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2013年12月

2013年12月31日 (火)

雪景色

 ようやく、今年の原稿の負債ですぐに書かなければならないものを終えて、昼にメールで送り、その後に年賀状にかかった。印刷の手伝いを頼んで、どうにか疲労困憊の時間もすぎていく大晦日。

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この写真は今年の雪景色でもないし、年賀状の写真としては寂しすぎると却下になったもの。雪降り積もる寒さを思う。

 今日、岩波書店の『図書』がきて、池沢夏樹と高村薫の御二人が『古事記』を読んでいるというので驚く。高村氏は「日本人の祈りのかたちとはどんなもので、どんなふうに変容してきたのか、ぼんやり眺めたりしているのだが、それはまた日本人の歴史や生活史の俯瞰でもあるし、さらにいえば私から親へ、祖父母へ、曾祖父母へと先祖をさかのぼって、自分はどこから来たのかを探る旅でもあるだろう」といっている。

 歴史家の感じ方はすこし違う。しかし、私も、今年は、『古事記』をよく読んだ年だった。これは同世代の感じること、向かうところがどうしても似てくるという不思議な動きなのであろうか。私たちのうえにかかっている見えない網、天網のようなものは自然にある方向を向いているということなのかもしれないと思う。そして「見えない網」とはいうが、それは実際には見えている網なのであろうと思う。ある世代が同じもの、同じ「天網」を見ることができるということを大事にしたいと思う。それは共通する言葉をあたえれば見えるはずのものであり、見なければならないものであると思う。それをどうにか若い人々に伝えたい。

 『古事記』のなかに何をみることになるのか。私などにとっては、それはやはり確実に科学、歴史科学なのであって、その作業と仕事は「自分はどこから来たのか」という感慨はあたえない。この点は異なっている。高村さんは「自分はどこから来たのかを探る旅」とおっしゃるが、むしろ歴史学は自分という日常性を忘れさせる。「自分はどこから来たのかを探る」ということも日常性から離れるという意味があるから同じことをいっているのかもしれないが、しかし、歴史学には、最初から、「われわれは、どこから来て、どこへ行くのか」という問い、「われわれ」という問いが必須である。

 ただ、やはり、高村さんのいう「祈りのかたちとはどんなものであったのか」というのは、根本的な問いであろうと思う。祈りというものには、我々、家族、人々、人間という類が前提となっている。そして祈る相手はなによりも「自然」なのだと思う。それは目の前の日常性と現実を長い時間のなかに相対化する作業でもあって、だから、祈りというのは、意外と歴史学には近いものだと、私は思う。宗教者は永遠という時間を相手にしているが、歴史学者も、地震学や地質学の研究者と同じように永遠という時間を相手にしている。
 昨年から今年、歴史学は大きく自然の研究、自然史の研究の重大性を認識する方向にシフトしたと感じている。まず必要なのは自然神話の研究であろうと思う。それにしても、『古事記』と神話論にいまごろ取り組むというのは歴史家としては不徳のいたすところということである。しかし、今からでもいくらかの問題を明らかにすることによって、同世代の感じ方を共有し、豊かにする仕事に参加したいと思う。

2013年12月28日 (土)

101地震火山アリストテレスの地震噴火論

 『科学』1月号の巻頭エッセイで、アリストテレスの地震論について書いた。

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 『日本をおそった巨大噴火』という特集。すべて読み応えがあります。

 とくに縄文時代早期のカルデラ噴火として有名なBC5300の鬼界カルデラの噴火についての詳細な火山学的な説明がありがたかった。この噴火は、小学校で縄文時代のことを教材にするときには必ず取り上げるべきものと思う。 先日の通史(縄文時代)でもふれた。

そうやって徐々に学校で子供たちに必ず伝達するべき知識と、その体系というものができあがって行かねばならないのだと思う。

 巻頭エッセイでは、アリストテレスの地震噴火論にふれたが、これも小学校で教材にするべきものと思う。ギリシャ哲学を教材にする必要というものもあるのだと思う。

 以下、冒頭のところを引用。日本の対応資料もあげたが、それは『科学』でみていただければ幸いです。


  アリストテレスの『気象論』の第二巻七・八章は地震論になっているが、彼は、地震の原因を大地の中に吹き込み、吹き上がる風にもとめている(『全集』五)。それを火や水の動きに求めるアナクサゴラスやデモクリトスなどの見解を批判しながら、噴火、津波、液状化などについての観察を総合する議論はなかなか面白いものである。地震の原因を「陽・陰」の「気」の運動に求めるという点では、中国の自然哲学も同じであるが、観察が抽象化されていないのは、ギリシャが有数の地震・噴火地帯だからであろう。ギリシャ神話では海神ポセイドンが地下の地震の神となっている。アリストテレスの地震論は、そのような神話的な世界観から科学が生まれていく様相を示すのであろうか。


 岩波書店のホームページの『科学』の欄には、大島堅一・河野太郎・吉井英勝の3氏による座談会「原発の安全なたたみ方:資金・賠償・人材」(『科学』2012年5月号)が読めるようになっていて、これは勉強になった。一読されることを御勧めします。

 大島氏がいう原子力産業でも製造物責任という原則をまもる必要がある、また河野太郎氏がいう「原子力の先生方」についての厳しい批判、吉井氏のいう核武装のポテンシャル維持するための原発という議論が原発の基本問題であることをと40年前の文書で証明できること、など、どれも正論。これは基本的な倫理に属する問題であると思う。

2013年12月27日 (金)

辺野古埋め立て承認と靖国参拝ー残念に思うこと

 沖縄の仲井真知事が辺野古埋め立て承認の公印をついたということである。

 私は、昨日、安倍首相の靖国参拝のニュースを知ったので、あるいは仲井真知事は承認の方向を考え直すのではないかと期待した。


 私は政治家ではないので、期待をしてしまったということである。しかし、ごり押しをされた知事がそう考えるのは自然ではないかと思ったのである。

 つまり、安倍氏は仲井真知事を押し切ったから靖国参拝を行うことに決めたのである。「これを決めたから、次に進む」という判断である。これは20年後に政治史が書かれるとしたら、そう書かれることであると思う。実際に自民党および政府部内では、そのように意思決定過程があったことは確実であると思う。

 しかし、靖国参拝は、沖縄の基地返還にとって明らかにマイナス要因である。基地の返還は第二次大戦の結果の修正、見直しという問題である。歴史観の問題としては明らかにそうである。占領者のアメリカと歴史観にかかわる問題で真剣な交渉をしなければならない。正面から主張をし、極端に危険な基地の返還を主張し、相手を説得しなければならない時期に、なにもいま、靖国参拝を実行することはないだろう。これは歴史観にかかわることでアメリカと真剣に話す気持ちはないということである。それを別の形で表明し、自分から基地返還の交渉を正面からはしませんと発言したと同じことである。

 安倍氏は東アジアには緊張状態があるということを主張する。その主張の当否は別として、靖国参拝の当否は別として、靖国参拝が歴史観にかかわる問題を呼び起こすことは誰がみてもわかることである。ともかくも自分で緊張状態を生み出しておいて、アメリカに対して基地の返還の主張を貫徹することはむずかしい。安倍氏には本当のところで基地返還を主張する積もりはない。つまり日米安保条約は維持するというだけでなく、それにもとづいて限度をこえて沖縄に設定されている基地を抜本的に見直す気持ちも、用意もないのである。


 そういうように安倍氏が政治日程を設定していた以上、これは駄目だと仲井真知事には見切ってほしかったと思う。

 私たちがいまもっとも大事にするべき歴史観は、沖縄が長く敗戦処理のために、同じ自治体でありながら、同じ国民でありながわ不当に危険な状況に置かれている。これを解決するということではないのか。いま、私たちの国が抱えているき最大の課題、とくに最大の外交課題は沖縄の基地返還、そうはいわないまでも普天間の返還ではないのか。歴史観というものを真剣に考えるのだとしたら、そこから出発してものごとを考えるほかない。

 私はアメリカが「失望した」という言い方には若干の不快を感じる。東アジアの緊張の基本部分は、東アジアで朝鮮・ベトナムと戦争を繰り返してきたアメリカにも大きな責任があるというのが、私などの考え方である。他人事のように、日本の行為が緊張をもたらすという言い方には、十分な良識を感じない。

 しかし、外交論理でいえば、アメリカの発言にはそれなりの積み上げがあるので、これをいっても仕方がないのはわかっている。

 なによりも問題なのは、安倍氏が、アメリカの反発を当然のことながら知っていた訳である。私は、これは好んでやったのだと思う。アメリカがどういおうとも、やることはやるという訳である。そういう形で自己合理化をしようという訳である。アメリカにしたがっているのでは決してないという訳である。「対米従属」を実際上は先頭に立って行いながら、そうでないポーズをするというのは卑小である。

 これは本当に必要なこと、むずかしいこと、つまり基地の返還ということにとりくまずに、反アメリカのポーズだけをするということである。日本の首相は沖縄県の首相でもあるのではないのか。沖縄の意思をここまで踏みつけにすることが許されるのか。沖縄の戦死者に対して、これで顔向けができるのか。、
 
 私は、靖国については、太田秀通先生が、生前は、毎年、敗戦記念日に参拝するといわれているのを知ってから、そういう参拝者の意見を尊重するようになっている。太田先生は、私の修論の審査者である。ビルマ戦線で腕を爆弾で無くされ、戦争に反対し、日本の戦前の支配階級の戦争責任を強く指摘され、歴史家としては歴史学研究会の委員長もやられたにギリシャ史の大家である。しかし、先生は、多くの「戦友」の死をみており、その人々の霊というものを靖国に行くことによって感じられるということを否定されなかった。私は、そういう心理、とくに実際に戦争を体験した方々の考え方は尊重するべきであると思う。

 しかし、それと、この時期における首相の参拝とはまったく違うものだと私は思う。

2013年12月25日 (水)

多和田葉子『言葉と歩く日記』

 メリークリスマス。ご褒美のケーキ。

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 多和田葉子さん。小説は残念ながら、私には飛びすぎているらしいが、エッセイを好んで読む。『言葉と歩く日記』(岩波新書)を連れ逢いが買ってきたので、横から読ませてもらう。
 毎日の日記が新書になっているのだが、この日記は、「ーーーということですぐに寝た」というような記述があるから、翌日に書くのだろうか。正確に前日のことを振り返って、記憶していて、その記憶を躊躇なしに書けるというのは、すばらしいことである。
 私のように、内省をすれば目を覆いたくなるようなことが多い生活、省みて恥多しというよりも「省みなくても恥多し」という生活を送っている人間には、こういうことはできない。一月一日から四月半ばまでの毎日の日記である。意識と記憶の継続性を自然につくっていける。多和田さんは若いときから日記をつけ続けていたというから、そういうことができる人なのだと思う。
 しかし、多和田さんのエッセイを読まれた方にはわかるように、それは倭語とドイツ語という二つの言葉、言語の体系をつきあわせるという意識の動かし方がほとんど習性になっているためでもあるだろう。言葉のなかには、あるいは言葉の向こう側には客観的な言語体系というものがある。そこのなかに入りこめば、騒がしい日常は消えていく。恥多い日常はきえていく。これは言語世界のなかに入り込んでいく方法としては「禅」に似ているように思う。私に「禅」というものがわかる訳ではないのだが、「禅」には、そういう客観性があるように感じるのである。言語世界を想起することによって、意識と肉体のあわいにある常同的な世界に入り込む。すくなくとも、漢文、漢詩世界というものは、この国の知識人にとっては長くそういう役割をしていたはずである。
 国際性というのは、本来はそういうことなのではないかと思う。

 ハンナ・アーレントの映画についての感想がのっている。慌ただしい生活をしているまま、結局、見ることができなかった。多和田さんの感想を読んで、やっぱり見ればよかったと思ったのは、多和田さんの、この映画に描かれたハイデカーについての感想。

 多和田さんいわく。「ハイデッカーは、この映画の中では、母語であるドイツ語をいじりまわして、スピード操作したり、意外なところで区切ったり、独自のアクセントをつけたりして、意味ありげに語る滑稽でケチな野郎として描かれていた」という部分。その通りなのだと思う。

 さて、しかし、学者の言語生活というものは、乾いた雑巾をしぼるようなもので、本当につらい。これは歴史学者にとって、とくにそうなのかもしれない。あるいは僕だけのことかもしれない。けれども記憶の底をさらい、その途中で足りない材料を急に仕込み、そして全体の不協和音にさらされながら体系的な筋を通そうとする。体系というよりも、ともかく「ストーリー」を組み立てようとする。歴史は物語ではないが、しかし、ストーリーというものは必要であり、それは夢ではいけない。

 こういう作業を繰り返していると、不足感、不満足感がたまってきて、しかも仕事の無限さに打ちひしがれることも多い。歴史学者が体系がほしくなるのは、こういう理由だろう。私のように「省みなくても恥多い」という人間、そして歴史学外の理論と学史の筋というものが、個人としては大事な人間、やっかいな人間にとっては、さらに面倒な作業になる。
 
 ともかく一日、材料を頭に入れて寝てしまうというのが、最大の手段。寝てしまい、途中で目覚めるか、朝目覚める直前、自動的に頭のなかでストーリーが組み上がっているような「幻想感」が、ときどきある。これは救いである。

2013年12月24日 (火)

平安時代(院政期)の通史メモ

⑦平安時代(院政期)
政治史の考え方
 道長が王家の両流の5人の天皇・皇太子に娘を配し、王家の主要な男子がすべて道長の聟・孫・曾孫ということになって、10世紀の王統分裂は消滅した。迭立する王統を調整することを条件としていた道長の家の権力は、こうして絶頂に達することによって同時に権力の基盤を失った。後を継いだのは道長の孫同士の結婚から生まれ、母を通じて冷泉流の血もうけついだ後三条天皇であった。
 このように両流の統合者という地位に立った後三条は徳政を呼号して新制を発し、長男の白河に譲位して院政を開始しようとしたが、退位後すぐに死去してしまった。問題は後三条が白河の皇太弟に母方の冷泉流の王族との間にうまれた男子を指名していたことで、白河は院政を実際に実現して巨大な権力を握りながらも、この父の素意をおそれ続けた。そして、子どもの堀河が即位しても、孫の鳥羽が即位しても皇太子を置くことを許さず、王位継承順序の決定を自身で握り続けた。さらに従来、天皇や貴族は「王の侍」=蔵人のシステムを通じて官衙機構を動かしていたのであるが、院は「治天の務」を独占し、天皇を形式上の君主としてしまい、実際には院司・院側近を通じて政務をとって官衙を動かすというシステムを作り出したのである。
 これが院政の体制であるが、そのなかで院は、その権力の基礎を武家軍事貴族を直接に臣従させることにおいた。とくに白河は後三条の指名した皇太子に近い立場にあった武家源氏を嫌い、伊勢に留住した平氏の一流を重用した。これに対して源氏の側は復権を期して東国に勢力を広めるなどの戦略をとった。こうして、源平の軍事貴族相互の争いが王権の内部に持ち込まれることになるのである。
 院が王位継承権を握ることは短期的には王位継承を安定させたが、しかし、それは矛盾が生まれた場合、親子の対立をもふくむことになり、兄弟間の迭立よりも深刻なものとなる。そして、後三条ー白河、白河ー堀河の段階では、親子間の対立は潜在していたが、鳥羽と崇徳の親子関係は厳しいもので、鳥羽の死去をきっかけに現任の天皇で弟にあたる後白河に対して崇徳がクーデターをおこした(「保元の乱」)。これは王位をめぐる実際の軍事衝突としては「壬申の乱」から後、初めてのことで、しかも「王城合戦」であったから衝撃は深かった。しかも続いて、院政を敷いた後白河と子どもの二条天皇の間での紛議も軍事衝突に展開した(「平治の乱」)。この二回の合戦の中で、摂関家も分裂し、源家・平家もおのおの分裂して覇権をかけて争ったが、最終的な勝利者は平清盛で、敗北した武家の将・源義朝は東国に向かう途中で殺害された。
 後白河院は、清盛の妻の妹、平滋子を寵愛し、彼女が生んだ子が高倉天皇となった。この過程で、従来は公家貴族の下にいた武家貴族がその実力によって公家貴族に優越するようになった。さらに清盛は自分の娘を高倉の中宮とし、その子・安徳を天皇として、平家の支配する王朝を樹立する一歩手前までいった。しかし、平滋子が死ぬと後白河と高倉の父子関係は冷却し、そのなかで後白河と清盛が対立した。これは権力の正統性を「保元・平治の乱」の段階まで巻き戻して問うことにならざるをえず、これが1180年代の10年間の激しい内乱を結果した。それは平家がどちらかといえば京都と西国に拠点を置いており、義朝の子どもの頼朝が伊豆に流されていたこととの関係で西国・東国との間での史上初めての全国戦争になったのである。
東アジア
 一二世紀、中国東北部の女真族の動きを起点とする大波のような動きが日本に到達した。まず北においては、女真の活動はオホーツク文化(ギリヤーク族とされる)がふたたび北海道において影響を広げることに連動した。彼らと北海道の西部・中央部の蝦夷(アイヌ族)の間の交流と抗争こそが、後のアイヌのユーカラ、「英雄叙事詩」の背景をなすものであるという。1019年、沿海州女真族の一派、刀伊が朝鮮を襲い、さらに北九州に来襲して王朝に強い脅威をあたえたが、実は、それは一時的なもので列島におけるおもな抗争の場は北にあったのである。
 大陸に広がる北方諸民族と倭人の間の、いわば緩衝地帯にアイヌ族が存在したことは、倭人が北方の富を吸収する最大の条件になっていた。そのアイヌとの境界地帯に位置する平泉政権は院や院司に取り入りながらも半ば独立的な様相をみせて繁栄したが、彼らはアイヌ族との関係を媒介することによってそのような立場をえたのである。
 他方、さらに巨大な影響を及ぼしたのが、女真の「金」の建国によって宋が南に追われて南宋となったことである。その状態でも南宋は羅針盤、火薬、紙、印刷(「本」)などの技術と知識の刷新を進め、東南アジアからインドネシアにかけてまで広範な商業活動を展開した。各地の港市に居住した商人たちの姿は華僑の原型となったが、日本でも宋商が九州に居留地をもって活発に往来した。その中で琉球・九州は独自性を強め、広域的なまとまりを強化した。院の近臣たちは、それを直接に支配し富を吸い上げることに狂奔したのであるが、その中心に位置して瀬戸内から九州に広がる海の世界を固有の権力基盤としたのが平氏権力であった。福原京は、いわばそのような海上軍事王国の要に位置する副都という位置にあったのである。
 従来、東アジア交易の世界においては、倭人は基本的には中国に食い込んだ朝鮮の商人との関係を軸として動いていた。しかし、院政期になると、南宋の南方への発展の中で、琉球弧・日本四島・千島につらなる列島ジャパネシアの全体が、南海交易と北方貿易をつないで直接に交易世界に参入していったのである。これはかならずしも平和的なものではなく、1093年、宋人・倭人が乗り組んだ硫黄・真珠などを積載した武装商船が高麗に拿捕されている。これは、後の倭寇につながる動きが芽生えていることを示している。そのなかで、従来のような排外的な意識のみでなく、日本の武士は虎に挑んで射殺した、高麗は弱く、日本は兵が強いというような噂が広がっていた。
 しかし、実際には東アジア世界からの経済的な影響は日本社会の内部に深く及んだ。京・琵琶湖から日本海沿い商業網をひろげた比叡山の神人たち、ある場合は平家と結んで西国に拠点を広げた祇園社の神人などが鎌倉期以降にも続く商業資本の本流としてのし上がったのは、このような対外交易との関わりを抜きに考えることはできない。また一二世紀半ば以降、大量の宋銭が日本に流入したことは決定的であった。もちろん、交換経済自体は遙か昔から存在したが、宋銭の流通は、年貢としておさめた絹布・米の現物貨幣としての流通を前提にしていた従来の官衙・国衙の経済システムに対する大きな打撃となり、経済を動かす商人の力を増大させた。
社会構造の考え方
 院権力は王土思想を強調し、国土高権を振りかざしたが、それは現実には大地の国家的領有を分裂させる方向に向かった。まず院は、その知行国支配の中で院司を相次いで大国の国司に任命したり、隣接する諸国に任命して広域的な支配を展開する場合があった。とくに後白河院の院司集団は関東諸国をほとんど独占して、協力しつつ広域的支配を展開していた。院政の下で発展した知行国は国司職を子弟などに配分するシステムであったから、支配の便宜のために親族や関係者で隣接する諸国を一定期間にわたって支配することがしばしば発生した。これは院の代表する国土高権が現実には広域的支配権に分裂する傾向を意味する。平氏政権の下では、これがさらに進んだ。
 第二の方向はとくに白河院以降、院の国土高権の下で、巨大な院領荘園群が六勝寺などに集中される形で蓄積されたことに関係する。都市の貴族たちの荘園領有は、六勝寺のような都市附属の宗教施設あるいは王権の後宮施設の所職としてひろく分け持たれることになった。これは実際上、国土高権が都市貴族に分割給与されたことを意味する。しかも、院領荘園は山野河海をふくむ非常に広い領域を上から設定して設立されるもので、王の国土高権、大地と海原に対する支配権を分割したといってよい内容をもっている。
 そして、平家が政権を掌握した後には、このような国土高権の相当部分を平家が行使したのである。とくに平氏政権の下では、院領荘園を中心とする大荘園の領主に平氏の家人が補任され地頭といわれるようになった。これは荘園の境目を地頭といったことから始まったことであるが、上から国土高権を分割して荘園が設定される様子をよく示す言葉である。こうして形成された地頭領主制は強い国家的な性格をおびた領主権として鎌倉時代以降にも引き継がれて社会の枠組をきめることになる。
 これに対して村落では地主や有力な百姓を中心とした村落が「古老」などといわれる人々を中心にまとまっていった。その際、村落の側でも「寄人」などといって都などと関係をもって特産物を商品化する動き、村落の備蓄を保有しようとする動き、さらには飢饉に対抗するために開始された二毛作を広める動きなど、活発な動きがあった。
 広域的な地域が生み出されるのと、このような村落の動きは基底の部分では共通した動きで、すでに相当の地域で市庭は平和な場所でなければならないという考え方も生まれていた。それらをつないで地方に出職していく職人たちも生まれており、また商人たちは比叡山などの神人という身分を獲得して資本を動かすようになっている。さらに、平氏政権の下では宋銭が大規模に流入してきて従来の米布の現物貨幣とあわせて、人々の経済活動を活発にした。こうして地域社会の経済は東アジアと同様に活気に満ちたものとなっていったのである。
参考文献
入間田宣夫『武者の世に』(集英社『日本の歴史』⑦)
元木泰雄編『院政の展開と内乱』(吉川弘文館『日本の時代史』)

平安時代(摂関期)の通史メモ

 平安時代(摂関期)の通史メモである。
 院政期もやったので、これでやっとクリスマスのイヴに入れる。
 このメモの基本部分は、すでにWEBPAGEにもあげてある「都市王権と貴族範疇」(『日本史の方法』創刊号、二〇〇五年)という文章と、拙著『平安時代』である。
  

