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2013年12月 3日 (火)

鎌倉時代から戦国時代までの政治史の概説

 ここ一週間ほど、通史のための勉強をしてきた。以下は、鎌倉時代から戦国時代までの政治史の概説である。
平安時代は『平安時代』(岩波ジュニア新書)で一応のものはある。さらにこの種のメモを蓄積する積もり。

 後醍醐の建武政権について禅宗国家という側面を論じた論文に中国史との関係で、追補をする必要があり、その勉強の発展という側面ももっている。まとめて勉強する上で、網野善彦『日本社会の歴史』がありがたかった。網野さんの、この通史を受け止め、どうにか批判しようと長く考えてきたが、その中身に入ることができたように考えている。
 しかし、こういう問題を考える上では、やはり南北朝時代が中心論題になることも確認した。その意味での参考文献は、佐藤進一『南北朝の内乱』(『日本の歴史』9、中央公論社)、伊藤喜良『中世国家と東国・奥羽』校倉書房である。また筧雅博『蒙古襲来と徳政令』をはじめて読んで、私には勉強になった。
 戦国期政治史は藤木久志・峰岸純夫は別として、池上裕子さんの仕事しか系統的には読んでいないが、計画は、基礎構造から勉強しなおすこと。これがいつのことになるかは不明である。

