所有と社会構造
昨日は、非常勤のゼミが始まって、地震の関係の仕事も入って、久しぶりに東京まで出る。疲れるが、ひさしぶりに考えさせられることも多い。
今日は雨で、自転車にも乗れず、週末なので、趣味の歴史理論である。私のPCは理論とうつと、『共同体の基礎理論』に変換してくれるのであるが、この種のメモを大塚久雄先生の授業を聞いて以来、ため込んできていて、PCの中に作ってきている。お経の一種である。「人間をつらぬく、目のくらむような無限の連鎖」ということを詠んだ「詩」があったと思うが、それが思い出せない。
メモのテーマは所有論である。しばらく前、西谷地晴美氏に『古代・中世の時空と依存』(塙書房)をいただいて考えている。西谷地氏jの議論はナガール・ジュナ『中論』と依存論という話しで、私には勉強がまだ必要なものだが、ともかく、所有論の前のレヴェルをどうふまえるかといことが重要なのは、以前から分かっていることであるというのが、私などの世代の感じ方であると思う。
所有と社会構造
ある意味であたりまえのことで、また下手に厳密にやり出すのも無意味なのでいままでふれずにきたが、ここで「所有」という言葉をどういう意味で使っているかについて説明する必要がある。それなしには社会構造の説明ができないからである。
この場合、ややっこしいのは、所有というのは腑分けしていくとそんなに単純な関係ではないということである。所有ということを最初から自明なものと考えてしまい、そういう法的な意味での所有から社会のすべてを説明してしまおうというのは簡単なようにみえて根本的な理解にはなりえないと思う。
この所有というのは、人間とその外側にある物質の関係を、そのもっとも奥深い基礎にもっている。人間も身体としては物質それ自体であるから、これは一面で物質(物としての人間)と外界の物質との関係、ようするに物が人間の中に入ってきて、出ていく関係である。これを人間と外界の物質代謝の関係という。
入ってくるものは口・鼻・目・耳・肌の五感を通じて入ってくるものすべてである。問題は、人間の場合は、身体には道具や機械がくっついていることで、さらに道具といい、機械といってもその先にはさらに様々なシステムがくっついている。たとえば目の前にあるテレビからは物質としての光が人間の中に入ってくるが、テレビの先には一方ではそのエネルギー源として電力供給の施設とネットワークがあり、他方では映像をつくるテレビ会社がひかえている。こういう風に、人間はその身体にくっついている五感の先に膨大なシステムをもつようになっているわけで、身体の拡大である。現在では、誰の身体でも、実際上は、こういう膨大なネットワークとシステムにまといつかれている。それはほとんど地球の大きさにまで広がっている。
もちろん、たとえば膝の上にいる猫という動物をとってみても、猫の身体は実際には無限の広がりをもっている。猫のキャットフードの中に入っている魚は地球上のどの海からきたものかはわからないし、もし、キャットフードの材料のカツオが日本近海を泳いでいたものであったとしても、それは太平洋の遠くで成長して回遊してきたものである。そして、空間のみでなく時間をさかのぼっていったとすると、この猫も無限の連鎖の結果として、ここ、私の膝の上にいる存在である。この猫の親の親という形で、先祖にさかのぼっていけば、この猫の存在はほとんど地球の歴史のたまものとして、ここにいるということになる。
つまり、こういう目のくらむような無限の物質代謝の連鎖の中にいるのは、人間だけではない。動物も植物も、この地上にいるものは同じ連鎖の中にいる。この連鎖に参加している植物・動物、そして動物の一種としての人間、つまり「生けとし生けるもの」は平等である。私と膝の上の猫は平等である。それに気づくことによって、人間の意識は消えてしまう。別の言い方をすれば、個々の人間にとっては、この物質代謝の諸関係の全体は感覚できず、意識もされないのである。それは動植物が物質代謝の全体を感覚できず、意識できないのと同じことである。物質代謝の諸関係の全貌は個々の人間によっては、所詮、感覚されず、意識されないのであるから、人間は傲慢になっていはいけないというのが、普通の感じ方であろう。
もちろん、人間の場合は、この連鎖を感じる範囲、意識する範囲が、他の生き物より広い。人間は身体を拡大することができる。それを実感できるのは、最初は「道具」が届くという狭い範囲に限られている。けれども、物質代謝の脈絡が身体を越えるレヴェルに広がっているというのは決定的なことである。力を伝導する道具をつかい、道具が空間をこえて運動し、さらに火・水・土、さらには空気それ自体を道具として使う。石器・木器・土器・煮沸器・発火器その他。これは人間が人間になった時から、現在まで続いている人間の他の動植物と異なる特徴である。ようするに、物質代謝の関係を他の動植物より広い範囲で、意識して作り出すことができる。これがすでにふれた合目的的な労働、有用労働ということであることはいうまでもない。
