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2014年1月

2014年1月30日 (木)

粉河寺縁起再論

歴史教育の先生方との議論の関係で、もう一つ、原稿をあげておきます。
『粉河寺縁起』は教材として使用する価値がきわめて高い絵巻と思います。
それについては全体を『中世の愛と従属』で論じましたが、それを追補・再論したものです。
長いので、途中までにして、全文はWEB-PAGEの方に載せておきます。

  絵 画 史 料 の 歴 史 学 的 読 み 方
               ーーーーー『粉河寺縁起』再論
 以前に書いた本の中で、私は、絵巻物史料研究の目指すべき課題を二つ挙げたことがあ
る(保立『中世の愛と従属』、平凡社)。第一は、「絵巻に描かれた『物』や『人』が、
それ自体として何なのかを確定すること」である。単純なことであるが、これが「絵画を
読む」作業の基礎、「絵巻分析の基礎」であることは誰でもが認めることだろう。ただ、
画面に描かれた全ての事物に対して、この「問い」ーー「これは『何』なのか」ーーを発
することが重要なのである。本来の作業としては、疎漏をさけるために、絵巻ごとに、描
かれた全ての事物・人間について、古文書の「文書番号」と同じように「図像番号」を付
してチェックしていくべきだろう。そして、そのように分割された各画像について、色彩
、描法、修正・破損部分の詳細などの注記(できれば原本観察にもとづく)が蓄積され公
開されれば理想的である。
 このようにして絵画は、あたかも考古学的発掘の図面のように略号と数字で一杯になっ
た散文的な図面と注解に転化することになる。それが絵画を史料として読む正当な方法な
のかもしれない。少なくとも考古史料と絵画史料の史料としての性格の相似は誰もが認め
るところである。絵画は、考古史料と同様に、言葉による説明があたえられていない無記
名・匿名の史料なのであり、それだからこそ、その扱いのためにはまず「これは『何』な
のか」という「問い」を発し、それに名前と説明を与えることが必要になるのである。
 第二は、絵巻物史料をみる場合、「相手が絵であるだけに、そこに描かれていることが
、そのまま実在していたと考えがちであるが、実際には、それはさまざまな定形的な観念
の反映である場合が多い」、それ故に絵画史料分析にあたっては「絵巻の絵画表現の中に
含まれる観念やイデオロギー、特に宗教的な観念などを明らかにすること」が必要である
。特に日本の絵巻には詞書が付属しており、それは直接に宗教的・説話的な物語性を有し
ている。絵巻の詞書は、それ自体として一つの宗教的・文学的な説話なのであって、絵巻
の理解のためには詞書と画面の間で往復運動を繰り返すことが必要なのである。それを形
で実感するためにも、絵巻の分析のためには、絵巻のコピーを作って長尺の巻物に仕立て
、それを開きながら詞書と画面を交互にみていくことが有益だろう。
 以上の二点は当然のことではあるが、まとめていえば、絵巻物史料は匿名性と物語性を
もつ歴史史料であるということになろうか。匿名性と物語性。こういう特徴をもった史料
を扱うのは、歴史学にとってはたしかに新たな課題であるが、近年の中世史学は、この分

野で顕著な仕事を蓄積してきた。しばしばいわれるように、ほぼ一九七〇年代までは、絵
巻が利用されるのはほとんど概説書や教科書における「挿し絵」としてに過ぎなかった。
歴史学において文字・言語史料が第一であって、画像史料は二次的なものに過ぎなかった
。しかし、どのような史料が一次的な位置を占めるかは、分析対象の性格によって決まる
ことであり、最初から決定されている訳ではない。歴史の研究者は、近年における絵画史
料の研究の発展によって、この単純な原則を再確認したのである。
            (下略ーーweb-pageへ)

旅する商人と護衛の下人

歴史教育の方と話していて必要になったのであげておきます。
本来は、画像もあげればよいのですが、それは時間がなく、当面、原本をご覧ください。
はるか昔のものなので、もう挙げても問題ないと思います。
ただ、この教科書によく載っている画像についての説明は、この論文以降も正確な説明はないと思いますので、少しは役にたつのではないかと思います。
 

旅する商人と護衛の下人(『歴史と地理』385号(1987年9月)
 「面白いは京下りの商人、千駄櫃、荷うてつれは三人なり、千駄櫃には多くの宝が候よ  、商人を恋ふるかや、千駄櫃を恋ゆるかや」
という歌は、有名な『田植草紙』の一節である。小泉和子氏は『家具と室内意匠の文化史』(法政大学出版会)で、この歌を引いて「遠廻りをする行商人は千駄櫃を背負った」として、図1の『石山寺縁起』(巻5、瀬田橋の場面)の絵を掲げている。この男の絵については、高校の日本史教科書の插絵などであるいは御記憶の方もあるかも知れない。教科書も、この男について商人あるいは行商人と説明している。
 しかし、永く教科書に載っていたに違いないこの断定の根拠となると、どうであろうか。絵巻物分析では最初に依拠するべき本の一つである小泉氏の本や、『絵巻物による日本常民生活絵引』(平凡社)にも特に具体的な論及はないし、豊田武氏などの商業史研究でも特に触れられていないのである。もちろん、通説と異なることは書くなという無謀なことをいうと聞く教科書検定でも、この断定には疑問を挟んでいなかったのだから、これは暗黙の「通説」なのかも知れないが、要するに、何時のことだかは知らぬ、誰が言い出したのかは知らぬ、そういうことになっていて、特に研究もないというのが、実際であろう。とはいっても、私もこの断定に何の異論がある訳ではない。むしろ、その根拠を示すことが中世商業史研究にとって大切な意味をもつと考えるのである。
 図2は平安時代の成立とも言われる高松宮家所蔵、図3は室町時代の成立にかかる大東急記念文庫所蔵の「職人尽絵」に描かれた商人の姿である。確かに、それは図1の『石山寺縁起』(『日本絵巻大成』、中央公論社)の男の姿に似ているようである。荷櫃の様子は若干異なり、『石山寺縁起』の男は笠を着ているため、烏帽子の有無も不明であるが、何よりも旅装の必要条件である足ごしらえの脛巾きをつけていること、そして杖を持っていることなど、共通性は高い。
 そして、絵巻物、特に中世の人々の旅の姿を詳しく描き込んでいることで著名な『一遍聖絵』には、その所々に類似の画像を発見することができる。まず注目したいのは、図4、『一遍聖絵』(巻五、『日本絵巻大成』)の白河関から奥羽に下っていく一行の姿である。この一行の前にも二人の同じ姿の男が歩いているが、『日本常民生活絵引』は彼ら全てを「荷持ち」と説明している。これは先の『石山寺縁起』を含めて類似の画像についての『絵引』の統一的解釈であるが、しかし、彼らは別に主人に随行している訳ではないから、『絵引』のいう意味は、彼らがいわゆる「歩荷(ボッカ)」であるというのであろう。しかし、図4の先頭から三人目の男の姿に注目してほしい。これは、荷櫃の様子といい烏帽子といい手に持った傘といい、まさに図3の「職人尽絵」のいう商人の姿と同じである。そして『一遍聖絵』の詞書きには、実際に商人という言葉がでるのである。
 中世に近世の「歩荷」にあたる職業があったのかどうか、その姿はどのようなものかが明らかでない以上、彼らはやはり商人とするべきではないだろうか。ただ、問題として残るのは、彼らの担う荷櫃の構造と担い方である。私は、図3の商人のように背中高く荷を積み上げている商人のことを「高荷商人」といったのではないかと考えるのだが、それを含めて荷櫃の構造については、今後さらに研究を続けなければならない。しかし、これらの荷櫃が細工職人によって作られた細工物であったことは確実であろう。先の『田植草子』にもでてくるいわゆる千駄櫃は、商品を多く入れた櫃を積み重ねて担うものであるとされている。中世後期の史料ではあるが、それが細工職人によって専門的に作られたものであることは「宣胤卿記」(明応六年[1497]六月条)によって明らかなのである。そしてそのような細工物を担う人々として最もふさわしいのは、やはり商人であるということになるのではないだろうか(これらについては豊田武『中世の商人と交通』38㌻、『豊田武著作集』3巻、吉川弘文館、参照)。
 さて、以上を前提としうるとすると、『石山寺縁起』の男は、場面が瀬田橋である以上、東国へ向かう商人という設定ということになる。また、『一遍聖絵』の白河関の場面に描かれている商人は、古くは、9世紀から「白河・菊多の関」を往来していたと伝えられる「商旅の輩」(承和二年十二月三日官符、『類聚三代格』巻18)の姿であろうし、鎌倉時代にも大量の銭貨をもって白河関以東に下って絹布などの物産を買いあさったという商人の姿(鎌倉幕府追加法99条、『中世法制史料集』Ⅰ、岩波書店)であることになるだろう。大津瀬田橋や白河関の風物に、これらの東国往反の商人が描かれるのはいかにも自然であるのかも知れない。
 そして、注目すべきことは、絵巻物史料によると、多くの場合、彼らが連れそって行動していることである。まさに、これは、豊田氏が「多数の隊伍を組み、行商の道すがら、行く先々の市場で商品の取引をなしつつ進んだのが、中世商人の姿であったのであろう」(前掲書、29㌻)と述べている様子の一部を画像によって具体的に示すものであると評価できよう。ただ勿論、豊田氏がいうように、都鄙を往来する現実の商人団は、もっと多人数のものである筈であり、絵巻史料あるいは冒頭で引用した『田植草紙』に「荷うてつれは三人なり」とあるような、小人数のグループは、その大部隊が各地で分散して地方まわりをしている様子を示すとすべきであろう。そう考えて初めて、平安時代の『新猿楽記』にあらわれる京都に拠点を置く広域商人が、「八郎真人は、商人の主領なり」といっている「主領」という言葉が理解できるのである。
 しかし、何よりも重要なのは、絵巻物史料によって見るかぎり、商人の姿は街道の道々において普通の風景であったことである。周知のように、文献史料は定量分析に利用するためには、様々な困難を有している。これに対して、絵巻物史料のよいところは、そこに一定度の普遍性をもって描かれているものならば、現実に普遍性をもっていたことが直接に論証できることなのである。さらに類似の図像を集めて考察を加えなければならないとはいえ、これは商業史研究にとって大きな問題とするべき事柄なのである。
 また、驚くべきことは、中世商人の姿が少なくとも『一遍聖絵』の成立した鎌倉時代から多くの職人尽絵の成立した室町時代まで、基本的に変化しなかったことである。もちろん、商人の活動の規模や量は大規模になったとしても、その姿によって掴むことのできる彼らの行動様式に大きな変化はなかったのではないだろうか。これも今後の研究課題として提示しておきたいと思う。
 さて最後に問題としたいのは、ここで商人と想定した図4の『一遍聖絵』の場面の最後につき従っている蓑帽子をかぶり、弓を持った男の姿である。このような男は、絵巻物に見える商人らしき人々の近くには、殆ど必ずといってよいほど連れ添っている。そして、『絵巻物による日本常民生活絵引』は、これらの蓑帽子の男たちを「狩人」とし解釈し、それは、たとえば、図5の『一遍聖絵』の一場面について、網野善彦氏の『異形の王権』(19㌻)が「蓑帽子をかぶり、腰に「うつぼ」をつけた狩人たちの姿は、たしかに「異形」ともいえるが、供をつれ、堂々と胸を張って濶歩する彼らには卑賎視の影は全くない」と述べているように、一つの常識ともなっているようである
 図5についていえば、「狩人」の後ろから牛に荷を負わせて歩む二人の男の姿は、商人とすべきであろう。少なくとも「狩人」が後ろの二人の護衛であることは明らかである。そして逆にいえば、商人かどうか不明な図像についても、「狩人」の実態がわかれば、それを決定できることになるかも知れない。しかし、彼らは本当に狩人といってよいのであろうか。
 絵巻からこのような蓑帽子の男たちの姿を可能なかぎり集め、網野氏のいうような蓑帽子の意味や道路上での武装の意味を検討することは、また別の課題である。高橋昌明氏が「山の尾根筋など境界を遍歴する狩人には、境の神になりかわって、通過する旅の人々から手向(山神への贈り物ーー筆者注)を徴収することが認められ」ており、ある場合は商人などの旅人を護衛して「旅人の通行保障」をすることがあったのではないか(『湖の国の中世史』19章、平凡社)とするように、彼らが狩人である場合があったのも勿論であろう。
 しかし、絵巻物には平地の普通の道路を歩いている商人や護衛も見ることができる以上、護衛の全てを狩人という職能に引き付けて理解すべきではないだろう。私は、一番穏当なのは、商人に雇用された下級の武者と解釈することだと思う。商人団が護衛の武者によって守られているのが普通であることは、前掲書で豊田氏がいう通りである。そして、問題は、遠隔地商人の場合、この下級武者が出発地から同行していたものか、あるいは現地雇用なのかということである。もちろん、私は出発地からの同行がありえたことを否定はしない。ただ、鎌倉時代の商人は、「所の領主に依頼して、腕節の強い護衛の侍をつけて貰う程安全なことはない」という期待の下に、在地領主に「警護用途」などを出して路次の安全保障せさたことが知られており(豊田前掲書、30㌻)、下級の武者が、実際には地方の領主の所従・下人であった可能性を捨て切れないと思うのである。
 私は「みちのあいだのおそれ候へば、兵士の料に下人具してまいらする」(『平安遺文』2338)という史料を引いて、下人の交通護衛の問題に触れたことがあるが(保立『中世の愛と従属』149㌻、平凡社)、もし、以上のような想定も可能であるとすれば、これらの護衛の画像は、武装した下人所従の姿を示すものとして貴重な意味をもつことになるのではないだろうか。

