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2014年1月30日 (木)

粉河寺縁起再論

歴史教育の先生方との議論の関係で、もう一つ、原稿をあげておきます。
『粉河寺縁起』は教材として使用する価値がきわめて高い絵巻と思います。
それについては全体を『中世の愛と従属』で論じましたが、それを追補・再論したものです。
長いので、途中までにして、全文はWEB-PAGEの方に載せておきます。

  絵 画 史 料 の 歴 史 学 的 読 み 方
               ーーーーー『粉河寺縁起』再論
 以前に書いた本の中で、私は、絵巻物史料研究の目指すべき課題を二つ挙げたことがあ
る(保立『中世の愛と従属』、平凡社)。第一は、「絵巻に描かれた『物』や『人』が、
それ自体として何なのかを確定すること」である。単純なことであるが、これが「絵画を
読む」作業の基礎、「絵巻分析の基礎」であることは誰でもが認めることだろう。ただ、
画面に描かれた全ての事物に対して、この「問い」ーー「これは『何』なのか」ーーを発
することが重要なのである。本来の作業としては、疎漏をさけるために、絵巻ごとに、描
かれた全ての事物・人間について、古文書の「文書番号」と同じように「図像番号」を付
してチェックしていくべきだろう。そして、そのように分割された各画像について、色彩
、描法、修正・破損部分の詳細などの注記(できれば原本観察にもとづく)が蓄積され公
開されれば理想的である。
 このようにして絵画は、あたかも考古学的発掘の図面のように略号と数字で一杯になっ
た散文的な図面と注解に転化することになる。それが絵画を史料として読む正当な方法な
のかもしれない。少なくとも考古史料と絵画史料の史料としての性格の相似は誰もが認め
るところである。絵画は、考古史料と同様に、言葉による説明があたえられていない無記
名・匿名の史料なのであり、それだからこそ、その扱いのためにはまず「これは『何』な
のか」という「問い」を発し、それに名前と説明を与えることが必要になるのである。
 第二は、絵巻物史料をみる場合、「相手が絵であるだけに、そこに描かれていることが
、そのまま実在していたと考えがちであるが、実際には、それはさまざまな定形的な観念
の反映である場合が多い」、それ故に絵画史料分析にあたっては「絵巻の絵画表現の中に
含まれる観念やイデオロギー、特に宗教的な観念などを明らかにすること」が必要である
。特に日本の絵巻には詞書が付属しており、それは直接に宗教的・説話的な物語性を有し
ている。絵巻の詞書は、それ自体として一つの宗教的・文学的な説話なのであって、絵巻
の理解のためには詞書と画面の間で往復運動を繰り返すことが必要なのである。それを形
で実感するためにも、絵巻の分析のためには、絵巻のコピーを作って長尺の巻物に仕立て
、それを開きながら詞書と画面を交互にみていくことが有益だろう。
 以上の二点は当然のことではあるが、まとめていえば、絵巻物史料は匿名性と物語性を
もつ歴史史料であるということになろうか。匿名性と物語性。こういう特徴をもった史料
を扱うのは、歴史学にとってはたしかに新たな課題であるが、近年の中世史学は、この分

野で顕著な仕事を蓄積してきた。しばしばいわれるように、ほぼ一九七〇年代までは、絵
巻が利用されるのはほとんど概説書や教科書における「挿し絵」としてに過ぎなかった。
歴史学において文字・言語史料が第一であって、画像史料は二次的なものに過ぎなかった
。しかし、どのような史料が一次的な位置を占めるかは、分析対象の性格によって決まる
ことであり、最初から決定されている訳ではない。歴史の研究者は、近年における絵画史
料の研究の発展によって、この単純な原則を再確認したのである。
            (下略ーーweb-pageへ)

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