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2014年1月 1日 (水)

日本の近世はいつ始まるか。

 本年もよろしくお願いします。 核時代後70年(2014)1月1日
 
 私は年賀状の年号は、もう長く「核時代後」という元号を使っている。歴史家にとっては歴史の時間表記がリニアであること、客観的な連続性をもっていることは、感性上、必須のことなので、日本の元号は使わないことにしているが、しかし、西暦にも若干の抵抗がある。あれは西洋中心史観の道具立ての一つである。

 そこで、核時代後ということになる。この元号は、人類史のうえで、現在が決定的な時間であることを明示する上でも大事だと考えている。
 
 年賀状用の宛名データベースが失調してしまい、ついでに昨年の年賀状の記録も飛んでしまったので、計算しなおすと、今年は核時代後70年ということになる。一つの節目だろうと思う。
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 写真は年賀状らしいということで、平泉中尊寺の釈迦堂。いかにも昔のものという小堂である。参拝の際、よく見せていただいたことがあり、思い出深い。

 さて、東アジアとの関係で日本列島の歴史を考えることが実際に重要な意味をもつ時代になっていくと思う。

 正月からややこしい話しであるが、私はずっと、日本における「近世」という時代は鎌倉時代から始まるとした方がよいという意見をもっている。これは天下の孤説であって、おそらく学界の賛同をえることはむずかしいものである。

 内藤湖南・宮崎市定の意見に依拠して、そう発言したのは、すでに二〇年近く前のころのことで、二〇〇〇年五月に行われた歴史学研究会大会の総合部会での報告「現代歴史学と国民文化」、および二〇〇三年に行われた同じく歴史学研究会の七〇周年記念シンポジウムの講演「『社会構成体と東アジア』再考」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房。二〇〇四年)で、そのように述べた。

 また先日公刊された『中世荘園の基層』(悪党研究会編、岩田書院、二〇一三年)にのせてもらった「平安末期から鎌倉初期の銭貨政策」という論文で、12世紀からを「一種の初期的な産業社会」と述べた。これも宮崎市定説を前提とした物である。

 しかし、「近世」というのは東アジアの時代区分としていわれていることなので、これを具体的にいうためには、東アジアとの関係での議論をせねばならず、さすがにいままでその機会がなかった。

 しかし、昨日、大晦日に、やっと後醍醐と禅の関わり、および室町国家の禅宗国家的な側面についての論文を書き上げた。そこで、その「おわりに」の部分を「東アジアの「近世」について」という副題にして、12世紀から日本は近世ということを書いてみた。

 下記のようなもの。
 
           ×        ×            ×
 この問題は、中国と日本の共時的な時代区分のあり方にもかかわってくるのではないだろうか。つまり、宋代の理学や禅宗は文化論的には宋代の「近世」と考える場合のキーとなっているが、そうであるのならば、この時期の日本にも「近世」という同時性を措定できる可能性である。禅宗は日本・朝鮮・中国で明らかに同時代的に動いている。共時性の窓のようなものである。
 よく知られているように、宋代を世界史的な「近世」の段階と評価するのは内藤湖南と宮崎市定の学説である。その根拠となっているのは、羅針盤、火薬などの技術、商業都市と地域的村落的市場、貨幣経済などの社会経済的状況とともに、文化論的には、大蔵経の印刷にはじまる文字文化の普及であり、それらを前提とした一種の合理的な心術の形成というようにまとめることができるだろう。
 私は、すでに二〇年近く前に、この内藤・宮崎の時代区分論に賛同し、東アジアにおける「近世」はだいたい12世紀には始まるとしいう見解を述べたことがある(二〇〇〇年五月に行われた歴史学研究会大会の総合部会での報告「現代歴史学と国民文化」、および二〇〇三年に行われた同じく歴史学研究会の七〇周年記念シンポジウムの講演「『社会構成体と東アジア』再考」、『歴史学をみつめ直す』校倉書房。二〇〇四年)。これは北宋の成立する一〇世紀後半を「東アジア近世」の開始年代と考えるとすると、若干のタイムラグをみたとしても12世紀ころには日本においても「近世」の時代が始まったとしてよいという趣旨である。なお、このような私見はいわゆる「封建制」はヨーロッパ的な意味における社会構成としては日本にも東アジアにも存在したことがなかったという理解を前提としている。社会経済史的にみても、この時代を「近世」ということには大きな問題はないということである*1。これまで時代区分論の立場からは、建武新政の歴史的性格について、時代的状況に応じた古代的な政権の一時的な反動的復活とか(永原慶二)、封建王政への接近と破綻(黒田俊雄)などの見解がだされているが、私見では、そのような理解は東アジア全体を対象とした時代区分論や社会構成論という視点から全面的に再検討するべきだということになる。

 これについて、ここで詳しくふれる余裕はないが、ただ、中国と日本における近世の成立のタイムラグをだいたい二〇〇年弱ほどとしていることについては(実際にはもっと短いかもしれない)、建武新政論との関係で若干の説明を加えておきたい。