藤木久志さんの本。

 藤木久志さんの本を『日本史の30冊』に加えようとしていて、どれを入れるべきかを考えている。

 おそらく 『飢餓と戦争の戦国を行く』 (朝日選書、2001年)にすることになるだろう。ともかくも徹底的に食いつめた人の目から社会をみていくということであるが、それをデータベース作りからはじめて追求してきた藤木さんの姿勢に圧倒される。

 『戦国社会史論』から読み直さねばならないのだが、これはもう少し先の研究計画に属する。先日書いた室町時代の通史メモでも、「応仁文明の乱」の説明にはどうしても藤木さんの仕事の読み直しがいると再認識。

 本当にうかつなことに、災害史・地震史の研究を自分で始めてみて、藤木さんの仕事の意味が身にしみてわかった。私は自分の専門では鎌倉初期までしか目がおよんでいないので、ついつい室町以降の研究を敬遠してしまう。もちろん、藤木さんの仕事の基本部分は読んではいるのだが、しかし、2000年代に入って職場が多忙になり、追われるような気持ちで研究の方向を本当の意味でじっくり考えることがなかったのであろうと思う。

 この本の「あとがき」に1993年の東北の大凶作の衝撃をみにうけて災害史と「飢餓」の問題に一挙に取り組み始めたとあるのを読んで、やはり大きな衝撃である。このことは私も聞いていたが、私にとってあの凶作が研究の衝動力にはならなかったということがショックである。

 山内明美さんの『こども東北学』にも、その大凶作の記憶が記されている。彼女が高校生のころであったという。東北大凶作から東日本大震災へという経験のあり方のなかにいる人はほかにも多いのであろうと思う。

 私は、その外にいて歴史学をやっていた訳である。ともかくも『日本中世気象災害史年表稿』(高志書院)に目をさらし、藤木さんの仕事を考え直してみたいと思う。

 歴史の研究者はおのおの一人一人自分の戦略をもって研究を続けるが、それを相互に了解しながら進むことは、少なくとも私の経験ではきわめて困難であった。それはどういうことなのかを考えている。
 
さっきまでジャーナリストの人に歴史学と地震史・災害史研究の状況についてインタビゥーがあって説明。3,11にむけて考えているとおっしゃる。「歴史学というと世離れたもののようにみえるけれども、そういうことでもないのですね」といわれて絶句。

2014年1月29日 (水)

NHK会長の発言、愚劣の構造と歴史学

 NHKの会長発言についてであるが、発言をして翌日に撤回するというのはどういうことであろうか。これはやはり「晴れの場」にでて(というように感じて)舞い上がってしまって根がでたということなのであろうが、それにしても程度というものがあるだろう。

 今日の東京新聞で我が家のアイドル、斉藤美奈子さんが痛烈なことをいっている。

 一面では秘密保護法について小林よしのり氏が徹底的な批判をしている。小林さんの意見は正論。「保守の側は、この法律に反対する人を扇動的というが、わしはそう思わない。戦前にもどるはずはないともいうが、過去の日本人は劣っていたのか、今の方が愚かではないのか」というのは正鵠を射ている。

 愚劣の構造のようなものが、この国の社会には根付いている。公共放送のトップが愚劣であるということは社会に反映する。「愚劣でもいい、元気であれば」ということであろうか。これはおそるべきことだ。これは世界中でも非常に独特な現象だろうと思う。

 これはどういうことなのか。

 高村光太郎の「愚劣の典型」という詩。高村は、第二次大戦についての自己の関わりを、この詩で内省している。


今日も愚直な雪が降り
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にいるのは一つの典型,
一つの愚劣の典型だ。


 この詩は、我々の世代だとよくしっている詩である。いつのまにか記憶のなかに入り込んでいた。これによって愚劣ということを知ったのではなかったのか。少なくとも戦前の人は、愚劣を内省する、歴史的に内省する程度には賢かったのではないのか。

 ただ一つ、小林さんの意見に賛成できないのは、「保守の側は、この法律に反対する人を扇動的という」という部分。現在の自民党は、保守ではない。あれを保守というのは「保守」の正確な用語法ではない。保守というもののありうべき最大の特徴は歴史的知恵というものであるはずである。あるいはそういう気分というものであるはずである。

 日本社会の「愚劣の構造」というのは、ようするに保守らしい保守が、この国には存在しないということとイコールである。そして基本的に善人の多い「国民性」もあって、私たちは上の方にいる人はできる人だと考えがちなのだと思う。上が愚かということをみとめると、なんでそんな人が上にいるのかという疑問を詰めて考えるのがつらいということもある。

 丸山真男のいう「無責任の構造」。これはたしかに存在するが、同時に、より基底にあるのは、この「愚劣の構造」であると私は思う。

 日本の社会には客観的にいえば、アメリカに従属する政治と、アメリカの多国籍企業にべったりの一部大企業経営陣が中枢部をしめるというシステムがある。同時に社会意識としては、「無責任の構造」と「愚劣の構造」が二重に存在するということである。

