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2013年11月22日 (金)

カグヤ姫と仙女姮娥

カグヤ姫と仙女姮娥
 あさってから御寺へ出張で、その用意にかからねければならないのだが、今日までかかって、やっと寺史についての論文をかきあげて送った。出張と直接に関係するわけではないのだが、御寺へうかがう前に仕上げておきたかった。原稿の期限は相当前、しかも内容的にいえば「芽の芽」はおそらく20年ほど前からの作業で、どちらの意味でも長いあいだの負債で、疲労困憊であった。論文の関係の本、メモをすべて片づけて、疲れてPCの前。

 16日にとんぼ返りして、また京都なので、しばらくブログの更新ができない。フィリピンの台風被害が心配である。レイテ島の被害ということであるが、大岡昇平の『レイテ戦記』のことを考える。

 少し、「かぐや姫の物語」についても書いておく。というよりも使用しなかった原稿の一部をのせておく。
 
Cimg0326


 
 紀元前2世紀に中国で書かれたといわれる『淮南子』には月にいる憂愁の仙女のイメージがある。それによると、姮娥(こうが)という仙女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、姮娥は月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。
 最近亡くなられた益田勝実さんによれば、『竹取物語』は、この中国の姮娥の物語の続きを「日本の風土の中で語るという文芸精神」によって書いたものだという(『文学』一九九〇年冬号)。つまり、かぐや姫は、この不死の薬をもう一度地上にもってきたのだが、結局、天上へ帰り、しかも「不死の薬」は富士山の上で焼き上げてパーになってしまった。こういう形で中国の神仙文学の続きを日本で語ったのが『竹取物語』であるというわけである。

 ようするに、『竹取物語』は、死の話しである。

 一〇世紀の物語に『大和物語』があるが、その一四七話に、一人の女が二人の男の激しい求婚をうけて、進退きわまり、入水して自死してし まったが、男たちもそれを追って川に飛び込んで水死してしまうという悲話がある。悲しんだ二人の男の親は、女の塚の側に塚をたてた が、片方の男の塚には、「くれ竹のよ長きを切りて狩衣・袴・烏帽子・帯とを入れて、弓・胡?・太 刀などを入れてぞうずみける」という処置がされたという。ここにいう「くれ竹」とは、「呉竹」、つまり、中国の黄河流域以南に広く分布するハチク(淡竹)のことで、大きいものは、直径一〇センチ、高さは二〇メートルにも及ぶ ものである。「よ(節)長き」とされていることから推測すると、節間は三〇センチ あるいは四〇センチにもなるというから、相当の長さのものであったのであろう。それに衣類を入れて、副葬したというわけである。これは考え方としては割竹形木棺と同じことである。
 かぐや姫は、こういう太い竹に入って降臨してくるのである。当時の人々の常識からすると、そこには「死」のイメージが色濃かったであろう。この点では『竹取物語』にも、翁の歌として「くれ竹の世々の竹取 野山にも さやは侘びしきふしをのみみし」という歌が記録されていることが大事だろう。これは『竹取物語』が、本来、歌物語であったことを示す証拠として重要なものであるが、そこに「くれ竹」がでてくるのは偶然ではない。「竹」というものに対する神秘的な感じ方を抜きには、『竹取物語』は鑑賞できない。

(最後の部分は、オリジナルな史料の解釈である。若手の歴史家のじゃまになってはならないので、そういうことをブログで書くのはさけているが、しかし、ジブリの『熱風』にすぐに乗るので載せます。しばらく前の割竹形木棺の話しとあわせて読んでください)。

 なお、下記が書いた論文の一節。


 そもそも室町国家が禅宗国家という外形をもつようになったこと自体も建武新政における禪律国家の構想の影響がある。周知のように尊氏と直義は、後醍醐が死去した一三三九年(暦応二=延元四)、その四十九日に嵯峨の亀山殿を禅院に改め、暦応寺(天龍寺)を建立して後醍醐の冥福を祈ることを発意し、その住持に夢窓礎石をすえた。一三八二年(永徳二)、義満が夢窓礎石を開山として相国寺を建立したことも、その延長線上にある。室町期国家の正統的なイデオロギーとして禅宗と儒学が位置づけられ、禅宗寺院が顕密寺院との関係でも、経済的・社会的にも重要な位置を占めるに至った過程において、建武新政における禪律国家の構想との連続性は否定できない。重要なのは、この過程で、第一に社会勢力としての宗教勢力の中枢が、天皇家=旧王の直接の統御をはなれて、基本的に幕府の側に回収されてしまったことであろう。しかし、第二にそれは日本の伝統的な国制、つまり奈良時代の聖武の決定した「仏教国家」の伝統が形態をかえつつも維持されるという結果をもたらした。小島毅は、この経過を外から見た場合には「韓国は明の登場に連動して、仏教国家から儒教の国家へと変わるのですが、日本はそうしなかった。(中略)明は日本のことを仏教国家だと考えているのです。それは東南アジアでは当たり前で、タイとかカンボジア、マラッカが、当時は仏教国です。たぶん、明の皇帝からみると、韓国は自分のところと同じ宗教である朱子学を宗派にしているが、日本はタイやカンボジアと同じ仏教国だというようにみえていた」ということであると概括している(『歴史を動かすーー東アジアのなかの日本史』)。


 「日本はタイやカンボジアと同じ仏教国だというようにみえていた」というのが、最近考えている列島ジャパネシア論に関係する。そもそも、仏教東漸の極点が東大寺とボルブドールであるというのと、これは(はるかに時代を超えるとはいえ)対応することなのかもしれないと思う。そして、考えることはまた大岡昇平の『レイテ戦記』にもどる。ヤポネシアからフィリピン、インドネシアをみる視点というのは、本当に、大事なことなのかもしれない。
 

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