⑥平安時代(9-11世紀)
政治史の考え方
 平安時代とは、平安京を都とする時代ということであるが(平安遷都794年)、普通は、その前の長岡京遷都の時からをふくめることが多い。長岡京と平安京に遷都したのは桓武天皇であり、ようするに平安時代は桓武天皇の時代にはじまったというのである。
 しかし、実際上の時代の転換は、桓武の父の光仁の時から始まっていた。もっとも大きな問題は二つあって、一つは後に述べる蝦夷戦争の開始で、もう一つは、光仁が桓武の皇太子に同母弟、早良親王を指名したことであった。桓武はこの弟を長岡京建設の責任者、藤原種継の暗殺を使嗾したとして死に追い込み、自分の子どもの平城を皇太子の地位につけた。
 殺された種継は藤原氏の式家という家の出身であったが、桓武はこの式家と深い関係をもって式家の女性との間に平城・嵯峨・淳和の三人の王子をもうけ、おのおのに異母妹を配して王位継承権をみとめた。この三人の競争は、まず末弟の淳和がリードした。死の直前の桓武が淳和のもとに初孫が誕生したのをみて、その子を正嫡とする意向をみせたのである。これに反発した平城は即位ののち、式家の仲成・薬子を支えとして王位を独占しようとして破れた。
 この後、嵯峨・淳和が交代に王位につき、さらに淳和の次の天皇に嵯峨の王子・仁明、その皇太子に淳和の王子・恒貞が立った。兄弟間での王統の迭立である。藤原北家の内麻呂(摂関家の祖)は、この複雑な情勢を子どもの真夏・冬嗣の兄弟を各々平城・嵯峨に仕えさせることで巧妙に切り抜け、冬嗣と嵯峨は相互に男女の子どもを配偶させる密接な関係となった。そして、淳和と嵯峨が相次いで死んだのち、仁明は皇太子の恒貞を廃位に追い込んだのである(「承和の変」)。良房は、この時に仁明を支え、かつ仁明の子どもの文徳に配した自分の女子から清和が生まれた。こうして良房は天皇の外祖父として初の人臣摂政の地位についた。これに対して藤原式家は、平城の時に中心人物を失った痛手を回復できないままに力を失っていった。
 このように王位継承の紛議は続いたが、奈良時代のように天皇や王子、王族が怨霊となるようなことはなくなった。もちろん、右の恒貞廃太子事件では侍臣の橘逸勢が配流されて怨霊になった事件、あるいは、9世紀末期、宇多天皇の侍臣の菅原道真が、宇多と子どもの醍醐の間の矛盾に巻き込まれて死霊=雷神となったという事件などはあった。しかし、平安時代の王権の特徴は、上記の例のように、王位を兄弟の間で「迭立」させ、両流の王統が競合するなかで事態を決着させるという形が多くなったことである。
 これは10世紀にも村上天皇の子ども、冷泉と円融の子孫の間で起こった。つまり、冷泉の子孫3人、花山ー三条ー小一条(皇太子)と、円融の子孫3人、一条ー後一条ー後朱雀の両流の間での迭立である。藤原道長は円融系の側にたっていたが、右の6人のうち花山以外の全員に自分の娘を配し、両流を調整して権威をふるった。こうして良房も道長も、王家の迭立と内部矛盾を調整することによって大きな権力を入手したのである。
 これがいわゆる摂関政治の本質であるが、これは10、11世紀の平安王朝を安定したものとした。このような王権の安定の基礎となったのは、上級の王族・貴族が平安京に集中した巨大な富と充実した官僚組織を基礎にして、華やかな宮廷社会の中に自足し、その中での平和を追求したためである。このような都市王権のシステムは実際は人格的な奉仕関係、「侍」の関係の稠密な網の目を通じて動かされていく。侍の中心は天皇と后妃の側近に宮廷貴族の子弟が仕える「男房」(蔵人)と「女房」の組織で、これにならって貴族の家にも「侍」を中心とする奉仕組織ができていく。また侍の中には武官がいたことが重要で、その中には王族などの血を引く、源氏や平氏などの軍事貴族が重要な位置をしめていく。なお、平城上皇の事件の後に設置された蔵人所と検非違使が、この文武の「侍」組織が成長する場となったことは注目しておきたい。
 王権は、8世紀以来の開発振興策によって権力基盤を拡大しつつ、平安京が都市としてもつ求心力を利用して順調に発展した。このような条件の上に乗って、たとえば醍醐が発布した延喜の新制のように、天皇は代替りにあたって維新・新制の法を発布して徳政を標榜した。これは明治維新の「維新」と同じ意味である。そのことが示すように、平安時代の前期、9世紀から11世紀は日本の王権、天皇制の古典時代であったということができる。
東アジア世界
 光仁は、即位すると、すぐに代替りの遣唐使派遣を計画し、他戸を廃位し、桓武を立太子させた後に派遣事業を本格化した。対外的な面子からいって皇太子の人事の決着をまったということである。そして、次の外交政策は蝦夷との戦争であった。王の血統が天智系に切り替わるという不安定な政治状況のなかで、遣唐使の派遣によって正統性を示威し、他方では戦争に訴えるという代替りの方策がとられたのである。
 擦文文化以来、狩猟・農耕を組み合わせた安定した社会を形成していた蝦夷の抵抗は強かった。蝦夷にとっては、文明的な戦闘を戦わざるをえなくなった初めての戦争であったにも関わらず、この戦争は38年続いた。蝦夷にとってもっとも重大なのは樺太から北海道の北東に広がっていたオホーツク文化との競合であったが、東北における戦争=交通の経験は北海道の蝦夷の人々を北へ進出させた。
 こうしてそこに産するオオワシの尾羽などが『新猿楽記』に登場する商人のあつかう北海物資のなかに登場する。彼らが南は喜界が島にもわたり、夜久貝・硫黄などの南海の産物を交易していることが示すように、ここでは南海交易と北海交易が連接していったのである。琉球では農耕も開始され、後の「城」への動きが芽生えている。
 光仁の後、桓武・仁明が代替りにあたって遣唐使を派遣し、宇多も派遣を計画した。ただ、宇多の遣唐使は計画が曖昧になっている間に唐帝国が崩壊したために、以降遣唐使は派遣されなくなったが、平安王朝は、東北・北海道の特産物交易をドル箱としており、それは一貫して重視された。とくに陸奥の黄金は蔵人所の倉庫に収められて王室財政の直接の基礎となったことが特筆される。
 この時期の東アジアは、北方諸民族の活発な活動を原点として、契丹=遼の勃興、朝鮮半島における新羅の滅亡と内乱、高麗の建国、中国における唐の滅亡、「五代十国」の内乱、そして宋の建国と女真族(後の「金」)の台頭と続く内乱の時代であった。このなかで、唯一、王家が続き、域外からの富にもめぐまれた日本は、「君が代」に表現されるような島国的な独特の万世一系思想を強化していった。
 王権は外交においても摂関家による大臣外交のシステムを作り出していた。摂関家は、まず五代十国のうち江南に位置した呉越に対して、仏僧を使者として公的関係をもった。呉越はぶっきょこくで合ったから、これは南方交易のルートを維持する上で大きな意味をもった。さらに摂関家は東北地方や南九州に広大な荘園を設置して、貿易基地とする体制を整えていた。こういう中で相当数の貴族官人が陸奥に下向し蝦夷と通婚するなかで、陸奥鎮守府が改編され、それが平泉権力へ結びついていったのである。
社会構造の考え方
 平安王朝は都市に集中する富と組織を利用して強大な権威を実現しており、国家による大地の領有(国土高権)の強さは変わらなかった。国家的な勧農は本質的な変化はなく、班田収受制も「散田請作」という形にかわって国衙による土地管理は続いた。「班」も「散」も「あがつ」(配る)とよみ、人々が「班田」と「散田」を請作したという点では同じことである。
 ただ、9世紀には荘園の設立が目立った。平安王朝は華やかで平和であったが、宮廷の中心に参加できるのは摂関家を初めとする特権貴族であったから、そこから排除された人々は、国司の経験や人脈を生かし、農業や商業の富をもとめて地方の荘園に留住することも多かった。王族・貴族・寺社の「庄」の領有は8世紀から最初から認められていたが、地方に下った貴族は都との関係は維持しながらも、地域の領主となっていく。国司自身が留住してしまう場合もあり、地域社会は一種の開発ブームのなかで新しい権威を迎え入れることになった。
 9世紀にも温暖化した気候のなかで干魃の被害は続いたから、村の人々の営為とともに、この開発ブームがそれを防ぐための灌漑水路の改善などに相当の意味をもった。そして、そういうなかで「富豪」と呼ばれる人々が多く登場し、「里倉負名」といって、郡衙ではないところに自分の倉を建てることを認められ、周囲の耕地を名請けする地主となっていった。なおこの負名が「散田請作」をするシステムが後々まで続く「名」の原型である。8世紀の班田収受制からの変化は、地方行政組織ではなく、そこから生まれ郡郷の内側に巣くうようになった地主がこのシステムを支えるというという点にあった。
 地域社会には様々な機縁をもってやってきて中央と関係をもちながら土着の道を進む貴族領主たちと、富豪の地主たちが作り出す世界が生まれ、奈良時代につくりだされた経済インフラを前提として経済の基礎的な発展の時代がやってきたのである。なお、9世紀には京都の役所ごとに相当数の工匠(「作手」といった)が抱えられるようになっており、これが後まで続く「道々之輩」の原型である。その意味は役所の関係する「道」(分野)ごとに所属した工匠ということで、工匠の呼び方は「手人ー作手ー道々之輩」と変わっていったことになる。遠隔地商業が発展し、各地の特産物が生まれたことも特筆される。地方では、郡衙や国衙などの行政機関は縮小していったが、しかし、交通・港湾都市は発展して経済を支えた。また8世紀にはじめて導入された銅銭は王朝が改鋳利益をねらって粗悪化したために、民間で交換経済の桎梏として嫌われ、鋳造が行われなくなった。しかし、米・布などの現物貨幣のシステムはむしろ充実していった。
参考文献
保立道久『平安時代』(岩波書店ジュニア新書)

2013年12月23日 (月)

日本通史メモのための前書き

 以下は、ゼミのための通史のメモのための前書き。

 以前、『歴史学をみつめ直す』で書いたことの再論のようであるが、最後の方に、通史の要約的な叙述というものがなぜ必要か、考えたことを書いた。こういう要約なしに歴史理論、史論というものはありえないと思う。

 
 前近代を学ぶ意味

 前近代を学ぶということを考える前に、まず「近代」についていくつか確認しておくべきことがある。

 「近代」は英語でいえばModernという意味であるが、Modernは現代という意味ももっている。英語のModernは近現代とも表現できるように、近代とも現代とも訳すことができるのである。つまりModernとは、私たちが生きている現在の社会と同じ社会構造をもつとと感じている時代をいうといってよいだろう。英語でModernというと、ようするにフランス革命と産業革命以降の時代のことであって、欧米の人々は18世紀の後半からの200年以上の時代を自分たちの時代、近現代の時代という意味でModernといっているのである。

 これに対して、日本では、200年前といえば江戸幕府の将軍家斉が位についてしばらくの時代である。その時代はModernではない。日本でModernと感じる時間はヨーロッパにくらべて明らかに短いのである。しかも、日本では「近代」とは別に「現代」というものがあると感じられている。私たちは、近代というと「明治維新」以降の時代を意味し、現代というと第二次世界大戦の敗戦以降の時代と考えるのではないだろうか。これは短いModernの時代の中でも、時期を明瞭に区別せざるをえないほど、日本社会が、この時代、社会の枠組みに関わるような大きな変化を遂げたことの反映であると考えてよい。

 このように整理してみると、私たちの社会は、まだまだ安定した歴史意識をもつ社会ではないことがわかる。そしていまは、この社会をどのようにして安定的なものにしていくのか、「社会の持続」(Sustainability)をどう実現していくかということを正面から考えるべき時代であろう。

 さて、イタリアの歴史哲学者、クローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べている。ここでクローチェのいう「現代」とは右にふれてきたModernということとイコールではないように思う。それは、英語でいえばむしろContemporaryというのがふさわしい。つまり同時代(あるいは「現在」)ということである。ModernとContemporaryとは歴史に向き合うときの視座が異なっている。そう考えて初めて、この言葉の意味がわかる。そうでなく、「すべての歴史は現代史、Modernの歴史である」となれば、歴史の中にはPre-modernの時代の歴史が入らなくなってしまう。

 つまり「すべての歴史はContemporaryなものである」とは、歴史は時代の古さ、新しさをとわず、すべて現在の社会のもっている問題との関係で考えなければならないといおうとしているのである。これはたしかに正論である。考え方としてはその通りであることは認めざるをえないだろう。しかし、よく考えてみると、これはむずかしいことである。Contemporary(同時代)のことを考えるためにはModernの歴史を考えなければならないのはあたりまえのことのようにみえる。しかし、たとえば、私たちは現在のことを考えるのに「大正」の時代のこと、「昭和」の時代のことを本当に考えているであろうか。そう内省してみれば、その難しさはすぐにわかるだろう。

 また、現在との関係でPre-modernの時代の歴史を考えるというのも難しいことである。どちらが難しいかは一言ではいいにくいが、Pre-modernの時代についての難しさは、まずは時間が長すぎるということであろう。もちろん、Modernの歴史も、Pre-modernの歴史も、どちらも日常生活では実感できないような長い時間を対象にしている。しかし、Pre-modernの歴史というものはともかく長い。江戸時代の歴史となれば、いまから150年以上むかしであり、それ以前となれば、もっともっと前までさかのぼる。それはほとんど無限の時間である。前近代史を考える場合の第一の問題が、この無限に長い時間をどう実感するかということである。以下では、そのために、いわゆる自然史にかかわる問題を意識的に取り上げてある。地殻の変化、気候の変化などは10年あるいは100年の単位よりももっと長い時間の経過の中で動くが、それは人類社会に大きな影響をもたらす。もちろん、Pre-modernの時代を学ぶ意味はまずは社会にとってきわめて大事な意味をもつ歴史的伝統といわれるものを根源にさかのぼって知ることにあるだろう。しかし、長い未来にむけて「社会の持続」(Sustainability)をどう実現していくかを考えるとき、この自然史について知ることも、Pre-modernの時代を学ぶ重要な目的である。

 それは自然的な環境を共通にする列島の島々の連なりや、近隣の国々のことを考えることにもつらなっていく。もちろん、私たちの棲む列島は地球の一部であり、また私たち自身の血のなかにも人類の誕生の時代からみればほとんど世界中の人々の血が入っている。しかし、私たちの棲む列島は、ユーラシア東端、朝鮮半島の外れにあり、また台湾から琉球弧の島々、九州から北海道までの四島からなる本土列島、さらに千島列島に北上していく火山帯の上に形成された島々である。私たちとそこに棲む人類との関係は人類の野生の時代にまでさかのぼる。中国大陸から朝鮮半島という西から東へのベクトルと、台湾と千島列島をつなぐ南北のベクトルの両方が、この列島をつらぬいてきた。列島の形成や火山噴火、繰り返される海進と海退、そして気候の変化などは、しばしば共通する運命として、この東アジア、太平洋西縁の地帯にあらわれたのである。

 いうまでもなく、世界史の波動は、自然の地理的・環境的な自然を共通する近隣の国々との関係の中で、私たちの国と社会を揺るがしてきた。私たちは、海をこえてつらなる国々、島々からさまざまな文化や情報を受け入れてきた。この意味ではこの列島の範囲にすべてが局限された「日本史」という枠組はせますぎる。とくに7世紀の後半に形成された本格的な国家が、「日本」という国号を採用する前には、「日本史」といいにくいという意見は拒否できないだろう。また江戸時代以前の沖縄や北海道を「日本」とはいいにくいのは明らかである。そこで、この解説では、島尾敏雄の用語をとって、必要におうじてヤポネシアあるいはジャパネシアという用語を使っている。世界史と日本の関係を考える場合、とくに前近代では中国大陸の高文明から韓国ー日本という西東軸を中心にしがちであるが、しかし、南北からの影響のベクトルもつねに大きな役割を果たしてきた。

 このような西東・南北の二つのベクトルを組み合わせることによってはじめて列島内部における東西、太平洋側・日本海側などの地域区分も生きてくることになる。ジャパネシアは琉球弧、本州四島、千島弧などの島ごとに区分するとともに、西部日本海側、西部太平洋側、東部日本海側、東部太平洋側という区分が必要なのである。列島ジャパネシアの自然は南北に長く、自然条件はきわめて多様で豊かである。この国は、海・海辺・山地を通じた交通は活発なもののほとんど違う「くに」といえるほどの地域性を帯びているとしなければならない。私たちの祖先は、それを私たちよりも身にしみて知っていたはずである。このことを知ることもPre-modernの歴史を考える重要な目的である。

 さて、次に、以下のようなメモをゼミで議論する意味であるが、そもそも歴史の研究と教育・学習のためには、このような「要約」あるいは「メモ」が必要である。このような時代の概説は大きく時代をとらえるために必須の作業であり、それがなくては知識の蓄積や伝達はむずかしい。とくにこのような要約は授業カリキュラムを構成するためにはどうしても必要になる。

 もちろん、このような要約はあくまでもメモであって、それだけでは知識量は絶対的に不足している。(1)歴史辞書、(2)通史叙述(各出版社からでている『日本の歴史』などの通史シリーズなど)、(3)研究書・論文・講座などによって、機会あるごとにメモを追補し、記憶の世界を作り直していく作業は必須であり、さらにその背後にある「歴史資料」それ自体を点検することも必要になってくる(これについては現在ではデータベースの利用も可能になっている)。こうして知識とイメージを点検しながら、一度は記憶することなしには説得的な歴史像はうまれない。以下の要約は、あくまでもその意味での記憶のための結晶軸である。

 なお、ここでは、前近代の時期区分を、①縄文時代、②弥生時代、③古墳時代、④飛鳥時代、⑤奈良時代、⑥平安時代(摂関期)、⑦平安時代(院政期)、⑧鎌倉時代、⑨南北朝時代、⑩室町時代、⑪戦国時代(以上の項目はだいたい各項目4000字)としている。(幕藩体制と近現代については将来追補)。「古代・中世・近世」などの時期区分ではなく、むしろ時代の特徴や首都の所在によって区分する伝統的でわかりやすい用語を使った。「古代・中世・近世」、あるいは「封建制」などという用語は、時期区分の仕方や意味については議論が多いのが実情であるので、どう転んでも無駄にはならない知識ということで、このような時期区分を採用した。

 また、いうまでもなく、以下の時代概説のすべてが歴史学界の一般意見ではないことにも留意されたい。とくに全体は「通史概説」のようになっているが、そのようなレヴェルで一致することは現在の歴史学ではなかなかむずかしい。つまり、歴史学は本質的に資料と細部にこだわるが学問である。とくに、ここ20年ほど社会科学・人文科学の側での歴史的視野あるいは歴史的理論の議論が活発化していないこともあって、現在では、学界での共通意見が「通史概説」のレヴェルで議論されることも少なくなっている。もちろん、以下の叙述はできる限り通史シリーズなのに記述されている学説、あるいは研究史上でよく知られた学説などに依拠するようにしており、主要なものについては「参考文献」に記したが、紙幅の関係あるいは研究状況との関係では私見により、また諸学説の趣旨を取り合わせて叙述した部分も存在する。この点、ぜひ、参考文献などにもどって利用されるようにお願いしておきたい。


参考文献(あくまでも例示的なもの)。
『日本史史料』(古代から近世3冊、歴史学研究会編、岩波書店)ーー史料から確認するために。
保立道久『歴史学をみつめ直す』(校倉書房)ーー時代区分論について。
『日本史講座』(歴史学研究会・日本史研究会編、東京大学出版会、2004年)

2013年12月21日 (土)

奈良時代の通史メモ

 奈良時代の通史のメモである。
 残りは平安時代だけ。
 書いたものはすべてWEBPAGEにあげた。
 
 これまで書いたものをまとめて考えてみると、永原慶二氏の学説と結論としては近くなっていることを実感する。
 各時代についての4000字の要約を作ってきたわけであるが、それを時代ごとに、土地領有制と王権の形態を中心にまとめると(1)古墳時代ー「首長制ーーー部族連合王権」。(2)飛鳥後期から奈良時代ー「国家貢納制ー専制王権」、(3)平安時代ー「貴族庄園制ーーー都市王権」、(4)鎌倉から南北朝ー「武臣領主制ー王ー覇王体制」、(5)室町時代ー「領国領主制ーーー覇王体制(旧王ー覇王体制)」、(6)江戸時代ー「幕藩体制ーー武家君主制」ということになる。

 永原慶二説とは基礎となる考え方は相当に違うはずだが、結論は似てくるということである。

 以下、奈良時代
⑤奈良時代(3847字)
 奈良時代は平城遷都(710)から平安遷都(794)までの期間をいうが、ここでは紙幅の関係で、「大化改新」の後から説明する。大化改新はもっぱら中大兄の動きによって説明されがちであるが、実際には難波宮への遷都を主導した孝徳の位置も大きかった。しかし、孝徳が死去し、655年、皇極が重祚して(斉明)、中大兄の位置が上昇する。
 この時代より少し前から、列島の北と南の動きについての記紀などの記載がふえる。これはアムール川流域から樺太に広がる靺鞨諸族の活動(オホーツク文化、後の渤海につらなる)が活発化して蝦夷(後のアイヌ族)との衝突が起こる中で倭が蝦夷側にたって介入し、それを梃子として7世紀後半に陸奥を立国したことに関係する。しかし、その拠点は飛び石的なもので、実際には独立性が高かった。同様に南方では屋久・奄美などの諸島の人々の記事ががみえるが、これはこの地域の中心であった流求国が、隋の煬帝によって王を殺害されるなどの大規模な抑圧をうけたことの反映であった。南島には王がいたことが確認されるから、蝦夷や南島との関係は異国あるいは王と王の間の外交的関係として交易を中心としたものであった。
 とくに658年からの阿倍比羅夫による渡島(北海道)にいたる探査行は高句麗への北方航路の開拓もめざしていたといわれる。この時期、南北への動きが目立つのは大陸・半島との関係のみでない、南北への海の道とネットワークが、列島ジャパネシアの視界に入っていたことを明瞭に示している。
 ところが、660年、唐は大軍を送って高句麗の背後にいる百済を打倒し、比羅夫の探査行は中断する。倭軍は翌年から百済救援のために渡海したのである。そして、九州まで下った斉明は、そこで死去し、唐との決戦も白村江において無惨な結果となった。この戦争の惨禍は列島社会に深い衝撃をあたえた。そして668年、高句麗は唐軍によって滅亡し、669年には唐は倭国征討のための軍船を整えた。天智は防人・水城・山城を設置し、近江に遷都して防衛を固めた。そして軍役動員を表に立てて人々を戸籍によって掌握し、太政官を中心に官僚制を強化して、律令のシステムを成立させた(「近江令」671年)。百済・高句麗の滅亡のなかで、王族をふくめた多数の亡命者がいたことも、このような動きを促進したであろう。
 しかし、670年、事態は一変した。唐と同盟を組んでいた新羅が朝鮮半島の統一にむけて高句麗・百済の故地を占拠し、唐と戦う姿勢をみせたのである。これに対して唐は、今度は倭と軍事同盟を結んで新羅にあたろうとし、翌671年、使者を派遣してきた。唐軍の新羅攻撃への援軍の要請である。これに対して新羅も使者を派遣してくるという慌ただしさである。そして、このさなかに天智が死去してしまった。天智の後継に擬せられたのは大友皇子。母の身分は低かったが、天智はそれを無視した。
 事態を処置しなければならない立場にあった大友は唐の援軍要請にこたえる方針を決め、軍隊の編成にとりかかる。これを奇貨としたのが、天智の死去前、叛意を疑われて出家した大海人皇子(天武)であった。天武は吉野で蜂起し、おそらく戦争を好まぬ社会の雰囲気にも乗っかったのであろう。東国に回り、大友の近江朝廷を打倒することに成功した(「壬申の乱」)。そして、天武は派兵と介入の道をえらばず、防衛体制を維持し、交流を求めてくる新羅との関係を深めたのである。唐帝国は、北で突厥、西で吐蕃と対応することで余裕がなく、結局、朝鮮半島への介入をあきらめたから、これが正解であった。
 天武は兄の事業を受け継ぐ立場にあり、全体として保守的な姿勢が強い。「壬申の乱」は史上初めての大規模戦争に展開し、支配層のなかに重大な亀裂を残した以上、これは自然なことであった。内乱後の国内外の状況の安定をみて、天武は、妻の持統が天智の娘であることを強調して、二人の間に生まれた草壁を皇太子に指名し(ただし夭折)、天武と天智の両流を引く血統を正統とさだめた。また「皇親政治」といわれるように、王族の役割を重視した。そして近江令に手を加えて浄御原令とし、官僚制や儀礼を整え、「法」を重視する姿勢をみせた。それと同時に仏教を国教とし、さらに伝統的な神祇と神話の重視も重視する立場から『古事記』などの編纂に着手した。天武は儒教・仏教・神祇の三つをバランスをもって位置づけようとしたのである。
 天武は686年に死去したが、持統と孫の文武の下で、中国的な都城・藤原京の完成、大宝律令の制定などの事業が進んだ。問題は文武が20代半ばで死去して天智・天武の両流を引く男子が、文武と藤原不比等の娘との間にうまれた聖武に限られてしまったことであった。奈良王朝は元明・元正などの聖武のオバたちを天皇にし、あるいは血の近い藤原不比等をもり立てて、この血統問題をクリヤーしようとした。710年の平城遷都から聖武の立太子へと、この代替りはうまくいき、8世紀前半は国家の威信の拡大の時期となった。
 この時期、郡衙や軍団の編成、戸籍の作成、班田収受などなど国家支配の整備が進む。飛鳥時代の国家にもまだまだ西国国家という性格は残っていたが、ここで関東地方をふくめた全国国家ができあがった。この国家的な貢納システムの中心は、直線道路の設定や条里制の設置、一般的にいえば国家による自然=大地の開発と領有にあった。現代で言えば、開発独裁型の国家社会主義のようなものである。その下で国司は灌漑施設などを監察し、春には水田を班ち、種稲を貸し付けて不作のないように耕作させた。勧農と班田収受制である。この中で、従来の首長層にあたる人々は国司の下で個々に郡郷の行政や文筆の担い手として仕奉させられる。そして、その圧力の下で、民衆は、租庸調などの貢ぎ物や労役など共同体の外の世界にかり出された。
 このように7世紀末以降、国家によって大規模に進められた開発や交通の拡大は、全体として開明的な役割を果たし社会の生産諸力を解放した。それが列島規模の経済の基礎インフラを作り出すという歴史的意義があったことは否定できない。しかし、それはすでに解体していた首長制をさらに破片化したのみでなく、その基礎にあった旧来の共同体自体を分解することになった。民衆はそのなかでしばしば厳しい状況に追い込まれたのである。とくに、このころ、8Cからは世界史的に「中世温暖化」といわれる時期であった。温暖化は山野の植生に好条件であるが、農耕の進んだ社会には干魃の危険をもたらし、また疫病の流行のきっかけともなった。
 8世紀後半、重荷を負っていた地域社会に干魃と疫病が襲いかかったのである。それを象徴したのが、734年に河内・奈良で発生した大地震であった。しかも引き続いて735・6年、天然痘が大流行して奈良王朝に大きなショックをあたえた。これによって藤原不比等の4人の子どもなど公卿の半数以上が死去したが、干魃による飢饉とあいまって人口の3割にものぼるような多数の人々が死んだという研究もある。しかも、この疫病の原因は、聖武の皇太子が幼くして死去したという嫌疑をうけて自殺した長屋王の怨霊であるという噂がもっぱらであった(長屋王事件729年)。長屋王は天武の男子で壬申の乱に功の大きかった高市皇子と天智の娘の間に生まれた皇子で、さらに自身草壁の娘の吉備内親王を妻にむかえている。その男子は文武系以外では、唯一、天武と天智の両方の血をうけるという有力な王位継承候補者であった。疫病の流行のような災異がその死に関わるものと感じられたのは無理がない。そして、男子をなくした聖武は、結局、娘の阿部内親王を立太子させることになった(後の孝謙)。
 このような世情と王統の不安定のなかで、聖武は仏教に鎮護国家の力を求め、大仏の建立を発願した。この時期、高句麗の故地に渤海が興隆し、日本に新羅を挟み撃ちにすることを申し入れたこともあって、朝廷では二次にわたって新羅出兵の議論があった。しかし、聖武と孝謙はそれを嫌い、最初の予定地の山城紫香楽京が745年美濃地震で直撃されたにもめげず、東大寺大仏の造営を国家事業の中心にすえつづけ、それを実現した。大仏開眼会に新羅から王子が使者として来訪してきている。そして聖武の死去後、孝謙はさらに東大寺にならぶ大寺・西大寺の建立につとめた。孝謙は天武の孫にあたる淳仁を天皇としたこともあったが、淳仁が藤原仲麻呂とともに実権をにぎり、新羅出兵を決定したことなどを嫌って、結局、淳仁を廃止した。東大寺の建立と背景となった華厳の思想には平和の理念が含まれていたともいわれており、このような聖武・孝謙の姿勢の意味は大きい。
 しかし王位継承の行方は混沌とし、奈良時代の後期には、その中で天武の血を引く男子はほとんど処罰されるか配流されることになった。その度に、彼らの怨霊が疫病を引き起こしたという風評がたったのである。このなかで、770年、称徳(孝謙の重祚後の名)が死去し、結局、天智の孫の光仁に王位は譲られたのである。孝謙は、光仁に嫁いだ妹の井上内親王がもうけた男子、他戸皇子を後継者とする約束をさせたが、即位した光仁は、この天武・天智の双方の血を引く皇太子他戸を廃位してしまったために、奈良王朝の正統の血は絶えたのである。そして他戸も強力な怨霊となって、奈良時代末期の宮廷を混沌としたものにさせた。

2013年12月19日 (木)

飛鳥時代の通史メモ

 今日は雨。年賀状を書く余裕もないままメモ作りである。
 以下は、飛鳥時代の通史のメモである。

 なおさいごの部分に「首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた」と書いたことについては、説明が必要。飛鳥時代は石母田正さんがいう意味での首長制が解体される時期であり、律令時代は、それが完全に解体され、破片が国家的貢納制の下部組織に編成替えされる時期であると考えている。石母田正さんは首長制を基礎にして律令制をとらえようとした訳であるが、その趣旨を理解しつつ、私は、結局、そういうように考えてみたいということである。

 これは大学4年のときから、つまり卒論を書いたときからの問題なのであるが、石母田首長制論をどう考えるかというのは、私は、いまだに日本の歴史学にとって基本問題であると考えている。それは様々な意味があるが、石母田さんがいう律令国家の「国家的土地所有」というのは、首長制を解体しなければなりたたない関係である。そして首長制的な関係をこわして、再編成された国家は、きわめて全体主義的なもので、私は、その点では、律令国家を国家社会主義であるといった瀧川政次郎などの意見にも一理があったと考えるのである。瀧川政次郎などとは、自分ながら古いことをいうようですが。

 集団と共同体的な社会編成を通じても、ひどい社会はできる。「社会主義」を標語にし、自称していてもひどい社会ができる。これは歴史理論の側からいっても当然のことであろうと思う。それはすでに10年前に学会で講演した(保立『歴史学を見つめ直す』)。もちろん、「社会主義」ということ、つまり、社会を大事にして社会的関係を豊かにして共同していくのが類社会の道であるという点では、誰も否定できないし、否定すべきものではないが、しかし、社会主義を自称している社会にもかならず病理が発生する。現在、それを自称している社会はとても社会主義という名にふさわしいものではないが、それではあれはどういう社会なのか。集団的編成をとった奇妙な社会。全体主義社会というほかないと、私は思う。そういう社会が20世紀には生まれる条件があったのだ。
 