 愚劣さが、ここまで明瞭になってくると、この社会にも変化が起きるということにならざるをえないはずである。もちろん、この「無責任の構造」と「愚劣の構造」は、右のシステムに直結する「ムラの利権の構造」によって支えられているから、そう簡単ではないだろうがーー

 こんなことを書くことで時間をつかってどうかとも思うが、しかし、朝の仕事前に、なぜ、こんなことを書いたかといえば、「愚劣の構造」の相当部分が、歴史にかかわっているということを、あらためて感じたからである。これは歴史学にとっては根本的な問題だ。歴史学の役割にかかわる問題だ。歴史学の責任はきわめて重い。
 
 小林さんは、次のようにもいっている。

「政府は特定秘密保護法をつくるのは米国から情報を入手するためと説明するが、提供される情報は本当に正しいのか。イラク戦争の大儀とされた大量破壊兵器はイラクになかった。米が謀略をしかけたトンキン湾事件のようにうその秘密かもしれない」と。

 歴史学は過去の普通の人々を裁断することに役割があるのではない。過去が、どうして、そういう結果になったのかという理由と原因を問うのであって、愚劣と裁断することが役割ではない。歴史学の判断は高村と同じように内省的なものでねければならない。

 しかし、過去の内省がないままに繰り返しが行われる場合、あきれてだけはいられない。イラク戦争で、アメリカ情報をそのまま流した責任者、つまり小泉氏が、そのままの顔をしてでてこれる社会であるということにあきれてだけはいられない。

2014年1月28日 (火)

少女マンガと情報化

 マンガと情報化というのは、おそらく相性がよいのではないかと思う。人間の考えること、感じることで、文章にできないことは多い。しかも、それは意外と類型的なものである。これをマンガは巧妙に記号化する。その記号化の約束事に慣れ、感情移入をすることに慣れれば、ある世界をもつことができる。これはある意味で、別の世界を意識のなかにもつことである。

 もちろん、小説を読んでも同じことはできる。しかし、人間の感じること、考えることはなかなか文字にできない部分がある。多様な画像を「約束事」にそって組み立てることで、マンガがその相当部分を表現することは事実だと思う。小説は小説を全部読み、さらに同じ作者のものを何冊か読んで、作者の思考パターンのようなものがわからないと、なかなか頭のなかに、その世界が住みついてくるということはないのではないか。

 娘の読んでいる少女漫画が机の上に置いてあったので、いないを幸い読ませてもらうと、これはかなわないというのが率直なところである。こういうものがあっては、小説を読むということはなかなかできない。それは当然だと思う。

 しかも、これだけの内容をもったマンガが、現代日本社会にはほとんど無限な多様性をもって存在している。おそらくもっとも才能にあふれた人々が、この世界のなかに入っているのだと思う。

 この画像情報の累積が小学生から高校生、さらには年長の人間の頭脳のなかにほとんどすり込まれているのだから、ここでの説得性なしには、文化も学術もないということになるのだと思う。これは「やむをえない」というか、ほとんど必然的なことだと思う。

 意識と感情の外化が大量に蓄積された社会というのが、情報化社会である。現在の日本社会では、その第一の支えがコンピュータネットワークであり、第二の支えがマンガなのではないか。

 なにしろ、マンガのコマ順をスッスと追い、主人公たちの顔や衣服を見分けというのは、一つの約束である。コンピュータを操作するのも一つの約束である。

 もう新しい約束はする容量をもたない、あるいはすぐに忘れてしまう私のような世代は、こういう状態では居直っていくほかない。しかし、その分、愉快なマンガ、面白いマンガは忘れてしまうので、何度でも読めるというように居直ればよい訳である。「また読んでいる」と馬鹿にされる訳であるが、それは諦めるということである。

 さて、以前、「情報と記憶」という論文で、次のように書いた。


 情報化社会論については、何度か参照した福田アジオが、前近代と現代の情報のあり方を比較して、「生活の情報はかっては非文字が基本であったが、それが現代では大部分が文字によってなされている。そして非文字の情報はラジオテレビの電波によるマスメディアとして大量情報の手段となっている。民俗の情報から現代マスメディアとしての情報に非文字が奪い取られている」と述べていることに注目したい。

 たしかに、共同体関係の解体は、地域社会の中から非文字的な情報を追放し、さらに現在の情報革命は、職場の中の情報の相当部分をも電子メールという文字情報に変更しつつある。こうして、衝撃力の強い非文字情報は、マスメディアに集中するという結果がもたらされた(福田アジオ『可能性としてのムラ社会ーー労働と情報の民俗学』(青弓社、一九九〇年)。
 

 ここで「非文字情報」について「衝撃力が強い」としか特徴づけることができなかったが、上のようなことなのだと思う。

 マンガに目を取られ、さらにそれを考えて、ここまで書いたが、しかし、そろそろ神道史の勉強にもどらないと間に合わない。


2014年1月25日 (土)

地震火山103「災害の軽減のための地震火山観測研究計画」

Kengi20140125


 私も専門委員として参加した科学技術学術審議会、測地学分科会の検討委員会が起草し、審議会の建議として公表されたた「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画推進について」の最終PDFが届いた。

 全文はhttp://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu6/toushin/1341559.htmにある。

 来年度から五年間の研究計画で、歴史学にとっても大事なものと思う。

 社会的な責務に直接に貢献するという筋を学術は絶対的に維持しなければならない。それは社会的分業のなかで展開される学術にとっては義務的なものであって、それへの参加を自己の人生に組み込むことは俗物たらざらんとすれば学者としては義務的な事柄と思う。もちろん、それをやったから、あるいはやっているからと意識しているからといって、「俗物」の域を抜けられるとは限らない。まずは学者でなければならないということではあるが、委員会の討議のなかで、自然科学の研究者の方々と、そういう感じ方は共通しているのだと感得できたのは、私にとってまったく新しい経験であった。

 なお、末尾に歴史学関係の重要な記載を転記します。

 要点は、(イ)災害史研究を進め、地震噴火に直接に関係しない史料も蒐集分析することを、この研究計画のなかにいれる。(ロ)地震噴火に関する史料,考古データ,地質データを 系統的か つ体系的に整理し,近代的な観測データと対比・統合しやすいデータベースを構築する。(ハ)歴史地震・噴火についての専門的な研究機関や後継者養成が十分でないという状況を解決していくなどの点にあると思う。

 これが災害科学論、地震噴火の「予知」をどう考えるかという議論の一環として展開されている。

 あとは、必要なのは、議論をし、合意をし、そして予算と人をどうにかして確保することであろうと思う。
 これはどうも不足しているように思う。すぐに大幅な予算がつくことは(要望はするにしても)困難であるとすると、民間からの寄付などもふくめて機会あるごとに人文社会科学の側も努力しなければならないと思う。

 それにしても、人文社会科学の中枢をなす法学部・経済学部、法学者、経済学者の、この問題(災害科学の推進)への貢献が少ないように思う。これは私などは彼らは給料分の仕事というものが何であるのかがわかっていないのではないかと怒りがつのる問題である。これは法学・経済学が、悪い意味で実用科学化し、彼らの学問の質とプレスティージが低下していることと関係しているだけに日本の学術にとってきわめて深刻な問題である。
 
 日本の学術世界では、現在のところ、人文学・社会学・歴史学連合のような形で「災害」についての議論が進んでいる。しかし、今後は、是非、法学・経済学の研究者が、考え方を組み直して、「災害科学」の構築と推進への参加を本格的に考えてほしいものだと思う。災害科学の問題は、結局のところ、国土計画・都市計画、自然と人間の関係に関する社会的合意などのすべての問題にかかわっており、法学・経済学の本格的な参加なしには学術の側は実力を発揮できないと思う。

  

「災害の軽減のための地震火山観測研究計画」歴史学と地震学、中国史史料などの部分
「(1) 地震・火山現象に関する史料,考古データ,地質データの収集と整理
 歴史地震・噴火に関わる史料の収集・データベース化と校訂・解釈作業を進める。その際,広い意味での災害史データにも目を配り,史料の新たな収集 を行う。 地震・火山噴火災害に関する考古データの集約は相対的に整備が遅れており,データベース化を進めつつデータ収集を強化する。さらに,地震・火山噴火現象に 関係する過去の事象と現在の状況を把握するための地質データの調査・分析を進める。これまで独立に集められてきた史料,考古データ,地質データを 系統的か つ体系的に整理し,近代的な観測データと対比・統合しやすいデータベースを構築する。
ア史料の収集とデータベース化
○ 大学は,過去の地震や火山噴火現象,それに関連する地変や地下水異常などの諸現象,及び,それによる災害に関する歴史資料の収集,調査,解読などを進め,近代的な観測データとの対比可能なデータベースを構築する。また,世界の地震・火山災害史に関する国際共同研究を進める。特に,中国史料を中心に東アジアに おける地震・火山噴火災害史料のデータを集積し,その解析を進める。
イ考古データの収集・集成と分析
○ 大学は、考古遺跡の発掘調査資料などを収集・分析し、地震や津波、火山噴火被害に関する検討を行うとともに、近代的な観測データとの統合を意図したデータベース化を行う」。

 歴史地震の研究体制に関わる部分。 
「過去の地震と噴火の史料,考古データを収集して歴史災害研究を行う組織が存在せず,後継者養成も行われていない状況は,従来から大きな問題と なっていた。歴史災害に関する学際研究は,これを解決する長期的な見通しをもって行われる必要がある。」 

