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2014年2月

2014年2月23日 (日)

地震火山105志摩の津波碑、三重県高等学校社会科研究会の講演

 三重県高等学校社会科研究会の講演で、志摩の磯部町へ行った。
 今帰宅途中の夜の総武線。
 講演後、志摩の津波碑の調査などに参加。それもあってさすがに疲労しているのを感じる。
 しかし、20メートルの崖にうちあたって、そこで死者をだしていることを示す津波碑の印象は強烈なものであった。

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 この写真は度会郡南伊勢町の津波碑。「為溺死菩提」とあり、右側に「宝永四丁亥十月四日」、左側に「安政元甲寅十一月四日」とある。1707年の津波と1854年の津波の両方がきされている。「明治六年建立」。
大王崎には、巨人(ダイダラボッチ)が海から陸にのぼってきて、田畠・住宅を荒らすので、それをふせぐために、大草鞋を海に流す民俗行事があるという記事を持参した『三重県の歴史散歩』(1975年、208頁)で知った。「わらを200束もつかってつくられる長さ2メートルほどの大わらじを沖に流す」という。これは陸にも巨人が居るぞ、ということを海に伝えるためであったという。津波防ぎの呪術ともいうべきものかと考えた。地震津波の神が巨人と考えられたことを示している。これを講演で話すのをわすれた。


 講演のテーマは「歴史防災教育と地震噴火神話論」。「地震噴火神話論」についてようやく三・四日前に原稿をまとめ、それにもとづいて省略しながらの話であった。おそらく神話論というのは先生方にとっても前提となる知識のない分野で、私の主張もここ半年ほどの研究の結果なので、聞きにくいところも多かったのではないかと思うが、ともかく全面展開。熱心に聞いていただき感謝である。

 講演の焦点はタカミムスヒ論。タカミムスヒが倭国神話の元始神であることは学界では一致しているが、これは社会的にはほとんど知られておらず、教育の場でも問題になったことはないと思う。けれどもタカミムスヒが天孫降臨の主催神であり、天孫降臨が噴火神話であると考えられる以上、タカミムスヒのことをおしえなければならないという論調である。

 社会の常識ではアマテラスが日本神話の至高神であり、王家の祖神であるということになるが、しかし、私は次の柳田と折口の意見が正しいと思うと話の方向を宣言してから中身に入っていった。

 まず柳田の意見。
「それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもないが、(中略)我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである」(柳田「雷神信仰の変遷」)
 「皇室最古の神聖なる御伝え」というのが、アマテラスのことであることはいうまでもない。それより前の時代には、「紫電金線の光」つまり稲妻と「龍蛇」の形をもった神が中心であった時代があったというわけである。

 次が折口の意見。
 「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」・「既存者」。「部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すおのと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹など」自然神。ようするに、「元の神」に自然神として「大風・豪雨・落雷」などを象徴する神がいたということになる(折口「道徳の発生」1947)。

 柳田も、折口も、この神がタカミムスヒであるとはいっていないが、実際上は、そういっているのと同じである。

 とくに折口は、伊勢内宮の真北に、内宮を拝殿とすれば、あたかもその本殿のような場所にある荒祭宮が本来の神であり、それに仕える巫女神・姫神がアマテラスになったというのであるから、実際上は、荒祭宮にはタカミムスヒがいるという議論になる。岡田精司の意見はまさにそういうものであった。

 
 講演の場所が伊勢なので、ともかく、アマテラスとの関係を重視して、上野ような理解にそって話をした。やはりアマテラスの問題は三重にとっては大事な問題であるようである。
 講演後の話では、折口の弟子で伊勢で研究をつづけた筑紫申真氏について、筑紫申真さんの高校教師としてのエピソードなども伺い、貴重な見聞をした。

2014年2月19日 (水)