 どういう社会にも病理はある。その病理を客観的に認識するためには、従来とは異なる歴史理論が必要であるというのが、私などの意見である。病理をおそれて前に進まないということはありえないが、病理を目前にしてきた、私たちの世代は、この問題をとこうという意思なしには物事を進めることができない。

 日本近代国家の責任というものは存在するし、戦争責任というものは厳密に考えなければならないというのは、歴史学者として自然な考え方である。現在の北朝鮮や中国の体制は近代東アジアの歴史、そこにおける戦争ぬきにはありえない。しかし、北朝鮮、そして中国には、すでに病理が病理とはいえないような巨大な問題に広がっているということは別のレヴェルの問題である。これを東アジアの長い歴史のなかで考えることが必要であろうと思う。

 そのとき、日本の「古代国家」が全体主義であったということは、歴史理論上、欠くことはできない論点であると、私は思う。

 さて、これも古い証文を出すようであるが、下記は、早川二郎のいったこと。


「土地国有、アジア的官人などなどをもついわゆる『アジア的封建制』は、この貢納関係における征服者被征服者の共同体的関係がいつとはなしに静かに消滅して、一定地方から他の全地方への支配の形骸だけが残った時にみられるものである。とはいえそこに共同体的遺制は鞏固に保存されるのが普通である」(早川二郎「いわゆる東洋史における『奴隷所有者的構成の欠如』をいかに説明すべきか」1935『唯物論研究』)


 早川は『アジア的封建制』という訳であるが、これは私のいう「国家的貢納制」と同じことである。


飛鳥時代のメモ

 飛鳥時代という時代区分にはいくつかの考え方があるが、ここでは仏教の伝来した6世紀中ごろ(宣化・欽明朝)から「大化改新」のころまでとする。ただ、ここでは、この時期の王統の祖であった大王継体の登場の事情から説明することにしたい。
 応神・仁徳の直系の王統は、最後の武烈が子どものないままに死去し、それまでの激しい内部闘争もあって係累の男子もなく断絶してしまった。継体は越前にいたが、応神の五代の子孫で、皇親氏族の息長氏を出自としていた。継体のノミネートは息長氏が雄略のころから大王と姻戚関係にあったことに原因があったとされている。しかし、507年に即位したものの、継体の王宮は長く山城にあって、ヤマトに入らず、また子どもの安閑・宣化・欽明の間での王位をめぐる政争も推定されている。雄略の即位(465年)から、欽明の即位の540年ころまですでに80年近く王権は、内部争いと不安定な情勢のなかにいたのである。
 これに対して、欽明は30年の在位をまっとうし、男子の敏達・用明・崇峻、女子の推古をあわせると、この父子5人の天皇が約90年のあいだ王位をしめ続けたことになる。このころ王位は出来る限り血の濃い近親婚によって生まれ、成人している皇子が継承する原則があった*2。これが政治史の理解の基礎となるが、欽明の後継は欽明と兄宣化の娘のあいだに生まれた敏達。敏達の後は敏達と異母妹の推古との間の子、竹田皇子となるはずであった。用明・推古・崇峻は欽明と蘇我稲目の二人の娘との間にうまれていたから、竹田が成人するまでの中継ぎであったことになる。ところが、その間に竹田が夭折し、代わりに正統とされたのは、用明と妹の穴穂部皇女(母は蘇我稲目の娘)の間の兄妹婚でうまれた聖徳太子。
 用明の母は蘇我稲目の姉娘、穴穂部皇女の母はその妹という形で蘇我の血が二重に入っているが、当時の王位継承原則からすると、聖徳太子こそがもっとも純血となることは明かである。問題は、これに怒った崇峻が退位を肯んぜず、蘇我馬子が崇峻を殺害したことであった。しかし、これは聖徳につらなる王位継承原則を乱した訳ではない。事態収拾のために推古が即位したのも自然なことで、推古にとっては太子の父、用明は同母の兄、太子の母は母を姉妹同士とする異母妹という密接な関係である。
 ところが、この太子は推古よりも早く死んでしまい、王位は結局、蘇我氏の血をうけていない敏達の孫の舒明に回ることになった。記紀は蘇我氏の悪行譚を中心にした物語を描くが、実際には、この時期は大王の権威の確立期であり、蘇我氏は欽明をささえ、部族連合国家の枠をふみでた国家システムを作り出すのに決定的な役割を果たした。その地位は、仁徳王統の姻族を代表する大和南西部の葛城地域の部族長、葛城氏の地位を奪取したもので、葛城氏は対外関係を統括していた。蘇我氏は、5世紀の渡来系氏族のボスとして台頭した新興氏族(あるいは蘇我氏自身が渡来系ではないかともいわれる)であったから、葛城氏から朝鮮との窓口の役割を奪ったことは決定的な意味があったのである。
 この時代、6世紀の中国の北部は4世紀末に五胡十六国時代をおわらせた北魏が繁栄していた時代である。北魏は鮮卑族拓跋部の部族の連合国家であったが、すでに部族連合国家の枠をでて、法と官僚機構をもって華北を支配する大国に成長していた。また南部はインドから西来した達磨に法を聴いたことで知られる梁の武帝が治国の実を挙げていた時代である。内紛と分裂にも関わらず、中国の富強が目立ち始めた時代であるということができる。そして、その圧力の中で、朝鮮では高句麗・新羅・百済の三つどもえの死闘が繰り返されていたが、その中で加耶は新羅に最終的に併呑された(562年)。この中で、百済が倭を利用する戦術をとり、これが倭の加耶の権益を主張する名目に一致して、百済=倭の軍事同盟が形成される。
 そもそも継体は出身氏族の息長氏が渡来系に近い関係もあって百済勢力と強い関係をもっており、それが擁立の一つの条件であったともいわれる。そして、いわゆる仏教公伝、538年(元興寺縁起)あるいは552年(『日本書紀』)に百済から仏像や経論が贈られた前提にもこの同盟があった。それを主導したのは蘇我氏とその下の渡来系氏族であって、それは結局、蘇我氏による法興寺(飛鳥寺、588年造営開始)、聖徳太子による法隆寺(607年竣工)の造営に結果する。百済と倭の軍事同盟は、仏教を国教とする文化的同盟をも意味することになったのである*1。それを象徴するのが、敏達を最後にして前方後円墳の形式の王陵が終了したことであろう。以後も殯は行われたが、これは神話をイデオロギーとした部族連合国家からの転換を意味している。
 百済の大きな影響の下、こうしてヤマト王権は「文明」国家に転換したのである。社会構造の側面で、その初発を決めたのは、527年、継体が百済に援軍を送ろうとした際に、それに反対した筑紫の族長、磐井を討伐した事件である。これは明瞭な地域国家の抑圧である。王権は、これを御手本にして各地域の首長を王・国主ではなく、「国造」に性格換えしていく。「ミヤツコ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤッコ」(奴)の意味である。そして、磐井の領地は糟屋屯倉(ミヤケ)として没収される。「ミヤケ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤケ」(家)という意味であって、これが東国をふくめた全国に波及し、従来の首長居館のもっていた収納・蓄蔵・経営・交通などの機能が解体されて王権に吸収される。そして、この国造とミヤケへの編成は従来の首長の支配権内部にいた民衆を「部」の民に編成するという形で及んでいく。
 またこれに対応して朝廷のシステムも氏姓制度によって整えられた。朝廷組織をになう有力氏族のもっていた身分は「殯」によって作られる「骨」によって象徴されるのではなく、「臣・連・君」などの官人的な称号としての姓に編成替されていく。そして、そのなかで、たとえば大伴氏は「トモ」(奉仕者)を統括し、物部氏は「モノノフ」(門番など)を統括するという仕奉のあり方が位置づけられる。彼らは、おのおのの職掌におうじて、彼らは国造やミヤケのシステムに依存して、各地の部民を支配するようになっていくのである。もちろん、このようなシステムの前提となるものは氏族の始祖の神話として古くから存在したし、神話の観念自身は、これ以降も長く続くことになるが、しかし、この時代、ヤマト国家が機構による支配の方向に大きく踏み出したことは否定できないのである。その指揮を蘇我氏と文筆・計数能力をもつ渡来系氏族がとったことはいうまでもない。
 このような「文明」的国家への移行は、中国における隋(581年建国)・唐(618建国)の帝国再建の動きに影響され、同期したものである。紀元前後からのユーラシア東部における民族国家形成の動きは漢帝国を南北に分裂させたが、そのなかで多民族の融合と交流のシステムを内包する世界帝国のシステムが組み立てられた。隋も唐も、その王族が北魏の鮮卑・拓跋系の出自をもつという、以前では考えられない体制である。これによって漢にくらべて広大な領域をしめる大帝国が形成され、強大な力をユーラシアに発揮しはじめた。
 600年、推古は聖徳太子の弟を将軍として久しぶりに新羅に出兵し、同時に遣隋使を派遣する。新羅出兵は効果がなく、遣隋使も冷たくあしらわれ、王権は島国日本の思惑をこえる東アジアの動きを実感したはずである。しかし、これにつづいて607年、有名な「日出ところの天子云々」の遣隋使が派遣されるが、今度は、隋は高句麗征服の方針との関係で使者を日本に送り、日本からの留学生をうけいれた。彼らが帰国し始めたのは聖徳太子の死去(622年)の翌年。そしてしばらくすると、推古が死去して舒明が即位し(629年)、翌年には隋に交代した唐帝国への第一次遣唐使が派遣された。
 推古ー聖徳太子ー蘇我氏の枢軸から自由になった舒明の時代は、10年ほどしか続かなかったが、その晩年には留学者が続々と帰国して東アジアの状況が明瞭になっていく。この時期、舒明は勅願寺として百済大寺を建立したが(639年塔竣工)、しかし、留学者たちのなかには仏教のみでなく、儒教や法制を学んだものが多かった。こうして「文明」国家の形態を仏教のみではなく、より広く法的な国家思想にも依拠し、東アジア情勢に対応するという動きが始まる。いわば国家思想の「仏」から「法」への重点の変化である。
 このなかで蘇我氏が退場する。つまり蘇我氏は舒明が死去し、舒明の妻の皇極が即位すると、蘇我馬子の娘を母とする古人皇子に王位をまわすために聖徳太子の息子の山背皇子を殺害した(643年)。そしてそれに対して、645年、軽皇子(皇極の弟、すぐに即位して孝徳))と中大兄(舒明と皇極の子、後の天智)が逆転クーデターを起こし(乙巳の変)、古人と蘇我氏の族長・入鹿を殺害したのである。「乙巳の変」である。これを「大化改新」と呼んで国家文明化の一大画期とみる見方は、天智・天武の治世を誉めあげるというニュアンスがある。とくに6・7世紀の政治史を「蘇我氏の悪行」という見方に塗り込め、そこで進展していた国家の「文明」化を軽視してしまうのは問題が多い。「大化改新」は、実際上は蘇我氏が担った文明化の動きを別の形で引き継いだものであるというべきであろう。
 しかし、そのスタイルは「法」を基礎としていただけに、制度としてみると整ったものであった。「大化改新」が644年から始まった唐の高句麗攻撃など、激変する東アジア情勢に対峙して、「法」国家への転換を急ぐという課題を掲げたことは否定できないであろう。とくに発掘調査の結果、孝徳を中心として取り組まれた難波宮に大規模な官衙遺構がともない、発達した官僚制が構想されていたことが明かとなった。さらに大きいのは、各地でミヤケから「評」への切り替えが進み、統一的な公民支配が指向されたことである。これによって部族的な領有は国家に集中され、必要におうじて分割されて「評=郡」に平準化され、部民支配も解体された。首長は郡司となって国家機構に編成され、首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた。国家は首長を押しつぶして在地社会における下請け人にしていく。
参考文献
吉川真司『飛鳥の都』(岩波新書)

2013年12月18日 (水)

「わかんるり」とは何か。クラモチ皇子の言葉

 アニメーションの「かぐや姫の物語」で、クラモチ皇子が、蓬莱島の天女に対して「私はうかんるり」と発言したという部分があった。

 この「うかんるり」という言葉は正しくは、「わかんたふり」であるということは『かぐや姫と王権神話』で述べた通りである。それは隋書に「太子」のことをいうとでてきて、10世紀以降だと『源氏物語』にでてくる。そして、8世紀には奈良の長屋王家の木簡に「若翁」とでてくる。
 
 問題は、この「わかんとほり」=若翁という言葉の意味であるが、下記の長い文章の末尾にあるよう7に、それは「若いタフレモノ=狂者」という意味である。『字鏡集』という辞書に「翁」の読みとして「タフレヌ」があり、「タフル」は普通は「狂」と書く。「タハク(姦・淫)」「タハブル(戯)」「タハゴト」も同じ意味。

 つまり、皇子というのは、あぶない人、恣意的な行動をすることが許されている人であるという訳である。実際、『日本書紀』『古事記』に登場する皇子たちは激情的で、いわゆる「聖なる狂気」を思わせる場合が多い。

 『竹取物語』でクラモチ皇子が天女に対して「私はわかんたふり」といったというのは、いわば「俺は王子だ、何するかわからんぞ」とすごんだということであろう。

 この「わかんとほり」=若翁という言葉の語義については、私は、右の『かぐや姫と王権神話』を書いた時はわからなかった。それを知ったのは、山尾幸久『古代王権の原像』(学生社215頁、2003年)を読んでのことである。山尾さんの仕事はむかしはよく読み、『黄金国家』を書いた時も遣唐使論は前提とした。しかし、さすがに7世紀以前についての山尾さんの仕事を読むことは、最近はなかった。そのために見のがしたのである。

 さて、以下は、最近やっている「通史のためのメモ」の古墳時代編である。

③古墳時代
 古墳時代とはヤマトに政治センターが遷って、古墳が盛んに作られた時代をいう。その最初の中心は伊勢を通れば東国にも近い、奈良盆地東南のヤマト纏向の地であった。箸墓が卑弥呼の墓であったかどうかなどの詳細については学説はまだ一致をみていないが、纏向の成立は卑弥呼共立の時期に近い、3世紀初頭であり、そこあった権力は近畿地方、中国地方(北の出雲と瀬戸内の吉備)、四国などの諸勢力の連合に基礎をおき、その中でも(前方後円墳の原型が生まれた)吉備の位置が大きかったことは確実である。
 『魏志倭人伝』によれば卑弥呼は伊都国に「一大率」をおいて北九州を支配し外交を統括した*1。これに対して、東国の部族連合が畿内中心の枠組の外にいたことは、卑弥呼の死去(248年)直前に狗奴国(遠江の久努、あるいは濃尾地方という)と紛争を起こしたことに示されている。ヤマトはこのように列島の中央部という地政学的な位置によって卑弥呼共立の場となったのである。こうして縄文時代の東国、弥生時代の九州にひきつづいて、列島史上はじめての国家、畿内中心の西国国家が生まれた。そこには神殿都市(アクロポリス)が形成され、前方後円墳のならぶ王墓域(ネクロポリス)が生まれた。前方後円墳の形は中国思想(天円地方説、壺型説など)に関係するもので、古墳の形や大きさは葬られた首長の身分を表現している。骨のことをカバネと読むことに注目して、氏姓の「姓」とは本来は「骨」の高貴さのランクを意味するという古くからの考え方をとれば、死者は「殯」によって白骨化し、特定の古墳に葬られることによって身分をあたえられたことになる。
 なお「辛亥年」(471年)の稲荷山鉄剣に「オホヒコ」が登場していることによって、5世紀に伝承されていた王統譜に崇神がふくまれていた可能性が高くなった。「ハツクニシラス」(初代の大王)を崇神とする伝承もあった可能性がある。しかし、これはまずは神話の問題である。『古事記』『日本書紀』が、崇神が神を崇め(祭祀制度を創始)、景行が倭建命を初めとする皇子を全国に派遣し、成務が地方制度を作り(国造設置)、仲哀・神功・応神が朝鮮半島を服従させ(帝国形成)、それらをすべてふまえて仁徳が善政を敷いた(国制理念)という形で全国統一の過程を物語るのはそのまま史実とすることはできない。五世紀以前の実態は、記紀をそのまま史料とすることはできないという津田左右吉以来の見解は依然として生きている。
 なお、古墳が全国に広まったことをヤマト王権の全国統一の証拠とする考え方も問題が多い。古墳は身分的な要素をもつとしても、それ自体は葬送の儀礼や神話の表現であるから、それを直接に統一国家の制度表現とすることはむずかしい。少なくとも5世紀までのヤマト王権は「部族連合国家」(United Cheefdom)の枠組のなかにあった。西国国家という枠組のなかで、吉備・出雲・肥(九州)などの地域の部族国家は相当の自律性をもっていた。ヤマトの優位性の相当部分は、その地政学的な位置に支えられて、九州を押さえ、東国に対抗する地域連合の動きを代表している点にあったのである。
 このような政治や列島の地帯構造の激変に対応して、社会構造は大きく変化した。纏向には政治都市(神殿都市)が形成され、外交文書の作成、倉庫や貢納の管理などの実務がとられたことは確実で、詳細は不明なものの、公共的な仕事も行われたはずである。古墳の造営は徭役によったことはいうまでもない。軍事・警察の組織もあったであろう。また鉄製品その他の物流は畿内中心にまわりはじめている。こうして西国国家の中枢にいた各地域の支配層が纏向に集まっていたことは、各地の土器などが纏向から発掘されたことに示されている。
 社会構造の変化でもっとも大きいのは、弥生時代を通じて続いた環状集落が解体し、その中から方形の首長居館が分離したことである。首長居館には畿内製の土器の出土が多く、また前方後円墳の地方普及とともに出現する例があることは、ヤマト王権の成立によって地方社会がうけた影響を物語っている。各地の首長は居館を立てるとともに環濠を埋めたのではないかといわれている。彼らは明瞭に階級的な支配者に変貌したのである。そこでは首長に私的に隷属する人々も生まれていたが、中心は首長が下位の共同体を代表して支配する首長制の社会構造にあったといえよう。支配者は、小さな村、大きな村、部族、さらには部族連合というように重層する集団のシステムの上に大きな権力を確保するに到っていたのである。
 さて、漢帝国の滅亡後、220年頃、魏・蜀・呉が相次いで帝位を立て三国時代がはじまり、約60年後、魏の権臣・司馬懿にはじまる(西)晋によって統一される。しかし、西晋は311年、匈奴によって滅ぼされ、中国は大分裂の時期に入る。華北では五胡十六国の時代が始まり、江南では晋の王族が東晋を建国する。宋・梁とつづく南朝である。これに対して、朝鮮では高句麗が、4世紀初頭、楽浪郡を最終的に滅ぼした。以降、中国は朝鮮半島以東を直接統治できなくなる。そして高句麗の動きに刺激されて、朝鮮半島南部の馬韓から百済、辰韓から新羅が登場し、弁韓は北九州との深い関係を維持したまま加耶に再編成される。中国および北辺諸民族と地続きのためもあって特有の困難をもっていた朝鮮においても「民族」の形成が必然となったのである。
 朝鮮諸国の競合のなかで、391年、加耶と密接な関係をもっていた倭が朝鮮に出兵する状況も生まれた(広開土王碑文)。これは朝鮮南部(とくに加耶地域)と九州の多島海地域における伝統的な部族的な関係に根付いたものであったが、すでにそれは権益化しており、倭国はその維持に必死であった。実際に王権の意向の下で多くの倭人が加耶・百済に渡っており、最近、彼らの墓所として、5世紀末から6世紀初頭には百済に前方後円墳が築造されている。倭人のなかには、百済王権に組織され、その官人・軍人となって倭王権への二重所属になったものも多かった。そして、倭は、5世紀に南朝の宋に何度も遣使し、朝鮮半島に対する影響を担保しようとした。『宋書』に登場する倭王は五人。そのうち「讃」「珍」の兄弟については履中・反正である可能性があり(異説あり)、「済」とその子「興」「武」については允恭、安康、雄略とされている。彼らは5世紀の前半から後半まで13回に上る使者を派遣し、大将軍・倭国王と将軍号をもって冊封されたが、しかし、宋は倭に何の言質もあたえようとしなかった。
 むしろ、この遣使で重要なのは、倭王が将軍・郡大守などの称号を王族や臣下に仮授することを承認されたことである。これは称号の色彩が強いが、稲荷山鉄剣によれば雄略(ワカタケル)の時代に「杖刀人」という軍人身分が生まれていた。ヤマト王権の中に一種の国家組織が生まれていたのである。これを「人」制というが、その一部は朝廷につかえる手工業者を「手人」というなど8世紀までつづいた。また倭王・讃の使者に「司馬曹達」という人物がいたが、これは軍府の軍人の称号(「司馬」)をもつ中国系の渡来人名(「曹」)を示している。
 また、5世紀は、高句麗戦などの結果、従来から深い関係をもっていた朝鮮の人々が亡命・移住してきた時代である。これは、いわば日本の歴史のなかでの最初の対外戦争太りといえる。倭王権は、彼らを動員して河内平野を開発した。灌漑水路の設計、韓式の硬質土器の製作、金工技術など、はじめての本格的な手工業の導入である。有名な騎馬民族国家説は、このとき馬・馬具が入ってきたことを騎馬民族の移動と誤解したものである。河内には応神・仁徳などの大王のものと伝承される大古墳群が形成されたが、それは渡来系の人々を河内の開発に動員することと一体の事業であった。
 こうして、倭国は奈良盆地の四周のみでなく、奈良盆地の入口・玄関にあたる河内に王墓域を突出させて、国家の偉容を示そうとした。このなかで、王権が部族連合国家から脱却する方向に進もうとしたことは疑いない。倭王「武」(雄略、在位465~489?)がその中国への上表文で「治天下」の理念を述べるのは主観の側面が強いとはいえ、それを反映している。記紀の伝えるこの時期の王権の内部闘争ははげしいもので、このころに皇子のことを「わかみたふり」というようになった。それは「若いタフレモノ=狂者」という意味であるから、いわば皇子が恣意的な行動をすることが許される時代がやってきたのである。実際、そのまま事実とすることはできないとしても、允恭の後継を廻る混乱、即位した安康の乱政と弟雄略との不仲、安康の後継と目された市辺押磐皇子の雄略による殺害などなど、そのような事例は枚挙にいとまがない。同時代の中国の諸王朝においても、その内部闘争や乱倫はすさまじく、この時期の国家の要件なのかとさえ思えるものである。
 しかし、5世紀の倭王権の基本的な性格は、依然としてヤマトの部族や筑紫・吉備・出雲・紀などの同盟にもとづく連合国家であったというべきであろう*1。ヤマト王権はむしろ、この内部闘争の経験をへて、徐々に国家的な機構を発展させていったのである。
参考文献
白石太一郎『古墳とヤマト政権』
広瀬和雄『前方後円墳の世界』
都出比呂志『古代国家はいつ成立したか
熊谷公男『大王から天皇へ』(『日本の歴史3』講談社)
鈴木靖民『倭国と東アジア』(『日本の時代史2』吉川弘文館)

2013年12月17日 (火)

じぶり『熱風』にかいたかぐや姫論。「月の神話と竹」

 以下はスタジオじぶりの『熱風』という宣伝紙に書いたもの。12月号。「かぐや姫の物語」の特集である。

 奥様が、内田樹さんのツイッターに、映画館が空いてたという話しがのっているというので、僕もみてみた。以下のよう。


 ミント神戸なう。日曜日の夕方の回なのにがらがらです。空いててうれしいけど、ジブリ的には心配。ジブリの人間じゃないんだけど、ジブリ本書いてますからちょと身内感覚。

 「かぐや姫」びゅ。二時間半近かったんですね。息詰めて見てました。か、かんどう。(T-T)。


 内田さんが感動というのはよい話しである。しかし、私も心配。

 ここは広瀬神社
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 私見では、『竹取物語』はよく知られている物語ですというのが、思いこみ。これが思いこみであるということが正確に、もっと早く伝えられればいいのだが。ヤマトのもっている物語を見直すために、ともかく見ておいた方がと思うのだが。

 とくに教師、歴史と文学の教師が、どうにかして子供たちに、この映画をみてもらうような動きをすることはできないのだろうか。歴史文化のなかにもう一度、文化を引き戻すということを考えないと、将来、困るのではないだろうか。人ごとでなく、文化・芸術との共同ということを教育・学術は考えなければならないのではないだろうか。そういう道を歩むことなしにはなにも生産的なものは生まれない。

 ともかく、歴史学をふくめた学術は「文化」のことをもっと考えた方がよいように思う。しかし、これは他人事ではない。学術に携わってきたものとしては、自己反省。

 しかし、ともかく、今日は飛鳥時代の通史に目処をつけなければならない。歳もとったのに、いま基礎構築をしているというのは申し訳ない。歴史の過去について何もしらずに(何も確認せずに)やってきたのであるということを実感している。

じぶり『熱風』にかいたかぐや姫論。「月の神話と竹」


 「かぐや姫の物語」の原作、『竹取物語』は平安時代の初めに作られた。それは天皇が主催する月明の冬の夜の舞踏会に「舞姫」として出仕させられる、成女式の年齢の少女たち(一二・三歳)の立場から書かれている。かぐや姫がミカドの許に召されるのは、まさにその舞踏会への動員の季節であって、かぐや姫は、出仕を嫌だといい、強制されるなら死んでしまうといった。『物語の中世』(講談社学術文庫)で書いたように、実際に「舞姫」に動員された少女の身分は中級貴族の娘たち。彼女らはしばしば出仕を拒否したり、直前に卒倒したりした。すでに王妃候補者が舞姫から王妃候補者がえらばれる時代ではなく、舞踏会への参加は、男たちの性的な視線の下で品定めされ、女房への道に進まされることを意味したから、彼女らもすべてを拒否し、「私は天女だ」と叫びだしたいときがあったに違いない。彼女らにとって『竹取物語』が物語の「はじめ」の位置にあったのは自然なことである。

 しかし、『竹取物語』はさらに深いものをもっていた。高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は、「月」の視点から『竹取物語』を描くという、これまでとはまったく異なる発想でかぐや姫を描きなおし、それを明瞭に示した。そこにはたしかに「隠された物語」があるのである。私見では、その「隠された物語」は神話世界に直結している。そこでここでは、『竹取物語』を「月」と「竹」の神話という側面から説明してみたい。


かぐや姫の「罪」の原因となった月の女


 『古事記』『日本書紀』には月はあまりでてこない。しかし、それは月の神話が存在していなかったということではないと思う。『かぐや姫と王権神話』(洋泉社歴史新書y)で書いたことであるが、伊勢神宮の外宮の女神、トヨウケ(豊受)姫は月の女神であり、平安時代の宮廷の夜の祭りは基本的には彼女の降臨の下で営まれる月の祭りであった。それにもかかわらず、月の神話がなぜほとんど残っていないかというのは日本神話論の最大の謎である。鎌倉時代、いわゆる伊勢神道は外宮の神官たちの思想的運動から始まったが、彼らが挑んだのも、この問題であったように思う。『竹取物語』は、この謎に深く関わっている。

 「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。

 このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき姮娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。

中国の幻想文学と『竹取物語』

 このような天界の仙女の物語は、きわめて洗練された夢幻的な神仙文学として紀元前後から中国で大流行し、日本にも流入した。伊勢内宮のアマテラスや外宮のトヨウケ姫、さらに伊勢外宮と同体とされる大和広瀬神社のワカウカ姫など、日本の神々の中心に女神たちがいることは、その影響を抜きには考えられない。『竹取物語』も、中国の神仙文学の影響の下に作り出されたもので、いまでいえば、世界最先端のSF小説の続編を日本で作ってしまったとでもいえようか。しかし、中国の神仙文学はほとんどが『竹取物語』より短い短編であるから、むしろ『竹取物語』のほうがよくできていると、私は思う。