災害科学としての地震学という基本方針の部分(5ー6頁)
「地震・火山の観測研究は,国民の生命と暮らしを守るための災害科学の一部として,計画を推進すべきと考える。地震・火山災害は、地震や火山噴火の発生により生じる強震動,津波,火山灰や 溶岩の噴出などの災害誘因が,人の住む自然環境や社会環境に作用し,その脆弱(ぜいじゃく)性により災害が発生する。地震や火山噴火に関する災害科学とは,災害を引き起こす地震や火山噴火の災害の発生や推移を総合的に理解し,その知見を防災・減災に生かすための科学であり、理学・工学、人文・社会科学などの研究分野が学際的かつ総合的に進める必要がある。一旦発災すると被害が甚大となる地震,津波,火 山噴火による災害を軽減するためには,長期的展望に基づき,災害を起こす原因にまで遡った理解に基づく方策を探る必要がある。つまり,自然現象で ある地震や火山噴火現象を理解し,それらが引き起こす災害の姿を予め知る必要がある。この際に,地震・火山噴火の発生の場所,規模,時期などの予測に始まり,災害の発生から,地震・火山噴火の発展段階に応じて起 こり得る災害の推移を予測することが重要である。観測研究計画は,以上を踏まえ,防災,減災にも貢献できる研究として機能すべきである。これまでは地震や火山噴火の発生予測ができればおのずと防災・減災に貢献できるという考え方で計画が進められてきた。この考え方を見直し、地震・火山噴火の発生予測とともに地震・火山噴火による災害誘因の予測の研究も行い、それらの成果を活用することにより防災・減災に貢献するという考え方へと移行する。今がまさにその転換点にあると認識する。
 これまでの計画では、地震及び火山噴火「予知」という言葉を使用してきた。予知という言葉は,一般的には「前もって知る」ことに関して幅広い意味で用いられているため,地震や火山噴火に関する最近の理学研究では,定量性を念頭においた限定的な語感をもつ「予測」という言葉が好んで使われるようになっている。しかしながら理学・工学・人文社会科学の研究分野の専門知を結集して、総合的かつ学際的に研究を進める災害科学においては、むしろ「前もっ て認知して,災害に備える」ことを幅広くとらえて「予知」という言葉を用いる方が妥当である。災害の根本原因である地震や火山噴火の発生と、それらが引き起こす災害誘因をともに予測して、地震や火山噴火による災害の軽減につなげることの意味は重く、必要性も大きい。これからは、自然現象である地震や火山噴火の発生予測にとどまらず、災害の発生までを視野に入れた災害の予知を目指す学術研究として計画を推進する必要がある。」

文理融合の原則の部分。
「国民の生命と暮らしを守る実用科学として,地震・火山噴火災害に関する科学(災害科学)が活用され,防災・減災に効果的に役立つためには,地震 発生・火山噴火の仕組みを理解する基礎研究,それらを予測する応用研究,さらに,防災・減災に役立てる方策を示す開発研究のそれぞれを体系的・組織的に進める必要がある。
東日本大震災を踏まえた科学技術・学術政策の在り方の検討の中で,基礎研究,応用研究,開発研究のいずれの段階でも,研究者の内在的動機に基づく 学術研究,政府が設定する目標などに基づく戦略研究,政府の要請に基づく要請研究の三つの方法によって進められるべきであることが指摘された。ま た,学術研究においても課題解決とともに自ら研究課題を探索し発見する行動が求められている。さらに,地震・火山噴火研究においては,人文・社会 科学も含めた研究体制の構築,海外の地震・火山噴火多発国との連携強化,防災や減災に十分貢献できるような研究体制の見直しなどが指摘されている(東日本大震災を踏まえた今後の科学技術・学術政策の在り方について(建議),平成25年1月17日)。
 観測研究計画は,地震や火山災害の軽減という社会の要請を踏まえた課題解決を目指し,全国の大学,研究開発法人,行政官庁が協力して推進する研究 計画である。地震・火山の災害軽減に必要な災害予知は,その手法が未だ確立していないので,研究者の創意工夫に基づいて体系的かつ継続的に推進す る必要がある。そのため,学術的な基礎研究を主体として実施する観測研究の推進体制が必要である。また,成果を社会の防災・減災に効果的に役立て るためには,政府の地震・火山噴火防災施策で設定する要請や目標を十分考慮し,防災・減災に貢献できる体制を構築する必要がある。
 大規模な地震・火山噴火の発生間隔は人間の生活時間に比べて長いため,長期にわたる継続的な観測・調査と観測データ・資料の蓄積と総合的な解析 を,地震・火山噴火研究全体として実施する体制が必要である。観測データ・資料及び研究成果のデータベースの構築などの研究基盤の開発・整備に努 める一方,現在の技術では困難に見える観測や解析の新展開を図るため,新たな技術開発を行う。
 地震及び火山噴火などの自然現象に起因する災害誘因だけでなく,地形・地盤などの環境や人間社会の持つ脆弱(ぜいじゃく)さが災害素因となり,災 害の大きさが決まる。本計画を災害科学の一部として捉えた場合,これまで実施してきた災害誘因としての地震及び火山噴火研究に加えて,災害素因と の関係を意識して研究を進めることが必要となる。このため,理学だけではなく,防災学や工学,人文・社会科学などの関連研究分野との連携を図りつ つ,災害科学を推進する。また,地震や火山噴火現象の推移を理解し,予測するには,近代的な観測の実施期間が短すぎることから,歴史学,考古学な どと連携して過去の事例を調査する歴史災害研究を行うことが不可欠である。ただし,過去の地震と噴火の史料,考古データを収集して歴史災害研究を 行う組織が存在せず,後継者養成も行われていない状況は,従来から大きな問題となっていた。歴史災害に関する
学際研究は,これを解決する長期的な 見通しをもって行われる必要がある。」

2014年1月23日 (木)

神道史学の達成と歴史学


 『かぐや姫と王権神話』を執筆し、地震・噴火神話の研究をすることになって以来、神道史の論文を読むことが多くなった。

 西田長男、西宮一民、松前健、岡田精司、中村啓信などの人々の仕事である。私はいわゆる社会経済史から歴史学に入ったので、岡田精司氏の仕事をのぞいてほとんど読んだことがなかった分野の仕事である。もちろん、よく読んでいるという訳ではなく、仕事に必要なものがでてくるまま部分的に読んでいるだけなので大きなことはいえないが、たいへんに面白い。これらの仕事が全体として達成しているものの位置は大きいことを、とくにいわゆる「古代史」に興味をもつものは認識しておいた方がよいように思うようになった。

 一つは柳田国男・折口信夫である。これも、これも仕事に必要な範囲でということではあるが、読んでいるので、神道史の仕事はその延長で読めるところがある。柳田や折口の仕事の延長を現在の段階で学術的に考えようという場合には、神道史の研究の進展を知っておくことはどうしても必要なことであるのを理解した。

 もう一つは、本居宣長である。神道史の人々はみな本居の仕事を尊重しているが、しかし明瞭に本居の仕事は古いということを指摘している。この点は見事に容赦がないところがあるように思う。私は丸山真男の「古層」の論文が、実際上、本居に依拠しているところが多いのを知った。そして神話論の研究を始めてから、本居の仕事がいかに大きいかというのも知った。それは逆にどうしても本居の批判が必要であることを確認したということである。日本の歴史学は本居の仕事を総点検する必要があると思う。

 日本の社会史や政治史を考える上で、新井白石の『読史余論』の批判が決定的に重要であるというのは、『平安王朝』を書いて平安時代政治史をまとめた段階で気づいた。これはもうはるか以前のことになる。そして次は本居ということである。これについては成沢光『政治のことば』(講談社学術文庫)の解説を書いた時にも再確認した。歴史学が成熟するためには本居宣長の批判を完了しなければならない。

 文化としての神道に対する共感が必要なことはいうまでもないが、これらの研究でもっとも強いのは儀式・祭祀の精密な研究と言語の研究であると思う。とくに言語の研究は、この国の歴史学、人文科学にとって緊要な意味がある。

 現在、ともかく集中しなければならないのは岡田精司氏の仕事である。井上章一『伊勢神宮と日本美』が指摘しているように、岡田精司の仕事は考古学などとの関係でも重大な焦点となっている。

 その仕事が順調に終わるかどうかはわからないが、しかし、ともかく、そこを乗りこえて、神道史の仕事の勉強を進め、その全体をみた上で、柳田・折口、とくに折口の仕事が、自分にとってどのようにみえてくるかが期待するところである。こういうように考えるようになったのは、西田の戦後の発言を読んで驚いた経験によるものであるが、その前提にあった、第二次大戦における国家神道を経験した柳田の反省、折口の反省は、どのような立場の研究者でも、その感じを知っておくべきものであると思う。

2014年1月21日 (火)

地震火山,2月1日に朝日カルチャー千葉で講演

2月一日(土)に朝日カルチャーセンター千葉教室で「現在は大地動乱の時代か」という題で、講演をします。
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 この写真は、産総研の宍倉正展先生の提供


 全体のテーマは「地震を歴史から読み解く  奈良時代から江戸時代まで」というもので、「列島の大地は、9世紀、16世紀に地震噴火が激しい時代を経験しています。21世紀がそういう時代になるかどうかは、地震の長期繰り返しをどう考えるかという地震学上の大問題となっています。この講座では、それを千葉のことにもふれながら歴史地震学の視野から考えます」というものです。