この意味で、私は、人間は労働によって人間になったというフリードリヒ・エンゲルスの古典的な考え方は、いまでも十分に正しいと考えている。ただ、これは人間と外界との関係から問題をみた限りのことで、それが同時に個々の人間にもたらしたもの、人間の内側にもたらしたものが明らかにならなければ問題は解けたとはいえない。つまり、エンゲルスの図式では、おもに労働の有用労働としての側面、意識的な側面しか論理化できていない。有用労働を支える特殊な動物類の能力、抽象的労働としての側面がどういう発達経路をたどったかは曖昧である。もちろん、人間の類としての動物的能力が重大な役割をもったのは、この労働が集団労働として存在したという基本点は押さえられているとしても、それは集団能力としての言語と身振りその他のコミュニケーション能力という形で意識の側面、頭脳の側面が主要なものとして数え上げられてしまう。もちろん、それはエンゲルスが当時の若干の人類学的な知識からほとんど推理によって問題を組み立てている以上、やむをえないことであるが、人間が立ったことは、合目的労働、意識的労働や身振り手振りという側面からのみみるべきではなく、たとえば腹面と胸部が露出し、これが猿人の性的な欲求の激しさをもたらし、猿人の群体・ホルデの性的な紐帯を柔軟化し、男女の相対的な自由を結果したということになる。これは類人猿の一種、チンパンジーよりも人間に近いといわれるボノボの観察から導かれたことであるというが、ある人がいっていた言い方だと、「猿が人間になるにあたってのオッパイの役割」ということである。これはいわゆる「群婚説」(グループマリッジ)の主張をより正しく言い表しているのかもしれない。あるいは立った人間は走る。その早さが感覚と意識の兆候優位性を傾向的に発展させ、人間は統合失調症親和性を自己の中に作り出しながら、「走る人間」=狩猟民として生き抜く、最初の人類スパートを獲得した。その意味で分裂気質こそ人類を人類にしたという(中井久夫『分裂病と人類』)。これらの仮説はまだ全面的なものではないが、さらに人間の動物的能力、類的能力の側面の追求が進めば、意識的活動、合目的活動の側面と統一して、より説得的な仮説が可能になるはずである。
これはある意味では、現在、もっとも重要な問題であるが、ここで問題にするのは、まだそこではなく、人間と外界との物質代謝の関係それ自体の論理的な把握である。明瞭なのは、この物質代謝の関係というのが、他の人間をふくんで広がっているということ、他の多数の人間たちが網の目のようになった物質代謝の関係の結び目にいることである。つまり、人間個々にとって、物質代謝の網の目の全貌はほとんど意識されない、客観的独立性をもった領域であるが、しかし、人間の集団、類としての人間の広がりは、物質代謝の網の目の各所を意識の下に照らしだしている。もちろん、この意識というものは、つねに個人の意識としてしか存在しない。その相互の間には存在の闇、バタイユ的にいえば非連続の闇がわだかまっている。しかし、瞬間の光によって、神経組織の網の目が瞬間的な励起によってつらなるようにして、それに被われた物質代謝の運動が照らし出され、統御されるという新たな物質代謝のシステムが、ここにできあがるのである。
こういう人間を網の目の焦点、中継点とした物質代謝の諸関係こそが、いわゆる物質的な経済関係ということになるのである。この物質的な経済関係は、生産関係、交換関係、分配関係その他、様々な領域と特徴をもって広がるのであるが、これらは、おのおの人間の感覚や意識を媒介としながらも、やはり全体としては、無意識の領野、存在の闇、非連続の闇が巣くい続けているのである。ここら辺のことを藤田勇は「個々の人間の経済活動はすべて意識的・意思的な行為である。ただ、行為主体たる諸個人には、行為の客観的諸前提、客観的諸帰結は意識されていない。彼らの主観的意思行為によって形成されている諸関係の客観的な経済的内容は、彼らには意識されていない。そして、彼ら相互間の意思関係を形成せしめているその同じ意思行為によって客観的には、彼らの意識から独立した物質的=経済的関係が形成されているわけである」と述べている(藤田勇『法と経済の一般理論』一八三頁)。
こういう物質的=経済的関係はそれを被うようにして存在している人間の意思行為と一体になって、事実として広がっている。これは経済関係といってよいものであると思う。しかし、それは私たちの目の前に広がっている実際の具体的な社会関係ではない。私たちの目の前に広がっている具体的な社会関係というものは、文化や法律や思想その他その他、天国から地獄まで、飾りから実質まですべてをふくんだごたまぜの関係である。経済関係というのは、あくまでも、そういう現実に存在している社会関係の一側面であって、その意味では現実の社会関係からある側面として取りだしたもの、つまり抽象したものである。
さて、以上の説明を前提にして、所有関係というものについて、はじめて考えることができることになる。つまり、こういう事実上の経済関係は、これまで述べてきたような社会構造の全体を前提にして社会の上から下までを貫くような、法的・政治的・イデオロギー的な要素も含みこむ利害関係によって染め上げられた強靱なシステムになる。事実上の経済関係を媒介する意思関係は、優越的なそれ、相対的に自由なそれ、そして多くの場合は隷属的なそれをつらぬいて脈動する。こういう関係を社会構造の中軸をなす所有関係というのである。それ故に、所有関係というのは、特定の歴史社会の社会構造を分析する場合は、その最終的な結論になるようなものであるということになる。
追記。最後の部分。所有構造は最終的な結論というのは、歴史的社会を描き出すときの方法論的な準備という意味で、具体的な分析はさらにつづく。それは共同体論につながるはず。「歴史経済学」の論文の最後で次のように述べた。これは、私たちの世代だと、大塚久雄ー平田清明氏の理解に対するコメントということになる。
共同体の歴史的形態は、たしかに共同体の二重性を起点として形成されるのではあるが、共同体内部で経済的に自己決定され、そこを起点として「自己転変」していくようなものではなく、社会構成の中軸をなす所有構造全体、そして歴史的な経過と環境それ自身によって重層的に何度も逆規定される。共同体の具体的な歴史的形態は社会構成体の全体的性格の究明の不可分の一部として論じられなければならないのである。
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