 こう考えると、「かぐや姫の物語」が、月の側から地球をみるという視点をとったのは正解であったと思う。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。

 それが感動的なのは、月の世界が「死の世界」であることが、アニメをみている私たちに徐々にわかってくるからである。そして、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。

 さらに、私は、試写をみて、かぐや姫を迎えに月から降りてくる使者たちが奏でる音楽に驚いた。何かガムランの音楽という感じの明るいリズムである。彼らが「死」の世界の無表情と厳しさをもちながら、美しく、しかもなんとなく明るくとぼけているのがよいと思う。

 そして、この場面をみて、これが当たっているのではないかと本気で考えた。神話の時代の人々は、死の世界を、暗いものとはみていないのではないか。しかも、私たちは、その世界から呼びかけられることでしか、本当の「生」を知ることができない。しかし、それを知ったときにはもう間に合わないーー。これはいまも昔も同じである。

「太い竹に入って降臨すること」の意味

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 さて、以上が「月」の話しであるが、「竹」の話しについては、最近、気がついたことを報告したい。写真は東北歴史博物館に展示されている会津大塚山古墳南棺に埋葬されていた割竹形木棺の模型である。形成期の前方後円墳では必ず使われているもので、7・8メートルもある大木を二つ割りにして、中をくりぬき、ちょうど人間が竹の節の間にいるような形にして葬る。この模型では灰色の人形が入っているが、実際には「殯(ルビ:もがり)」をへて清められた白骨だったはずで、この白さに清浄性を感じるのが人々の感性であった。古代の身分、氏姓(ルビ、うじかばね)の「姓(ルビ:かばね)」も、本来は骸(カバネ)のことで、白骨の清浄な魂魄になった人こそが高貴なカバネ身分をもつというのが、身分体系を表示する古墳の秩序の本質である。

 時代は下って一〇世紀の『大和物語』(一四七話)には、一人の女が二人の男の求婚をうけ、進退きわまって入水してしまい、それを追った男たちも水死してしまったという悲話がある。悲しんだ男たちの親は、女の塚墓の側に男たちを埋葬したが、片方の男の塚墓には、「くれ竹のよ長きを切りて狩衣・袴・烏帽子・帯とを入れて、弓・胡簶・太刀などを入れてぞ埋ずみける」という処置がされたという。ここにいう「くれ竹」とは、「呉竹」、つまり、中国南部を原産とするハチク(淡竹)のことで、大きいものは、直径一〇センチ、節間は四〇センチ、高さは二〇メートルにも及ぶ。「よ(節)長き」というから、その中でも大きなものなのであろう。それに衣類などを入れて、副葬したというわけである。

 これらは死者(あるいはその持ち物)が竹の節の中に入って昇天するという観念を示している。かぐや姫の降誕は、それとはちょうど反対に死の世界からの復活であるといえよう。私は、昔、『竹取物語』を読んだ人々は、そのことを知っていたのだと思う。

 『竹取物語』には、翁の歌として「くれ竹の世々の竹取 野山にも さやは侘びしきふしをのみみし」という歌が記録されている。これは『竹取物語』が、本来、歌物語であったことを示す証拠と評価される歌であるが、そこに「くれ竹」がでてくるのは太い竹と読まねばならない。私たちは「竹」のことを忘れているが、正倉院にも呉竹製のいくつかの宝物があることでわかるように、当時、竹は南アジアから伝わった万能の素材だったのである。

隼人の物語と広瀬野

 このような南アジア産の竹が、いつ日本に広がったか、植物学の結論はでていないようであるが、「纏向の日代の宮は(中略)竹の根の 根垂る宮」という『古事記』の歌謡は、三・四世紀の大和の纏向宮(ルビ:まきむくのみや)のそばには巨大な竹林があったという記憶を示すのかもしれない。そもそも、割竹形木棺がヤマトを発祥地とする前方後円墳に埋められるということは、竹の文化を抜きには考えられないだろう。そして、そうだとすると、それを持ち込んだのは、考古学の森浩一がいうように、南九州の隼人であったとしか考えられない。

 そして、隼人たちの竹のルーツは、列島ジャパネシアの南端、沖縄の島々、そして、台湾、フィリピン、雲南、インドネシアに広がる竹の文化圏につながる。実際、雲南の苗族の王は、河で洗濯をしていた女の両足の間を流れぬけた大竹の中から生まれたといい、台湾の東南部の蘭嶼島にすむタオ族には、大噴火と大津波の中でうち寄せられた大竹が割れて、中から人間の先祖がうまれたという神話がある。ここにかぐや姫の物語に反映した「竹」の物語の原像があるのである。『竹取物語』が中国の神仙思想の強い影響を受けていることは先述の通りであるが、その基層には、隼人たちを通じて南アジアとのつながりが流れていた。

 さて、同じく森によれば、隼人たちは大和国に移住してきていた。右の地図で示した奈良県の西部が彼らの移住地である。私は「かぐや姫の物語」に描かれた美しい山河と丘陵に、この地域、とくに馬見丘陵から生駒、そして生駒の谷を北へ向かって大阪や木津川方面へと抜けていく道の風景を思い起こした。隼人たちは、この地域で竹工芸を営み、その製品を朝廷におさめていたのである。その中心地が、現在でも「かぐや姫の里」として知られる広陵町のあたりで、そして、そこが、たしかに『竹取物語』の故地なのである。そこには讃岐神社があるが、竹取翁の名前の「讃岐造」は、それと関係がある。翁などの所属する忌部氏は、朝廷の祭器の資材や建築を担当していた氏族であるから、その縁で隼人たちと同じような仕事も行ったのであろう。

広瀬神社の月の女神

 そして、この忌部氏と関係の深かったと思われるのが、この地図の中央に位置する広瀬神社である。『かぐや姫と王権神話』で詳しく述べたように、かぐや姫の原像は、この広瀬神社の「大忌祭」に奉仕する「物忌女」にある。『万葉集』の歌から想像できる彼女らの姿は、何重にもなった青緑の竹珠の御統(環飾、ネックレース)を身にまとった少女の姿である。彼女らは、広瀬神社の「大忌祭」を前にして半年にも及ぶ長い潔斎の生活を送る。これは『竹取物語』の描く、天に帰る前の時期のかぐや姫の閉じ籠もりそのもののように思う。折口信夫が示唆しているように、竹の中に籠もるようにして清浄を維持する心意は、日本の「神道」の根本にすわっているもので、『竹取物語』はたしかにそれを表現しているのである。『竹取物語』を架空の物語と考えてはならないと思う。

 冒頭にふれたように、広瀬神社の祭神は女神ワカウカ姫であり、伊勢外宮と同体の月の女神である。奈良を好きな方なら、広瀬神社の祭神が月の女神であるというのは、すぐにわかるのではないだろうか。月は広瀬野に沈むのである。広瀬野の上、二上山にかかる月は『万葉集』にも歌われていて、よく知られている。また春日大社の由来を書いた絵巻の巻頭には広瀬神社近くの竹林が描かれ、そこに月の仙女が降臨している様子が描かれている。もう平安時代のことなので、彼女はご丁寧に十二単の女房装束を着ているが、しかし、本来の広瀬の月の女神は、より凄絶で原始的な畏怖すべき美しさをもつものであったろう。高畑監督の描くかぐや姫の激しさには十分な根拠がある。

「地球を外側からみる目」

 さて、こうして、「月」の物語の解説から初め、「竹」の神話の説明に入って、また「月」にたどり着いたことになる。謎解きは、ほかにもあるが、しかし、ここまででも、多くの人々が、「かぐや姫の物語」を通じて、はるか一〇〇〇年以上昔の民族的な文化の深層に目を注ぐ機縁になれば幸いである。

 最後に一言。高畑監督がいいたいのは、かぐや姫が自分で地球をえらび、苦しんで去ったのだということであろう。それは私たちの国の神話や物語の中に、地球を外側からみる視点があることの驚きでもあるのだろう。
現在は、この視点を日本列島のみでなく、太平洋の大きさにまで広げ、選び直しをなければならない時期である。その際、先にふれた、大噴火で大竹が割れて、その中から人間が生まれたという神話をもつ台湾南東の蘭嶼島が重要である。この島は火山島で、バシー海峡を隔ててフィリピン最北部の火山列島、バタン諸島につらなる。インドネシア、フィリピンからの竹の文化と神話が日本に伝わってくる上では、この離島の役割は不可欠のものであったろう。私たちの列島は南の火山と連なる火山列島なのである。

 いま、この蘭嶼島のタオ族の人々が、いつの間にか島に設置されていた放射性廃棄物の処理場におびやかされているという。私たちの列島、原発の大事故を起こしてしまった列島の海は、これらの島々に連なっている。地球を外側からみる視点を大事にするとすれば、生駒と広瀬野の美しい自然も、蘭嶼島の火山・海原も、どちらも『竹取物語』の故地であり、一つのものである。我々の運命は、竹の神話と文化を共有する、南の島々と一蓮托生なのである。最近、そんなことを考えている私には、映画の最後に流れる月からの使者たちの奏でる陽気な音楽が本当に南国の音楽に聞こえた。そしてその明るさに感動し、励まされた。

(ほたてみちひさ 歴史学者)

tsuushi10室町時代

 これは通史の室町時代分。
 ここからは本当は、峰岸純夫・藤木久志の両氏の仕事を読み込み、安良城盛昭批判をしておかないとまとまりがつかないのではあるが、ともかく中間報告である。

⑩室町時代
政治史の考え方
 南北朝の併立は、1392年、尊氏の孫にあたる第3代将軍足利義満の調停によって終息した。内紛を自力でさばけなかった王家の権威は低落し、「覇王」足利氏に「旧王」として戴かれると同時に保護される存在となったのである*1。もちろん、義満は天皇にとって代わったのではない。室町殿は「治天の務=政務」を担当する「院」として公家を含む国家機構を領導する役割を担ったのであって、その意味では天皇を形式上の君主として政務は院が握るという院政以来の王権の形式は維持されたのである。こうして、武臣国家において「旧王ー覇王」の二つの王権が並立するという、以降、江戸時代まで続く体制が確立したのである。なお、足利氏が後醍醐の敷いた禅宗国家の路線を採用したことも重要で、これによって室町殿は聖武天皇以来の仏教国家という国制を維持し、禅宗の大檀越として王権を領導するという立場から天皇王権の名分を吸収したのである。
 この南北朝終息期のころから西国守護の家柄はほぼ固定し、しかも島津・大友(九州)、大内(北九州・中国西部)、細川(四国・中国東部)、山名(山陰)、斯波(北陸)、今川(東海)のような隣接地帯を押さえる場合や、あるいは能登・紀伊・日向の畠山のように離れた地域を押さえるかの違いはあっても、複数領国をおさえる広域守護の権力が安定するようになる。これは平安時代以来の広域支配システムの成熟の上にできあがった体制であったということができる*2。室町殿は畿内近国を強力に支配して、このような広域守護の上に聳え立ったのである。さらに室町殿が九州探題を設置して、九州を支配し、さらに西国を代表して関東公方を押さえ込むことを機軸的な戦略としていたが、ここにも室町期国家が広域権力の相互バランスの上にたっていた事情が明らかである。
 しかし、このような体制は将軍の代替りや実力・軍事力のバランスの失調によってしばしば危機におちいり、そのため室町時代の政治史は、そこに由来する政変や戦闘の連続となった。それでも尊氏→義詮→義満→義持までは将軍の軍事指揮権は強力であった。しかし義持が後継者を決めないままに死去し、それに称光天皇の死去が重なって二重の代替りとなったとき、「日本開闢以来」といわれた大土一揆が代替徳政を求めて蜂起した(1428年、正長の土一揆)。そして、その後をうけた弟の義教は専制に走って、鎌倉公方を自殺に追い込み、さらに有力守護家の家督継承に乱暴に介入した。これに恐怖した播磨・備前などの守護、赤松氏が義教を謀殺するや(1441年、嘉吉の変)、ふたたび代替りの嘉吉の土一揆が発生したのである。東国・西国の争い、広域権力相互の争いの中での大規模な民衆的運動の高揚によって、幕府は一挙に危機の時代に入ったのである。
東アジア世界
 明は、成立後すぐに日本に対して国書を送り、中国沿岸に対しても侵攻するようになっていた倭寇の禁圧を求めた。その背景には、元の崩壊時に、洪武帝(朱元璋)と同じように反乱を起こした諸勢力が、明建後にも明に従わず、倭寇と行動をともにしていたという事情があった。倭寇の行動は明が「海禁」政策をとる最大の理由の一つであったのである。日本・朝鮮・琉球・中国の境界地帯から南海にまでおよぶ倭寇の問題は東アジア世界にとって決定的に重要な問題であった。
 もちろん、明は南宋・モンゴルの展開した世界的な交易体制を前提とした貿易政策をとった。これは史上初めて中国南部から興起した帝国・明にとっての重要な権力基盤であったのである。しかし、それは朝貢貿易など以外は、禁制の対象とする特権的・閉鎖的な貿易関係であった。華僑たちは、東南アジアからインドネシアにかけて広がっていた港市のネットワークに食い込み、あるいは華僑街を作り出していたが、明にとっては、朝貢貿易などを拡大するという形で、そのような貿易関係を国家的な統御の下におくことが重要であったのである。
 対外交通の窓口、大宰府は、このころ南朝の南朝方の懐良親王であったために、懐良が明の国書をうけとり、「日本国王」として冊封された。もちろん、懐良は室町幕府の九州探題によってすぐに大宰府を追われたが、これは対外関係が政治に及ぼす影響を実感させた。実際、明の洪武帝は義満を陪臣であるとして冊封することを拒否し、義満が明と冊封関係を結ぶことに成功して「日本国王」の地位を承認されるのは1402年、孫の建文帝の時代まで遅れたのである。しかし、南朝を併呑し「院」の立場に立った室町殿にとっては、これが覇王の実質を宣言するものであったことは明らかである。日明貿易の利益も無視できないものであったことはいうまでもない。
 また明王朝は、宋学の本場、江南から出自した明王朝は朱子学を国教としていたが、朝鮮王朝は、これをうけて朱子学を国教とした。これに対して日本が禅宗国家、仏教国家という形式を維持したことは、後の時代に大きな影響をあたえた。公家貴族からは中国皇帝から冊封をうけることについては非難があったが、重要なのは、このとき義満はすでに出家しており、かつ外交関係の実務をとったのが、相国寺などの五山の禅僧であったことである。これは太政官などの宮廷国家機構の外側で室町殿の下で外交関係を統括するというほとんど抵抗しがたい方策がとられたことを意味する。この点でも室町幕府は禅宗国家の体裁をとったことは巧妙であったというべきであろう。
社会構造の考え方
 政治の不安定にもかかわらず、京都を中心とした庄園制的な経済はきわめて活発であった。それは都市的な産業社会の成熟あるいは爛熟ともいえるような様相をみせている。しかし、その中で、15世紀、新しい様相が現れた。庄園年貢輸送を担っていた中央向け航路の港町の没落、貨幣信用システムの激変(地域ごとに銭の撰銭の仕方が異なるようになり、また中央向けの替銭が機能しなくなる)、比叡山などの中央寺社の神人らの商工業支配の終焉などの事態である。これは庄園制的な求心的な経済構造が大きくシフトして、広域守護の勢力圏に対応するような広域経済が自律的に発展していったことを意味する。
 それを支えたのは大鋸、大桶などの木工技術、金屋(鋳物師・鍛冶)の発達、木綿生産の開始、入り浜式塩田の開拓などの様々な技術と分業の発達があった。市町の分布はさらに稠密なものとなっていき、職種ごとにきわめて細分された職人の座が発展している。そして鋳物師の一国営業圏を守護が保証するような動きに明らかなように、社会的な分業の発展を前提として、一国あるいは複数国の単位での営業のネットワークが発展していった。
 他方、考古学的な発掘の成果から、農山村においては、だいたい15世紀に、村落がなかば恒久的に現在に続く場に立地するようになったことが想定されている。これにともなって、有力な地主・農民たちが構成する惣村が隣接する惣村とある場合は連合し、ある場合は対立する諸関係を広げていった。もちろん、国・郡・郷というような国内部の統括関係は残ったのであるが、惣村が主体的な単位となって、国堺にとらわれない広域的な関係がひろがっていた。各地で戦争が続き、また室町時代に気候の冷涼化とともにしばしば飢饉が発生したことも重要である。このなかで、村々は京都との庄園制的な関係に集約されないような広域的なネットワークを広げ、その中での自己の地域的な利害を意識していった。
参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』(悠思社1994年)
村井章介『分裂する王権と社会』(『日本の中世』)
榎原雅治編『一揆の時代』吉川弘文館 


2013年12月16日 (月)

tsuushi2弥生時代の通史

 地震・火山論をつめることが必要になって、自分のできる奈良・平安をいちおう見込みをつけたので、神話論を考えなければならなくなった。その関係で徐々に仕事が過去へ過去へとさかのぼった。

弥生時代が500年遡ったことをどう考えるかという問題である。弥生時代というと、鉄器ということがいえなくなった。弥生時代が300年から500年と考えられていた時代より、弥生時代の動きがゆっくりしてきたことになる。これは歴史像にとっては大きな変化であることを実感した。

 また昨年、教科書を考える会の場で通史について意見をいったことの影響も大きい。

 縄文時代・弥生時代の勉強をしようとは、以前は夢にも考えていなかったが、こういうことで弥生時代論である。寺沢薫さんの仕事をまとめただけかもしれないが、ともかくこの線でメモをためていく予定。


②弥生時代
 弥生時代の開始はこれまで土器編年などの作業によって前5世紀から前3世紀ごろと考えられてきた。しかし、土器の煮焦げなどの微量炭素(C14)を素材とした加速器による年代測定(AMS)によって、九州北部では前10世紀後半に水田稲作が始まったという結果が出た。水田稲作が弥生時代の指標であることはいうまでもなく、これによって弥生時代は全体で1100年弱の長さをもち、早期、前期(紀元前8世紀から)、中期(紀元前4世紀初頭から)、後期(紀元前1世紀末から2世紀末)に区分されるという意見が強くなっている(なおAMSによる年代の見直しが縄文文化論にどう影響するかはまだ考古学界でも一致点がない)。
 このような弥生時代の開始時期の変更によって、東アジア規模での水田耕作の拡大の年代観が可能になった。水田稲作と弥生文化は朝鮮半島南部から北九州に伝わってきたものであるが、朝鮮における水田農耕の開始は、中国に殷が形成(BC17世紀頃)されたことの影響にまでさかのぼる。この農耕の波及はゆっくりとしたものであるが、殷が崩壊し、西周が形成された紀元前1000年のころは、いわゆるヤンガー・ドリアス期の寒冷期にあたる。そもそもこの時代に「日本」「朝鮮」という民族も国境もある訳ではなく、北九州と朝鮮半島は日常的な交流とネットワークの下にあったが、気候の寒冷化は、その中でより適した気候と立地の九州を選択させたという。また日本の弥生式土器が朝鮮の無文土器と基本的に同じもので、弥生土器が朝鮮南部で発見されていることも、朝鮮半島南部と北九州地域が一体的な関係にあったことを示している。そして、朝鮮半島の無文土器に付着したC14の加速器による分析は弥生式土器と同じ結果がでている。
 なお、弥生時代の開始のBC10世紀後半といえば中国では西周がはじまってしばらくしての時代である。そして、それに続く春秋時代は紀元前8世紀前半から同5世紀後半頃までで、ここまでは青銅器時代に分類されている。そして鉄器時代といわれる戦国時代は、5世紀後半にはじまって紀元前3世紀末までである。それ故に、弥生時代のほとんどが、中国史でいえば春秋戦国時代にあたり、また弥生時代の前半は日本では実際上は「石器時代」であったということになる。
 これは学説の大きな変化であるが、しかし、弥生時代が東アジア文明の本格的な影響の下に列島ジャパネシアがはじめてさらされた時代であるという従来のイメージは変わらない。この時代こそ、中国において本格的な文字の利用にもとづく法文明、自然と人間の支配が開始された時期であった。水田稲作は前者の自然支配であるとすれば、後者を意味するのが、銅剣・銅矛などの武器と軍事防衛の機能をもった環濠のセットであろう。
 もちろん、「文明」の意味のすべてを否定することはできないが、文明の辺境にあった平和なBarbarisum地域にとっては、自然を支配する灌漑技術と人間を支配する暴力がセットになって入ってきたは肯定的な影響のみではなかったろいう。とはいっても、弥生時代の始まりが500年も遡ったことは、この時代の歴史の動きが、従来考えられていたよりも、ゆっくりしたものであって、縄文文化からの継承と融合にも長い時間がかかったことを意味する。縄文時代後期の西国は柔軟で開放的な社会システムをとっていたにも関わらず、弥生式土器を代表する北九州の遠賀川式土器が伊勢湾周辺に到達するのに2・300年もかかったのである。
 しかし、このなかで、縄文時代に芽生えていた地域性、部族的な諸関係はさらに明瞭になっていった。彼らはおのおの異なる定住・移住の経緯にそくして祖先意識(リネージ)をもって部族を構成していく。たとえば、山口県土井が浜遺跡の墓に埋められた相当数の人骨の人種的な特質は、移住の初期から不変で、それは、朝鮮の故地から、何波にも渡り、世代を越えて、人々がやってきたことを示しているという。縄文時代から引き継いだ部族的な関係は、弥生文化にともなう他者の部族意識によってさらに強化されたであろう。たとえば、伊勢湾を東にこえた三河においては、西からの移住者との遭遇にの局面では、部族と部族のあいだでの殺し合いをともなう軋轢も想定されている。弥生中期から始まる銅矛・銅鐸などの青銅器祭祀は、朝鮮半島に由来するものであるが、それをあつかうシャーマン(神懸かり呪能者)によって部族意識はさらに拡張されたはずである*1。
 弥生時代における部族的な関係は、水田・畑作などの農業的な関係にもとづく拠点ー周辺集落を単位として組み上がっていた。これは水田農耕の普及とともに全国に広がり、弥生時代を通じて維持されていく。拠点集落の代表的なスタイルは内外に二重の濠をもつ環濠集落で、徐々に、内区には指導層、外区には一般の人々など、居住区の階層編成をもつようになる点で縄文の馬蹄形集落とは異なるものである。縄文時代よりも社会の階層化がさらに進展したことは疑いない。もちろん、環濠は集落の自衛とともに灌漑水路の設定と関係しており、共同体の共同労働を象徴するものであった。集落が大規模化した場合は、集団性・共同性の内側に対立が内蔵され、首長が継続的に存在するようになっており、このような集落においては素朴な共同労働はすでに存在しない。その協業の規模が広い大型水田となるのは(従来考えられていたのとは相違して)例外的なもので、低湿の適地をえらび必要な場合は田植えも行うような集約的な個別水田経営による部分が大きかった。縄文時代以来の個別化の動きは根強く、畑作や森林利用、狩猟・採集もあわせて、人々は複合的な生活様式の中にいたのである。
 弥生時代の中期に入るころ、中国は戦国時代に突入する。「倭は燕に属す」と『山海経』(海内経)にあることからして、そのころ倭は中国東北部の広い領域にあった戦国七雄の一つ、燕につながる地域として知られていた。倭は燕の南部の環渤海・黄海地域という歴史的世界のさらに辺境にあって、朝鮮南部と北九州が一つのネットワークを通じて東アジアに接していたことになる。
 燕は前3世紀末、戦国時代の終了とともに秦によって滅ぼされるが、そのとき多くの避難民が朝鮮に逃れ、朝鮮に存在していた「古朝鮮(実態は不明であるが「箕子朝鮮」と伝承される)」は、その中で動乱の時期に入り、結局、前2世紀初め、燕国の亡命者衛満によって衛氏朝鮮が建国された。しかし、BC206年に成立した漢帝国は、BC108年、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置した。
 以上のような東アジアの動乱とともに起きた人々の大規模な移動が、弥生時代中期の倭国にも戦争状態をもたらす。弥生文化の開始は大陸からの武器の流入をともなっていたが、人骨に戦争の痕跡が目立つようになるのは、弥生中期、BC4世紀ころからで、とくに北九州に多い。そしてBC3世紀からBC2世紀になると瀬戸内東部や大阪平野でも犠牲者が増える。こうして戦争とその準備体制が従来の部族相互の関係を緊張させ、列島の交通・交流関係を密接化し、一挙に部族相互の上下関係を作り出されていった。そしてBC1世紀後半から1世紀前半ころ、瀬戸内・近畿に大型石製武具をそなえた高地性集落が確認されるが、これは九州と畿内のあいだでの軍事的な緊張を表現している。
 『前漢書』地理志の「燕地」に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来たり献見す」とあるのは、紀元前1世紀半ばに、部族がすでに「国」と呼ばれるような実態をもち、国家形成の初期段階に入っていたことを示している。それを象徴するのが、AD57年の「奴国金印」の授与、そして107年の倭国王師升(伊都国王)などによる生口(奴隷)の献上記事である(『後漢書』)。大陸との窓口に存在し、朝鮮半島に産出する鉄の輸入をほぼ独占していた北九州の位置はきわめて大きかった。初期的な国家はまず北九州に成立したのである。
 しかし、2世紀半ば、奴国・伊都国を支えていた漢帝国ー楽浪郡の体制が、黒竜江流域の扶余から起こった高句麗などの反乱に直面し、さらに漢自身が、黄巾の乱によって没落していき、もとの燕の地では遼東大守公孫氏が王位を称し、50年ほど覇権を握る。このような漢帝国の崩壊に対応するように、「倭国大乱」といわれる状況が生まれたのである(『後漢書』)*1。この時期にも瀬戸内から近畿にかけて高地性集落が顕著になる。
 こうしたなかで、3世紀初頭(200年頃)、倭国の女王・卑弥呼が「共立」されたのである。『魏志倭人伝』(三世紀後半の成立)には「その国、本亦男子をもって王となし、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」とある。卑弥呼がどこで即位したかについては周知の論争があるが、ここでは、すぐに述べる最近の纏向の発掘成果と整合させるために、ヤマトで即位したとして説明をしておきたい。
 彼らは伊都国と関係あった楽浪郡から離れて公孫氏に属した。しかし、220年、魏が漢帝国を最終的にほろぼし、さらに公孫氏を滅ぼすと、その翌年、卑弥呼は魏に使者を派遣して、239年「親魏倭王」に補任された(『魏志倭人伝』)。従来、奴国・伊都国などの北九州の国々は、弥生文化の故地である朝鮮半島、とくにその南部との強い関係を維持し、鉄器や先進知識の輸入を主導していた。邪馬台国論争はまだ決着してないが、いずれにしても、この時期以降、列島の外交の主導権が、九州から近畿地方に移動したことは確実である*1。
参考文献*2
寺沢薫『王権誕生』
山尾幸久『古代王権の原像』(学生社)
藤尾ほか「弥生時代の開始年代」(『総研大文化科学研究』創刊号2005年)

2013年12月15日 (日)

縄文時代の通史

 昨日は、日本通史のメモを古墳時代の分まで仕上げて、夕方から自転車。以前通れた谷戸の道が通れなくなっていた。私のいる千葉市の近郊でもっとも長い谷戸の道。谷の河の上にコンクリート板がおいてあるという道で、開発されている途中ではあったが、よい道であった。住宅が建てられる。残された緑地帯のなかで、そういう状況にある場所がふえている。緑地帯を意識的に残す都市計画をする最後の機会が失われていっているのではないかと思う。