 地震学、歴史考古、地域史の各分野からの講演になっています。

2/1 現在は大地動乱の時代か 東京大学名誉教授 保立 道久
2/15 元禄地震と大津波 大網白里市文化財審議会会長 古山 豊
3/1 南関東の遺跡から見つかった地震と津波の痕跡 
          神奈川災害考古学研究所 代表 上本 進二
3/15 地形や地層に刻まれた関東地震の歴史 
          産業技術総合研究所活断層・地震研究センター海溝型地震履歴研究チーム長 宍倉 正展

 私は、ともかく3,11の時の幕張の液状化をどう理解するか、いま取り組んでいる地震神話の話し。そして、9世紀の伊豆諸島の噴火で千葉にやってきた火山灰が疫病のもととされたことなどを話す予定。

 下記の史料は火山噴火にともなう火山灰、火山ガスの毒性を示す史料としては稀有のもの。


886年の伊豆新島の火山噴火の事例。「黒雲あり、南海より群起し、その中に電光現れ、雷鳴・地震」。噴火・黒雲・雷電の恠異の三位一体。安房国に大量の火山灰降下。「砂石・粉土」「二三寸」堆積。水田の苗や、山野の草木が枯死。草をたべた馬牛が多数、倒れ死んだとある。
火山灰、「粉土」に、火山ガスの有毒成分が入っていたことを示す。
 京都の陰陽寮が「鬼気の御霊、忿怒して祟りをなす」、「疫癘の患」を予言しているのも興味深い。


 この史料はぜひ、千葉県の小学校ではかならず教えるということにならないものだろうか。ご存じのように歴史教育のあり方をめぐってはさまざまな議論がある。これはやむをえないことであると、私などは思う。歴史学会のなかでも過去についての筋の通った理論にもとづいてイメージを一致して出すということは実際には相当に無理なので、歴史教育はさらに多様になるのが自然だと思う。しかし、かならず教えなければならない、というよりも経験を伝達しなければならないことというのはあるはずである。この列島の自然のなかで、この郷土がどういう歴史をもったかなどというのは、その筆頭に上がるはずである。そういう知識とそれを伝達するために必要な資料を公共的に共有していくことが歴史の重要な役割であるはずである。過去は変えられないということは、過去に対する知識が公共的な性格をもっているということとイコールである。そう考えなければ歴史教育というものはなりたたない。史料とデータにそってじっくりと教育・伝達内容をくみ上げていく。それを教師のオートノミーの下で、同時にさまざまな専門分野・関係分野との議論と共同のなかで作っていく。そこには政治は関与しない。政治はあくまでの条件整備である。もちろん、現代の社会のなかで、この条件を作っていくことは挑戦的な課題であるはずであるが、そういうことに挑戦しようという政治ではないのが困ったことだ。
 
 ともかく、この四つの講演を聴いていただければ、千葉の歴史地震についての一応の見通しがとれることになると思う。
 こういう種類の講座を各地域で、各県、各自治体でやっていくべきだと思うのですが、なかなか思うようには進みません。

 

2014年1月19日 (日)

『物語の中世』文庫版で追記したこと。

 以前、『物語の中世』の文庫版のあとがきは載せて置いたが、追記したことも載せておきます。
 「『竹取物語』と王権神話」は『かぐや姫と王権神話』の基礎となったもの。
 「説話芋粥と荘園制支配」は芥川龍之介の翻案で有名な「貧乏五位」の話しだが、芥川の読みは歴史家からするとたいへんに困るということを書いた。歴史教育でもしばしば教材とされる物語だが、都市の貧乏貴族の話としてしまうのは間違いということを述べてある。

一章「『竹取物語』と王権神話」【追記】
 六三頁において「とよおかひめの宮人」を「天の女帝の宮人」としたが、この「とよおかひめ」とは、正しくは、「豊岡姫」「豊受姫」であって、月の女神であると同時に伊勢外宮の祭神である。これについては保立『かぐや姫と王権神話』(洋泉社歴史新書y、二〇一〇年で明らかにしたところである。これまで、外宮祭神の豊受姫が月の女神であるとされるのは、鎌倉時代以降と考えられてきたが、この『源氏物語』の和歌などによれは、それは平安初期にさかのぼるのである。五節舞姫が仕える夜の女神が月の女神であるということは、『竹取物語』の理解に関わってくるが、それ以上に、日本の神話と神道の分析の視点を大きく変更することになる。なお、右の『かぐや姫と王権神話』では本章で行った聖武天皇、孝謙天皇論や五節舞姫の分析は省略したので、できれば両方を御検討いただきたいと思う。
相当論は同書そつぁ

三章「巨柱神話と天道花」【追記】
 本章では雷神=高木神について論じたが、雷神が、同時に地震神であり、火山神でもあって、雷神=地震神=火山神の三位一体をなして、倭国神話における自然神の中枢をなすことについては、保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇一二年)を参照されたい。

五章「説話芋粥と荘園制支配」【追記】
 「文庫版のあとがき」でふれたように、本書は折口信夫の仕事を意識して書かれているが、その際にもっとも依拠した岡田精司の仕事が本章に深く関わる論点を提出していることに気づいた。岡田精司の論文「大嘗祭の神事と饗宴」(『古代祭祀の史的研究』塙書房、一九九二年)は、折口信夫の有名な論文「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集』第三巻)を批判したものであるが、そのなかで、岡田は新嘗祭・大嘗祭の本質は天皇と五位以上の貴族の共食の場であることを強調している。つまり、芋粥の饗宴に先行する五位たちが共食する饗宴として新嘗祭が存在したのである。こうして、摂関家の芋粥の饗宴の分析は、それが新嘗祭・大嘗祭の分析のいわば応用問題であることを十分に意識して、あらためて遂行されねばならないということになる。本章は、右の岡田の論文が発表されるより前に歴史科学協議会の研究大会で発表したものであるが、しかし、岡田の論文は、本書の原版刊行時には明らかにされていた。それに長く気づかずにいたのは慚愧のいたりである。

七章「領主本宅と煙出・釜殿」【追記】
 本章で問題とした竈神については、「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」という論文で、おもに室町時代の史料にあらわれる竈米という付加税との関係で社会経済史の側面から考えてみた(東寺文書研究会編『東寺文書にみる中世社会』吉川弘文館、一九九九年)。

九章「物ぐさ太郎から三年寝太郎へ」追記
 本章について辻本正教「『癩』と『懶』」(『部落解放なら』一一号、一九九九年)、秀村選三「大根・おね・大寝・王明・大ね」(『日本歴史』七〇四号、二〇〇七年)で批判をいただいた。どちらもハンセン氏病(「癩」)の要素を物ぐさ太郎自身や人身売買の瑕疵担保文言に読み込もうというものである。たしかに太郎の「賤」の面はそのような読みを許容するが、私は「物ぐさ」の語義については、それを「鬱」にもとめる佐竹昭広の観点を依然として維持したい。なお、辻本は、本書原版で従来の説によって「穂高」とした「おたが大明神」を、近江国多賀神社、「あさい権現」を同浅井郡の湯次神社であるとし、重要な議論を展開している。これについては指摘にそって修正した。御指摘に感謝したい。

 いま9時。沖縄タイムスの電子号外】によると、稲嶺氏が再選確実ということである。
 名護市民の判断が確定するのを刮目してまっている。

 名護市長選
2014年1月19日 20:00
 【名護市長選取材班】任期満了に伴う19日投開票の名護市長選挙は、現職の稲嶺進氏(68)=無所属、社民、共産、社大、生活推薦=の2期目の当選が確実となった。前県議で新人の末松文信氏(65)=無所属、自民推薦=との一騎打ちを制した。

 稲嶺氏は、最大の争点となった米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題に「断固反対」し、保革を問わず幅広い支持層から票を集めた。基地受け入れに伴う再編交付金に頼らないまちづくりを訴え、受け入れられた。

 1996年に移設問題が浮上して以来、5度目の市長選。対立軸が鮮明になる初めての選挙で、反対派が勝利した。

 稲嶺進(いなみね・すすむ) 1945年7月生まれ。名護市三原出身。琉球大卒。72年に名護市役所入り。総務部長、収入役などを歴任。2004年から08年まで市教育長を務めた。10年1月の市長選に初当選。

2014年1月18日 (土)

『一遍聖絵』の福岡市の場面ーー歴史教育のために

 『物語の中世』の文庫版で追加したこと。

 『一遍聖絵』に描かれた備前国の福岡市の場面は、鎌倉時代の地方市庭の様子を示すものとしてほとんどの教科書にも載せられている有名なものである。この場面の解釈について『物語の中世』で書いたが、旧版(東京大学出版会)とくらべて、昨年出した文庫版(講談社学術文庫)で追加した部分があるので、これを紹介しておきたい。学校での授業に使えると思う。
 それは「腰袋と桃太郎」という文章で文庫本でいうと、300頁である。
 それを読んでいただければいいが、腰袋というのは、火打石などが入れてある成人男性が腰に結んでいる袋で、実は鎌倉時代には、この中に銭が入っているのが確実なのである。

