは、合目的労働、意識的労働や身振り手振りという側面からのみみるべきではなく、たとえば腹面と胸部が露出し、これが猿人の性的な欲求の激しさをもたらし、猿人の群体・ホルデの性的な紐帯を柔軟化し、男女の相対的な自由を結果したということになる。これは類人猿の一種、チンパンジーよりも人間に近いといわれるボノボの観察から導かれたことであるというが、ある人がいっていた言い方だと、「猿が人間になるにあたってのオッパイの役割」ということである。これはいわゆる「群婚説」(グループマリッジ)の主張をより正しく言い表しているのかもしれない。あるいは立った人間は走る。その早さが感覚と意識の兆候優位性を傾向的に発展させ、人間は統合失調症親和性を自己の中に作り出しながら、「走る人間」=狩猟民として生き抜く、最初の人類スパートを獲得した。その意味で分裂気質こそ人類を人類にしたという(中井久夫『分裂病と人類』)。これらの仮説はまだ全面的なものではないが、さらに人間の動物的能力、類的能力の側面の追求が進めば、意識的活動、合目的活動の側面と統一して、より説得的な仮説が可能になるはずである。
 これはある意味では、現在、もっとも重要な問題であるが、ここで問題にするのは、まだそこではなく、人間と外界との物質代謝の関係それ自体の論理的な把握である。明瞭なのは、この物質代謝の関係というのが、他の人間をふくんで広がっているということ、他の多数の人間たちが網の目のようになった物質代謝の関係の結び目にいることである。つまり、人間個々にとって、物質代謝の網の目の全貌はほとんど意識されない、客観的独立性をもった領域であるが、しかし、人間の集団、類としての人間の広がりは、物質代謝の網の目の各所を意識の下に照らしだしている。もちろん、この意識というものは、つねに個人の意識としてしか存在しない。その相互の間には存在の闇、バタイユ的にいえば非連続の闇がわだかまっている。しかし、瞬間の光によって、神経組織の網の目が瞬間的な励起によってつらなるようにして、それに被われた物質代謝の運動が照らし出され、統御されるという新たな物質代謝のシステムが、ここにできあがるのである。
 こういう人間を網の目の焦点、中継点とした物質代謝の諸関係こそが、いわゆる物質的な経済関係ということになるのである。この物質的な経済関係は、生産関係、交換関係、分配関係その他、様々な領域と特徴をもって広がるのであるが、これらは、おのおの人間の感覚や意識を媒介としながらも、やはり全体としては、無意識の領野、存在の闇、非連続の闇が巣くい続けているのである。ここら辺のことを藤田勇は「個々の人間の経済活動はすべて意識的・意思的な行為である。ただ、行為主体たる諸個人には、行為の客観的諸前提、客観的諸帰結は意識されていない。彼らの主観的意思行為によって形成されている諸関係の客観的な経済的内容は、彼らには意識されていない。そして、彼ら相互間の意思関係を形成せしめているその同じ意思行為によって客観的には、彼らの意識から独立した物質的=経済的関係が形成されているわけである」と述べている(藤田勇『法と経済の一般理論』一八三頁)。
 こういう物質的=経済的関係はそれを被うようにして存在している人間の意思行為と一体になって、事実として広がっている。これは経済関係といってよいものであると思う。しかし、それは私たちの目の前に広がっている実際の具体的な社会関係ではない。私たちの目の前に広がっている具体的な社会関係というものは、文化や法律や思想その他その他、天国から地獄まで、飾りから実質まですべてをふくんだごたまぜの関係である。経済関係というのは、あくまでも、そういう現実に存在している社会関係の一側面であって、その意味では現実の社会関係からある側面として取りだしたもの、つまり抽象したものである。
 さて、以上の説明を前提にして、所有関係というものについて、はじめて考えることができることになる。つまり、こういう事実上の経済関係は、これまで述べてきたような社会構造の全体を前提にして社会の上から下までを貫くような、法的・政治的・イデオロギー的な要素も含みこむ利害関係によって染め上げられた強靱なシステムになる。事実上の経済関係を媒介する意思関係は、優越的なそれ、相対的に自由なそれ、そして多くの場合は隷属的なそれをつらぬいて脈動する。こういう関係を社会構造の中軸をなす所有関係というのである。それ故に、所有関係というのは、特定の歴史社会の社会構造を分析する場合は、その最終的な結論になるようなものであるということになる。
追記。最後の部分。所有構造は最終的な結論というのは、歴史的社会を描き出すときの方法論的な準備という意味で、具体的な分析はさらにつづく。それは共同体論につながるはず。「歴史経済学」の論文の最後で次のように述べた。これは、私たちの世代だと、大塚久雄ー平田清明氏の理解に対するコメントということになる。

 共同体の歴史的形態は、たしかに共同体の二重性を起点として形成されるのではあるが、共同体内部で経済的に自己決定され、そこを起点として「自己転変」していくようなものではなく、社会構成の中軸をなす所有構造全体、そして歴史的な経過と環境それ自身によって重層的に何度も逆規定される。共同体の具体的な歴史的形態は社会構成体の全体的性格の究明の不可分の一部として論じられなければならないのである。