 薄暗くなってから、複合施設の銭湯にまわる。コーヒーを飲んで、そこの食堂で一時間ほど仕事。これはいいやり方をみつけたと喜んでいる。いざとなれば電源もある。
 
 飛鳥時代の通史に取り組むがうまくいかない。風呂に入って、背中にジェット水流をあてて、そのあと揉んでもらう。身体だけを意識した1時間。夜寝ていて、身体があつい。こういうことをやった方がよさそうである。飛鳥時代のメモが順調に進めばもっとよかったのだが。

 以下は、縄文時代のメモ。明日は弥生のメモ。あさっては古墳時代のメモをあげる。それにうまく飛鳥が続くかどうか。

 なお、Savagery、Wildnessを野生と訳し、Barbarismを異文明と訳すべきであるという持論も書いてある。野蛮はないだろう。そして野蛮・未開というのでは、どこが違うかわからない。これは人類学の祖、ルイス・モルガンの段階にもどって正確に考えるべきことだと思う。
 
 
①縄文時代
 猿人の発生はだいたい500万年前、そしてこの猿人が原人にまで進化したのはだいたい200万年前とされる。ただし、現生人類(新人)の直接の祖先はおよそ5万年前にアフリカを出て世界に広がった。その痕跡は、日本列島でも約3・4万年前に始まった後期旧石器時代に確認される。アフリカを出た人類が相当のスピードでユーラシアの端まで到達したのである。このような世界中への拡散は、まだ野性(Savagery、Wildness)の強さと柔軟性をもっていた人類しか担えなかった課題であったといえる。またそのような移動とフロンティアの存在こそが、他のサル類のもつボス社会、序列社会のあり方とは相違する人類の自由さの重要な条件であった。この中で、人間は人間としての身体・神経組織の錬磨を果たしたのである。
 そして、約13000年前に氷河期が終わると、人類は「文化」をもちはじめる。新石器時代の開始である。当時の生業システムと移動能力の限界のなかで、人口が、局地的にであれ、いわば初期的な飽和状態に達したのであろうか、人類は定住を開始して、居住環境に永続的な変化をもたらすようになる。労働と技術の体系化が進み、農耕や牧畜などの生業システムが生み出されていったのである。それは野生の自由を制約していくことでもあったが、平等と自由の習慣は強く残っており、他方で徐々に進む人間の個性の発達は、人間のなかに社会と個人の矛盾を芽生えさせる。現在とは相当に異なる文明(Barbarism、しばしば未開と訳されるが本来は理解不能の言葉、バルバロイの意)であるとはいえ、これこそが文化の基であり、それは彼らがもちはじめた原始的な宗教にも反映していく。
 新石器時代は、スタイルの相違や時期の前後はあるものの、ユーラシア中央部と辺境の列島ジャパネシアでも、ほぼ同じ時期に始まった。つまり縄文時代の開始である。彼らの作った土器が有名な縄文土器であることはいうまでもない。なお、縄文式土器について、これが世界でもっとも古いということを無限定に強調するような傾向もあったが、土器が古くから作られたのは東アジアの特徴として検討を進めなければならない。
 ここでは縄文時代を草創期(BC13000-9000)、早期(BC9000-5000)、前期(BC5000-3500)、中期(BC3500-2500)、後期(BC2500-1200)、晩期(1200-800)と区分する説によって説明するが、先頭を切ったのは南九州の人々であった。彼らは土器や石斧などをもち、成熟した生業戦略をもって採集や狩猟にもとづく定住生活を営なんでいた。彼らの生活は、琉球弧から台湾、フィリピン、インドネシアにつらなる南海の民をルーツとしていたことは疑いがない。それは南九州の鬼界カルデラや桜島の大噴火にともなう大火砕流によって、ほとんど中絶というべき被害をうけたが、その文化は、すでに太平洋岸にそって影響を広げていた。
 これは、この時期がちょうど温暖期であったことにもささえられていたが、草創期の後半(BC11000-9000)はヤンガー・ドリアス期といわれる世界共通の冷涼期となった。世界的には、この冷涼期の中で農耕が準備され、冷涼期がすぎるとともに生産諸力のスパートが起きたが、きわめて豊かな列島の自然のなかで、すぐに農耕への道をたどる必要はないまま、縄文時代は、早期から前期の極盛期に入る。北方ではシベリア・樺太方面との関係の影響が及んでおり、漁撈・狩猟が豊かに発達し、東北では山内丸山遺跡で有名になったようにクリの栽培まで行われていた。そして、関東地方に下れば、落葉広葉樹林の豊かな堅果類と狩猟・漁撈によってもっとも人口の集中する地帯となる。
 そこでは相当の人口をもつ大集落(環状集落ともいうが、後の弥生時代の環濠集落と区別するために別名の馬蹄形集落という用語を使う)が営まれ、人々は早くも、長期にわたる定住地を中心に労働を結集し、必要な物資は遠隔地とも交易して入手するというシステムを作り上げていた。馬蹄形集落は中央の広場をとりまいて環状に住居が配置されているが、この円形は集団性と平等の象徴である。もちろん、すでにチーフ(首長)はおり、集落を構成するより小さな単位には弱小な個人も生まれ、社会は階層化の道にあったはずである。しかし、有名な火焔式土器など縄文式土器を代表する儀礼的土器が集団生活のなかで使われたこと、馬蹄形集落中央の広場が墓地区画となっていたことなどは、この集落がその集団性に依拠して生業を維持し発展させた様子を示している。人々は結集することを支えとして環境を人間化し、定住システムを作り上げていったのである。
 この馬蹄形集落は縄文時代を象徴するものであり、それが東国にのみ分布したということは、縄文時代が東国を中心として動いていたことを示している。これに対して、西国地方は、全体として長期的な定住集落それ自体が少なく、人口は東国よりもはるかに希薄であった。鬼界カルデラの噴火が南九州の拠点集落を破壊した影響もあったろうが、さらに西国は照葉樹林帯であって、照葉樹は堅果類の食料化に不適であったという事情が大きかった(堅果がなる場合もアク抜きの手間が多い)。一時もてはやされた「照葉樹林文化論」は、この点への目配りが不足しており、現在では否定されている考え方である。そこでは温暖化のなかで繁茂して利用しにくい照葉樹林に入り込んでいくのではなく、ぎゃくに、その周縁を必要な場合は移動して効率的に利用しつつ、狩猟・漁撈と組み合わせるような柔軟な生業戦略がとられていた。また、北九州では朝鮮や済州島などとの関係の深い漁民が活動している。それは西日本に人口増をもたらす要因ではなかったとしても、西日本の流動性が高く、柔軟な社会組織のあり方に影響していたのであろう。
 しかし、縄文時代後期に入ると、極盛に達した東国の縄文文化が変動をみせるとともに、このような東西の関係と人口バランスが変化していった。つまり、縄文文化の極盛化のなかで、まずその形式的な平等の精神が宗教的な形をとっていく。その代表は東国から北海道にかけて発見されているさまざまな環状のモニュメントである。代表は秋田県鹿角市大湯遺跡などの東北地方の環状列石であって、これはイギリスのストーンサークルと同じような冬至の日出・日没を祭る仕組みである。東国で同じような例は、有名な栃木県小山市寺野東遺跡の環状盛土であって、これは日の祭りが繰り返されるなかで、その遺構が徐々に盛り土になっていったというものである。同じような遺構は北海道でも確認できるといい、またそこからみると縄文時代の馬蹄状貝塚なども同じ性格があったという。環状列石が馬蹄形集落の中央広場に列石ができてきて、それが独立していくものであったように、このような遺構モニュメントはどれも馬蹄形集落と関係するものであった。
 このモニュメントは宗教の自立、超自然的な存在の浮上を意味する。別の言い方をすれば、自然の中に人間の世界とは無縁の恐るべきものを発見し、その前では人間は平等であるという観念の浮上を意味するが、それはこのころ、同時に土偶が奇怪な精霊の姿をとりだしていくことに対応している。また、それまではいかにも縄文土器らしい儀礼的な土器が日用にも使用されていたが、このころより以降、土器が儀礼的な精製土器と粗製の日用土器に別れていくことにも関係している。つまり、儀礼や宗教の場と時間が、日常からは区別された姿を現していくのである。
 問題は、このような宗教の自立が、実際には、その地盤となった縄文時代の馬蹄形集落が消えていくなかで進んだことである。つまり、縄文時代の中期のおわり近くなると、馬蹄形集落が二・三軒から四・五軒の住居からなる小村落に分解していく傾向があらわれる。これは一つは、温暖な気候に恵まれていた縄文時代も、このころになると再び寒冷化したという条件があった。しかし、それだけでなく、本来、縄文時代の社会のなかに存在した個性が集団性を突き破って明瞭になっていったということを意味する。実際、集落が分解するだけでなく、このころから柄鏡形住居といわれる特別の住居がうまれたり、身体の携帯品・装飾品や墓の副葬品がふえるなどの個人性が目立つようになった。逆にいえば、このような個人性の伸張こそが、観念の上で、人間の集団性や平等性を象徴する呪術や宗教の世界が強調されるという傾向を招いたのである。
 ようするに、縄文時代の後期に入ると、縄文社会のなかに以前から存在した共同性と個性の矛盾が明瞭な形をとっていき、馬蹄形集落を中枢にくみ上げられたネットワークが分解・分散していったのである。そして、こういうなかで、長い時間をかけてではあるが、東国から西国へ少しづつ人口の移住が行われていった。それは西国にも、東国に特徴的な柄鏡型住居などの文化要素がみえるようになることなどで知ることができる。こうして、それまでは圧倒的な懸隔があった東国と西国の人口比が5:1くらいには接近していった。
 そもそも西国社会は人々を迎え入れることのできる柔構造をとっていた。とくに、この場合、縄文時代後期以降の寒冷化が海退を引き起こして、瀬戸内海などの海辺に低湿地帯が形成されたことも大きかったという。そこをふくめた補助的な雑穀栽培(早くからイネもふくむ可能性がある)と海辺の生業の複合は西国社会に相当の変動をあたえた。西国社会も独自の色彩を帯び始めていったといってよい。それに対してとくに近畿地方など西国のうちでも東側の地域には縄文文化の諸要素が継承されていることが指摘される。これは人口の東から西への漸次的な移動にともなう融合現象であったということになる。詳細は不明としても、近畿地方やフォッサマグナ以西の濃尾平野などが独特の地域性を帯びていたことは事実である。
 こういうなかで、列島ジャパネシアの全域が「脱縄文化」ともいうべき状況にいたりつつあったのである。そこには、寒冷化や資源の消尽による人口の減少や移動の影響も大きい。しかし、縄文時代を通じて展開した遠隔地交易のネットワークが新たな地域の再編や移住を可能にしていったという側面は否定できない。そして、その結果として部族が形成された。縄文時代は地理と自然条件の異なる各地域への定住を社会の動きの基調とする時代であったが、それが再編成され、集落をこえて独自な歴史・文化・人脈をもつ人々のまとまり、部族が構成されたのは自然なことであった。
参考文献
宮本一夫『神話から歴史へ』(『中国の歴史』①、講談社2005年)
松木武彦『列島創世記』(『日本の歴史』一、小学館、2007年)。

2013年12月 8日 (日)

火山地震100平安時代の地震ー神話と祇園社

Kasugakaguya20131209


 今月号の『母の友』(福音館)。大野更紗さんの「生存ちゅう!」がのっていて、家族で買うようにしています。『困ってるひと』『さらさらさん』も読みました。
 ブログなどによると、退院された後もたいへんな闘病を乗り越えてきておられる御様子。https://twitter.com/wsary。

<第46回研究集会 記念講演  東京歴教協> 2013年3月
       奈良・平安時代の地震、神話と祇園社
           東京大学史料編纂所教授  保立道久
はじめに
 今回の東日本太平洋岸地震と原発震災の複合という事態の中で、今、どういう教材研究が必要なのか、そして小・中・高・大学でどういうカリキュラムを系統的につくっていくべきなのかということを、みなさん、御考えなのではないかと思います。問題はたしかにきわめて大きく、私は、歴史の研究者としても、それに対応して、基本的な部分から考えなおしていくべきことが多いのではないかと思います。
 まず御紹介したいのは最近の『歴史学研究』(2013年3月号)にのった峰岸純夫さんの「自然災害史研究の射程」という論文です。峰岸さんはたんたんと書かれているのですが、それを読んでいると、端的にいえば自然史を本格的に歴史学の研究と教育の中に組み込んでいくことの重要性を改めて認識させられます。とくに私はいま地震学や災害論の研究者と議論する機会が多いのですが、彼らと話して、この論文で重大だと思ったのは、峰岸さんが、自然災害を(1)気象災害(a風水害、b干ばつ・冷害、)、(2)地殻災害(a地震・津波、b火山爆発、)、(3)虫・鳥獣害(a昆虫の大量発生、b鳥獣の作物荒らし)と区分していることです。とくに(2)の地殻災害という言葉は、峰岸さんは「日本列島の地殻構造に起因する地震・津波・火山爆発などである」と説明されていますが、災害研究のキーワードの一つになるのではないかと感じています。ヨーロッパの災害研究では、災害はMeteorological Hazards Geological Hazards Biological Hazardsの三つに分類されているということですが、峰岸さんは、それとは独立に同じ結論に達したようです。このうち、二番目のGeological Hazardsというのは地質災害とも訳せるかもしれませんが、地殻災害という訳は新鮮だというのが災害研究の方の意見でした。
 ただ、三番目の虫・鳥獣害というのは、もっと広くBiological hazards、つまり直訳すれば生態災害とでもいうのがよいのではないかと思います。いま鳥インフルエンザのパンデミック(世界流行)の危険が問題となっていますが、これもある意味での鳥獣害ですが、生態系の攪乱からくる災害という広い意味で分類した方がよいように思います。
 話のはじめに、なぜ、この災害の三類型について御紹介したかといいますと、実は、今日お話しする奈良時代から平安時代は、温暖化、地震・噴火、そしてパンデミックがまさに日本の歴史上、最初に一緒にやってきた時代だからです。地震・噴火などの地殻災害は、そのような人間と自然との関係の歴史全体の中で分析する必要があります。
 そして、八・九世紀においては、人間の生命に対する被害という点では、まず生態災害=疫病、気象災害=飢饉が大きいことを確認しておきたいと思います。もちろん、当時でも、津波は大きな被害をもたらしましたが、しかし、地殻災害は以下に述べていきますように、世界観の問題としてはきわめて大きな問題であったとしても、実態としては、現代ほど多くの人々の死をもたらす災害ではありませんでした。それに対して、明治以降千人を超える死者が出た震災というのは十二回あります。つまり一八九一年(明治二四)の濃尾地震は七二七三人の死者が出ていますが、以来一二〇年ですから、大体十年に一度、千人を超える人が無くなった地震が起きていることになります。これがどこまで国民、市民の中で常識となっているかは分かりませんが、ともかく、今日の話の前提として、現代に近づけば近づくほど、地殻災害の被害は相対的に増大している。そういう意味でもこれを考えることはきわめて重要であることを確認しておきたいと思います。
(1)倭国の神話と地震・噴火
 さて、地震・噴火の問題を考えていく場合に、どうしても「神話」について考えておく必要があるというのが私の意見です。いうまでもなく、戦後の歴史学と歴史教育の出発点における最大の問題の一つが「神話をどのように扱うか」ということでした。そして、戦後の歴史学も歴史教育も、神話を子どもたちに伝えること自体に反対した訳では決してありません。これは石母田正さんの有名な論文「古代貴族の英雄時代」(著作集十巻)であるとか、益田勝実さんの『国語教育論集成』(『益田勝実の仕事』5)であるとかを、是非、読み直していただきたいのですが、そこでは民族にとって、神話というもののもつ重大な意味が明瞭に語られています。民族の神話は、人類が地球の特定の地域に棲みついた時の経験と自然観に深く根づいているもので、それは多かれ少なかれ、民族の根っこを表現するものであると思います。いわゆる国民的歴史学運動の揺れと誤りの問題もあって、この問題についての議論は十分な決着を見ないままできていると思いますが、大地動乱というべき自然の動きを前にして、私は、倭国の神話を自然神を中心にして捉え直すことが必要だと思うのです。
 ともかく、日本の神話の構造には、非常に強く地震と火山の神話が位置づいています。たとえば、大隅の噴火という有名な噴火があります。764年、聖武天皇の娘の孝謙女帝が再即位した直後に、大隅国と薩摩国の国境の地域で大噴火が起きました。『続日本紀』によると、「西方に声あり。雷に似て、雷にあらず」、爆発音が京都にまで聞こえたということです。そして火山島が出現し、その様子が「神が冶鋳の仕業を営むよう」である。つまり神が、冶金や鍛冶・鋳物の仕業を営んでいると表現されています。「大隅国の海中に神造の嶋あり、其名は大穴持神(オオナムチ)といふ」ということで、火山神としてのオオナムチが出てくるので、この史料の分析が益田さんの『火山列島の思想』の中心論題だったのです。
 火山神というのは、全国にその爆発音を響かせるわけですから、非常に強力な神霊であると考えられていました。火山は噴火を起こします。同時にその前から火山性の地震が起こります。マグマが嵌入してきて山体が膨張し、火山性の地震が起き、そして噴火にいたるわけですが、そのときには雷音が響き、火山性の落雷、つまり火山雷が起きるわけです。昔の人々は、ここに注目して、そもそも火山の噴火や火山性の地震の原因が雷音=雷にあると考えました。今でも雷が光ると地面がドーンと揺らぐわけで、要するに地面を揺らすのは雷であり、しかも雷が鳴るなかで噴火が起こるわけですから噴火も雷が起こすというわけです。ここには、雷が自然の動きの中心にいるという統一的な世界観が存在したわけです。これは世界の神話に普遍的なもので、ゼウスにしても何にしてもどこでも同じです。これを私は、雷電・地震・噴火の三位一体の自然観・世界観といっています。そして、それは龍が雷電を起こし、地震を響かせ、そして火山に棲むという観念によって統括されるようになります。もちろん、もっと以前から龍の観念は流通しているのですが、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたように、奈良時代から平安時代にかけて、こうい雷電・地震・噴火のすべてを象徴する龍という観念が、東アジアの影響の中で強く印象されるようになっていくように思います。
 しかも、噴火は鍛冶や鋳物師のような仕業であって、それを神がやっているということですから、これはローマ神話でいうバルカン(火と鍛冶の神=ウルカヌス)が地中に住んでいるというのと同じ幻想です。これは地下にマグマが存在しているという現代人の常識とある意味では同じことです。もちろん、プレートテクトニクスの理論によって、私たちは大地の動きと、それによって地殻災害が発生するシステムを自然科学的に理解できるようになりました。しかし、そうでありながら原発を作り続けるという目先の利己的・階級的な利害を優先する野蛮な判断が社会の中枢に存在させられている。そしてそれをなかばは認め続けているというのが実態ですから、認識の質としては、昔とそう変わっている訳ではありません。それと比較すれば、神話的な形式ではありますが、三位一体の自然観の方が、現代人の自然観よりは世界観としての統一性が強く、自然への尊重の意識も強いのではないでしょうか。いわゆる温故知新ということにもなりますが、昔の人は偉かったという感情は歴史学の研究や教育にとって基本的に大事なものであると、私は思います。こういう意味で、自然観あるいは自然史が神話に反映しているということを押さえておく必要があります。
 それでは、倭国の神話において地震の神は誰だったかというと、私は、スサノヲであったと考えています。スサノヲの母のイザナミは火の神カグツチを出産したとき大やけどを負って死んでしまいます。これは火山爆発の象徴であるというのが、神話学の古典、松村武雄氏の『日本神話の研究』の理解です。これをみた父神のイザナキは「黄泉国=根の堅すの国」に妻を訪問し、イザナミの精気を身にまといつかせて生き返り、海に出て禊ぎをして穢れを放出します。れはギリシャからマヤ文明まで、神話の時代に一般的な、死後婚とネクロフィリアを象徴する神話ですが、この神話は、そのような神話を示すテキストとしてもきわめて詳細なものとして重要なのですが、このときに生まれた神々が、まず第一に穢の神の大禍津日神であったというのが、日本の「穢」の観念を考えるうえで興味深いことです。いわゆる三貴神は、その後に生まれる訳です。すなわち左目からアマテラス(日神)、右目からツキヨミ(月神)を生み、そして鼻をすすいだときにスサノヲ(海神)が生まれます。鼻というのは黄泉の穢、死の穢を残す部位であるとされているというのが私の意見で、つまりスサノヲは貴神でありながら、穢の神でもあるという位置づけです。海の神が穢の神であるというのは、原発の汚染が海に流れているということを想起させますが、神話の時代にも、穢の行く先が海であるということは理解されていた訳です。
 このスサノヲが海の神であると同時に地震の神でもあるというのは、ポセイドンが海神であるとともに地震神であるのと同じことになります。その証拠は、スサノヲは母の「根の堅すの国」を恋い慕って「哭きいさちる」のですが、姉のアマテラスに会いに高天原に駆け上がります。そのとき「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」とあるのが第一です。第二に、スサノヲは「天の沼琴」という琴を持っているというのが、オオナムチ、つまり大国主命の神話にでてきます。オオナムチは兄たちにいじめられてスサノヲの所に逃げていって、結局、スサノヲの娘と婚姻するという話がありますが、そのテーマはこの呪宝の琴を盗む話です。オオナムチはスサノヲの娘を背負いこの琴を肩に担いで逃げるのですが、そのとき「樹にふれて地動鳴みき」とでてきます。つまり琴は地面を揺らす呪具だというのです。こうして、スサノヲの地震神としての資格はオオナムチに引き継がれたことになります。
 さて、二人は黄泉の国から逃げだします。スサノヲは追いかけるのですが、もう追いつけないということがわかると、坂の上から遠くへ逃げていく二人に向かって、「その宝物を使って地上の王者となれ。大国主命と名乗れ」と呼びかけるのです。「オオナムチ」の「ナ」はツングース系の言葉で「大地」を意味する言葉です。「オオ」は美称、「ムチ」は「貴」(尊い)を示す接尾語ですから、オオナムチの実体は「ナ」=「大地の神」「地神」ということです。そして、「クニ」とは、人間の領有・占有した区域のことで、区画された土地=領地をいうわけですから、スサノヲがおまえはオオクニヌシになれというのは――自分の娘との婚姻を承認し、「自然界の地霊から地上の人間界の王者になれ」と叫んだということです。
 重要なのは、スサノヲの神話の上での活動領域が紀伊国と出雲国であることです。まず、紀伊国は日前国懸社を中心として地震が多いところです。たとえばHi-net(高感度地震観測網)などをみると、それは印象的なものですが、また近畿地方だと播磨から出雲にかけてが多い。播磨から摂津にかけて山崎断層という長大な断層が通っているというのは地震学の方では有名な話です。『播磨国風土記』には、巨大な神が播磨国を歩き回って足跡が大沼となって残ったというダイダラボッチ伝説が残っていますが、こういう神が歩き回るのが地震であるというのが当時の考え方です。出雲国については、第4期火山帯は白山から中国地方の北を通って出雲の大山を通って阿蘇に下りてくるわけで、大山の噴火の記録はありませんが、当時から「火神岳」と呼ばれていたように大山が火山であることは知られていました。スサノヲが紀州と出雲に非常に縁が深いというのは、ここに原因があると私は思っています。ようするに、神話的な形式にかくれて、当時の人々も、日本の国土というものをそれなりに構造的に捉えていたはずなのです。益田さんは、「古代人にとって神話は神々の話であるとともに、歴史であり、文芸であり、科学であった」といっていますが、私もそう考えています。