地震火山104歴史教育と地震、「 奈良・平安時代の地震、神話と祇園社

 東京歴教協で昨年やった講演です。
 長いので、WEBPageに全文は載せました。
  

      奈良・平安時代の地震、神話と祇園社
           東京大学史料編纂所教授  保立道久
はじめに
 今回の東日本太平洋岸地震と原発震災の複合という事態の中で、今、どういう教材研究が必要なのか、そして小・中・高・大学でどういうカリキュラムを系統的につくっていくべきなのかということを、みなさん、御考えなのではないかと思います。問題はたしかにきわめて大きく、私は、歴史の研究者としても、それに対応して、基本的な部分から考えなおしていくべきことが多いのではないかと思います。

 まず御紹介したいのは最近の『歴史学研究』(2013年3月号)にのった峰岸純夫さんの「自然災害史研究の射程」という論文です。峰岸さんはたんたんと書かれているのですが、それを読んでいると、端的にいえば自然史を本格的に歴史学の研究と教育の中に組み込んでいくことの重要性を改めて認識させられます。とくに私はいま地震学や災害論の研究者と議論する機会が多いのですが、彼らと話して、この論文で重大だと思ったのは、峰岸さんが、自然災害を(1)気象災害(a風水害、b干ばつ・冷害、)、(2)地殻災害(a地震・津波、b火山爆発、)、(3)虫・鳥獣害(a昆虫の大量発生、b鳥獣の作物荒らし)と区分していることです。とくに(2)の地殻災害という言葉は、峰岸さんは「日本列島の地殻構造に起因する地震・津波・火山爆発などである」と説明されていますが、災害研究のキーワードの一つになるのではないかと感じています。ヨーロッパの災害研究では、災害はMeteorological Hazards Geological Hazards Biological Hazardsの三つに分類されているということですが、峰岸さんは、それとは独立に同じ結論に達したようです。このうち、二番目のGeological Hazardsというのは地質災害とも訳せるかもしれませんが、地殻災害という訳は新鮮だというのが災害研究の方の意見でした。

 ただ、三番目の虫・鳥獣害というのは、もっと広くBiological hazards、つまり直訳すれば生態災害とでもいうのがよいのではないかと思います。いま鳥インフルエンザのパンデミック(世界流行)の危険が問題となっていますが、これもある意味での鳥獣害ですが、生態系の攪乱からくる災害という広い意味で分類した方がよいように思います。

 話のはじめに、なぜ、この災害の三類型について御紹介したかといいますと、実は、今日お話しする奈良時代から平安時代は、温暖化、地震・噴火、そしてパンデミックがまさに日本の歴史上、最初に一緒にやってきた時代だからです。地震・噴火などの地殻災害は、そのような人間と自然との関係の歴史全体の中で分析する必要があります。

 そして、八・九世紀においては、人間の生命に対する被害という点では、まず生態災害=疫病、気象災害=飢饉が大きいことを確認しておきたいと思います。もちろん、当時でも、津波は大きな被害をもたらしましたが、しかし、地殻災害は以下に述べていきますように、世界観の問題としてはきわめて大きな問題であったとしても、実態としては、現代ほど多くの人々の死をもたらす災害ではありませんでした。それに対して、明治以降千人を超える死者が出た震災というのは十二回あります。つまり一八九一年(明治二四)の濃尾地震は七二七三人の死者が出ていますが、以来一二〇年ですから、大体十年に一度、千人を超える人が無くなった地震が起きていることになります。これがどこまで国民、市民の中で常識となっているかは分かりませんが、ともかく、今日の話の前提として、現代に近づけば近づくほど、地殻災害の被害は相対的に増大している。そういう意味でもこれを考えることはきわめて重要であることを確認しておきたいと思います。

