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2014年1月29日 (水)

NHK会長の発言、愚劣の構造と歴史学

 NHKの会長発言についてであるが、発言をして翌日に撤回するというのはどういうことであろうか。これはやはり「晴れの場」にでて(というように感じて)舞い上がってしまって根がでたということなのであろうが、それにしても程度というものがあるだろう。

 今日の東京新聞で我が家のアイドル、斉藤美奈子さんが痛烈なことをいっている。

 一面では秘密保護法について小林よしのり氏が徹底的な批判をしている。小林さんの意見は正論。「保守の側は、この法律に反対する人を扇動的というが、わしはそう思わない。戦前にもどるはずはないともいうが、過去の日本人は劣っていたのか、今の方が愚かではないのか」というのは正鵠を射ている。

 愚劣の構造のようなものが、この国の社会には根付いている。公共放送のトップが愚劣であるということは社会に反映する。「愚劣でもいい、元気であれば」ということであろうか。これはおそるべきことだ。これは世界中でも非常に独特な現象だろうと思う。

 これはどういうことなのか。

 高村光太郎の「愚劣の典型」という詩。高村は、第二次大戦についての自己の関わりを、この詩で内省している。


今日も愚直な雪が降り
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にいるのは一つの典型,
一つの愚劣の典型だ。


 この詩は、我々の世代だとよくしっている詩である。いつのまにか記憶のなかに入り込んでいた。これによって愚劣ということを知ったのではなかったのか。少なくとも戦前の人は、愚劣を内省する、歴史的に内省する程度には賢かったのではないのか。

 ただ一つ、小林さんの意見に賛成できないのは、「保守の側は、この法律に反対する人を扇動的という」という部分。現在の自民党は、保守ではない。あれを保守というのは「保守」の正確な用語法ではない。保守というもののありうべき最大の特徴は歴史的知恵というものであるはずである。あるいはそういう気分というものであるはずである。

 日本社会の「愚劣の構造」というのは、ようするに保守らしい保守が、この国には存在しないということとイコールである。そして基本的に善人の多い「国民性」もあって、私たちは上の方にいる人はできる人だと考えがちなのだと思う。上が愚かということをみとめると、なんでそんな人が上にいるのかという疑問を詰めて考えるのがつらいということもある。

 丸山真男のいう「無責任の構造」。これはたしかに存在するが、同時に、より基底にあるのは、この「愚劣の構造」であると私は思う。

 日本の社会には客観的にいえば、アメリカに従属する政治と、アメリカの多国籍企業にべったりの一部大企業経営陣が中枢部をしめるというシステムがある。同時に社会意識としては、「無責任の構造」と「愚劣の構造」が二重に存在するということである。

 愚劣さが、ここまで明瞭になってくると、この社会にも変化が起きるということにならざるをえないはずである。もちろん、この「無責任の構造」と「愚劣の構造」は、右のシステムに直結する「ムラの利権の構造」によって支えられているから、そう簡単ではないだろうがーー

 こんなことを書くことで時間をつかってどうかとも思うが、しかし、朝の仕事前に、なぜ、こんなことを書いたかといえば、「愚劣の構造」の相当部分が、歴史にかかわっているということを、あらためて感じたからである。これは歴史学にとっては根本的な問題だ。歴史学の役割にかかわる問題だ。歴史学の責任はきわめて重い。
 
 小林さんは、次のようにもいっている。

「政府は特定秘密保護法をつくるのは米国から情報を入手するためと説明するが、提供される情報は本当に正しいのか。イラク戦争の大儀とされた大量破壊兵器はイラクになかった。米が謀略をしかけたトンキン湾事件のようにうその秘密かもしれない」と。

 歴史学は過去の普通の人々を裁断することに役割があるのではない。過去が、どうして、そういう結果になったのかという理由と原因を問うのであって、愚劣と裁断することが役割ではない。歴史学の判断は高村と同じように内省的なものでねければならない。

 しかし、過去の内省がないままに繰り返しが行われる場合、あきれてだけはいられない。イラク戦争で、アメリカ情報をそのまま流した責任者、つまり小泉氏が、そのままの顔をしてでてこれる社会であるということにあきれてだけはいられない。

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