 というのは、実は、内藤・宮崎のような「近世」という時代区分を取る場合にも、多くは日本における「近世」の開始は戦国時代あるいは江戸時代とするのが一般だからである。宮崎自身、「後進国である日本」は、早く中国的近世の影響をうけたほかに、ヨーロッパ的近世の影響をもうけた後に、はじめて「近世」段階に到達したという意見を述べている(宮崎『アジア史概説』中公文庫四二七頁)。これだと、中国と日本のタイムラグは約六〇〇年以上ということになる。もちろん、日本が「後進国」であり、中国とは大きく事情を古都にしているという点は当然ではあるが、しかし、六〇〇年以上も中国と日本における世界史的な時代区分に時代差をもうけることは、宮崎の世界史の共時性という問題提起それ自体の意味を曖昧とするのではないだろうか。

 ここでは文化論的な側面についてのみ見解を述べるが、宮崎のような理解は民族ごとの特殊条件を軽視しているように思う。つまりたとえば印刷文化をとればたしかに日本が中国的な印刷文化のレヴェルに到達するのは江戸時代のことであるが、しかし、中国のように広く巨大な人口をもつ国家と日本との相違は大きい。人々の心術の様相を規定する文字文化のレヴェルはかならずしも印刷などの形態ではなく、文字の庶民普及や識字率の方が根本的な問題であると考える。文字の普及と識字率ということになれば、日本のそれは相当に高いといえるのではないだろうか。
 また、問題の禅宗をとってみると、唐代に基礎をおかれた禅宗は宋代を通じて発展したが、それが日本に本格的に弘通しはじめたのは一三世紀までずれ込んだ。宋代の「近世」性を代表する朱子学となれば、これも江戸時代まで下がることはいうまでもない。しかし、言語と文字文化を異にする日本にとって「禅」はきわめて特殊な宗教であった。それは第一に中国的な文字文化と一体のものであって、また第二には儒教や道教、そしてその論理学とも深く関係するものである。禅が何度も移入されながら、日本に受け入れられなかったことには自然な理由があったといわなければならない。しかも、黒田のいう意味での顕密体制が禅宗の移入をさまたげたことは確実である。禅宗の移入の遅れは、そのような事情によるものと考えたいと思う。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、日本では「仏教東漸」ということをナショナルな国制意識とからめて立論する傾向が一般的であった。たとえば一三世紀末期に成立した『野守鏡』に「和歌よく礼楽をとゝのふるが故に国おさまりて異敵のためにもやぶられず。仏法の流布する事も大国にすぐれたるは、これひとへに和歌の徳也。宋朝には和歌なくして礼楽をたすけざるによりて、八宗みなうせつゝ、異賊のために国をうばはれたり」とあることが、それをよく示している。これこそ顕密主義そのものである。そして、この種のナショナルな国制意識が万世一系思想に対応するものであることは別に述べたところである(保立「現代歴史学と国民文化」『歴史学を見つめ直す』)。

 このような通念に対して、栄西は『興禅護国論』において、「インド・中国では仏道と戒律が廃れているという俗論を排し、戒律運動を表面に立てた日本仏教中興の実現可能性を説いた」(菅原昭英「江南における四川僧と日本僧の出会い」『宗学研究』四〇ー四二号)。日本のみが仏教の正統を伝えるという自尊になずむのではなく、むしろ遅れをとった日本が追いつかねばならない目標として、中国仏教と禅宗の先進性を強調する観点から、興禅護国を説いたのである。ここには禅の移入が平安時代以来の正統的な国制イデオロギーとの対抗を必要とした事情が現れている。そのような経過をへた後にはじめて、鎌倉時代の後期、儒学と禅宗を中心にした政治思想が国家と公武の貴族の間で本格的な議論の対象となる時代がやってきたのである。そこには、東アジアにおけるモンゴルの勃興という国際情勢と、それに対応する宋学と仏教思想の緊迫した問題意識の影響があったことは明かであり、それによってはじめて状況が突破されたというべきであろう。このような事情を具体的に考慮しながら、世界史的な時代区分のタイムラグについて考えをつめていくことが必要であると考える。
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 以上のようなものである。しかし、これ書いていて愕然としたのは、結局、これは石井進・網野善彦の意見の後追いではないかということである。
 
 つまり、早く石井進は内藤湖南説に親近感を示し、「一三世紀後半からはじまる社会の転換を近世社会への萌芽と考え、一五世紀後半の応仁の乱以後の戦国期の変革にむすびつけて考える方が自然ではないか」と論じた(石井「中世社会論」一九七六年発表、『石井進著作集』六巻)。

 また網野善彦も「少なくとも一四世紀から列島社会における資本主義を考える必要がある」(網野「中世都市研究の問題点と展望」一九九六年発表、『網野善彦著作集』一三巻)としている。

 石井さんにも、網野さんにも、ご意見に賛成であるといったことはなく、むしろ網野善彦さんの資本主義論には批判をいった記憶がある。意見の変化には、それなりの理由があり、徐々に徐々に、自分の感じ方では連続的に必然的に変わっていくのでやむをえないのだが、それにしても弁解できないことである。

 もう意見を変えることなく、研究を進めようと思う。

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