地震火山105志摩の津波碑、三重県高等学校社会科研究会の講演
三重県高等学校社会科研究会の講演で、志摩の磯部町へ行った。
今帰宅途中の夜の総武線。
講演後、志摩の津波碑の調査などに参加。それもあってさすがに疲労しているのを感じる。
しかし、20メートルの崖にうちあたって、そこで死者をだしていることを示す津波碑の印象は強烈なものであった。
この写真は度会郡南伊勢町の津波碑。「為溺死菩提」とあり、右側に「宝永四丁亥十月四日」、左側に「安政元甲寅十一月四日」とある。1707年の津波と1854年の津波の両方がきされている。「明治六年建立」。
大王崎には、巨人(ダイダラボッチ)が海から陸にのぼってきて、田畠・住宅を荒らすので、それをふせぐために、大草鞋を海に流す民俗行事があるという記事を持参した『三重県の歴史散歩』(1975年、208頁)で知った。「わらを200束もつかってつくられる長さ2メートルほどの大わらじを沖に流す」という。これは陸にも巨人が居るぞ、ということを海に伝えるためであったという。津波防ぎの呪術ともいうべきものかと考えた。地震津波の神が巨人と考えられたことを示している。これを講演で話すのをわすれた。
講演のテーマは「歴史防災教育と地震噴火神話論」。「地震噴火神話論」についてようやく三・四日前に原稿をまとめ、それにもとづいて省略しながらの話であった。おそらく神話論というのは先生方にとっても前提となる知識のない分野で、私の主張もここ半年ほどの研究の結果なので、聞きにくいところも多かったのではないかと思うが、ともかく全面展開。熱心に聞いていただき感謝である。
講演の焦点はタカミムスヒ論。タカミムスヒが倭国神話の元始神であることは学界では一致しているが、これは社会的にはほとんど知られておらず、教育の場でも問題になったことはないと思う。けれどもタカミムスヒが天孫降臨の主催神であり、天孫降臨が噴火神話であると考えられる以上、タカミムスヒのことをおしえなければならないという論調である。
社会の常識ではアマテラスが日本神話の至高神であり、王家の祖神であるということになるが、しかし、私は次の柳田と折口の意見が正しいと思うと話の方向を宣言してから中身に入っていった。
まず柳田の意見。
「それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもないが、(中略)我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである」(柳田「雷神信仰の変遷」)
「皇室最古の神聖なる御伝え」というのが、アマテラスのことであることはいうまでもない。それより前の時代には、「紫電金線の光」つまり稲妻と「龍蛇」の形をもった神が中心であった時代があったというわけである。
次が折口の意見。
「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」・「既存者」。「部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すおのと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹など」自然神。ようするに、「元の神」に自然神として「大風・豪雨・落雷」などを象徴する神がいたということになる(折口「道徳の発生」1947)。
柳田も、折口も、この神がタカミムスヒであるとはいっていないが、実際上は、そういっているのと同じである。
とくに折口は、伊勢内宮の真北に、内宮を拝殿とすれば、あたかもその本殿のような場所にある荒祭宮が本来の神であり、それに仕える巫女神・姫神がアマテラスになったというのであるから、実際上は、荒祭宮にはタカミムスヒがいるという議論になる。岡田精司の意見はまさにそういうものであった。
講演の場所が伊勢なので、ともかく、アマテラスとの関係を重視して、上野ような理解にそって話をした。やはりアマテラスの問題は三重にとっては大事な問題であるようである。
講演後の話では、折口の弟子で伊勢で研究をつづけた筑紫申真氏について、筑紫申真さんの高校教師としてのエピソードなども伺い、貴重な見聞をした。
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