(1)倭国の神話と地震・噴火
 さて、地震・噴火の問題を考えていく場合に、どうしても「神話」について考えておく必要があるというのが私の意見です。いうまでもなく、戦後の歴史学と歴史教育の出発点における最大の問題の一つが「神話をどのように扱うか」ということでした。そして、戦後の歴史学も歴史教育も、神話を子どもたちに伝えること自体に反対した訳では決してありません。これは石母田正さんの有名な論文「古代貴族の英雄時代」(著作集十巻)であるとか、益田勝実さんの『国語教育論集成』(『益田勝実の仕事』5)であるとかを、是非、読み直していただきたいのですが、そこでは民族にとって、神話というもののもつ重大な意味が明瞭に語られています。民族の神話は、人類が地球の特定の地域に棲みついた時の経験と自然観に深く根づいているもので、それは多かれ少なかれ、民族の根っこを表現するものであると思います。いわゆる国民的歴史学運動の揺れと誤りの問題もあって、この問題についての議論は十分な決着を見ないままできていると思いますが、大地動乱というべき自然の動きを前にして、私は、倭国の神話を自然神を中心にして捉え直すことが必要だと思うのです。

2014年2月12日 (水)

「遡及的歴史認識」と「微視的歴史認識

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 これは先週の土曜に、千葉の大通りの大雪。一週間間違えて、地震の講座があるはずと思って雪のなかをでてしまった。ただ、連れ合いの恩師、佐々木潤之介さんの本をもってでたので、喫茶店によって読み、アネモネの花をかって帰った。花言葉は「辛抱」「待望」「期待」「可能性」ということであるそうである。

「歴史学とは、歴史的に形成された問題は、歴史的に解決・克服できるということを基礎にして、その営みを続ける学問である」(佐々木潤之介『地域史を学ぶということ』吉川弘文館、16頁)。

 私は「通時的」という言葉が嫌いである。もちろん、「通時的認識」という言葉の裏側にあるブローデルの「長期持続」という概念は重要である。また「通時的」という言葉とあわせて使われる「共時的」という言葉には時間を同一にしている、空間を共有しているというニュアンスがあって、これは意味があると思う。その裏側にあるのはおそらくグローバルな空間ということで、これは重要な問題である。ただ「共時的」というのはどうもあまりこなれない言葉であまり好きにはなれない。

 しかし通時的という言葉はほとんど取るべきところがない。あるいは誤解があるのかもしれないので、誰がどのように使いだした言葉なのかを点検してみようとは思うが、しかし、いままで使われているものを読んだ曖昧な記憶では、「通時的」という言葉には内容がない。内容がないことを内容があるようにみせるペダンチックな言葉である。

 むしろ歴史学の方法にとって本質的に必要なのは、方向が逆で、「遡及的歴史認識」と「微視的歴史認識」というものではないかと思う。

 「遡及的歴史意識」あるいは「遡行的歴史意識」というのは、英語でいえばretroactiveということであろうか。retrospective(回顧的)ということとは違う。現在の課題状況の発生時にまでさかのぼって、その時代までをmodern と考える感じ方といえばよいのだろうか。

 たとえば、現在の世界史のなかでもっともきつい目にあっている中近東、イスラム圏は8世紀に世界の先頭にいた。つまり宮崎市定氏がいうように、近世はたしかにイスラム圏から始まったのであろうと思う。イスラムからモンゴルにつながる時代こそが、世界史の本格的な登場である。
 そして、これをひっくり返すサイクルが十字軍からのヨーロッパの登場であった。ヨーロッパは、その中で、イスラムから学び、イスラムを利用し、そしてイスラムの海の道を軍事的に突破しつつ東南アジアに到達した。これをベースとしながらも、ヨーロッパは、地球を反対方向に回ることによって南アメリカを制圧した。そして日本銀とメキシコ銀をにぎって環太平洋地帯をおさえ、その富を収奪してから、立ち戻ってイスラム世界を挟撃し世界覇権を握った。これがマルクスのいう人類の歴史に血をもって刻まれた歴史、資本の原始蓄積の歴史である。

 現在の中近東、イスラム圏の悲劇は、あきらかにその時代にまでさかのぼる。その時代に歴史に突き込まれた棘のようなものを抜くために、世界は身をよじって苦しんでいる。歴史の重荷、歴史のなかでおわされた呪い、蓄積された巨大な負荷、それをどうにかなだめ、鎮め、癒すという課題を考えると、ようするに原蓄の時代、16世紀からの長い時間を我々にとっての「近代」(modern)にしなければならない。世界が共有できるmodernとは、その時代におわされた重荷を取り去るという歴史意識を共有するということである。

