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2014年1月23日 (木)

神道史学の達成と歴史学


 『かぐや姫と王権神話』を執筆し、地震・噴火神話の研究をすることになって以来、神道史の論文を読むことが多くなった。

 西田長男、西宮一民、松前健、岡田精司、中村啓信などの人々の仕事である。私はいわゆる社会経済史から歴史学に入ったので、岡田精司氏の仕事をのぞいてほとんど読んだことがなかった分野の仕事である。もちろん、よく読んでいるという訳ではなく、仕事に必要なものがでてくるまま部分的に読んでいるだけなので大きなことはいえないが、たいへんに面白い。これらの仕事が全体として達成しているものの位置は大きいことを、とくにいわゆる「古代史」に興味をもつものは認識しておいた方がよいように思うようになった。

 一つは柳田国男・折口信夫である。これも、これも仕事に必要な範囲でということではあるが、読んでいるので、神道史の仕事はその延長で読めるところがある。柳田や折口の仕事の延長を現在の段階で学術的に考えようという場合には、神道史の研究の進展を知っておくことはどうしても必要なことであるのを理解した。

 もう一つは、本居宣長である。神道史の人々はみな本居の仕事を尊重しているが、しかし明瞭に本居の仕事は古いということを指摘している。この点は見事に容赦がないところがあるように思う。私は丸山真男の「古層」の論文が、実際上、本居に依拠しているところが多いのを知った。そして神話論の研究を始めてから、本居の仕事がいかに大きいかというのも知った。それは逆にどうしても本居の批判が必要であることを確認したということである。日本の歴史学は本居の仕事を総点検する必要があると思う。

 日本の社会史や政治史を考える上で、新井白石の『読史余論』の批判が決定的に重要であるというのは、『平安王朝』を書いて平安時代政治史をまとめた段階で気づいた。これはもうはるか以前のことになる。そして次は本居ということである。これについては成沢光『政治のことば』(講談社学術文庫)の解説を書いた時にも再確認した。歴史学が成熟するためには本居宣長の批判を完了しなければならない。

 文化としての神道に対する共感が必要なことはいうまでもないが、これらの研究でもっとも強いのは儀式・祭祀の精密な研究と言語の研究であると思う。とくに言語の研究は、この国の歴史学、人文科学にとって緊要な意味がある。

 現在、ともかく集中しなければならないのは岡田精司氏の仕事である。井上章一『伊勢神宮と日本美』が指摘しているように、岡田精司の仕事は考古学などとの関係でも重大な焦点となっている。

 その仕事が順調に終わるかどうかはわからないが、しかし、ともかく、そこを乗りこえて、神道史の仕事の勉強を進め、その全体をみた上で、柳田・折口、とくに折口の仕事が、自分にとってどのようにみえてくるかが期待するところである。こういうように考えるようになったのは、西田の戦後の発言を読んで驚いた経験によるものであるが、その前提にあった、第二次大戦における国家神道を経験した柳田の反省、折口の反省は、どのような立場の研究者でも、その感じを知っておくべきものであると思う。

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