(1)鎌倉時代
 現在、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に補任された一一九二年(建久三)と考える専門研究者はいない。頼朝の地位としては、その種の官職身分関係ではなく、蜂起した頼朝が、一一八〇年(治承四)年、東国を実権支配したこと、あるいは、一一八五年(文治一)、壇ノ浦で平家を覆滅させた義経を大軍を京都に上せてに追い落とすなかで、頼朝が獲得した「日本国惣地頭」のような現実的な地位を重視するからである。
 前者は「東国惣官」ともよばれる東国に対する広域支配権であり、後者の「日本国惣地頭」も「四国地頭」「九国地頭」などのいくつかの国をたばねる広域支配権から構成されていた。これらは個別の地頭とは異なる国を単位とする「地頭職」(国地頭)であり、武士の本領地頭を安堵し、また占領地の地頭職を承認する強力な権限を含んでいた。しかも頼朝は、最初、これにくわえて全国の総守護権をも公認させた。もとより、歴史的伝統をもつ天皇王権の西国支配は根強く、頼朝は西国守護を差配する権限を放棄し、西国は院権力の支配の下にもどった。しかし、短期間であれ、頼朝の地位は「日本国惣官」、国土の領有と支配権を王権と分有する「覇王」ともいうべき国家的地位であった。
 こうして鎌倉期の国家は武家が公家貴族に優越する武臣国家となったのであるが、武力によって成立した武臣国家は内紛に内紛を重ねた。東国の有力な地方軍事貴族(源氏の一族、東国の大領主、北条氏)の間での闘争はきわめて激しく、その中で頼朝の子供たちの血統は中絶してしまう。そして、それをみた京都の後鳥羽院は事態を院政時代の国家のあり方に戻そうとしたが、それは逆に東国の武家の一致した反発を引き起こした。これが「承久の乱」と呼ばれた東国・西国戦争である。
 後鳥羽は院政を敷いていたが、隠岐に流されて死んだ。後鳥羽の下で王位についていた土御門・順徳・仲恭も(幼かった仲恭をのぞいて)配所で死去した。幕府は、その代わりに頼朝の義理の弟に縁続きの後堀河天皇を王位につけ、新たな王統を作ろうとしたが、後堀河も、その子の四条も夭折したために、土御門の息子の後嵯峨を選択したのである。こうして王家の自律性が失われ、内部分裂が継続して、結局、後嵯峨の息子の後深草の子孫(持明院統)と、その弟の亀山の子孫(大覚寺統)の両統が交代に王位につくという異常事態がもたらされたのである。しかも、その即位順序の斡旋などまで北条氏がおこなうようになるなかで、公家貴族も両統に分裂し、北条氏の意を重んじたため、国家の実権は北条氏の手にわたった。
 北条氏の権力は、本来、頼朝の妻の実家であるというにすぎなかったから、このような経過は、北条氏を孤立させ、幕府内部および王家・武家・公家間矛盾を抜き差しならないものにしていった。
参考文献
(2)南北朝時代
 後醍醐が大覚寺統のなかでも傍流に属していた。後宇多は譲状において後醍醐は一代限りであることを厳密に命じ、実際に若死にした後二条の子、邦良を皇太子として、後二条ー邦良を嫡系に指定している。この背景には、亀山・後宇多・後醍醐の間での(後醍醐の母が亀山に寵愛されたなどの)矛盾と対立があったとされるが、後醍醐はこうして大覚寺統の皇太子邦良と、その後に即位を予定された量仁(光厳)の属する持明院統の双方から退位を迫られ、幕府もそれを後押しするという状況に立たされたのである。
 後醍醐のクーデターは後鳥羽クーデターと同じように東国・西国戦争から出発し、当初、後醍醐の側に立った武士は西国勢力であった。しかし、全国的な支配を確保していた北條氏の専制的な姿勢は、東国内部の離反を導き、鎌倉幕府の中枢の源氏門葉の家柄が後醍醐側に寝返った。足利尊氏が西国で、新田義貞が東国で蜂起することによって北条氏の権力はあっけなく崩壊したのである。
 後醍醐の目指したものは後鳥羽と同じく、院政時代の復活であり、武臣国家の否定であった。ただ相違していたのは、その国家構想が京都の北の大徳寺を国家寺院とするなど、中国で流行していた禅宗や儒学にもとづく皇帝専制を理念としていたことである。また陸奥将軍府や鎌倉将軍府のような「鎮」=広域行政府を設置する構想も南宋の設置した総領所に類似したものといえる。これは、鎌倉時代、北条氏の下で機動的な全国支配のシステムや広域的な権力のあり方が生まれていたことに対応するものである。もちろん、皇帝専制という思想や法と行政のスタイルは大きく異なっており、それが矛盾を引き起こしたことは事実であるが、後醍醐の構想をただの空論ということはできない。
 逆にいえば、後醍醐の建武政権がもろくも滅びた理由は、北條氏の専制が崩れるのと同じことであったということにもなるが、崩壊のきっかけとなったのは、後醍醐が、蜂起に功績のあった大塔宮護良親王を疎外し、その寵姫・阿野簾子所生の皇子を皇太子に立て、陸奥・鎌倉の将軍府に据えたことであろう。西国武士の組織において中枢的な役割を果たした護良を排除したことは西国武士の組織を脆弱なものとしたことは疑いない。
 そして後醍醐が護良の身を尊氏・直義兄弟に預け、鎌倉に幽閉されたことも大きな影響をもったであろう。つまり、鎌倉将軍府にいたのは、成良親王であったが、それを支える地位にいたのは鎌倉に根拠をおいて鎌倉幕府の伝統を固守する路線にたった足利直義であった。そして後醍醐を見限った尊氏は直義を頼って鎌倉に下り、兄弟で後醍醐に反旗をひるがえし、護良を殺害し、東国の軍勢とともに京都に攻め上ったのである。こうして後鳥羽の時と同じ東国西国戦争が戦われ、結局、尊氏・直義が勝利して、後鳥羽の時と同じように後醍醐の西軍は敗北して建武政権は崩壊したのである。
 これによって後醍醐の構想する宋朝型国家ではなく、武臣国家の路線が定まったのであるが、尊氏が「覇王」となるためには、京都ー西国を抑えるのみでなく、東国を抑え、頼朝が瞬間的についた「日本国惣官」ともいうべき地位を確保することが必要であった。それを実現するために尊氏が選択したのは、自分の息子の義詮を京都に据え、もう一人の息子を鎌倉将軍府に据えて、直義を殺害することであった。1352年のことであって、これによっていわゆる観応の擾乱が終了し、内乱の全局が定まった。その過程で、尊氏・直義はおのおの南朝の側と同盟する戦術をとって乱闘を繰り返し、その後も武家の分裂と争いは激しかったから、同じようなことは続いたが、すでに南朝には独自の力はなかった。