(2)東大寺大仏と河内・大和地震
 さて、詳しくは、『歴史のなかの大地動乱』をみていただけるのがありがたいですが、8世紀から10世紀は、いわば大地動乱の時代でした。一覧表にしますと次のようになります。
・678年、筑紫地震
・684年、南海トラフ地震
・729年、長屋王自死、怨霊化事件
・734年、河内大和地震(長屋王父の高市皇子墳墓も崩壊)
・737年、疫病流行(藤原四兄弟死去)
・740年、恭仁京遷都
・742年、紫香楽京造営
・745年、美濃地震(紫香楽京被災)、平城遷都
・752年、東大寺大仏開眼(華厳経、釈迦は地震を鎮める)
・800年、富士大噴火
・818年、北関東地震
・838年、伊豆神津島大噴火
・864年、富士大噴火(富士五湖ができる)
・869年、東北沖大津波(一昨年の大津波はこの繰り返しだった)
・879年、南関東地震
・887年、東海・南海大地震(八ヶ岳山体崩壊)
・915年、十和田大噴火(記録のあるうちでは日本最大)
 全体としては、七世紀末から八世紀半ばに地震の活発期があって、八世紀後半は少し静かになり、九世紀の四半世紀頃から再び地震が激しくなるということになります。この『歴史のなかの大地動乱』という本では、こういう大地動乱の歴史と政治史が深く関係して展開していた様相を描き出してみました。まず奈良時代についてですが、ご存じのように、この時代は、王家の中で天武系の皇子がいなくなるほどの非常に激しい血みどろの政争が展開しました。日本において天皇制の歴史を教える場合に、これを必ず原点に据えなければいけないというのが私の意見ですが、このような政治史の展開を決定したといってよい長屋王事件とその後の大仏造営に、734年の河内大和地震がふかく関わっているのです。
 この地震は長屋王事件の五年後ですが、長屋王の父の高市皇子の墳墓が崩壊したと考えられています。『歴史のなかの大地動乱』で詳しく述べましたが、この地震の原因が長屋王の自死、怨霊化にあると考えられたことが、人々に大きな衝撃をあたえました。そこでは、スサノヲのような地震神が地震を起こすという神話的な観念と、怨霊が地にもぐって地震を引き起こすという幻想の二つがいわば合体していたように思います。そして、聖武が華厳経への帰依を強めたのはちょうどこの頃のことで、それは華厳経に釈迦の地震を鎮める力が書かれていることに関係していたということです。
 私、東大寺のホームページに、大仏は地震を鎮めるという役割をもっていたとあったのを読んだことがありますが、これは事実とみてもよいのではないでしょうか。貴族層の力を造仏事業に集中し、国家的な危機を釈迦の力に依拠して乗り切ろうとした聖武の構想には、こういう要素を認めるべきであろうと思います。年配の方はご存じと思いますが、戦後一時期の歴史教育では東大寺大仏を無駄で恣意的な政治と搾取の象徴のような描き方をしたことがあります。もちろん、その根拠になっていた北山茂夫氏の仕事の意味をすべて否定しようというのではありません。ただ、いつか『歴史地理教育』に書いたことがありますが、この頃、ちょうど新羅出兵が目論まれていて、聖武と称徳は、それをいやがって東大寺・大仏・西大寺の建設に邁進したという側面があります。そこにさらに地震からの鎮護という要素を加えることができるということになると、少なくとも現代の我々が、東大寺大仏を八世紀の大地動乱の経験とも関係でふりかえるという文化理解をもつことには意味があるのではないでしょうか。
 しばらく後に、紫香楽京からの撤退の原因となった美濃地震がおきましたが、その後、八世紀後半から九世紀の初頭まで地震は静穏期に入ったようにみえます。称徳・孝謙女帝について、歴史教育でどのように扱われているかは寡聞にしてよく知りませんが、唐の則天武后の時代は経済的には発展の時代であったといわれます。私は、大きくみると、この時期、奈良王朝も女帝の下で、経済的な活動や開発が進展したのではないかとひそかに考えているのですが、それが正しいかどうかは別にして、この時代が、地震の静穏期という意味では、いわゆる高度成長期と似ているといっても大きな間違いではないのではないでしょうか。六〇年代の高度成長が偶然的な大地の静穏の上にさいた仇花であったというのはいいすぎでしょうが、地震などの災害が静穏な時に経済的な成長の雰囲気におおわれるというのは日本社会史にとって基本問題であるように思います。
(3)九世紀前半の政治史と地震
 朝廷は、以上のような奈良時代の政争の記憶から離れて京都の長岡に都を移そうとしました。しかし、その長岡京の造営中に、桓武天皇が同母弟の早良親王を処刑します。そして早良は長屋王と同じように怨霊化し、794年7月には長岡京地震が起きます。これは、あるいは100年に一度起こるといわれている南海トラフ地震かもしれないと考えているのですが、これが平安遷都の動きを最終的に追認するような形で、10月に平安遷都が実施されます。地震に襲われた奈良を逃れて長岡に行ったが、そこでもうまくいかず、さらに京都に行ったという訳です。
 そして、800年の富士大噴火、818年の北関東大地震と続いたのですが、この時代はまだ地方での噴火地震であったこともあって大きな問題にはなりませんでした。ところがしばらくたつと、京都は群発地震の巣になってしまいます。この時の首都と近畿地方の地震は九世紀の王権の非常に大きな影響をもたらしました。奈良から平安京への遷都は、王権が地震の巣に飛び込んでいくことになったという皮肉な結果です。
 最初に甚大な影響をうけたのは淳和天皇(在位823-833)でした。彼は、末っ子でしたので桓武天皇の偏愛をうけたといわれ、異腹の妹高志内親王との近親結婚をします。桓武の遺志はそこから生まれた恒世親王を正当な後継者にする点にありました。桓武純血の孫という訳です。ところがこの高志内親王が夭折してしまいます。そこで淳和は兄嵯峨の娘正子内親王と再婚し、恒世は皇太子を継ぐことができなくなりました。すると前妻の高志内親王の陵墓が「不穏」な動きを示します。やがて恒世も亡くなり、正子内親王が妊娠して恒貞親王が生まれるのですが、827年、恒貞が誕生したその夜に雷鳴が鳴り響き、京都で群発地震が開始するのです。
 このあたりの史料を読んでいると、とても怖い話ですが、その後も京都で地震が続く中、829年に祇園社の原型ができます。愛宕郡の丘に紀百継により神社が建立されるのです。この紀氏が祇園社の原型を建てたというのはたいへん重要なことです。紀氏は紀州の紀と関係する一族で、スサノヲを崇敬している氏族です。紀貫之が編纂した『古今集』の序に神々の中で最初に和歌を読んだのはスサノヲであるとして「荒かねの土にしてはスサノヲノミコトよりぞ起こりける」と出てきます。「荒かね」とは鉄のことで、つまり地面の中にある鉄はスサノヲが深く関係しているのですが、その関係からいっても、紀氏は地震の神であるスサノヲを祭ったのにちがいないのです。これが祇園社の前身であることを記憶しておいていただきたいと思います。
 さて、右にふれた誕生の時に群発地震が鳴り響いたという恒貞は一度皇太子になります。ただ、この時期の王統の迭立の中で、その地位を追われたのがいわゆる承和の変です。私は年号をつかって歴史的事件を命名するのは明治の歴史観の残り滓で、何よりも教育でいえば子どもに余計な記憶を強制する悪しき風習であると思っていますので、正確にいえば恒貞廃太子事件と呼ぶべきであるといっていますが、それを乗り切った仁明天皇の時期は、ほかから比べると地震が少ない時期でした。ところが、その治世の末期になると、838年伊豆神津島大噴火が起きて、これは王権中枢にモノノケが登場した理由だととらえられました。それにつづいてまた地震が激しくなります。そして、仁明に次ぐ文徳・清和天皇は地震にさんざん翻弄されることになりました。
 とくに855年に斉衡の地震によって奈良東大寺大仏の仏頭が落下したというのは『方丈記』にものっていて有名な話です。文徳の時はたいへん地震が多かったのですが、地震の神に追われるようにして文徳は死んでしまいます。しかも、死んだ後に陵墓を造る使い(陵墓の占定使)が「地神」の集団に追われたという話が『今昔物語集』(巻24の13)に出てきます。「千万の人の足音」がして地神が追ってくるというので、陰陽師はとにかく田んぼに隠れようとすると、「気色悪しくして異なる香ある風の温かなる」風が吹いてきて、「地震の振るように暫し動きて過ぎぬ」とあります。この「異なる香ある風」とは疫病を運んでくる風のことであり、地の神が地震と同時に疫病を運んできて、王の陵墓を造る使いを追いかけるという話です。
 少し話を戻すようですが、「はじめに」で峰岸さんの論文にふれて、奈良時代・平安時代は日本の歴史上、三類型の災害がすべて出そろった時代であるといいました。温暖化・パンデミック・大地動乱ということになりますが、8~9世紀は、日本だけでなく東アジア全般がパンデミック(広域流行病)の時期に入っています。新羅の史料を読んでも、日本の史料と見まがううような疫病の史料が出てきます。多くの人が死んでいて、とくに藤原四兄弟が死んだ長屋王の事件の後の疫病の流行は激しく、統計によっては人口の3分の1が死んだといわれます。地震とともにパンデミックが起き、その疫病の理由が王家の内部紛争にもとづく貴族・王族の死とその怨霊化によるというふうに考えていました。人口の3分の1といえばオーバーなようですが、エジプトから侵入したペストによる中世ヨーロッパの人口減少はものすごいものでした。
 この『今昔物語集』の説話にみえる、地震を起こす地霊が、同時に疫病を伝える風(疫風といいます)を伝えるという観念は、その意味で興味深いものです。これは当時の人々にとっては理解しがたい一種の神秘的な災害を、同じ実態が起こすものと観念していたことをよく示しています。地震と疫病は同じ悪神が起こすという訳ですが、これはスサノヲが地震の神であるとともに穢の神と考えられたことに関係していると思います。
(4)播磨地震・陸奥地震と祇園会の開始
 こうして文徳が死んだ後に清和が即位したのですが、怨霊の風評は王権にとっても無視できないものであったようです。そのなかで863年、早良親王(崇道天皇)をはじめ藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂らの怨霊を祭る御霊会が、内裏南の神泉苑で行われました。神泉苑には龍が棲むとされていましたから、彼らの怨霊も同じような龍体とされたはずです。これらの人々は桓武王統の内部争いの犠牲者ですが、その政争の犠牲者を朝廷自身が祭らざるをえないというところに追い込まれていると評価すべきだと思います。
 ところが、御霊会の翌月には越中・越後自身がおき、さらに864年には富士の大噴火がおきました。この噴火はきわめて大きなもので、その溶岩流が北に流れて富士五湖ができたことは有名です。そして、それに引き続くようにして、866年に応天門の放火事件が起こるという不吉な経過でした。犯人はご存知のように伴善男とされたのですが、伊豆に配流されて868年に死去します。『今昔物語集』によると、この善男も怨霊化したのです。普通、こういう動きは藤原氏の陰謀という、私のいう「摂関政治中心史観」で処理されてしましますが、これもむしろ王権中枢の矛盾の激発が怨霊をもたらすという奈良時代から続く政治史の動き方の特徴との関係で考えるべきものです。
 問題は868年伴善男が死んだ年に播磨地震が起きたことで、これが善男の怨霊の引き起こしたものであるということになった訳です。この地震は同日に京都も大きくゆらした、M七,〇以上とされる大地震で、その震源は播磨国の大断層、山崎断層であったことが断層の掘削調査で確定しています。『歴史のなかの大地動乱』では、地震学者の読みにくい宣命であったためにデータの集成からもれていた摂津広田社・生田社の史料も挙げて、この前後に摂津も相当にゆれていることを明らかにしました。ここからすると、地震学的に確定している訳ではありませんが、山崎断層の北西部と南西部の全体が連動したものかもしれません。なおその後に山崎断層が動いた地震として「鎮増私聞書」(『兵庫県史』史料編中世四)に記録された一四一二年(応永一九)の地震があります。その震源は山崎断層本体よりも少し南に外れているかもしれませんが、九世紀からみると、その間は543年。そして、その時から1984年の山崎断層の竜野市北東のあたりを震源とするM5,6の地震までは572年です。これをとって、『日本歴史地名大系』(兵庫県)は、600年弱の周期で山崎断層が動いているのではないかとしています。ただ、1984年の地震はそんなに大きくありませんし、山崎断層は非常に長いものですので、すぐそういえるのかどうかは私にはわかりませんが、気になる点です。
 というのは、播磨地震の翌年869年5月に、今回の3,11の歴史的な原型とされる陸奥海溝地震が起きています。つまり陸奥沖で大きなプレート境界型の大地震が起きている訳ですが、この陸奥沖プレート境界地震は次に1454年(享徳三)に発生していて、間が585年。さらにその地震から今回の3,11までは558年で、どちらも600年弱だからです。
 これは地震の超周期性といわれる繰り返し性の問題で、地震学的にはまだ仮説の段階のようですが、ともかく九世紀に山崎断層の大地震と陸奥海溝地震がほぼ同時に発生したことは九世紀の地震の旺盛期といわれるものの規模を物語っているように思われます。なお、今日は九世紀陸奥海溝地震と、その三,一一太平洋岸津波との地震学的な共通性などについて詳しくふれることはしませんが、それについては、右の超周期性の仮説をふくめて佐竹健治「どんな津波だったのか」(『東日本大震災の科学』東京大学出版会)を参照いただきたいと思います。
 ここでは、陸奥海溝地震の直後、6月に祇園御霊会が始まったことについて伴善男の怨霊化とあわせて解説しますが、ふつう祇園御霊会は疫病を鎮めるためといわれています。しかし、そこにはこの時期の連続した地震の影響がありました。注意すべきなのは、祇園御霊会は播磨の広峯社の神が京都に移座してきてはじまったという伝承があることです。もちろん、この伝承は後のものですが、広峯社は祇園の本所であるという史料が鎌倉時代初期にありますので、播磨広峰と祇園の関係自体は存在したことは事実です。しかも、広峯社はもとスサノヲ社といわれていたとされており、さきほどの山崎断層の近くに位置している神社なのです。ようするに地震の神・スサノヲが京都に移座してきたという訳です。その前提にはさきほどの紀百継のたてた神社があったに違いありませんが、そもそも祇園社の建つ場所は花折断層の直上にあります(図1)。この断層は近江・若狭に続く大断層で、京都が揺れる時はここが揺れます。播磨地震は山崎断層が震源ですが、その揺れが摂津に到達し、はねかえって京都にまで及んだことになります。人々は、巨大な地震の神が播磨国の広峯社からドスンドスンと移ってきたと感じたのではないでしょうか。
 こういう播磨地震・陸奥地震の連続のなかで、それは伴善男の怨霊が起こしたという噂がささやかれたことは確実であると思っています。実際、しばらく後、876年に大極殿が炎上しますが、これは伴善男の縁者による付け火ではないか、あるいは伴善男の怨霊による「天火=神火=雷電」と疑われたことが知られています。さすがに地震については、そういう記事は残っていませんが、怨霊が落雷の原因ならば、地震を起こす地霊でもあるというのは前述の三位一体の考え方からいっても自然なことです。しかし、当時の宮廷としては、地震を起こしたのが伴善男であるというよりは、スサノヲであるという方がまだ我慢できることだったということでしょう。実際にはスサノヲを祭ることを表面に立てて伴善男の怨霊を鎮めるという心意もあったことでしょう。つまり祇園のスサノヲの深層には、伴善男の怨霊がいたということです。
 この御霊会が現在まで続いているのですが、祇園の神はご承知のように牛頭天王という神です。この神はスサノヲと同体の神であり、地震神としてのスサノヲが牛頭天王という形をとったものです。さきほど申し上げたように、スサノヲは地震神であると同時にケガレ(疫病)の神でもあり、大禍津日神ですから、まさに牛頭天王と同じ神です。こういうスサノヲ=牛頭天王という同体説は、いわゆる神仏習合の一形態というべきものです。神仏習合というとなにか平和な話と考えるのが一般ですが、河音能平氏が明らかにしたように(「王土思想と神仏習合」『河音能平著作集』2)、その根底に神話的な疫神を仏教などの文明的な宗教によって祭りあげるという意識がありました。神仏習合といいながらこれを語らないのは歴史学にとってはほとんど無意味な言説です。
 それは同時に、倭国の神話が変化していったということも意味しています。つまり平安時代には、牛頭天王が前面にでてスサノヲは陰にかくれます。倭国の神話の根底に存在した地震神スサノヲの物語が、7~10世紀の大地動乱の時代に、ある意味で復活しながら、その神話的な幻想の上に、同時に急速に別の物語が重層していく訳です。ここに現代までつづく習俗的な物語が形成されることになりました。つまりよく知られているによう蘇民将来の物語です。牛頭天王は、異国の神=北海の神で、南海のサカラ龍王という龍王の娘をお嫁さんにするために日本にやってきたけれど、日本で悪い目にあったので疫病をはやらせたというのが物語です。ただ、蘇民将来が牛頭天王を歓待したから、蘇民将来の札を下げておけば疫病からまぬがれることができるという訳です。後に述べることとの関係で、牛頭天王が龍の一族とされたこと、この物語が龍の物語であることを御記憶願いたいと思います。いずれにせよ、こういう物語の流布を前提にして、疫病はこの「蕃神」=疫神=「異土の毒気」のせいだということで、祇園会が首都の習俗の中に確固たる位置をもっていく訳です。ただ、牛頭天王の物語の基底にスサノヲの神話が生きつづけていたことはいうまでもないわけですから、これはいわば、大地動乱の時代、首都にスサノヲの神殿ができたと考えた方がわかりやすいように思います。
*図1.祇園社と花折断層。保立道久『歴史のなかの大地動乱』(p142)<図のキャプションです>
(5)『源氏物語』の時代と地震
 さて、若干の追補はしましたが、以上はだいたい『歴史のなかの大地動乱』で述べたところです。今日は、それを前提として平安時代の通史、とくに政治史を地震を通じて考えることを課題にしています。
 その場合の前提となるのが、868年の陸奥津波の10年後の879年に関東大震災と同じスタイルの南関東地震が起き、さらにその8年後の887年には東海・南海大地震が起きたことです。この887年の大地震の史料を精確に読んだのが地震学者の石橋克彦さんでした。彼の仕事によって、この時の信濃国の大洪水の史料が、地震によって八ヶ岳山体が大崩壊を起こして古千曲湖という巨大な堰止め湖ができ、それが梅雨時に決壊して信州の佐久・埴科・更級という広大な条理水田に洪水が入ったと解釈されるようになったのです。そして、信濃の考古学界の営々とした調査によって、その指摘の通り、八ヶ岳山体崩壊と堰止め湖の決壊に伴うさまざまな考古学的な痕跡が明らかになってきました。この887年地震は非常に広域のもので大阪湾で津波が発生したということから、だいたい一〇〇年に一度発生するとされている南海トラフの地震であることは明瞭だったのですが、東海地方で八ヶ岳の山体崩壊をおこすような強震動があったことが、これによって確定し、この地震が東海・南海の連動地震であったことが論証されたのです。
問題は、この南海トラフ地震の発生によって大地動乱の時代がさらに激しくなった側面です。これが現在のことについてもいえるかどうかはわかりませんが、少なくとも9世紀の地震の旺盛期は10世紀までは続きました。とくに10世紀初頭に十和田と韓半島の白頭山の巨大な噴火が連続したことが重要です。そして、934年(承平4)、938年(天慶元)の地震は非常に激しいもので、938年の震は死者が4人も出ています。9世紀、地震は多かったとはいっても京都では地震による直接の死者はありませんでした。それが10世紀に入って死者4人ということで、これは相当のことです。
このとき天慶に改元されたのですが、その理由は地震と兵乱が予測されたためです。実際、改元にもかかわらずその翌年には平将門と藤原純友の反乱が起きています。9世紀に宮廷争いが起きたといっても大きな政治的反乱が起きたわけではありません。しかし、以前、『平安王朝』という新書で論じましたように、朱雀天皇の後の代替わりがうまくいかない中で将門・純友の大規模な反乱が起きたことに朝廷は大変な危機感を持ちました。10世紀に入りますと、六国史がなくなって史料の雰囲気が変わりますので、歴史家はついそれに流されてしまって、九・一〇世紀の歴史の連続性を見のがしがちですが、当時の宮廷と王権はこの事態を9世紀の事態の連続と考えていたに違いありません。
 しかし、9・10世紀の東アジアの全体でみると、諸王朝の中で一応続いていた王朝は日本だけでした。新羅も唐も滅亡しており、これは日本の王家にとって大変な自信となったわけです。大地動乱があり内部的な争いが激しく大変だったけれども、ともかくも王朝の血筋は続いた。この中で、日本は万世一系であるという国際意識の論理が9・10世紀に一般化します。それが君が代の論理であったわけで、それがこの時期の「ナショナリズム」を根拠としたものであったことは歴史学にとっての重要問題であると考えています。
 それはまた別の話ですが、先日、文学史の三田村雅子さんと河添房枝さんと『源氏物語』に描かれた天変地異というテーマで座談会をした時、この一〇世紀の地震との関係で『宇津保物語』の第一巻にでる俊陰の琴の話を位置づけることができるということを教えられました。つまり、『宇津保物語』のトップ「俊陰」は、遣唐使となった清原俊陰がペルシャで天女から琴を与えられる話です。俊陰の琴は多くは天皇に献上されるのですが、もっとも威力の強い琴は娘に伝領されます。そして、俊陰の死後、娘は子どもと一緒に洛外にでて木の「うつぼ」に棲む運命になるのですが、そこで東国の武士に襲われそうになった時に、琴をかき鳴らすと、山が崩れ、その武士を山の下に埋めてしまった。この琴は「山くずれ地割れさけ」るという力を持っているというのです。この琴によって東国の武士を抑えつけるというのが、いかにも10世紀に形成された観念ではないかと思わせるということです。
 三田村さんのいうように、この時代の王権の中で、地震を鎮める力をもった「琴」という言説がもてはやされたことは確実です。これはスサノヲの呪宝としての琴が形を変えたものではないでしょうか。この『宇津保物語』の冒頭部分は、宮廷において一〇世紀の経験がどう引き継がれたかを示しているように思うのです。こうして時代は、兼家・道長・頼通の時代に入っていく訳ですが、さしもの地震も976年(貞元元)に山城近江を襲った大地震が過ぎると、静穏期に入ります。この時代は地震はあっても建物の崩壊や人死はありません。そう大きな地震はないのです。私はいわゆる摂関時代というのは地震の静穏期なのだということを確認して、そこには同じように静穏期であったいわゆる高度成長期の社会的雰囲気に似たものがあるのかも知れないと考えました。
 座談会でも確認されたのですが、地震は『宇治拾遺物語』にはあるのに『源氏物語』には一つも出てきません。しかし、人死にはなかったものの、この時代にも地震はあったことは先に述べた通りです。そして、10世紀までの記憶にもとづく不安の雰囲気も強く社会と文化の中に残っていたようです。それが『源氏物語』の天変地異の記述に反映していたらしいのです。
 たとえば、どういうふうに天変地異が出てくるかというと、もっとも重要なのは、明石の巻だろうと思います。つまり光源氏が父の桐壺帝の死後、き須磨に流罪になりますが、暴風雨と雷が起き「高潮」が明石によってくる。京都の宮廷でも明石でもこれは一体どういうことだろうと「あやしき物のさとし」とされたという訳です。そのしばらく後、また高潮がおきて、御座所近くまで潮が満ち波が寄ってきて落雷も激しいということになった夜、源氏は夢を見ます。その夢は、源氏の父の桐壺帝が大波とともに「海に入り、渚に上り、内裏に奏すべきことのありて上る」というものです。桐壺帝は死んでいるわけですが、それが海に入って渚に上り明石に上って京都まで上るということで、桐壺帝の霊が天変地異の背後にいたというわけです。
 死霊が海の中から渚に上ってくる。これは桐壺帝が黄泉の国から上ってきたことを意味します。重要なのは、三田村さんが、須磨の屋敷は「海面やや入りて」「山中」とされているのに、そのそばまで潮がやってきたというのは、津波が示唆されているのではないかとされたことです。たしかに、津波の場合はしばしば海面が発光するという、地震発光かと思われるような記載が多いのですが、この場面でも「海面は光り満ちて」とありますし、「高潮といふものになむ。とりあへず人そこなわると聞けど、いとかかることはまだ知らず」(高潮であっという間に人をそこなう)という描写も津波を思わせます。
 つまり、明示されている訳ではないものの、津波が示唆されていると考えることは可能だろうと思います。つまりここには黄泉国の怨霊が地震・津波をおこすという観念が踏まえられていた。とくにここはまさに播磨国の海岸ですから、海神=地神であって同時に「黄泉国=根の国」の主であるスサノヲのイメージがふまえられていた可能性が非常に高いように思います。そして、これが非常に微妙な王権内部の問題をかたる背景にされているのが興味深い訳です。京都にいた冷泉帝(実際には源氏の息子)も、同じ桐壺帝の「さとし」によって驚かされ、源氏は明石から京都に呼び返されることになります。私は、右の座談会でおしえられて、こういう『源氏物語』の叙述は、やはりたいへん見事なものであることを再認識しました。
 ただここで注意しておきたいのは、三田村さんもそう考えられていますが、あるいは紫式部は須磨から明石という土地が地震や津波に縁が深いということを認識していたのではないでしょうか。1596年(文禄5)の地震では須磨明石に津波がよっていますし、この前の阪神大震災でも須磨断層が動いています。そして、もし式部の経験の範囲内に須磨の津波ということがあったとすると、10世紀から11世紀の初頭のある時に大阪湾内で津波があったかもしれないということになります。この時期の地震史で最大の謎になっているのは、だいたい100年に一度はあるはずであるということになっている南海トラフ地震の史料がないことです。そして石橋克彦氏によれば南海トラフ地震の大きな特徴が大阪湾における津波であるということですから、あるいは、現在は特定できないとしても、やはりこの時期、南海トラフ地震が起きていたのかもしれないと想像するのです。これはあくまでも想像ですが、桐壺帝の死霊が須磨の海岸に上ってくると云うのは、簡単には黙過できない問題であることは強調しておきたいと思います。
(6)院政期の祇園社と地震
 摂関期を過ぎて院政期に入ると地震の静穏期は終わるようです。つまり、十一世紀後半、後三条院の時代になりますと地震が目立つようになります。大きかったのは、一〇七〇年(延久二)10月の地震です。『栄花物語』には、祇園社が焼失して、その直後に「なゐ」=地震が起きたとあります。火事は失策ですから、そのために神が怒ったということでしょうか。火事が14日で、20日に地震です。そのため、翌年八月に祇園天神は造り直されて、新造の社ができます。そして、その翌年4月に後三条が祇園に行幸します。後三条の祇園への行幸は、この地震との関係があるのではないかと思っています。これ以降天皇の祇園行幸が慣習になって、祇園の位置が上がっていくのです。
 しかし影響が大きかったのは白河院政の時代でしょう。たとえば一〇九三年(寛治七)二月には京都で地震があって諸所の塔が損害をこうむり、疫病流行の予兆と占われており(『藤原宗忠日記』)、さらに五月一四日には奈良の春日山が鳴動した(『百錬抄』)。ちょうどこの時近江国司と相論をしていた興福寺・春日社の僧侶神人は、京都に嗷訴するという手段にでようとしていたが、その訴状には「社頭頻りに鳴り、山谷しばしば響く」として、地震を神の怒りの表現とする主張がみえます(『扶桑略記』)。この鳴動の記録は、『大日本地震史料』にはとられていません。「鳴動」というのは解釈がむずかしい場合があって、すぐに地震とすることはできないのですが、この場合の「谷々が響く」というのは地震と考えてよいと思います。これが春日神木を動かした最初の嗷訴の事例になります。
 この年には右の二月の大地震のほかに五回の地震の記録があり、さらに年末から翌年にかけては京都で疫病が流行しました。平癒の祈りが諸寺社に捧げられたましたが、翌一〇九四年(嘉保1)正月と九月にはとくに祇園社で読経が行われているのが重大です。この年にも三回の地震が起きていますが、さらにその翌年一〇九五年(嘉保2)には地震の数は減りましたが、八月に京都で「大地震」が感じられるとほぼ同時に出雲大社の鳴動が報告されています。そして九月には、時の天皇の堀河の周囲に物恠が跳梁し、「咳病」から「不予」におちいるという事態になります。この時、堀河が祇園社に立願していることは偶然とは思えません(『藤原宗忠日記』承徳元年四月二六日条)。
 しかも一〇月には今度は叡山が美濃国司源義綱を訴える日吉社神輿の「動座」をともなう最初の嗷訴に突入するという大事件がおきました。これが日吉神輿が京都に下りてきた最初の事例です。これに対して義綱を保護していたと思われる関白師通が「まったく神輿をはばかるべからず」という強硬姿勢をもってのぞんだために、武士が矢を放って神輿を傷つけたことが山僧・神人の激昂を呼びます。私はこの時、悪僧の一部が祇園林に逃げ込んだこと(『藤原宗忠日記』)は祇園社が状況の中心にいたことを示していると考えていますが、叡山の強訴も、春日と同様に、地震(そして疫病)にともなう社会の雰囲気を背景にしていたことは確実だと思います。
 ここに始まった春日神木と日吉神輿の動座が平安時代末期にかけて政治状況とからんで、京都を大きく揺るがせたことはよく知られていますが、これが両方とも地震が頻発する状況の中で起きたことは無視できないと思います。春日の場合はそれを史料が明瞭に語っている訳ですが、ここには地震に神意を聞くという心理が現れています。そして、これを伏線として、一〇九六年(永長1)、永長大田楽の熱狂が導かれました。この年、二月に地震があり、五月頃には旱魃と疫病の流行が始まっています(『藤原宗忠日記』嘉保三年六月一四日条)。その中で、人々は五月から七月頃にかけて石清水・賀茂・松尾・祇園などにむけて田楽を捧げました。この熱狂は「妖異の萌すところ」(洛陽田楽記)、「時の夭言の致すところ」(『藤原宗忠日記』)などといわれていますが、その条件に従来指摘されているような干ばつや疫病の流行のみでなく、地震があったことは疑いありません。
 重要なのは、これが王権の危機とむすびついていたことです。その前提は、そもそも前年の堀河の不予の時には、後三条の「三宮」輔仁が王位につくことが待望されたという問題で、永長大田楽がそういう政情不安の中で起きたことが重大なのです。まず、白河院の側は、愛娘郁芳門院媞子が田楽を好んでいたこともあって、むしろ大田楽を応援して参加する側にたっていましたが、その媞子が八月七日に死去してしまい、ショックをうけた白河院は出家してしまいます。他方、白河の子どもの堀河天皇は関白師通と共同して、白河院政下ではあったものの、白河の介入をおさえて執政する姿勢を強めていました。この田楽はそういう堀河と師通がおこなった形式的な災害対応に対する批判をふくんでいたとされます(戸田芳実「荘園体制確立期の宗教運動」『初期中世社会史の研究』)。堀河はどうにか健康を取り戻したものの、前年、日吉神輿が矢を射かけられるという事態に責任のある師通は、そもそも祇園社が比叡山の末社という位置にあったこともあって、祇園の神人をはじめとする大田楽に参加した人々に敵視されていました。この師通も媞子の死のしばらく後に咳病を発します。
 こういう中で、一〇月の二回の地震の後、一〇九六年(嘉保三)一一月二四日、今度は掛け値なしに大きい被害を各地にあたえた大地震が発生しました。この地震は、京都が数日揺れ、伊勢安濃津と駿河を津波が襲い、近江勢多橋が落ちるという規模からして東海地震であることが確定的なものです。これによって嘉保の年号が永長に改元されたのですが、それを記録した師通は、この改元の理由を「今年世間淫乱、去る廿四日大地震」と述べています(『後二条師通記』)。
 重大なのは、この師通がちょうど二月末頃から「風気」を発して調子を崩し(『後二条師通記』二月二四日条)、三月下旬になって発病して、六月に死去してしまったことです。私は、師通が体調をくずした後の、三月始めになって、東海地震の時に祇園社の宝殿が大震動して、雷音を発したことが怪異として卜占の対象となっているのは偶然のことではないだろうと考えています。詳しくは別の機会に述べることにせざるをえませんが、この頃、師通が日吉神輿を射させた関係で、山王の祟りをうけたという噂が出まわったらしいのです。『平家物語』によれば、最初は師通の母・源麗子の必死の祈りによって、山王が「三年が命を延奉らむ」という猶予をあたえたが、その期限が来て、師通は死去したというのです。
 『源平盛衰記』『山王霊験絵巻』などには、師通の死後、日吉社の神体山、牛尾山の山頂に立つ八王子宮と三宮の神殿の間にある盤石の下に師通の魂が籠め置かれ、雨の夜には石に押されて苦しむ呻吟の声が聞こえたという物語が記録されています。「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」(『源平盛衰記』)という訳です。牛尾山にはオオナムチと同体の大物主神が鎮座しているとされていましたから、ようするに師通は地震の地霊にやられたという訳です。比叡山と祇園の間に本末関係があることはいうまでもありませんから、ここで延暦寺・日吉神社(オオナムチ)ー祇園(スサノヲ)という地霊・地震神の神観念が動いたことは確実です。
 そして、この上に、一〇九九年(承徳三)一月二四日には右の東海地震に引き続いて南海地震が発生しました。石橋克彦さんによると、歴史上だいたい東海地震が起きてから南海地震が起きるといいます。なぜ東海地震が先行するかというのは地震学の大問題のようですが、こういう連鎖の中で、地震の恐怖の物語が再生されたというのは当然であったろうと考えています。