「地震神話」を研究する現代的な意味(地震火山88再録)

英文を掲げたので再録しておく。写真は英文の方をみてください。富士の写真は面白いと思います。

「地震神話」を研究する現代的な意味
文理融合への歴史学からの接近

保立道久/文
史料編纂所 教授

東日本大震災と福島原発の核災害は、大学が理系・人文系を超えて
本格的な文理融合に進むことを求めている。
史料編纂所は長く地震研究所の進める古地震の研究に協力してきたが、
いま、その意味をあらためて実感している。

小平邦彦さんのエッセイが好きで、一時よく読んだ。面白かったのは「数覚」という言葉で、それは数学者の中に自然に芽生えてくる感覚なのだという。歴史学でいえばそれは何だろうと考えてきたが、「時覚」という言葉だろうかと思うようになった。
 私は一昨年から火山と地震の歴史の研究にとり組んでいる。3月に定年で史料編纂所を去るいまになって、地震研究所の歴史地震の研究に協力してきた先輩の仕事の意味を実感したのも、自分の人生についての一つの「時覚」というものかもしれないが、いま興味をもっているのは、紀元前後に南海トラフの連動型地震によって発生した巨大津波である。テレビで、海辺の潟湖の底泥の分析によって、この津波の規模を突きとめた高知大学の岡村真氏が、「我々の仕事は長い時間を扱うことです」というのを聞いた。地球科学ほどではないが、歴史学も個人の生活からみれば圧倒的に長い時間を扱う学問である。これがまさに「時覚」ということだと思う。そして、この「時覚」を養うためには文理の融合的な研究が必要だというのが最近の結論である。
 ところで、紀元前後といえば、日本の神話の創成期である。この時期の大地震が神話に反映している可能性は高い。実際、『古事記』には、海神スサノヲが怒って天に上る時に「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」とある。海神が地震神となるのは、ギリシャ神話のポセイドンでも同じであるという。スサノヲのいる地底の国が「根の鍛すの国」と呼ばれていることも重要で、つまり地底には鍛冶場があって、ヴァルカンのような鍛冶神がいるという訳である。
 そして、周知のように、青年神・オオナムチは地底を訪問し、そこでスサノヲの娘と仲良くなり、二人でスサノヲの「琴」を盗んで逃げ出すのだが、その琴が「樹に払れて地動鳴みき」という。この琴はスサノヲのもつ地震を起こす力を象徴するものだったのである。スサノヲは、火山噴火口から地上に逃げだしたオオナムチに対して、坂の上から「おまえは宝物を使って地上の王者となれ。そして、大国主命と名乗れ」と叫んだ。オオナムチの「ナ」とは、「ウブスナ(産土)」の「土」のことで自然としての大地という意味であるから、彼が「大国主」となったというのは大地の神が国王となったというような意味であることになる。この神話は、この列島に棲む人類にとって重要な意味をもっているのではないだろうか。
 さて、最近、危惧をもっているのは、ほとんどの人が「安全神話」という言葉を、原発について何の疑問もなく使っていることである。実態は「安全宣伝」としかいいようのないものに神話という用語を使うのは、人文学者としては大きな抵抗がある。これでは、民族的な遺産としての神話のもつ力は台無しである。大学が、社会的な要請を正面から受けとめて、本格的な文理融合に進むためには、ここらへんの感じ方から議論しなければならないのではないだろうか。私たちが責任をもつべき時間は、神話の時代をふくんでほとんど永遠に近い過去から未来まで続いているのだから。


<キャプション>
韓国で「地震神話」の報告をする時に乗った飛行機の窓から。向こう側に浮かぶのは伊豆半島。伊豆半島がユーラシアプレートにぶつかって富士山を押し上げる現場である。

小川琢治。日本の神話の地震神話という性格をはじめに指摘したのは地質学の小川琢治、つまり湯川秀樹の父であったが、歴史学は長くこのことを忘れていた。

3.11東日本大震災の時の千葉浦安の液状化。噴砂が地表で小さな富士山・火山の形をつくっている。1946年の東南海地震でも、人々は、この形を「富士山」と呼んだという。人々が、この形に地下の神の顕現を感じたことについては、保立『歴史のなかの大地動乱ー奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書)を参照。写真は、関口徹(千葉大学工学部)撮影。


丹青(広報誌、東大)に載せたもの。英文

The Modern Meaning of Research on Earthquakes in Mythology
Approaching the Integration of Humanities and Science from a Historical Perspective


© Michihisa Hotate
Michihisa Hotate
Professor, Historiographical Institute

The Great East Japan Earthquake and the nuclear disaster at the Fukushima I Nuclear Power Plant demonstrated the necessity for universities to transcend the boundaries between humanities and science, and to advance full-fledged integration of the various fields of human knowledge.
For a long time now, the Historiographical Institute has provided assistance to the research of ancient earthquakes advanced by the Earthquake Research Institute at the University of Tokyo. Today, I am even more keenly aware of the implications of this collaboration.