 この過程は兄・尊氏が西国を握り、弟・直義が東国を拠点としたという意味では、頼朝・義経とちょうど逆であったが、ともかくも二回目の西国東国戦争の結果、尊氏は頼朝とは違って、掛け値なしに「覇王」の地位を確保したのである。
(3)室町時代
 南北朝の併立は、1392年、尊氏の孫にあたる第3代将軍足利義満の調停によって終息した。内紛を自力でさばけなかった王家の権威は低落し、「覇王」足利氏に「旧王」として戴かれると同時に保護される存在となったのである。もちろん、義満は天皇の位置にとって代わったのではない。室町殿は「治天の務=政務」を担当する「院」として公家を含む国家機構を領導する役割を担ったのであって、その意味では天皇を形式上の君主として政務は院が握るという院政以来の王権の形式は維持されたのである。なお、足利氏は後醍醐の敷いた禅宗国家にそって、禅宗の大檀越として王権を領導しようともした。こうして、武臣国家における「覇王」体制が確立したのである。
 この南北朝終息期のころから西国守護の家柄はほぼ固定し、しかも島津・大友(九州)、大内(北九州・中国西部)、細川(四国・中国東部)、山名(山陰)、斯波(北陸)、今川(東海)のような隣接地帯を押さえる場合や、あるいは能登・紀伊・日向の畠山のように離れた地域を押さえるかの違いはあっても、複数領国支配が安定するようになる。武家覇王は一方で畿内近国を強力に支配して、このような広域守護の上に聳え立ち、他方で、西国を代表して関東公方を抑止することを、その権力基盤としていた。これは平安時代以来の広域支配システムの成熟の上にできあがった体制であったということができる。
 しかし、このような体制は将軍の代替りや実力・軍事力のバランスの失調によってしばしば危機におちいり、室町時代は、そこに由来する政変や戦闘の連続であった。それでも尊氏→義詮→義満→義持までは将軍の軍事指揮権は強力であった。しかし義持が後継者を決めないままに死去し、それに称光天皇の死去が重なって二重の代替りとなったとき、「日本開闢以来」といわれた大土一揆が代替徳政を求めて蜂起した。そして、その後をうけた弟の義教は専制に走って、鎌倉公方を自殺に追い込み、さらに有力守護家の家督継承に乱暴に介入した。これに恐怖した播磨・備前などの守護、赤松氏が義教を謀殺するや(1441年、嘉吉の変)、ふたたび代替りの嘉吉の土一揆が発生したのである。東国・西国の争い、広域権力相互の争いの中での大規模な民衆的運動の高揚によって、幕府は一挙に危機の時代に入ったのである。
(4)戦国時代
 足利義教の謀殺事件の後に室町殿となった義政が親政を開始するまでの15年間のあいだに蓄積した、西国・東国の争いや細川・畠山・山名の争いは、「応仁文明の乱」として爆発する。しかし、この内乱の実態はただに支配階級内部の戦争ではなく、それに正長・嘉吉の土一揆に相似した京都攻撃・掠奪が重なり、同時発生したものというべきものであった。こうして京都は焼け野原となり、時代は戦国時代に突入する。
 続いて1485年の山城国一揆、1487年の加賀一向一揆という一揆による権力掌握という前代未聞の事態が生まれた。しかも、これらは社会的な富を地域留保する自律的視野をもった広域的なネットワークを確保していた。これ以降、戦乱が混迷の一途を辿り、伝統的な武家の家柄が共倒れに追い込まれたのは、結局、彼らが京都の旧王ー覇王の都市宮廷を中心とした荘園体制とと骨絡みの存在であり、この自律的な民間ネットワークを統御すべき存在ではなかったためである。こうして、彼らの下で現地をおさえていた守護代クラスの武家が台頭して、院政期の以来の伝統的な家柄のほとんどすべてを追い落としていった。いわゆる「下克上」であるが、こうして安芸の毛利、越前の朝倉、尾張の織田、甲斐の武田、越後の上杉、伊豆の後北条などの戦国大名が登場する。彼らが室町時代の広域守護の複数領国を継承した広域ブロック権力を構成していたことはいうまでもない。
 戦国時代は、彼らが相互に唯一の覇者を目指して戦かう戦争の時代である。勝利をおさめたのは地の利をもち、かつ一向一揆との殲滅戦を戦い抜いて、抑圧すべき民間の実力を知り抜いていた織田信長であった。その戦略の中心は都市と交通網の掌握にあり、安土に始まる城と城下町の建設、関所撤廃、楽市政策にあり、信長は三河・尾張の商人集団に依拠して、軍事的物流を作り出すことに成功したのである。信長は、その独裁の下に軍事経済の組織をバックとする全面戦争によって、他の広域ブロック権力の打倒に邁進した。信長の個人独裁は明智光秀によって信長が殺害された後には統治機構は何も残らなかったほど極端なものであった。
 ぎゃくにそれによって秀吉は、信長の軍事的成果を受け継いで新しく出発することが可能になったのであるが、秀吉はその際、関白任官によって天皇権威をかついだ。ここでも旧王ー覇王体制は維持されたのである。そして、関白の命による「平和」=惣無事を表に立てて令によって広域権力相互の矛盾をつく戦略をとった。国分によって(後の江戸時代でいう)一国大名にまで広域ブロックを押さえ込むのがその最終目標であり、その支えは信長の路線を引き継いだ圧倒的な兵糧・武器の補給を可能とする軍事経済であった。軍事経済の組織は、同時に地域間の都市と交通網を支配して、自らの広域権力を他と隔絶するレヴェルに押し上げることであったことはいうまでもない。
 すでに戦国時代の問題の領域をこえた説明となるが、このような立場に立った秀吉は、西国を代表して、関東公方から東国を引き継いだ後北条氏を惣無事令の下に押さえ込み、全国戦争の勝利を決定した。戦国時代の戦争と政治は、ここで結論がでたことになる。もちろん、最終的には、それは秀吉政権の崩壊ののち、東国大名を動員した徳川家康と西国大名を動員した石田三成の争い(関ヶ原合戦)という本格的な東国西国戦争の決着を必要とした。しかし、このような過程で、江戸時代の幕藩体制と呼ばれる、幕府が広域的に要地を押さえ込み、国持大名が藩というレヴェルに押さえ込まれるという体制の原型が生まれたことは確実であろう。
 ようするに、平氏と頼朝が争った1180年代内乱(治承寿永内乱)ではでは東の頼朝がが勝ち、南北朝内乱では後醍醐・尊氏の西が勝ち、三度目の関ヶ原合戦ではでは東が勝ったのである。広域戦争の帰趨は、つねに激しい東国西国戦争によって最終的に決定されたということになる。

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