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2013年12月25日 (水)

多和田葉子『言葉と歩く日記』

 メリークリスマス。ご褒美のケーキ。

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 多和田葉子さん。小説は残念ながら、私には飛びすぎているらしいが、エッセイを好んで読む。『言葉と歩く日記』(岩波新書)を連れ逢いが買ってきたので、横から読ませてもらう。
 毎日の日記が新書になっているのだが、この日記は、「ーーーということですぐに寝た」というような記述があるから、翌日に書くのだろうか。正確に前日のことを振り返って、記憶していて、その記憶を躊躇なしに書けるというのは、すばらしいことである。
 私のように、内省をすれば目を覆いたくなるようなことが多い生活、省みて恥多しというよりも「省みなくても恥多し」という生活を送っている人間には、こういうことはできない。一月一日から四月半ばまでの毎日の日記である。意識と記憶の継続性を自然につくっていける。多和田さんは若いときから日記をつけ続けていたというから、そういうことができる人なのだと思う。
 しかし、多和田さんのエッセイを読まれた方にはわかるように、それは倭語とドイツ語という二つの言葉、言語の体系をつきあわせるという意識の動かし方がほとんど習性になっているためでもあるだろう。言葉のなかには、あるいは言葉の向こう側には客観的な言語体系というものがある。そこのなかに入りこめば、騒がしい日常は消えていく。恥多い日常はきえていく。これは言語世界のなかに入り込んでいく方法としては「禅」に似ているように思う。私に「禅」というものがわかる訳ではないのだが、「禅」には、そういう客観性があるように感じるのである。言語世界を想起することによって、意識と肉体のあわいにある常同的な世界に入り込む。すくなくとも、漢文、漢詩世界というものは、この国の知識人にとっては長くそういう役割をしていたはずである。
 国際性というのは、本来はそういうことなのではないかと思う。

 ハンナ・アーレントの映画についての感想がのっている。慌ただしい生活をしているまま、結局、見ることができなかった。多和田さんの感想を読んで、やっぱり見ればよかったと思ったのは、多和田さんの、この映画に描かれたハイデカーについての感想。

 多和田さんいわく。「ハイデッカーは、この映画の中では、母語であるドイツ語をいじりまわして、スピード操作したり、意外なところで区切ったり、独自のアクセントをつけたりして、意味ありげに語る滑稽でケチな野郎として描かれていた」という部分。その通りなのだと思う。

 さて、しかし、学者の言語生活というものは、乾いた雑巾をしぼるようなもので、本当につらい。これは歴史学者にとって、とくにそうなのかもしれない。あるいは僕だけのことかもしれない。けれども記憶の底をさらい、その途中で足りない材料を急に仕込み、そして全体の不協和音にさらされながら体系的な筋を通そうとする。体系というよりも、ともかく「ストーリー」を組み立てようとする。歴史は物語ではないが、しかし、ストーリーというものは必要であり、それは夢ではいけない。

 こういう作業を繰り返していると、不足感、不満足感がたまってきて、しかも仕事の無限さに打ちひしがれることも多い。歴史学者が体系がほしくなるのは、こういう理由だろう。私のように「省みなくても恥多い」という人間、そして歴史学外の理論と学史の筋というものが、個人としては大事な人間、やっかいな人間にとっては、さらに面倒な作業になる。
 
 ともかく一日、材料を頭に入れて寝てしまうというのが、最大の手段。寝てしまい、途中で目覚めるか、朝目覚める直前、自動的に頭のなかでストーリーが組み上がっているような「幻想感」が、ときどきある。これは救いである。

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