I love the essays of mathematician Kunihiko Kodaira and used to read them frequently at one time. I found the concept of “number sense” particularly compelling. It refers to the cognition that naturally develops in mathematicians’ minds. I thought about an equivalent concept in historical science and came up with the term “time sense.”

Over the past two years, I have been researching the history of volcanoes and earthquakes. Now, a few months before my retirement in March (2013), when I will leave the Historiographical Institute, the fact that I feel the significance of the work of my predecessors, who collaborated in the historical earthquake research implemented by the Earthquake Research Institute, is probably an indication of some “time sense” with regard to my own life. Today, I am interested in the massive tsunami caused by a multi-segment earthquake in the Nankai Trough around 2,000 years ago. Kochi University Professor Makoto Okamura, who ascertained the scale of the tsunami through analysis of lacustrine deposits along the Nankai Trough, once said on TV, “In our work, we deal with long periods of time.” From the perspective of one individual’s lifespan, historical science, too, deals with overwhelmingly long periods of time, albeit not as long as the periods explored by geoscience. That is precisely what the concept “time sense” is all about. I have recently reached the conclusion that research which integrates humanities with science is necessary in order to further nurture such “time sense.”

Incidentally, Japanese mythology was also formed 2000 years ago. There is a high probability that major earthquakes in that period may be recorded in some of the myths. In fact, according to the Kojiki (“Record of Ancient Matters”), which is the oldest extant chronicle in Japan and represents a collection of myths concerning the origin of the four home islands of Japan, when the Shinto god of the sea and storms, Susanoo, ascended Heaven in rage, “all the mountains and rivers shook, and every land and country quaked.” In Greek mythology, too, the God of the Sea Poseidon is also referred to as the “Earth-Shaker” due to his role in causing earthquakes. Another point of significance is that the land, to which Susanoo was banished, was called “Ne-no-katasu-no-kuni,” which is translated as “Hades,” “Underworld,” or the “Nether Distant Land.” The use of the word “katasu” meaning “forge,” however, suggests that there was a smithy in that land, and, furthermore, that there were gods of fire and smithery. These gods can be identified with Vulcan, the god of fire, including the fire of volcanoes, from ancient Roman mythology.

Another popular legend tells the story of the young god Onamuchi (later known as Okuninushi), who visited the Underworld and fell in love with Susanoo’s daughter. The couple stole Susanoo’s “heavenly speaking-lute” and escaped, but “the heavenly speaking-lute brushed against a tree, and the earth resounded.” This “heavenly speaking-lute” could be interpreted as a symbol of Susanoo’s power to cause earthquakes. Onamuchi escaped from the Underworld through the crater of a volcano, and chasing him, Susanoo called out from the top of a hill: “With the great [treasures] which thou earnest, [...] become the Deity Master-of-the-Great-Land.” The “na” in the name “Onamuchi” is interpreted to mean “land” as in the word “Ubusuna (“birthplace”), and signifies land as a part of nature. The fact that Onamuchi became “the Deity Master-of-the-Great-Land” (“Okuninushi” in Japanese) means that the god of nature became the master of the country. I think this myth is of a great significance to the people that inhabit the Japanese archipelago.

Recently, I am deeply concerned about the way many people indiscriminately and without reservation use the words “myth of safety” when talking about nuclear power stations. As a humanist, the use of the term “myth” with regard to something that can only be described as an “advertisement of safety” makes me extremely uncomfortable. It undermines the power myths have as ethnic heritage. I believe we must engage in a serious discussion about such perceptions in order to facilitate universities’ efforts to respond adequately to social demands and advance full-fledged integration of humanities and science. After all, the time for which we must bear responsibility is virtually an eternity that stretches from the past, including the age of myths, to the future.


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A photo I took out the window on a flight to South Korea to present my report “Earthquakes in Mythology.” The Izu Peninsula is visible in the distance. The Izu Peninsula collided with the Eurasian Plate, “pushing up” Mt. Fuji.
© Michihisa Hotate

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Takuji Ogawa
For a long time, historical science has forgotten the fact that Takuji Ogawa, the geologist who first pointed out the existence of earthquakes in mythology as an integral part of Japanese mythology, was also the father of Hideki Yukawa, a Japanese theoretical physicist and the first Japanese Nobel laureate.


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Liquefaction in Urayasu, Chiba, triggered by the Great East Japan Earthquake, which struck on March 11, 2011
The sand boiling has created miniature volcano-shaped formations that resemble Mt. Fuji. After the 1946 Tonankai Earthquake, too, people called these formations “Mt. Fuji.” In my book Rekishi no naka no daichi dōran: Nara Heian no jishin to tennō (“Earth’s Convulsions in History: Earthquakes of the Nara and Heian Periods and the Emperor”) (Iwanami Shinsho), I explain how people saw these formations as a manifestation of the gods of the Underworld.
© Toru Sekiguchi (Faculty of Engineering, Chiba University)

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