(7)平氏と祇園・福原・厳島──瀬戸内の龍神信仰
 さて、こういう経過の中で一人勝ちしたのは白河院でした。「鴨川の流れ」云々という白河院の言葉は有名ですが、いってみれば「地震」は白河院のいうことをきいたという訳でしょうか。ともかく白河専制という平安末期の政治史に巨大な影響をもたらした条件として、一一世紀末期の東海地震、南海地震の連動があったというのが、いちおうの結論です。
 平氏政権もその延長で読むことができます。上の師通の話はまだ論文にしてませんが、平氏政権期については「平安時代末期の龍神信仰」(『歴史評論』750号)を御参照ください。そういうことで内容は省略して御話ししますが、『平家物語』では、平清盛は白川法皇が祇園社の入口で見そめた町の女・祇園女御に産ませた落胤であるという一節があります。清盛が白河法皇の落胤であるというのはかなり可能性の高い話ですが、母親が祇園女御であるというのはありえないとされています。ただ、こういう経過からして、白河は祇園社への帰依をふかめたことは確実と思います。そしてそこに何らかの所縁をもつ祇園女御を中心にして白河はハーレムを組織した訳ですが、その周辺にたしかに清盛の父の平忠盛がいました(高橋昌明『清盛以前』)。
 清盛の人生の転機となったのは1147年の祇園会で、清盛の郎党と祇園社の神人との乱闘事件で叡山と祇園の強訴を受けたことです。このとき清盛の父の忠盛は荘園を祇園社に寄進するなどして逆に祇園社に取り入ることに成功します。これによって清盛は安定した出世の道を辿ることができたわけですが、その背景に忠盛が祇園女御のハーレムの周辺にいた人物であったということが影響していました。同時に、このとき忠盛が播磨守であったことも重要です。彼は播磨守の地位を生かして祇園の本社といわれる播磨の広峯社との関係を強めたと私は推定しています。こうして、それ以降、播磨は平家の金城湯池になります。摂津から播磨を拠点として瀬戸内海をおさえるというのが平氏政権の基本戦略になります。
 1160年、清盛が大宰大弐から参議に列せられるとき厳島に社参し厳島を平氏の氏神にします。厳島明神は女神でサカラ龍王の娘です。先ほどの祇園の牛頭天王(=スサノヲ)が北からやってきて南のサカラ龍王の娘を嫁にするという話を紹介しましたが、そこからすると、厳島明神は祇園の牛頭天王の親族であるということになります。ですから、平氏は広峯、祇園そして厳島を同じ神様の系譜として押さえていったということです。平氏は瀬戸内から東シナ海に及ぶ広い海を、一種の海上軍事王国として海の王国を作りだそうとするわけですが、そのときに祇園の神人とか厳島の神人とかを使うわけで、こういう平氏政権のシステムの中に祇園社に対する関係が位置づいているものと考えています。
 清盛の福原別荘は、山際の祇園社を中心に営まれています。清盛は大輪田泊で龍神の祭祀を行い、龍神に法華経を手向けるという祭祀を非常に活発にやっています。この供養会に厳島の神主佐伯景弘もやって来ます。こういう関係を持って清盛は福原から厳島に月詣をおこなった訳です。
 月詣の目的は何か? それは『愚管抄』巻五に、「この王(安徳)を平相国(清盛)祈り出しまいらする事は、安芸のいつくしまの明神の利生なり、この厳島と云ふは龍神のむすめとなり」とあることが示しています。つまり清盛が出産祈願のために安芸の厳島に月詣をしてそれによって安徳天皇が生まれたというのです。祇園・福原・厳島と瀬戸内海を拠点にして、平氏の抱える王(=安徳天皇)をつくり出す動きというのが西国国家としての平氏政権の本質であったといえるかもしれません。

(8)源平内乱期の地震
 
 話をどんどん飛ばしますが、源平内乱期の1185年(元暦2)7月9日、マグニチュード7.4の地震が起きます。壇ノ浦合戦がこの年3月ですが、この地震は、『方丈記』に「都のほとりには在々所々、堂舎塔廟ひとつとしてまたからず」と描かれたたいへん有名な地震です。
 これは白川(法勝寺、尊勝寺、最勝寺)から東山(蓮華王院、その南の最勝光院、新熊野)に被害が及び、法勝寺九重塔が大破し、閑院内裏、六条殿(院御所)、法性寺などに被害がでています。花折断層の直上部分がやられ、地震動は東西に揺れたことが地震学の人たちの仕事でわかっていて、『山槐記』に「京中の築垣、東西ことに壊つ、南北の面は頗る残る」と出ています。
 実際に掘ってみると、琵琶湖西岸の堅田断層がこの時期に動いているそうです。近江から伏見、そしてさらに延暦寺がそうとう揺れました。琵琶湖西岸断層帯の略図は、地震調査本部の予測地図にのっていますが、これが揺れて、その西方にある延暦寺の山の上の、そうとう強い岩盤ですが、その山の上も揺れたことが史料で分かります。これはおそらく一番南側は宇治のあたりまで、そして宇治から堅田、近江、さらにその北まで揺れたと考えられます。ようするに近畿地方の中央部が揺れたということです。
 このとき有名な『方丈記』に、「海は傾きて陸地をひたせり」とあることから、津波が起きたと考えられます。ただ、揺れの中心は山城・近江ですから津波が来たとするとそれはどこかが問題になります。地震学の方では、この津波は大阪湾を襲った可能性はないかという意見もありますが、しかし津波が大阪湾を襲うのは南海トラフの地震の時で、元暦の地震は南海トラフとは考えられません。それではどこか?といえば、私は、若狭(福井)を襲ったと考えています。その証拠は、『忠親記』に「美濃・伯耆などの国より来たる輩曰く、殊なる大動にあらず」と伝わっているからです。つまり、この地震の後に、美濃や伯耆から京都にやってきた人たちの話では美濃や伯耆ではたいして揺れなかったというのは、この地震の震度分布を示しています。近畿はそうとうに揺れたけれども、美濃・伯耆以遠は揺れが少なかったというわけです。伯耆は日本海側ですから、伯耆から西は揺れなかったということは、逆にいうと伯耆から東、美濃までのところ、まさに若狭が揺れたという推定が成り立ちます。若狭に津波がいつ、どう起きているかというのは、今、原発の問題もあり、たいへん重要な問題です。『歴史学研究』2013年3月号に、若狭の史料ネットを代表している外岡慎一郎さんが「天正地震の史料を読む──若狭湾に津波は襲来したか」という論文を書いていますが、『方丈記』に書かれた著名な津波が若狭を襲ったということになると、これは日本の文化にとってたいへん大きな問題です。
 さらにこの地震の原因を当時の人々がどう考えたかが問題です。つまり、この地震の3ヶ月前に平家が壇ノ浦で滅亡しています。元暦二年の地震について『愚管抄』は、「龍王動とぞ申し、平相国龍になりてふりたると世には申しき」と、清盛が龍となって大地を揺らしたと当時の噂を記しています。そして安徳は「海に沈ませ給ひぬる」「はてには海へ帰りぬる」ともあります。龍王に祈願して産まれた海の王は海に戻ったと平家滅亡が物語化されたということの意味は軽くありません。地震神スサノヲ=牛頭天王の物語は、平家の滅亡を語る龍の物語に変身しているといえましょうか。
 なお、右の部分は保立「平安時代末期の地震と龍神信仰」(前掲)の要約である。同論文では、右の1185年(元暦2)の近江山城地震についてふれたほかに、一一七九年(治承三)一一月七日の大地震についてもふれて、『兼実記』は「亥刻大地震、比類なし」、『忠親記』も「亥剋大地震」と述べるだけで、史料が十分でないものの、これが地震学の側では100年に一度発生すると考えられている南海トラフ地震である可能性についてふれた。この指摘は、この時の政治情勢において、この地震がきわめて大きな影響をもったという論述のなかで、一つの可能性として指摘したものであった。
 しかし、南海トラフ地震をどこに求めるかについては別の可能性を考えるにいたったので、この機会に訂正しておきたい。つまり、この指摘は、この地震について、『平家物語』の諸本には陰陽頭安倍泰親が院御所に参上して大事発生の占いを泣いて訴えたとあるのみであるが、『平家物語』の延慶本に、この地震の鳴動は巨大で長く続き、「後に聞へけるは」として鳴動が列島全域に波及したという独自の記事があることであった。しかし、この泰親の参上のことは後の『平経高記』という日記にもみえて、これがすべて、ほしいままなフィクションであるとするのに躊躇を感じるのである。
 とくに重要なのは、『平経高記』にこの記事のみえるのが、1245年(寛元三)七月二九日条であることである。つまり、この三日前26日に大地震があり、これについて、石橋が南海トラフ地震である可能性を推測している(「フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震」京都大学防災研究所研究集会13Kー7報告書、2002年3月)。石橋は一言示唆するのみであるが、その理由は、京都で「所々破損」という被害の大きさと余震の強さにあるのであろう。もちろん、石橋自身が、南海トラフ地震の特徴を(1)京都の強い揺れと余震、(2)広範囲の強震動・津波被害、(3)大阪湾の津波としており、その観点からいっても、この1245年の地震は(1)をみたすだけであるが、(2)(3)についてはあしかに史料の欠落とみることも可能であるかもしれない。
 そして、『経高記』によれば、この時に摂関家において陰陽師賀茂在清が、治承の時の泰親の院への泣訴の例を語っているのである。とくに『平家物語』には泰親の泣訴に対して「わかき公卿・殿上人はーーわらひあはれけり」あるが、『経高記』にも「泣奏之、近習若年の輩これを咲う」とあって、両者の類似が注意をひく。これは一一七九年(治承三)の地震の記憶が、1245年(寛元三)の地震の中でよみがえっていることを示すといってよいであろう。
 『平家物語』の原型は一二四〇(仁治一)には成立していた(「治承物語六巻<号平家>」)とされるから、これは『平家物語』の語り口ですでに著名になっている話を在清が語ったのかもしれない。あるいは、『平家物語』の語り口は、延慶本への変化もふくめてこのころに成熟しつつあったと考えることもできるから(横井清「『平家物語』成立過程の一考察」『中世日本文化史論攷』)、この時期に行われた在清のような語りが延慶本の中に採り入れられたものなのかも知れない。どちらにせよ、この地震が記憶と想像の種になって、『平家物語』の内乱期大地震のフィクションが定着したのではないかという想定が可能であろう。さらにそれを1245年(寛元三)の地震が大規模なものであったことの一つの傍証とあつかうこともできるかもしれない。もちろん、事柄の性格からして、これは一二四五年の地震が南海トラフ地震であったか否かということを論証するという意味は持ちえないが、ここでは、とりあえず前掲論文の趣旨を訂正すると同時に、『平家物語』のフィクションがどのように作られたかという議論として提出し、後考をまちたいと思う。

おわりに
冒頭で、日本の神話的な自然観が雷神・地震神・火山神の三位一体を中心に組み立てられていたといいました。それが龍神のイメージでまとめられるようになっていき、東アジアの超越神としての龍のイメージが完成していく時代が奈良から平安にかけての時代だともいいましたが、その全体の結果がここに表れている訳です。
 さて、去年の1月に品川区立大間窪小学校で地震についての授業をしました。昔の人は地震と噴火と雷の、神話を使って日本の国土を見て物事を考えていたんだよという話をしました。世界の中で日本が最も地震と火山が集中している地域であるという話もして、さらにプレートテクトニクスの話までしました。相手は小学校4年生でしたが、プレートテクトニクスというのは人文系の私などにとっても分かりやすいもので、小学生でも分かるんですね。
 そのとき子どもたちが一番関心を持ったのは金沢文庫に残っている図2の日本図でした。これは13世紀頃の資料で、近畿から西日本にかけての地図です。残念ながら東日本は残っていないのですが、日本地図の全体を龍が取り囲んでいる絵です。図3は江戸時代初頭の地図で、まさに同じもので日本全体を龍が取り巻いています。この龍の通る道が日本の大地の下を通り抜けていて、阿蘇から京都に穴があり、富士から伊吹山に穴があるという世界観です。これが江戸時代にかけてご存知のように龍が鯰に展開していくわけです。
*図2.金澤文庫本「日本図」(称名寺蔵)
*図3.「大日本国地震之図」(●蔵)

 冒頭に申しましたように、私は、自然史を本格的に歴史学の研究や教育の中に入れていくよう変えていかなければならないと思っています。そういうことで、今日は相当の無理をして、奈良・平安時代の通史の全体を地震に視座をすえて話すということにしました。東大寺大仏、祇園会、『宇津保物語』と『源氏物語』は、春日や比叡山の強訴、白河院が祇園女御にうませた落胤=清盛という伝承、清盛が龍となって起こした地震など、話題は多岐にわたりましたが、これらは日本の歴史と文化を考える上で基本的な問題であると思います。
 ただ、こういう歴史文化の基本になるような諸事実を、地震と自然史を前提にして考え直すという作業は、私のようにいままでさぼっていた、あるいは気づかなかった場合は、専門の時代をこえて、反省して取り組まなければならないことだとは思いますが、歴史学者としてある意味で手慣れた仕事です。むしろ、研究の課題として重要なのは歴史学と地震学、地球科学、火山学そして考古学の間で連携した研究をすることです。実際に地震の被害の細部から震度が推計できるわけですし、地震の周期性の解明のためにも有益な情報を提供できるかもしれない訳です。地球科学に対して貢献するというのは、この列島に棲むものとしての社会的な責務ですし、これは研究として急がなければならないことは確実です。
 このような状況については成田龍一さんと一緒に監修ということになった『日本列島地震の2000年史』朝日新聞出版)を参照願いたいと思いますが、これはさらに東アジアに視野を広げて行う必要があります。東アジアでも日本の地震や噴火と関係したかたちで地球科学的な現象が起きている可能性が高いとみられます。ユーラシア大陸東部の地殻変動・地殻災害について、中国や韓国の資料を検討することは、地震学との関係の上で意外と重要な課題だと感じています。
 ただ、こういうことを進めていくためにはまだまだ不充分なことが多く、そのためにシステムとして考えなければならないことは多いようです。すでに石橋克彦さんが、1980年代に、歴史地震の研究センターが必要だと提言しています。それによって、自然科学的な観測データと歴史資料データと考古学の発掘データ、地質学的データを同一レベルに扱うことによって日本の地殻の運動をさらに精細に検討していくことが可能になる。それらのデータをさらにGIS(地理情報システム)にすべてのせ、各地域でどういう被害が起き、どういう周期性を持ち、どういう確率で起きるかということを誰でも見られるようにしていくことが必要だと思います。
 もしそれが実現していれば一昨年の3・11を迎えるアカデミーと文化の状況は違っていたのではないでしょうか。あの時、3月7日にM7の前震がありました。その時ちょうど地震本部(地震調査研究推進本部)では会議が開かれていて、本来その会議には宮城県沖地震の見直しを検討しようという議題がかかっていたと聞きます。都合によって次回ということになったけれども、なぜ宮城県沖地震の再検討をしようとしたかというと、869年の陸奥大津波が、原発の北から仙台平野、石巻平野まで津波の痕跡を残していたことが明らかになっていたからです。これだけの広大な浸水域の痕跡を残す津波は大規模なもので、これを前提に宮城県沖地震について再検討をしなければいけないということが地震学中枢で課題になっていたのです。宮城県沖地震の見直しを予定していたまさにちょうどその日に3・11の前震があり、地震の方がちょっと早かったということです。もちろん、いってもせんないことですが、もしそれを10年、20年前から歴史学、地震学、考古学の協同体制ができていて、全体としてバックアップを推進していれば、こんなに多くの人が死なないですんだかも知れないということを感じるのは自然な話です。そして、こういう問題は、私たちの立場から、学術的・文化的に原発への批判を持続させるという意味でも重要であったかもしれないと思います。
 いうまでもなく、私たちの立場という場合、その中軸は歴史学の研究と教育の協同にある訳ですので、せっかくの機会、そういう意味で、今後の議論に参考になればということで、若干のことを最後につけくわえさせていただきます。次の3点です。
 第一は、冒頭で述べたことの繰り返しになりますが、神話の文化的位置と教育をどう考えるかということです。この間、「安全神話」という言葉を多くの人々が使っています。この言葉がどのようにマスコミで生み出されたかということを調査する必要があると思いますが、私は、これは「神話」という言葉の誤用であると思います。まず、そもそも実際に行なわれてきたのは、「安全宣伝」です。彼らは原発の危険性を十分に知っていながら、あるいはそれを指摘されながら、それを無視して安全宣伝をやってきた訳です。それを「安全神話」というのは、人々が、それを信じていた、あるいは信じてしまったのが問題であったという言葉使いです。少なくとも多額の宣伝費をつかって原子力発電を推進してきた責任のある側がつかうべき言葉ではありません。その点では有力なマスコミもそう簡単につかってよい言葉とは思いません。私は、「安全神話」といってあたかも全体に責任があるかのようにいうのは、たとえば戦争責任について「一億総懺悔」という言葉を使うのと同じことだと思います。これは、いわせてもらえば神を蔑する言葉使いであって、ようするに神話というものは悪いものだという価値観が入っています。自然神話としての記紀神話は民族的な遺産であり、戦前のような皇国史観による神話の利用とははっきり区別して、これを生かしていくことが必要です。「安全神話」という言葉は列島の自然史=歴史を見通していくこと、歴史学的に研究し歴史的な常識にしていくことを阻害する言葉です。「安全神話」という言葉は使用をやめるべきだと思います。
 第二は、教育における文理融合についてです。今回の重大な教訓は、この間、文部科学省が地学教育を陰に追いやってきたことが間違いであったということです。最近では若干の変化があるようですが、ご存知のようにいわゆる地学は、ここ20年ほど、文科省の政策の下に徐々に少なくなってきました。しかし、プレートテクトニクスを小学生から教えることが必要です。防災教育が、「大変だ!」「どうやって逃げるか」という危機管理教育に偏ってはならないことは明らかです。地震や津波は巨大なプレートの動きであるということが小学生から分かっていることがなによりも重要です。立ち入ったことをいうようですが、こういう基礎からの教育の構えがあれば、今回の悲劇の様相も若干であれ違いがあったのではないでしょうか。着実な科学的知識と国土観・世界観を小学校から系統的に養っていくことが防災教育の基本になることは明らかです。私は、その意味で、地学(地理)教育を充実・復権させるなかで教育における文理融合をはたしていくことが大事であると思います。そのなかで歴史学の教育と研究の位置はたいへん大きなものがあります。
 第三は、話しが飛ぶようですが、教材の電子データ共有についてです。昨年、小学校で地震を題材にして授業をしたことはさきほど申し上げた通りです。私の名前でネットワークを検索していただくと、私のブログがありますが、そこに教材にした「龍の話」というスライドを載せています。みていただければわかりますが、御紹介したような話をした後、この地震列島・火山列島は地殻災害は多いが、逆にそのような列島の成因は列島の自然に世界でも珍しい大地と海原の富をあたえたと結論しました。これは子どもは納得してくれたように感じました。
 もちろん、電子データの教育における利用については相当に大きな問題があります。用意なしにそれに前のめりになると、情報の拡散とネット依存の再生産になりかねないことは十分に注意しなければなりません。そのためには教育学と教師のなかでの議論を優先するべき段階であるということも承知している積もりです。しかし、いま申し上げたような文理融合というレヴェルになると、個人では教材の見直しと教科の融合を実現するのはたいへん難しい状況だろうと思います。その意味では、歴史学と歴史教育が子どもに対し説得的な歴史像を提供するために、教材の電子データによる共有を実験してみる。そしてその中で、自然科学と協同して、自然史を前提とした教材と授業を作り出すということがもしできれば、魅力ある方向のように思います。
 ともかくも、子どもたちが日本の国土と歴史について共感することができるという筋道を集団的に作っていくことは必要だろうと思うのです。この問題は、学界レベルでも検討が必要ではないでしょうか。われわれの歴史学を、現代の情報化社会のなかで、どのようにはぐくんでいくか。
 教育をめぐる状況は本当にたいへんだと思います。しかし、教材と授業が、全体としてマスコミのもつ大量の情報に、学術・教育の世界は負けているという側面もある訳ですから、基本のところにもどって考え直すことも必要ではないかというようなことを感じています。最後は余計なことを申し上げたかもしれませんが、以上で終わります。
東京歴教協の機関誌にのせたものです。

2013年12月 7日 (土)

かぐや姫の「罪と罰」の物語の原型は海外文学

Cce20131208 「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれのもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり」

 『竹取物語』のかぐや姫の「罪と罰」についての記述の原型は、中国の神仙文学にある。

 これについては渡辺秀夫氏の仕事があって、たとえば『妙女伝』(広記巻六十七・『通幽記』という女仙伝に次のようにあるという。

 妙女は、齢十三、四歳、崔氏の婢である。彼女は、もと天上の仙人(提頭頼吒天王)の娘であったが、天界の秘事をもらした罪により、人の世に堕とされ人間に転生した。

<読み下し。もとこれ提頭頼吒天王の小女と言う。天門の間の事を洩らしたがため、故に、謫して人世に堕す>

<原文(言本是提頭頼吒天王小女。為洩天門間事、故謫堕人世) >


 『竹取物語』の作者は、こういう種類の神仙文学を、そのまま翻訳したということになる。
 
ようするに、海外文学のまねをいしたのである。いまでいえば、アーシュラ・K・ル・グゥインのフェミニズムSFのまねをしたということであろうと思う。
 萩尾望都のマンガ『11人いる!』は、我が家の愛読書。その原型はアーシュラ・K・ル・グゥインにあることは明らか。それと似たようなものであるということになる。

 渡辺氏の文章をもう少し引用すると、


 天上界で犯した罪の償いに地上界に貶謫される女仙――「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれのもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり」――、これも女仙伝にも多くみられるもので、例えば、「臨昇天謂其父曰、我仙女杜蘭香也。有過謫于人間、玄期有限、今去矣」(広記巻六十二・杜蘭香・<出『墉城集仙録』>)、「謂父母曰、女本上清仙人也、有小過、謫在人間、年限既畢、復帰天上無至憂念也」(広記第六十三・黄観福・<出『集仙伝』>)、「太上責之。謫居人世、為君之妻、二十三年矣」(広記第六十七・崔少玄・<出『少玄本伝』>)などは、ことに『竹取物語』に近い例であろう。
     (渡辺「竹取物語と神仙譚」『日本文学』1983年3月)

 『竹取物語』がフェミニズム文学であるということは明瞭なことなので、それがもっと知られるとよいと思う。ラディカル・フェミニズム(根源的なフェミニズム)からみると、どう考えるべきかという問題は残ると思うが、幻想文学がフェミニズムになることはしばしばあることだと思う。

 さて、以下は、南北朝時代の通史。tsuusi9としてwebpageに載せた。

⑨南北朝時代と王家の分裂
政治史の考え方 

 後醍醐が大覚寺統のなかでも傍流に属していた。後宇多は譲状において後醍醐は一代限りであることを厳密に命じ、実際に若死にした後二条の子、邦良を皇太子として、後二条ー邦良を嫡系に指定している。この背景には、亀山・後宇多・後醍醐の間での(後醍醐の母が亀山に寵愛されたなどの)矛盾と対立があったとされるが、後醍醐はこうして大覚寺統の皇太子邦良と、その後に即位を予定された量仁(光厳)の属する持明院統の双方から退位を迫られ、幕府もそれを後押しするという状況に立たされたのである。
 後醍醐のクーデターは後鳥羽クーデターと同じように東国・西国戦争から出発し、当初、後醍醐の側に立った武士は西国勢力であった。しかし、全国的な支配を確保していた北條氏の専制的な姿勢は、東国内部の離反を導き、鎌倉幕府の中枢の源氏門葉の家柄が後醍醐側に寝返った。足利尊氏が西国で、新田義貞が東国で蜂起することによって北条氏の権力はあっけなく崩壊したのである。

 後醍醐の目指したものは後鳥羽と同じく、院政時代の復活であり、武臣国家の否定であった。ただ相違していたのは、その国家構想が京都の北の大徳寺を国家寺院とするなど、中国で流行していた禅宗や儒学にもとづく皇帝専制を理念としていたことである。また陸奥将軍府や鎌倉将軍府のような「鎮」=広域行政府を設置する構想も南宋の設置した総領所に類似したものといえる。これは、鎌倉時代、北条氏の下で機動的な全国支配のシステムや広域的な権力のあり方が生まれていたことに対応するものである。もちろん、皇帝専制という思想や法と行政のスタイルは大きく異なっており、それが矛盾を引き起こしたことは事実であるが、後醍醐の構想をただの空論ということはできない。

 逆にいえば、後醍醐の建武政権がもろくも滅びた理由は、北條氏の専制が崩れるのと同じことであったということにもなるが、崩壊のきっかけとなったのは、後醍醐が、蜂起に功績のあった大塔宮護良親王を疎外し、その寵姫・阿野簾子所生の皇子を皇太子に立て、陸奥・鎌倉の将軍府に据えたことであろう。西国武士の組織において中枢的な役割を果たした護良を排除したことは西国武士の組織を脆弱なものとしたことは疑いない。