 そういうことはつねにあると思う。現在の問題の根を探っていくと過去のある時代に到達する。それゆえに現在の問題を解決するなかでは過去のしがらみからの脱却が必要であり、そのときに過去のどぶ泥のなかに人間はひたらざるをえない。戦争責任の問題というのは、その典型である。過去の歴史の条件を詳細に知り、忘れず、現在に及んでいるゆがみを取り去り、できる部分は少しでも癒し、その全体を相対化してしまうという人間の営為である。

 もちろん、過去は客観的に存在する。いまからは動かせない。しかし、歴史的課題と、その重層というものも客観的に存在する。解決されなかった問題はそのような問題として存在しつづけ歴史的な課題の複合体は肥大化し、現在のなかに巣くい、人々のエネルギーをすいあげ、スポイルしていく。地盤を掘り下げ、その根、radixを抜き去ることをいつかはやらなければならない。

 だからある意味では、世界史は遡行の歴史であって、過去のすべてを自己の視野のなかに入れていき、過去を取り戻していき、過去を自己の時代と一連のものと感じていくという作業なのである。実際、人類に今後一万年という時間がゆるされるとすれば、16世紀、資本の原蓄の時代は確実に、一万年後の人々にとっては近代Modernになるはずである。また、将来、氷河期がやってきたとすれば、前の氷河期が、そのときの人々にとっての近代になっていくだろう。その意味では、歴史の進展は、つねに「近代modern」(自分たちがmodernと感じる時代を過去に遡及させていく。

 問題は、この遡行的な歴史認識が、同時に微視的な認識を必須のものとしていることで、結局、そのような遡行は、歴史における個人、個々の人間の生活と意識を平等に観察していく過程でもあるということである。過去のすべての人間、身分や富にかかわらず、もっとも多数の立場にいる人間の個々人を平等に視野に入れてくるということなしには、過去の客観的な課題構造というものがみえてこないということなのであろうと思う。

 私は、こういうmicro-retroactiveな見方こそが、本来の「発展段階説」であったと考えている。佐々木潤之介さんがどこかでいっていた定式化だと、人類がどういう社会的課題をもっていたかに即して、その累進的な解決の構造に即して、過去を再構成する方法ということである。

 その意味では、歴史学(そして歴史教育)を考えるときにつねに問題になってきた「追体験」だとか「課題化的な認識」ということは「発展段階論」と通底する問題であるはずなのだが、そのようなものとして「発展段階論」を再構築するということが、何にもまして必要なのであると思う。

2014年2月10日 (月)

右遠俊郎先生の追悼会と梶井基次郎

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 昨日は高校時代の師、右遠俊郎先生の追悼会。
 明治神宮球場のそばの日本青年館で午後2時からであった。都心は大雪。総武線が快速は動かず、各駅停車も遅れ気味で、ぎりぎりにつく。絵画館のまえを本当に久しぶりに通る。

 右遠先生は2013年10月11日に死去。87歳だった。2009年に練馬区の島村記念病院にお見舞いしたが、気にかかりながらお見舞いにいけず、御様子は聞いたいただけに、喪失感が強かった。
 会でいただいた『右遠俊郎文学論集』をしばらく読むことになると思う。いま偶然に開いているのは「湯ヶ島での梶井基次郎」である。そこにはこういう一節がある。


 「だが、今の私なら『俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれはいつも私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした』(『檸檬の花』)という文章に、厳しく鞭打たれる思いがする。病む身に背負った強靱な精神による、仮借ない自己点検を私はそこに見る。反俗もまた俗悪と同じ水位にあると知って、さらに高い精神の飛翔を志すのだろう。とかく繊細な感覚と、精密な観察とを喧伝されるこの作家の、これは毅然と直立する倫理性の一面を示しているとはいえないか。


