少女マンガと情報化
マンガと情報化というのは、おそらく相性がよいのではないかと思う。人間の考えること、感じることで、文章にできないことは多い。しかも、それは意外と類型的なものである。これをマンガは巧妙に記号化する。その記号化の約束事に慣れ、感情移入をすることに慣れれば、ある世界をもつことができる。これはある意味で、別の世界を意識のなかにもつことである。
もちろん、小説を読んでも同じことはできる。しかし、人間の感じること、考えることはなかなか文字にできない部分がある。多様な画像を「約束事」にそって組み立てることで、マンガがその相当部分を表現することは事実だと思う。小説は小説を全部読み、さらに同じ作者のものを何冊か読んで、作者の思考パターンのようなものがわからないと、なかなか頭のなかに、その世界が住みついてくるということはないのではないか。
娘の読んでいる少女漫画が机の上に置いてあったので、いないを幸い読ませてもらうと、これはかなわないというのが率直なところである。こういうものがあっては、小説を読むということはなかなかできない。それは当然だと思う。
しかも、これだけの内容をもったマンガが、現代日本社会にはほとんど無限な多様性をもって存在している。おそらくもっとも才能にあふれた人々が、この世界のなかに入っているのだと思う。
この画像情報の累積が小学生から高校生、さらには年長の人間の頭脳のなかにほとんどすり込まれているのだから、ここでの説得性なしには、文化も学術もないということになるのだと思う。これは「やむをえない」というか、ほとんど必然的なことだと思う。
意識と感情の外化が大量に蓄積された社会というのが、情報化社会である。現在の日本社会では、その第一の支えがコンピュータネットワークであり、第二の支えがマンガなのではないか。
なにしろ、マンガのコマ順をスッスと追い、主人公たちの顔や衣服を見分けというのは、一つの約束である。コンピュータを操作するのも一つの約束である。
もう新しい約束はする容量をもたない、あるいはすぐに忘れてしまう私のような世代は、こういう状態では居直っていくほかない。しかし、その分、愉快なマンガ、面白いマンガは忘れてしまうので、何度でも読めるというように居直ればよい訳である。「また読んでいる」と馬鹿にされる訳であるが、それは諦めるということである。
さて、以前、「情報と記憶」という論文で、次のように書いた。
情報化社会論については、何度か参照した福田アジオが、前近代と現代の情報のあり方を比較して、「生活の情報はかっては非文字が基本であったが、それが現代では大部分が文字によってなされている。そして非文字の情報はラジオテレビの電波によるマスメディアとして大量情報の手段となっている。民俗の情報から現代マスメディアとしての情報に非文字が奪い取られている」と述べていることに注目したい。
たしかに、共同体関係の解体は、地域社会の中から非文字的な情報を追放し、さらに現在の情報革命は、職場の中の情報の相当部分をも電子メールという文字情報に変更しつつある。こうして、衝撃力の強い非文字情報は、マスメディアに集中するという結果がもたらされた(福田アジオ『可能性としてのムラ社会ーー労働と情報の民俗学』(青弓社、一九九〇年)。
ここで「非文字情報」について「衝撃力が強い」としか特徴づけることができなかったが、上のようなことなのだと思う。
マンガに目を取られ、さらにそれを考えて、ここまで書いたが、しかし、そろそろ神道史の勉強にもどらないと間に合わない。
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