かぐや姫の犯した「罪と罰」とは何か
ユリイカに「死の女神がなぜ美しいかーー火山の女神かぐや姫」という文章を書いた。率直にいえば歴史家としてはかぐや姫のイメージについて違う意見がないかといえばうそになる。しかし、このアニメーションをぜひ多くの人にみてほしい。日本の歴史文化が、このような形でふりかえられるのは、ともかくもよいことだと思う。
高畑監督自身も、このユリイカの座談会で趣旨を話しているが、私が「かぐや姫の犯した「罪と罰」とは何か」ということについて書いた部分を下記に引用しておく。
高畑「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき?娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。
興味深いのは、高畑アニメが、月の世界を「死の世界」とみて、その世界から地球をみるという視点をとったことであった。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。それが感動的なのは、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。
この「罪と罰」が明瞭に描かれていないことに不満の方もいるとは思う。とくに『竹取物語』をただのおとぎ話と感じていると「分からない」という感想になるのは自然かもしれない。
けれども、文学あるいはアニメーションは謎解きではない。ナルニア国物語の『朝開き丸、東の海へ』には、魔法使いコリアキンに関係して、「星のおかす罪は、人にかかわりのないものだ」という断言がある。「かぐや姫の犯した罪」も、「人にかかわりのないものだ」と考えるのが正しいと思う。そのようなものとして実際には共感や理解の彼方にあるのが「かぐや姫の犯した罪」なのではないか。
そもそも『竹取物語』は九世紀に書かれたものである。そしてその時代に書かれたものとしては驚くべきフェミニズム・ファンタジーである。世界に類例がない。
『かぐや姫と王権神話』ではかぐや姫の結婚拒否を次のように説明した。
「翁、年なゝそぢにあまりぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、男は女にあふことをす。女は男に合ふことをす。その後なん門も広くなり侍る。いかでかさる事なくてはおはしまさん(私ももう七十歳。今日とも明日とも知れない命です。この世の人は男は女にあい、女は男にあうものです。そうしてこそ一族も広まるというものです。どうしてそういうことなしに生きていけましょう)」。翁は自分の年齢をもちだし、カグヤ姫に対して、家の繁栄のために男を聟にとれというのである。
これに対するカグヤ姫の答えは「なんでふ、さることかしはべらん(どうしてそんなことをしましょうか)」というものであった。この言葉は短く、素っ気ないが、決定的なものである。ここで、カグヤ姫は、結婚と性の結合自身を拒否する、自分の心身をはっきりと自覚したのである。女性が「女性的なもの」についての通念を否定するという意味では、これはフェミニズムの前提である。もちろん、フェミニズムは女性という性を全面肯定することによって行動に踏み出すのであろうが、しかし、カグヤ姫が自分の「変化の物=聖なる存在」としての性格を自覚し、結婚を拒否するという文章の運びは、世俗の束縛からの自由を表現してあますところがない。
次はナルニア国物語の『朝開き丸、東の海へ』の関係部分。
「では、あなたは、空をとんでいた、とおっしゃるんですか?」とユースチスが、だしぬけに口をはさみました。
「わしは、空の上、とおいとおいところにおった。」とその年よりの人は答えました。「わしは、ラマンドゥです。といってもあなた方は、おたがいに顔を見あわせて、この名前をきかなかったように見えるな。いやむりもない。わしが星であった時は、あなた方のどなたもこの世に生まれぬさきに、終わっており、星々はみな、変わってしまったからなあ。」
「ひええ!」とエドマンドは、声をひそめて、「この人は、星のごいんきょさんだったのか。」
「もう、星にはもどらないのですか?」とルーシィがたずねました。
「わしは、地に休んでいる星なのですよ。むすめごよ。」とラマンドゥは答えました。「この前わしは、あなたが見てもわからぬくらいに、よぼよぼに老いぼれた時に、この島にはこばれてきた。いまは、そのころほど、老いぼれてはいない。朝ごとに一羽の鳥が、太陽の谷間から火の実をわしに運んでくれて、その実をひとつぶ食べるたびに、年がすこしずつ消えて若くなる。そしてわしが、きのう生まれた子どものように若がえった時に、わしはふたたび空にのぼり(ここは、地上の東のふちだからな)、ふたたび、大きな星のめぐりを歩むのだよ。」
「ぼくたちの世界では、星は、もえてるガス体の大きなたまなんですよ。」とユースチス。
「いや、若いかたよ。あなた方の世界でも、それは星の正体ではなく、成分にすぎない。それにこの世界では、あなたは、わしよりさきに、ひとりの星に出会っている。つまり、コリアキンには、会っただろうな。」
「あのかたの、もと星だったのですか?」とルーシィ。
「そうよ。まったく同じではないがな。」とラマンドゥ。「コリアキンが、のうなしたちをおさめる役についているのは、まったくの休みではないからな。あなた方は、それを、こらしめというかもしれぬ。あの星は、万事がうまくいっていたら、南方の冬の空に、まだ何千年もかがやいていられたはずだからな。」
「あの方は、何をしたのですか?」とカスピアンがたずねました。
「わが子よ。」とラマンドゥはいいました。「そのことは、人の子の知るべきものではない。星のおかす罪は、人にかかわりのないものだ。」
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