Photo


 この図が『一遍聖絵』に描かれた備前の福岡市である。左上にいる男が銭をもって立ち売りの女から布を買おうとしていること、上の仮屋のなかに座っている女が銭を数えていることなどは、この画像を教材として利用する場合にはかならず言及されているだろう。
 問題は、右下の一郭に描かれた仮屋であるが、この棚に下がっている薄茶色や赤色の丸いものも、火打袋ではないだろうか。前述のように、火打袋が、丸く切った皮・染革によって作られていたとすると、この画像を火打袋(というよりもそのための染革)とすることに違和感はない。同じ棚に緒のような赤紐が下げられているのもその証拠となる。腰袋の画像を探っていくと、その緒紐が赤いことがわかる。市庭では銭が使われるだけでなく、サイフも売っていたという訳である。

 この文章の最後の2行を文庫版で付け加えた。「腰袋の画像を探っていくと、その緒紐が赤いことがわかる」というのは、絵巻物を繰っていただければすぐにわかることだが、このブログのWEBPAGEに載せた「歴史教育と時代区分論」というスライドの32頁に、いくつかの絵巻物から例を拾ってある。
 中学・高校の歴史の授業などで、貨幣経済の展開を話す際には、この画像を使わざるをえないはずである。さらに上記の情報を付加すれば、腰袋について話し、また市庭について詳しく話すことができる。

 ゼミに考古学の院生がでていることがあって、年初から、前方後円墳論に取り組んでいて、頭が重く、さすがにブログに文章を書く余裕がなかった。平安鎌倉時代の研究者にとっては無謀な挑戦である。
 前方後円墳は火山の象徴であるというのが私見で、『かぐや姫と王権神話』や『歴史のなかの大地動乱』にそれなりに根拠をもって書いた積もりだが、史料をさらに追加して説得的な議論をしなければならない。来週のためにはともかくいちおうの目処がついた。


 明日は、沖縄の名護市の市長選の投票日である。ヤポネシアとして、列島ジャパネシアとして「日本」をとらえるということを歴史家として本格的に考えたいというのが、昨年年末から年初にかけて考えたことの一つである。沖縄は孤立しているように見えるが、しかし、島尾敏雄が、ジャパネシアの歴史は変化する時は、かならず南で大きな変化があるといっているのは正しいと思う。基地の移転、増設に抵抗する動きはかならず南からはじまって列島全体に及んでくると思う。学者生活にとってはむずかしいことだが、沖縄の人々の生活にはじない仕事をし、生活を送るという気持ちを作るためにも、今年は、できれば沖縄に行きたいと思う。歴史の研究はつねに時間を移動することであるが、しかし、空間を移動することも、日常からでるという意味では同じ感情をもたらす。そして、なによりもそういう仕事のことを越えて、沖縄に別の日常があることを感じながら生活をすることは、この列島に棲むものにとってなかば義務的なものであると、私は思う。

2014年1月 3日 (金)

102地震火山、小川琢治の地震神=スサノヲ論の紹介

 今日は、三日なので、仕事をはじめた。PCの中に残っていた小川琢治(湯川秀樹のお父さん)についてのまとまった原稿を発見。研究史なので、載せておきます。

列島の自然神話と神話学
 『日本書紀』『古事記』『風土記』『万葉集』などに残されている神話物語の中には、日本列島に棲みついた我々の祖先たちが、この列島の自然をどのように認識していたかということを反映している部分がある。これらの神話史料は文字の形でまとまって残ったものとしては、東アジアではきわめて古いものである。

 もちろん、これらの神話史料は、当時の国家がその正統性を証するという目的の下に編纂されたもので、その意味できわめて強い政治的な性格をもっている。それを忘れたり無視したりすることは学問としてはきわめてまずい。私は、第二次世界大戦の中での全体主義的な天皇制国家が、その種の神懸かりの神話イデオロギーによって国民と塗炭の苦しみに追い込んだことは、いやなことではあるが、歴史家の職責として、機会あるごとに愚直に繰り返すべきことだと思う。

 しかし、歴史学が神話の政治的な性格に注意をはらうのは、そういう政治的な性格を取り払ったところにあらわれる、神話史料それ自体が、たいへんに貴重な文化財であるためである。私は、その文化的・学術的な価値はきわめて高いことも強調しておくべきであると思う。世界的にみてもきわめて珍しいものである。

 これは神話を虚心に読み込んだ経験のあるものにとっては自明のことであるが、二〇一一年三月一一日の東日本大震災の後、急遽、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を執筆する中で、私は、この列島に棲むものにとって神話世界についての知識が大事な意味をもっていると考えるようになった。倭国の神話には地震(そして火山)の影響がきわめて強いのである。歴史意識の中に、これらの神話を位置づけ、列島の神話を一つの「過去の鏡」として、現在の国土を考えることは、私たちの後に続く世代に、この国土を引き継いでいく上で、大切な営為であると考えるようになったのである。

小川琢治のスサノヲ=地震神説の位置
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 ある高校の先生から歴史学からみた地震について高校生に実験授業をしてほしいと頼まれたことがある。高校生はみな興味をもって聞いてくれたのだが、ショックだったのは、素戔嗚尊の名前をだして「知っている人」と、念のために聞いたところ、クラスのほとんどが知らなかったことである。これは困ることだと思う。

 私は、日本神話における地震の神は、素戔嗚尊(スサノヲ)であると考えている。ということは、その娘聟である大国主命も地震神なのである。さすがにこの神の名前は高校生も知っているに違いないが、彼らにとっては、ぎゃくに、なぜこのスサノヲーオオクニヌシの名前を知っていなければならないかということかもしれないと思う。ただの教養としてスサノヲーオオクニヌシの名前を知っていた方がよいということは学者としてはいいにくいことである。しかし、もし彼らが地震神であるというののが事実であるということになれば、これは是非知っておいた方がよいということになるのではないだろうか。

 ただし、問題は、これは通説ではなく、すくなくとも現在の時点ではもっぱら私が主張しているだけであることである。もちろん、この国における最初期の地質学・地震学の学者、小川琢治が、このことを指摘していたのであるが、その後、地震学者・歴史学者をふくめて、だれもそれを繰り返した人はいなかった。なお脇道に入るが、小川が地震学・地質学の研究の道に進んだのは、一八九一年、マグニチュード八、〇という内陸地震としては最大の強さをもつ濃尾地震を目撃したためであった。この地震は、建物全壊一四万余、半壊八万余、死者七二七三人、山崩れ一万余箇所という被害をもたらした。小川は、この惨状にショックをうけ、地質学を志し、地震学・地質学の研究の基礎を作ったのである。私は、彼がノーベル賞をうけた原子物理学者、湯川秀樹の父であることぐらいは知っていたが、歴史地震の研究を始める前には、小川が、なぜ地質学の道に入ったのかはまったく知らなかった。このことは、私たちのもっている日本の学問の歴史についての知識の歪みを示すものかもしれない。

 小川が日本神話における地震神がスサノヲであり、そしてその地位を引き継いだオオナムチであると指摘したのは、「東西文化民族の地震に関する神話及び伝説」という論文であった。この論文は『支那歴史地理研究』(一九二八年、弘文堂書房)という東アジアの歴史地理と地質学に関する浩瀚な著作におさめられたもので、小川はそこで世界の地震神話についての紹介をしている。その中で興味深いのは、スサノヲが海神であると同時に地震神であるというのはギリシャ神話のポセイドン(ローマ神話ではネプチューン)と同じであるとする点である。小川は彼らが、「(海神であると同時に)地震の神とされた訳は、ギリシャ半島の地中海に突出した部分は地震の頻発する土地であって、その入江には、これにともなって津波が起こるからである」としている。

 見事な議論であるというべきではないだろうか。いまでは、子供たちは、あるいはスサノヲという神の名前よりも、ポセイドン=ネプチューンの方が親しい場合もあるかもしれない。しかし、この二つの神の名前は同じ性格をもった神としてまとめて覚えておくべきものなのであり、あわせてギリシャなど地中海東部も地震が多い地帯であることを記憶しておくことは生きた教養であると思う。

 ただ、この小川の著書『支那歴史地理研究』は、稀覯本になっていて、現在では、なかなか見ることができないから、小川の視野の広さを顕彰するためにも、それを論じた肝心の部分を次ぎに引用しておくことにしたい。ただし、後にも述べることなので、先を急ぐ方は、読み飛ばしていただいて結構である。