 そして後醍醐が護良の身を尊氏・直義兄弟に預け、鎌倉に幽閉されたことも大きな影響をもったであろう。つまり、鎌倉将軍府にいたのは、成良親王であったが、それを支える地位にいたのは鎌倉に根拠をおいて鎌倉幕府の伝統を固守する路線にたった足利直義であった。そして後醍醐を見限った尊氏は直義を頼って鎌倉に下り、兄弟で後醍醐に反旗をひるがえし、護良を殺害し、東国の軍勢とともに京都に攻め上ったのである。こうして後鳥羽の時と同じ東国西国戦争が戦われ、結局、尊氏・直義が勝利して、後鳥羽の時と同じように後醍醐の西軍は敗北して建武政権は崩壊したのである。

 これによって後醍醐の構想する宋朝型国家ではなく、武臣国家の路線が定まったのであるが、尊氏が「覇王」となるためには、京都ー西国を抑えるのみでなく、東国を抑え、頼朝が瞬間的についた「日本国惣官」ともいうべき地位を確保することが必要であった。それを実現するために尊氏が選択したのは、自分の息子の義詮を京都に据え、もう一人の息子を鎌倉将軍府に据えて、直義を殺害することであった。いわゆる観応の擾乱の終了、1352年のことであって、これによって、内乱の全局が定まった。そこにいたる過程で、尊氏・直義・南朝は相互に合従連衡と乱闘を繰り返し、その後も同じようなことは続いたが、すでに南朝には独自の力はなかった。

 この過程は兄・尊氏が西国を握り、弟・直義が東国を拠点としたという意味では、頼朝・義経とちょうど逆であったが、ともかくも二回目の西国東国戦争の結果、尊氏は頼朝とは違って、掛け値なしに「覇王」の地位を確保したのである。


東アジア世界

 14世紀に入るとユーラシア全域に拡大したモンゴルの活動は停滞期に入り、それとともに中国の元は内部的な争いが激しくなり、江南を背景とした白蓮教の反乱が起きた。王朝の末期に宗教的な反乱が起きるのは中国ではしばしばあることであるが、それが江南から起きた漢民族復興運動という形をとったのは珍しいことで、中国南部の発展を物語っている。こうして、1368年、反乱軍から出自した朱元璋が明の建国を宣言する。

 鎌倉時代末期、北方において蝦夷反乱が起き、北條氏権力の没落において重大な役割を果たしたが、その背景には、元の衰亡のなかでアイヌ族の人々のサハリンからアムールにかけての動きが再び活発になったことがあった。実際に明建国の直後に、明がアイヌを押さえ込むための動きをしているのはその証拠である。

 南方では倭寇の本格化がはじまった。倭寇はすでに1220年代より確認できるが、彼らが朝鮮半島沿岸部を大規模に襲うようになるのは、1350年、右に述べた直義殺害事件のころのことである。九州では直義の側の動きが続き、内乱状況が存在したから、軍事的な雰囲気の中で九州の島嶼地帯の人々が海賊行為に走ったのである。

 そこには実際上、朝鮮・中国人々も参加していたが、南海にはそのような国境を越えた集団が形成されていたのである。ただ、広く見れば、このような動きをささえたのは、琉球列島で進んだ「日本国」とは別個の国家の形成の動きであった。つまり14世紀の初めには琉球には北山・中山・南山などと呼ばれる三人の強力な按司に率いられた権力が登場したと考えられている。北条氏は、奄美大島までは影響力を及ぼし、地頭職を広げたが、その勢力は琉球諸島までは及んでいない。宋・モンゴルと続いた南海との交流は、琉球に倭国とは異なる独自な文化をもたらしたのである。こうして、明の成立とともに琉球は南海交易のメッカとして急速な繁栄を遂げることになる。


社会構造の考え方

 日本列島の社会は14世紀には初期的な産業社会に到達していた。そこでは、交通や商業の発達、銭貨の社会的流通、座の広汎な活動などのなかで、庄園の経営それ自身が請負契約によって行われる趨勢となった。請負は従来から庄園のシステムにしみこんでいたが、家来や従者の人格関係に依拠していた部分も多かった。しかし、この時期、庄園の経営権自身が請負契約によって転々と移動することがふえたのである。北条氏が領地を家人に給付するのではなく、「料所」と号して「富有の輩」に経営を委託したというのが典型的な事例である。素性の不明な人間という意味で「甲乙人」という言葉が使われるが、市町は「甲乙人」が富裕となる場であったともいう。

 後醍醐は、全国の庄園公領を検注して「貫高」で評価し、その二〇分の一を(おそらく土倉が運営する)天皇直属の倉に収納しようとし、さらには貨幣を鋳造し、紙幣を発行しようとした。これは北条氏が実際にやっていたことの延長にある。後醍醐の建武政権に「悪党」といわれるような勢力との連携がいわれるのも同じことである。

 このような初期的な産業社会の様相が安定した農山村における地主を中心とした村落システムによって支えられるようになったことも、この時期の特徴である。村落が自治性をもって庄園を下から支える役割をしたのは昔から変わらないが、しかし、地主的な階層が計数能力をもって百姓請・地下請を行い、村有財産をもって代官と折衝し、「大人・老」などとして「惣村」の構成するというのは、このころからの特徴である。

 これとの関係で、『一遍聖絵』の福岡市の場面について簡単に説明をしておくと、向こう側には「絹布・米・山鳥・魚」などを売る店がならんでいる。これは地元産の物資であって、それらの物品が銭によって売買されている様子がわかる(右奥の店内の女、左側の男が銭束をもっている)。中段右側の掘立の左端にみえる赤い丸いものは、男が腰に下げる腰袋という革製の銭袋をうっているところである(詳しくは保立道久「腰袋と桃太郎」『物語の中世』講談社学術文庫)を参照)。実際の市庭はより広い面積をしめており、そのため河原などの無主地が利用されたが、近辺には町場ができており、その町と市の両方をあわせて「市町」といったのである。この時代の地域は、地主を中心とした自治的な農山村と富裕な「甲乙人」がいる市町から構成されるようになっていたのである。

参考文献
 佐藤進一『南北朝の内乱』(『日本の歴史』9、中央公論社)
 筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(講談社日本の歴史10).なお、この筧の著書は後醍醐が祖父亀山の胤であることを明示しており(359頁)、南北朝内乱論としては、崇徳が同じように祖父白河の子であることを明示した竹内理三の『武士の登場』(中央公論『日本の歴史』)とならぶ意味をもっている。

2013年12月 5日 (木)

鎌倉時代の通史

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 通史を考えている。まずは政治史、そして東アジア世界との関係、さらに社会構造という章立てである。
 各時代の基本枠組を、すべて、原稿用紙400字詰め10枚以内で書くのが目的。鎌倉時代の通史をWEBPAGEにあげてみた(tsuushi8)。年内には、古墳時代から戦国時代までを完成する予定。

 最終的にはそれをふくらませて通史とすることが必要であるが、こういう形でメモを作り、おおざっぱな見通しを確保することを優先させて、徐々に全体をつじつまのあうものにしていきたい。

 現在の日本をみても、政治史、そして東アジア世界との関係、さらに社会構造について原稿用紙10枚で述べなさいということが必要であると思う。歴史学というものは、本来は、そういうことができる学問でなければならないというのが、私などの世代の確信である。過去の時代をみるように現在をみること。現在の社会をみるように過去をみること。それは別の言い方をすれば、歴史学が社会科学であるということである。そもそも、原稿用紙10枚で語れない「科学」というのは科学たりえないと思う。

 しかし、現在の日本について、原稿用紙10枚で述べるというのは、いまのところなかなかむずかしい。とくに問題なのは、東アジアと世界史について明瞭なことがいえないことである。世界史の動きを全体として理論的かつ長期的な視野で説得的に論ずる。考え方はあるが、しかし、いま、それができる条件も準備もない。そういう歴史家ではしょうがないと思うが、しかし、それが私などの実情である。

 昨日は旧職場の同僚たちと忘年会で楽しく飲んだ。私などの世代とはまったくことなる雰囲気になっているが、それは職業としての歴史学が成熟しつつあることの証拠でもあるので、やむをえないものと思う。しかし、無責任なようで申し訳ないが、職業から離れてみえてくるものというのもある。 
 
 国会や大学のみっともなさと比べて、市民社会の動きには目をみはるべきものがあると思う。写真は生活クラブ生協の『生活と自治』12月号にのっていた千葉県柏市の市民農場。「みんなで支える近所の畑」というフレーズがいい。大学の園芸科で農業を学んだ二人の女性が起業したという。今風の言葉でいえば、地域のコモンズと専門性の出会いということであろうが、これは確実に社会の基礎となるはずのものである。それを原点にして歴史が書けるかどうか。

 秘密保護法案が参議院の委員会で強行採決されたようである。なんということをするのか。偉そうに。彼らは自分たちの地位を身分か階級のように思っているのである。

2013年12月 3日 (火)

鎌倉時代から戦国時代までの政治史の概説

 ここ一週間ほど、通史のための勉強をしてきた。以下は、鎌倉時代から戦国時代までの政治史の概説である。
平安時代は『平安時代』(岩波ジュニア新書)で一応のものはある。さらにこの種のメモを蓄積する積もり。

 後醍醐の建武政権について禅宗国家という側面を論じた論文に中国史との関係で、追補をする必要があり、その勉強の発展という側面ももっている。まとめて勉強する上で、網野善彦『日本社会の歴史』がありがたかった。網野さんの、この通史を受け止め、どうにか批判しようと長く考えてきたが、その中身に入ることができたように考えている。
 しかし、こういう問題を考える上では、やはり南北朝時代が中心論題になることも確認した。その意味での参考文献は、佐藤進一『南北朝の内乱』(『日本の歴史』9、中央公論社)、伊藤喜良『中世国家と東国・奥羽』校倉書房である。また筧雅博『蒙古襲来と徳政令』をはじめて読んで、私には勉強になった。
 戦国期政治史は藤木久志・峰岸純夫は別として、池上裕子さんの仕事しか系統的には読んでいないが、計画は、基礎構造から勉強しなおすこと。これがいつのことになるかは不明である。

(1)鎌倉時代
 現在、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に補任された一一九二年(建久三)と考える専門研究者はいない。頼朝の地位としては、その種の官職身分関係ではなく、蜂起した頼朝が、一一八〇年(治承四)年、東国を実権支配したこと、あるいは、一一八五年(文治一)、壇ノ浦で平家を覆滅させた義経を大軍を京都に上せてに追い落とすなかで、頼朝が獲得した「日本国惣地頭」のような現実的な地位を重視するからである。
 前者は「東国惣官」ともよばれる東国に対する広域支配権であり、後者の「日本国惣地頭」も「四国地頭」「九国地頭」などのいくつかの国をたばねる広域支配権から構成されていた。これらは個別の地頭とは異なる国を単位とする「地頭職」(国地頭)であり、武士の本領地頭を安堵し、また占領地の地頭職を承認する強力な権限を含んでいた。しかも頼朝は、最初、これにくわえて全国の総守護権をも公認させた。もとより、歴史的伝統をもつ天皇王権の西国支配は根強く、頼朝は西国守護を差配する権限を放棄し、西国は院権力の支配の下にもどった。しかし、短期間であれ、頼朝の地位は「日本国惣官」、国土の領有と支配権を王権と分有する「覇王」ともいうべき国家的地位であった。
 こうして鎌倉期の国家は武家が公家貴族に優越する武臣国家となったのであるが、武力によって成立した武臣国家は内紛に内紛を重ねた。東国の有力な地方軍事貴族(源氏の一族、東国の大領主、北条氏)の間での闘争はきわめて激しく、その中で頼朝の子供たちの血統は中絶してしまう。そして、それをみた京都の後鳥羽院は事態を院政時代の国家のあり方に戻そうとしたが、それは逆に東国の武家の一致した反発を引き起こした。これが「承久の乱」と呼ばれた東国・西国戦争である。
 後鳥羽は院政を敷いていたが、隠岐に流されて死んだ。後鳥羽の下で王位についていた土御門・順徳・仲恭も(幼かった仲恭をのぞいて)配所で死去した。幕府は、その代わりに頼朝の義理の弟に縁続きの後堀河天皇を王位につけ、新たな王統を作ろうとしたが、後堀河も、その子の四条も夭折したために、土御門の息子の後嵯峨を選択したのである。こうして王家の自律性が失われ、内部分裂が継続して、結局、後嵯峨の息子の後深草の子孫(持明院統)と、その弟の亀山の子孫(大覚寺統)の両統が交代に王位につくという異常事態がもたらされたのである。しかも、その即位順序の斡旋などまで北条氏がおこなうようになるなかで、公家貴族も両統に分裂し、北条氏の意を重んじたため、国家の実権は北条氏の手にわたった。
 北条氏の権力は、本来、頼朝の妻の実家であるというにすぎなかったから、このような経過は、北条氏を孤立させ、幕府内部および王家・武家・公家間矛盾を抜き差しならないものにしていった。
参考文献
(2)南北朝時代
 後醍醐が大覚寺統のなかでも傍流に属していた。後宇多は譲状において後醍醐は一代限りであることを厳密に命じ、実際に若死にした後二条の子、邦良を皇太子として、後二条ー邦良を嫡系に指定している。この背景には、亀山・後宇多・後醍醐の間での(後醍醐の母が亀山に寵愛されたなどの)矛盾と対立があったとされるが、後醍醐はこうして大覚寺統の皇太子邦良と、その後に即位を予定された量仁(光厳)の属する持明院統の双方から退位を迫られ、幕府もそれを後押しするという状況に立たされたのである。
 後醍醐のクーデターは後鳥羽クーデターと同じように東国・西国戦争から出発し、当初、後醍醐の側に立った武士は西国勢力であった。しかし、全国的な支配を確保していた北條氏の専制的な姿勢は、東国内部の離反を導き、鎌倉幕府の中枢の源氏門葉の家柄が後醍醐側に寝返った。足利尊氏が西国で、新田義貞が東国で蜂起することによって北条氏の権力はあっけなく崩壊したのである。
 後醍醐の目指したものは後鳥羽と同じく、院政時代の復活であり、武臣国家の否定であった。ただ相違していたのは、その国家構想が京都の北の大徳寺を国家寺院とするなど、中国で流行していた禅宗や儒学にもとづく皇帝専制を理念としていたことである。また陸奥将軍府や鎌倉将軍府のような「鎮」=広域行政府を設置する構想も南宋の設置した総領所に類似したものといえる。これは、鎌倉時代、北条氏の下で機動的な全国支配のシステムや広域的な権力のあり方が生まれていたことに対応するものである。もちろん、皇帝専制という思想や法と行政のスタイルは大きく異なっており、それが矛盾を引き起こしたことは事実であるが、後醍醐の構想をただの空論ということはできない。
 逆にいえば、後醍醐の建武政権がもろくも滅びた理由は、北條氏の専制が崩れるのと同じことであったということにもなるが、崩壊のきっかけとなったのは、後醍醐が、蜂起に功績のあった大塔宮護良親王を疎外し、その寵姫・阿野簾子所生の皇子を皇太子に立て、陸奥・鎌倉の将軍府に据えたことであろう。西国武士の組織において中枢的な役割を果たした護良を排除したことは西国武士の組織を脆弱なものとしたことは疑いない。
 そして後醍醐が護良の身を尊氏・直義兄弟に預け、鎌倉に幽閉されたことも大きな影響をもったであろう。つまり、鎌倉将軍府にいたのは、成良親王であったが、それを支える地位にいたのは鎌倉に根拠をおいて鎌倉幕府の伝統を固守する路線にたった足利直義であった。そして後醍醐を見限った尊氏は直義を頼って鎌倉に下り、兄弟で後醍醐に反旗をひるがえし、護良を殺害し、東国の軍勢とともに京都に攻め上ったのである。こうして後鳥羽の時と同じ東国西国戦争が戦われ、結局、尊氏・直義が勝利して、後鳥羽の時と同じように後醍醐の西軍は敗北して建武政権は崩壊したのである。
 これによって後醍醐の構想する宋朝型国家ではなく、武臣国家の路線が定まったのであるが、尊氏が「覇王」となるためには、京都ー西国を抑えるのみでなく、東国を抑え、頼朝が瞬間的についた「日本国惣官」ともいうべき地位を確保することが必要であった。それを実現するために尊氏が選択したのは、自分の息子の義詮を京都に据え、もう一人の息子を鎌倉将軍府に据えて、直義を殺害することであった。1352年のことであって、これによっていわゆる観応の擾乱が終了し、内乱の全局が定まった。その過程で、尊氏・直義はおのおの南朝の側と同盟する戦術をとって乱闘を繰り返し、その後も武家の分裂と争いは激しかったから、同じようなことは続いたが、すでに南朝には独自の力はなかった。
 この過程は兄・尊氏が西国を握り、弟・直義が東国を拠点としたという意味では、頼朝・義経とちょうど逆であったが、ともかくも二回目の西国東国戦争の結果、尊氏は頼朝とは違って、掛け値なしに「覇王」の地位を確保したのである。
(3)室町時代
 南北朝の併立は、1392年、尊氏の孫にあたる第3代将軍足利義満の調停によって終息した。内紛を自力でさばけなかった王家の権威は低落し、「覇王」足利氏に「旧王」として戴かれると同時に保護される存在となったのである。もちろん、義満は天皇の位置にとって代わったのではない。室町殿は「治天の務=政務」を担当する「院」として公家を含む国家機構を領導する役割を担ったのであって、その意味では天皇を形式上の君主として政務は院が握るという院政以来の王権の形式は維持されたのである。なお、足利氏は後醍醐の敷いた禅宗国家にそって、禅宗の大檀越として王権を領導しようともした。こうして、武臣国家における「覇王」体制が確立したのである。
 この南北朝終息期のころから西国守護の家柄はほぼ固定し、しかも島津・大友(九州)、大内(北九州・中国西部)、細川(四国・中国東部)、山名(山陰)、斯波(北陸)、今川(東海)のような隣接地帯を押さえる場合や、あるいは能登・紀伊・日向の畠山のように離れた地域を押さえるかの違いはあっても、複数領国支配が安定するようになる。武家覇王は一方で畿内近国を強力に支配して、このような広域守護の上に聳え立ち、他方で、西国を代表して関東公方を抑止することを、その権力基盤としていた。これは平安時代以来の広域支配システムの成熟の上にできあがった体制であったということができる。
 しかし、このような体制は将軍の代替りや実力・軍事力のバランスの失調によってしばしば危機におちいり、室町時代は、そこに由来する政変や戦闘の連続であった。それでも尊氏→義詮→義満→義持までは将軍の軍事指揮権は強力であった。しかし義持が後継者を決めないままに死去し、それに称光天皇の死去が重なって二重の代替りとなったとき、「日本開闢以来」といわれた大土一揆が代替徳政を求めて蜂起した。そして、その後をうけた弟の義教は専制に走って、鎌倉公方を自殺に追い込み、さらに有力守護家の家督継承に乱暴に介入した。これに恐怖した播磨・備前などの守護、赤松氏が義教を謀殺するや(1441年、嘉吉の変)、ふたたび代替りの嘉吉の土一揆が発生したのである。東国・西国の争い、広域権力相互の争いの中での大規模な民衆的運動の高揚によって、幕府は一挙に危機の時代に入ったのである。
(4)戦国時代
 足利義教の謀殺事件の後に室町殿となった義政が親政を開始するまでの15年間のあいだに蓄積した、西国・東国の争いや細川・畠山・山名の争いは、「応仁文明の乱」として爆発する。しかし、この内乱の実態はただに支配階級内部の戦争ではなく、それに正長・嘉吉の土一揆に相似した京都攻撃・掠奪が重なり、同時発生したものというべきものであった。こうして京都は焼け野原となり、時代は戦国時代に突入する。
 続いて1485年の山城国一揆、1487年の加賀一向一揆という一揆による権力掌握という前代未聞の事態が生まれた。しかも、これらは社会的な富を地域留保する自律的視野をもった広域的なネットワークを確保していた。これ以降、戦乱が混迷の一途を辿り、伝統的な武家の家柄が共倒れに追い込まれたのは、結局、彼らが京都の旧王ー覇王の都市宮廷を中心とした荘園体制とと骨絡みの存在であり、この自律的な民間ネットワークを統御すべき存在ではなかったためである。こうして、彼らの下で現地をおさえていた守護代クラスの武家が台頭して、院政期の以来の伝統的な家柄のほとんどすべてを追い落としていった。いわゆる「下克上」であるが、こうして安芸の毛利、越前の朝倉、尾張の織田、甲斐の武田、越後の上杉、伊豆の後北条などの戦国大名が登場する。彼らが室町時代の広域守護の複数領国を継承した広域ブロック権力を構成していたことはいうまでもない。
 戦国時代は、彼らが相互に唯一の覇者を目指して戦かう戦争の時代である。勝利をおさめたのは地の利をもち、かつ一向一揆との殲滅戦を戦い抜いて、抑圧すべき民間の実力を知り抜いていた織田信長であった。その戦略の中心は都市と交通網の掌握にあり、安土に始まる城と城下町の建設、関所撤廃、楽市政策にあり、信長は三河・尾張の商人集団に依拠して、軍事的物流を作り出すことに成功したのである。信長は、その独裁の下に軍事経済の組織をバックとする全面戦争によって、他の広域ブロック権力の打倒に邁進した。信長の個人独裁は明智光秀によって信長が殺害された後には統治機構は何も残らなかったほど極端なものであった。
 ぎゃくにそれによって秀吉は、信長の軍事的成果を受け継いで新しく出発することが可能になったのであるが、秀吉はその際、関白任官によって天皇権威をかついだ。ここでも旧王ー覇王体制は維持されたのである。そして、関白の命による「平和」=惣無事を表に立てて令によって広域権力相互の矛盾をつく戦略をとった。国分によって(後の江戸時代でいう)一国大名にまで広域ブロックを押さえ込むのがその最終目標であり、その支えは信長の路線を引き継いだ圧倒的な兵糧・武器の補給を可能とする軍事経済であった。軍事経済の組織は、同時に地域間の都市と交通網を支配して、自らの広域権力を他と隔絶するレヴェルに押し上げることであったことはいうまでもない。
 すでに戦国時代の問題の領域をこえた説明となるが、このような立場に立った秀吉は、西国を代表して、関東公方から東国を引き継いだ後北条氏を惣無事令の下に押さえ込み、全国戦争の勝利を決定した。戦国時代の戦争と政治は、ここで結論がでたことになる。もちろん、最終的には、それは秀吉政権の崩壊ののち、東国大名を動員した徳川家康と西国大名を動員した石田三成の争い(関ヶ原合戦)という本格的な東国西国戦争の決着を必要とした。しかし、このような過程で、江戸時代の幕藩体制と呼ばれる、幕府が広域的に要地を押さえ込み、国持大名が藩というレヴェルに押さえ込まれるという体制の原型が生まれたことは確実であろう。
 ようするに、平氏と頼朝が争った1180年代内乱(治承寿永内乱)ではでは東の頼朝がが勝ち、南北朝内乱では後醍醐・尊氏の西が勝ち、三度目の関ヶ原合戦ではでは東が勝ったのである。広域戦争の帰趨は、つねに激しい東国西国戦争によって最終的に決定されたということになる。

2013年12月 2日 (月)

特定秘密保護法案に反対する学者の会の声明

下記、私も賛同しました。サイトが下記にできています。

http://anti-secrecy-law.blogspot.jp/
特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます
 国会で審議中の特定秘密保護法案は、憲法の定める基本的人権と平和主義を脅かす立法であり、ただちに廃案とすべきです。
 特定秘密保護法は、指定される「特定秘密」の範囲が政府の裁量で際限なく広がる危険性を残しており、指定された秘密情報を提供した者にも取得した者にも過度の重罰を科すことを規定しています。この法律が成立すれば、市民の知る権利は大幅に制限され、国会の国政調査権が制約され、取材・報道の自由、表現・出版の自由、学問の自由など、基本的人権が著しく侵害される危険があります。さらに秘密情報を取り扱う者に対する適性評価制度の導入は、プライバシーの侵害をひきおこしかねません。
 民主政治は市民の厳粛な信託によるものであり、情報の開示は、民主的な意思決定の前提です。特定秘密保護法案は、この民主主義原則に反するものであり、市民の目と耳をふさぎ秘密に覆われた国、「秘密国家」への道を開くものと言わざるをえません。さまざまな政党や政治勢力、内外の報道機関、そして広く市民の間に批判が広がっているにもかかわらず、何が何でも特定秘密保護法を成立させようとする与党の政治姿勢は、思想の自由と報道の自由を奪って戦争へと突き進んだ戦前の政府をほうふつとさせます。
 さらに、特定秘密保護法は国の統一的な文書管理原則に打撃を与えるおそれがあります。公文書管理の基本ルールを定めた公文書管理法が2011年に施行され、現在では行政機関における文書作成義務が明確にされ、行政文書ファイル管理簿への記載も義務づけられて、国が行った政策決定の是非を現在および将来の市民が検証できるようになりました。特定秘密保護法はこのような動きに逆行するものです。
 いったい今なぜ特定秘密保護法を性急に立法する必要があるのか、安倍首相は説得力ある説明を行っていません。外交・安全保障等にかんして、短期的・限定的に一定の秘密が存在することを私たちも必ずしも否定しません。しかし、それは恣意的な運用を妨げる十分な担保や、しかるべき期間を経れば情報がすべて開示される制度を前提とした上のことです。行政府の行動に対して、議会や行政府から独立した第三者機関の監視体制が確立することも必要です。困難な時代であればこそ、報道の自由と思想表現の自由、学問研究の自由を守ることが必須であることを訴えたいと思います。そして私たちは学問と良識の名において、「秘密国家」・「軍事国家」への道を開く特定秘密保護法案に反対し、衆議院での強行採決に抗議するとともに、ただちに廃案にすることを求めます。

2013年11月28日

特定秘密保護法案に反対する学者の会

浅倉 むつ子(早稲田大学教授、法学)
池内 了  (総合研究大学院大学教授・理事、天文学)
伊藤 誠  (東京大学名誉教授、経済学)
上田 誠也 (東京大学名誉教授、地震学)
上野 千鶴子(立命館大学特別招聘教授、社会学)
内田 樹  (神戸女学院大学名誉教授、哲学)
内海 愛子 (大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター特任教授、歴史社会学)
宇野 重規 (東京大学教授、政治学)
大沢 真理 (東京大学教授、社会政策)
小熊 英二 (慶応義塾大学教授、社会学)
小沢 弘明 (千葉大学教授、歴史学)
加藤 節  (成蹊大学名誉教授、政治学)
加藤 陽子 (東京大学教授、歴史学)
金子 勝  (慶応大学教授、経済学)
姜 尚中  (聖学院大学全学教授、政治学)
久保 亨  (信州大学教授、歴史学)
栗原 彬  (立教大学名誉教授、政治社会学)
小森 陽一 (東京大学教授、文学)
佐藤 学  (学習院大学教授、教育学)
佐和 隆光 (京都大学名誉教授、経済学)
白川 英樹 (科学者・市民)
杉田 敦  (法政大学教授、政治学)
高橋 哲哉 (東京大学教授、哲学)
野田 正彰 (元関西学院大学教授、精神医学)
樋口 陽一 (東北大学名誉教授、憲法学)
廣渡 清吾 (専修大学教授、法学)
益川 敏英 (京都大学名誉教授、物理学)
宮本 憲一 (大阪市立大学・滋賀大学名誉教授、経済学)
鷲田 清一 (大谷大学教授、哲学)
鷲谷 いづみ(東京大学教授、生態学)
和田 春樹 (東京大学名誉教授、歴史学)

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