 『古事記』および『日本書紀』の神代巻にみえた神々の中で、最も激しい神となつている素戔鳴尊が地震・津浪を起し、その子の大己貴ノ尊が、これを鎮めたと考へられていたことが明らかであるから、たぶん、オオナムチ尊、すなわち大国主尊を地震の神とみなしうると思う。
 『古事記』によれば伊弉諾尊が天照大御神、月読命、建速須佐之男命の三柱の神を生み給い、おおいに歓喜して天照大御神に高天原を治らせよ、月読命に夜食國を治らせよ、素戔鳴尊に海原を知らせよと詔り給へりとあつて、素戔鳴尊は海神となつてゐる。しかして、その行状として、その泣き給ふ状は青山を枯山如す泣枯し、海河は悉く泣乾しき、是を以て悪ぶる神の音狹蠅如す皆滿き、萬の物の妖悉く發りきといひ、妣國根の堅洲國にまからんと欲ふが故に哭くとまをし給へりといひ、天照大御神に訣別せられ天に参上り給ふ時に、山川悉く動み、國土皆な震りきといひ、
『日本書紀』には
 溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴?、此則神性雄使之然也、
といつて居る。是は地震によつて大地鳴動し、山崩れて土?げ草木倒れ、家を覆し人を傷ぶる恐ろしい現象と之に伴ふ津浪の起るのを此の神の狂ふ所作と考へた神話と解される。
 次に『古事記』にはオオナムチ尊がスサノヲ尊の御所に参られて尊の眠つた隙を伺ひ髪を握つて室の縁に結び著け、大石(五百引石)を其室の戸に塞ぎ、尊の生ノ太刀生ノ弓矢と天詔琴を取り持たして逃げ出で給ふ時に、天詔琴が樹に拂れて地動鳴き尊の眠りを驚かしたといひ、海神が同時に地震津浪を起す神であつて、大己貴ノ尊は之を鎮めた神で國作りの神として崇拝されたものと考へられる。従つて前に述べた「オホナムチ」なる神名が地を鎮める神といふ意義で、とくに鎮めるといふ語に現實的な意義があつたらうと思ふ。
 茲に一言せねばならぬのは伯耆、出雲、石見の地方のことで、此の山陰地方は日本海に瀕して、近頃は他の地方よりも地震の少ないところであるが、歴史上には二三の激震があり、また明治五年に濱田を中心とした激震があつて、石見國だけで倒屋四千餘使者五百餘を出した。故に素戔ノ鳴ノ尊の本國を其隣の須佐とすれば時として激震の起る地方に屬して居るのである
(旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、一部、漢字を仮名になおし、符号や言葉をおぎなった)。


神話学研究の歪み

 この小川の指摘は、短文ながら、きわめて重大なものである。ところが、私の知る限りでは、小川の指摘は歴史学界の注意を引くことはなく、また神話学においてさえも、ほとんど注目されることはなかった。もちろん、日本の神話学の開拓者の一人である松村武雄は、さすがに小川の議論に気づいていた。しかし、松村は「氏の専攻の理学から観ずると、こうした解釈に到達するかもしれないが、自分たちにはいかにも奇妙な論歩の進め方のように思われて、遺憾ながら納得しがたい」としてしまった(第三巻二六二頁)。神話学の目からみると、小川の議論が、たしかに大ざっぱに過ぎたことは事実であろうが、しかし、松村が、この点を深く追究しなかったのはきわめて残念なことであった。松村自身、一九四二年にあらわした大著『古代希臘に於ける宗教的葛藤』にも、ポセイドンが海神であるとともに地震神であるとしているように、海神=地震神というポセイドンの性格は神話学にとっては常識に属することである。また松村は国生の女神の出産についてそれが火山噴火の印象を反映していると論じている。そういう松村が小川の議論を受け止めなかったのは残念なことであったというほかない。

 これに対して、現代の神話学を代表する研究者の一人、吉田敦彦は、さすがに、スサノヲの地震神としての性格を論じている。つまり、小川が注目したように、スサノヲが、アマテラスのいる高天原に上っていくとき、「天にまゐ上りたまふ時に、山河悉くに動み、国土みな震りき」といわれていることにふれて、吉田はスサノヲはポセイドンと同じように海神であり、地震神であると明瞭に述べているのである。しかし、吉田は、このことを『日本神話の源流』(『講談社現代新書』、一九七六年)という新書の中でわずか三・四行ふれたにすぎなかった。しかも、吉田は、小川がふれたスサノヲがもっていた地震を引き起こす「天の沼琴」についてはまったく言及していない。それ故に吉田は、この琴をスサノヲから盗んだというオオナムチの行為については言及せず、それ故に、オオナムチが地震神としての性格をもつことについてもふれていない。吉田が小川の仕事を読んでいなかったとは考えられないから、これもきわめて残念なことであったといわなければならない。

 いまになってみれば明らかなように、日本神話を考える上で、地震神と地震神話の位置は、そんなに軽いものであったとは考えられない。むしろ、この列島に棲む人々、この列島での生活と生業を作ってきた人々にとって、地震や噴火などの不思議な地殻の動きはもっとも神秘的なもの、理解しがたいものであったのではないだろうか。小川は、地震学者の本能によって、そのことを直観していたように思われる。

2014年1月 2日 (木)

図書館の機能、マイブックリスト

 昨日から机辺の片付けで尾野善裕氏からいただいた抜き刷り「古代尾張における施釉陶器生産と歴史的背景」(『新修名古屋市史 資料編 考古2』二〇一三年)をしかるべきところに整理するために、もう一度読んでいる。9世紀の淳和院論として屈指のもの。戸田芳実氏が読んだら、本当に喜ばれるだろうと思う。

 考古学はここまで来ているのだということを感じさせる。このレヴェルをふまえて、以前書いた「古代末期の東国と留住貴族」を手直ししないとならない。
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 写真は昨年、夜、京都にいったときにとったもの。まったく予期しておらず、石柱に接して、ここが淳和院かというので驚いた記憶。 

 尾野論文に引用されている論文で未見のものがある。

 研究所の任期がおわって不便なのはやはりすぐに本をみることができないということ、とくに雑誌論文がみにくいということである。そこで、雑誌論文については、国会図書館の複写サービスを使うことにして、今日、申し込んだ。WEB上でNLD-OPACで申し込んでから、到着まで一週間はかかるようだが、一枚24円ということだからやっていける金額である。
 
 歴史は細かな仕事なので、相当数の論文と著書が必要となる。本は必要なものは買わざるをえないが、面倒なのは論文で、研究所にいても、最後は隣の図書館や学部に探しに行くことになった。国会図書館の複写サービスに慣れれば、仕事がやりやすくなるのではないかと期待している。

 研究書(論文集)は、結局、一番使うのは、先輩たちのものなので、これは必須のものとしてそろえている。そして、どうしても必要なものは購入する。また戴くこともあり、差し上げることもあり、これは相互贈与のようなものである。ハードカバーの学術書の印税は差し上げる分で消えてしまい、ほとんど印税は期待できない。その代わりにいただくという関係で、学術書の出版というのは相当部分が専門分野内流通である。専門学術出版というのは学会内の情報流通の補助機能を一つのベースにして成立している業界であると思う。

 ただ、自分の専門を越える著書はさすがにそろえていない。また新しい分野の研究計画を立てる際にも書棚の本では不足する。これは近くの図書館にお願いするほかなく、近くの図書館が充実しているのはありがたいことである。
 
 私は千葉市内に住んでいるので、千葉の市立図書館と県立図書館を利用させてもらって便利をしている。

 最近発見して感心しているのは、市立図書館と県立図書館の両方の図書館で同じシステムになっている「マイブックリスト」という機能である。説明によると、「マイブックリストは、蔵書検索でヒットした資料をピックアップし、あなただけのリストとして保存しておけるサービスです。リストは10個まで作成できます。1つのリストには100件までの資料を登録できます。蔵書検索の画面から、1クリックで資料をリストに登録できます。リストや資料にはメモをつけておくことができます。作成したリストは、図書館のシステムに保存されます。インターネットに接続されていれば、どのパソコンからも、リストを閲覧したり、編集したりすることができます」ということである。

 両方の図書館が同じシステムなのがいい。
 
 参考文献目録、あるいは読まねばならない本のリストをこういう形で作れるのはありがたいことだ。歴史学の作業、資料のなかにもぐり込んで穴をほる作業というのは、頭脳作業としてはもっとも単純なものなので、誰でもできる。ある専門分野や実業のなかにひたって、その骨法をさとった人ならば、5年訓練すれば誰でもできるというのが、私の持論。

 逆にそれを職業にする人は、どういうオリジナリティを発揮できるのかが問われるということであるが、いずれにせよ、そういう作業にもライブラリーが助けてくれる。データをそこにおいておけるというのは新しい時代なのだと思う。

 いわゆる反知性主義がはびこる、この社会の基礎から、水準を上げていくためには、とくに日本ではライブラリーが大事なのだと思う。学術とライブラリーとが強い連携をもつようになることは基礎条件としてどうしても必要だと思う。図書館にいって歴史の書棚をみていると、それが文化学術全体のなかでどう位置付いているのかを考えさせられる。


 近現代史専攻で、一昨年だったか、韓国での任期を終えて帰ってこられた先輩のK・K氏から年賀状をいただく。「じっくりと研究をしている」とのことで、自宅作業をうまく進めるやり方の経験を伝授してくれるということである。遠山茂樹さんの言い方だと我々はみな「職人的研究者」であるので、狭いものでも書斎が工場(こうば)である。
 
 いつか話しを聞けるのを楽しみにしている。以上は、その時のためのメモ、私の最近の経験を御伝えするためのメモである。

2014年1月 1日 (水)

日本の近世はいつ始まるか。

 本年もよろしくお願いします。 核時代後70年(2014)1月1日
 
 私は年賀状の年号は、もう長く「核時代後」という元号を使っている。歴史家にとっては歴史の時間表記がリニアであること、客観的な連続性をもっていることは、感性上、必須のことなので、日本の元号は使わないことにしているが、しかし、西暦にも若干の抵抗がある。あれは西洋中心史観の道具立ての一つである。

 そこで、核時代後ということになる。この元号は、人類史のうえで、現在が決定的な時間であることを明示する上でも大事だと考えている。
 
 年賀状用の宛名データベースが失調してしまい、ついでに昨年の年賀状の記録も飛んでしまったので、計算しなおすと、今年は核時代後70年ということになる。一つの節目だろうと思う。
Cimg0842

 写真は年賀状らしいということで、平泉中尊寺の釈迦堂。いかにも昔のものという小堂である。参拝の際、よく見せていただいたことがあり、思い出深い。

 さて、東アジアとの関係で日本列島の歴史を考えることが実際に重要な意味をもつ時代になっていくと思う。

 正月からややこしい話しであるが、私はずっと、日本における「近世」という時代は鎌倉時代から始まるとした方がよいという意見をもっている。これは天下の孤説であって、おそらく学界の賛同をえることはむずかしいものである。

 内藤湖南・宮崎市定の意見に依拠して、そう発言したのは、すでに二〇年近く前のころのことで、二〇〇〇年五月に行われた歴史学研究会大会の総合部会での報告「現代歴史学と国民文化」、および二〇〇三年に行われた同じく歴史学研究会の七〇周年記念シンポジウムの講演「『社会構成体と東アジア』再考」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房。二〇〇四年)で、そのように述べた。

 また先日公刊された『中世荘園の基層』(悪党研究会編、岩田書院、二〇一三年)にのせてもらった「平安末期から鎌倉初期の銭貨政策」という論文で、12世紀からを「一種の初期的な産業社会」と述べた。これも宮崎市定説を前提とした物である。

 しかし、「近世」というのは東アジアの時代区分としていわれていることなので、これを具体的にいうためには、東アジアとの関係での議論をせねばならず、さすがにいままでその機会がなかった。

 しかし、昨日、大晦日に、やっと後醍醐と禅の関わり、および室町国家の禅宗国家的な側面についての論文を書き上げた。そこで、その「おわりに」の部分を「東アジアの「近世」について」という副題にして、12世紀から日本は近世ということを書いてみた。

 下記のようなもの。
 
           ×        ×            ×
 この問題は、中国と日本の共時的な時代区分のあり方にもかかわってくるのではないだろうか。つまり、宋代の理学や禅宗は文化論的には宋代の「近世」と考える場合のキーとなっているが、そうであるのならば、この時期の日本にも「近世」という同時性を措定できる可能性である。禅宗は日本・朝鮮・中国で明らかに同時代的に動いている。共時性の窓のようなものである。
 よく知られているように、宋代を世界史的な「近世」の段階と評価するのは内藤湖南と宮崎市定の学説である。その根拠となっているのは、羅針盤、火薬などの技術、商業都市と地域的村落的市場、貨幣経済などの社会経済的状況とともに、文化論的には、大蔵経の印刷にはじまる文字文化の普及であり、それらを前提とした一種の合理的な心術の形成というようにまとめることができるだろう。
 私は、すでに二〇年近く前に、この内藤・宮崎の時代区分論に賛同し、東アジアにおける「近世」はだいたい12世紀には始まるとしいう見解を述べたことがある(二〇〇〇年五月に行われた歴史学研究会大会の総合部会での報告「現代歴史学と国民文化」、および二〇〇三年に行われた同じく歴史学研究会の七〇周年記念シンポジウムの講演「『社会構成体と東アジア』再考」、『歴史学をみつめ直す』校倉書房。二〇〇四年)。これは北宋の成立する一〇世紀後半を「東アジア近世」の開始年代と考えるとすると、若干のタイムラグをみたとしても12世紀ころには日本においても「近世」の時代が始まったとしてよいという趣旨である。なお、このような私見はいわゆる「封建制」はヨーロッパ的な意味における社会構成としては日本にも東アジアにも存在したことがなかったという理解を前提としている。社会経済史的にみても、この時代を「近世」ということには大きな問題はないということである*1。これまで時代区分論の立場からは、建武新政の歴史的性格について、時代的状況に応じた古代的な政権の一時的な反動的復活とか(永原慶二)、封建王政への接近と破綻(黒田俊雄)などの見解がだされているが、私見では、そのような理解は東アジア全体を対象とした時代区分論や社会構成論という視点から全面的に再検討するべきだということになる。

 これについて、ここで詳しくふれる余裕はないが、ただ、中国と日本における近世の成立のタイムラグをだいたい二〇〇年弱ほどとしていることについては(実際にはもっと短いかもしれない)、建武新政論との関係で若干の説明を加えておきたい。

 というのは、実は、内藤・宮崎のような「近世」という時代区分を取る場合にも、多くは日本における「近世」の開始は戦国時代あるいは江戸時代とするのが一般だからである。宮崎自身、「後進国である日本」は、早く中国的近世の影響をうけたほかに、ヨーロッパ的近世の影響をもうけた後に、はじめて「近世」段階に到達したという意見を述べている(宮崎『アジア史概説』中公文庫四二七頁)。これだと、中国と日本のタイムラグは約六〇〇年以上ということになる。もちろん、日本が「後進国」であり、中国とは大きく事情を古都にしているという点は当然ではあるが、しかし、六〇〇年以上も中国と日本における世界史的な時代区分に時代差をもうけることは、宮崎の世界史の共時性という問題提起それ自体の意味を曖昧とするのではないだろうか。

 ここでは文化論的な側面についてのみ見解を述べるが、宮崎のような理解は民族ごとの特殊条件を軽視しているように思う。つまりたとえば印刷文化をとればたしかに日本が中国的な印刷文化のレヴェルに到達するのは江戸時代のことであるが、しかし、中国のように広く巨大な人口をもつ国家と日本との相違は大きい。人々の心術の様相を規定する文字文化のレヴェルはかならずしも印刷などの形態ではなく、文字の庶民普及や識字率の方が根本的な問題であると考える。文字の普及と識字率ということになれば、日本のそれは相当に高いといえるのではないだろうか。
 また、問題の禅宗をとってみると、唐代に基礎をおかれた禅宗は宋代を通じて発展したが、それが日本に本格的に弘通しはじめたのは一三世紀までずれ込んだ。宋代の「近世」性を代表する朱子学となれば、これも江戸時代まで下がることはいうまでもない。しかし、言語と文字文化を異にする日本にとって「禅」はきわめて特殊な宗教であった。それは第一に中国的な文字文化と一体のものであって、また第二には儒教や道教、そしてその論理学とも深く関係するものである。禅が何度も移入されながら、日本に受け入れられなかったことには自然な理由があったといわなければならない。しかも、黒田のいう意味での顕密体制が禅宗の移入をさまたげたことは確実である。禅宗の移入の遅れは、そのような事情によるものと考えたいと思う。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、日本では「仏教東漸」ということをナショナルな国制意識とからめて立論する傾向が一般的であった。たとえば一三世紀末期に成立した『野守鏡』に「和歌よく礼楽をとゝのふるが故に国おさまりて異敵のためにもやぶられず。仏法の流布する事も大国にすぐれたるは、これひとへに和歌の徳也。宋朝には和歌なくして礼楽をたすけざるによりて、八宗みなうせつゝ、異賊のために国をうばはれたり」とあることが、それをよく示している。これこそ顕密主義そのものである。そして、この種のナショナルな国制意識が万世一系思想に対応するものであることは別に述べたところである(保立「現代歴史学と国民文化」『歴史学を見つめ直す』)。

 このような通念に対して、栄西は『興禅護国論』において、「インド・中国では仏道と戒律が廃れているという俗論を排し、戒律運動を表面に立てた日本仏教中興の実現可能性を説いた」(菅原昭英「江南における四川僧と日本僧の出会い」『宗学研究』四〇ー四二号)。日本のみが仏教の正統を伝えるという自尊になずむのではなく、むしろ遅れをとった日本が追いつかねばならない目標として、中国仏教と禅宗の先進性を強調する観点から、興禅護国を説いたのである。ここには禅の移入が平安時代以来の正統的な国制イデオロギーとの対抗を必要とした事情が現れている。そのような経過をへた後にはじめて、鎌倉時代の後期、儒学と禅宗を中心にした政治思想が国家と公武の貴族の間で本格的な議論の対象となる時代がやってきたのである。そこには、東アジアにおけるモンゴルの勃興という国際情勢と、それに対応する宋学と仏教思想の緊迫した問題意識の影響があったことは明かであり、それによってはじめて状況が突破されたというべきであろう。このような事情を具体的に考慮しながら、世界史的な時代区分のタイムラグについて考えをつめていくことが必要であると考える。
               ×               ×                    ×

 以上のようなものである。しかし、これ書いていて愕然としたのは、結局、これは石井進・網野善彦の意見の後追いではないかということである。
 
 つまり、早く石井進は内藤湖南説に親近感を示し、「一三世紀後半からはじまる社会の転換を近世社会への萌芽と考え、一五世紀後半の応仁の乱以後の戦国期の変革にむすびつけて考える方が自然ではないか」と論じた(石井「中世社会論」一九七六年発表、『石井進著作集』六巻)。

 また網野善彦も「少なくとも一四世紀から列島社会における資本主義を考える必要がある」(網野「中世都市研究の問題点と展望」一九九六年発表、『網野善彦著作集』一三巻)としている。

 石井さんにも、網野さんにも、ご意見に賛成であるといったことはなく、むしろ網野善彦さんの資本主義論には批判をいった記憶がある。意見の変化には、それなりの理由があり、徐々に徐々に、自分の感じ方では連続的に必然的に変わっていくのでやむをえないのだが、それにしても弁解できないことである。

 もう意見を変えることなく、研究を進めようと思う。

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