 私は右遠さんの文学評論が好きで、発表時に雑誌で読んだ原民喜論や、小林多喜二論、そして入院後にまとめられた国木田独歩論などを文学論を考えるたびに思い出すが、この梶井論は読んでいない。頁を繰ると、次はガルシア・マルケスである。

 しばらく、これを読んで、遅ればせながら、先生の全体にふれてみたいと思う。とくにその文学評論は読み直してみたい。会冒頭の新船海三郎氏の挨拶では、戦後派の文学精神の最後の一人といわれていたが、右遠さんは、多くの社会的なテーマをもった小説家でありながら、同時に、いわゆる近代文学から戦後派文学の全体について懇切な読書の経験をもち、しかもそれを評論としたという意味でも稀有の方だったと思う。私は高校の授業で右遠さんに堀田善衛の「広場の孤独」と中原中也と立原道造の詩の読み方を教わった。いまでもそれが自分のなかに残っているのをありがたいことだと思う。

 右遠さんは朝日茂さんの朝日訴訟に結核の療養所が同じだったということもあって支援する立場をとり、その機縁で明瞭な政治的・社会的立場を鮮明にして生きてきた文学者である。その面でもほとんど絶対的といってよい影響を受けたのだが、しかし、私は、高校時代、『地下生活者の手記』から始めて、ドストエフスキーを少し読んで、分かったようなことをいって質問したとき、沼袋のご自宅でジョン・ミドルトン・マリーのドストエフスキーの評伝を読めばいいといわれたことを忘れることはできない。マリーの本は手にとったが、ようするに、文学というのは主観的な戯れではないということを知らされたのだと思う。そこでドストエフスキーの世界から離れた。同じ書斎で、高校生らしい質問をしたときに、保立君のいうことは、存在論の問題か、認識論の問題かと反問されて、そういうこともあるのだと知らされたこともわすれがたい。

 けれども、昨日の追悼会では、姪の珠美さんが、叔父の好きであったことはパチンコとたばことコーヒーであったという楽しいお話しを聞き、テープに吹き込まれていた右遠さんの歌声を聞いた。これは私の知っている右遠さんとはまったく違う右遠さんである。本当に話が違う。そんなに自由に享楽的に生きてこられたのだ。

 そして珠美さんの歌う「旅順高校愛唱歌」を聞いた。『風青き思惟の峠に』に自叙されているように、右遠さんは旅順高校の出身で、この小説にも、この歌が出てきたと思うが、これが北帰行のもとの歌なのだということを始めて知った。隣にいた近現代史のA先輩もそれを知らなかったというが、私たちは、第二次大戦から戦後を生きた人々の現実の姿というものをやはり知らないままでいるのかもしれないと感じた。

 『右遠俊郎文学論集』の第五部は、追悼文集で、尾崎一雄・藤原審爾・夏堀正元、阿倍昭、色川武大、戸石泰一などの文学者への追悼文をめくっていると、いよいよ右遠さんのことを知らずに生きてきたという感情が迫ってくる。

 そして追悼会で驚いたのは国文の秋山虔さんのメッセージだった。秋山さんは『右遠俊郎短編小説全集』をしばしば読み返すといわれていた。私は昨年、必要があって『源氏物語』をはじめて本格的に読んだが、その前後にある人から秋山さんのことを聞いて驚いたが、しかし、そのときも右遠さんと秋山さんがそんなに親密な関係にあるということはまったくしらなかった。ようするに、私たちの世代は、先行する世代の交友関係のネットワークとその焦点を知らずに生きてきたのだと思う。
 そのネットワークをそのまま豊かに受け継いでくることができれば、現在の、この国の学芸世界の風景はすこしは違ったのであろうと思うが、この国の第二次大戦から現在へ至る曲折にも相当のものがあり、そのような経験の継続と、そのなかでの右遠さんのいう「思想的共生」の継承は細い細いものになってしまった。必要なのは二歩後退である。
 同期会のようなものにでる最大の楽しみは、先生の等身大の姿を知るということだろうが、亡くなった後になっても遅いことではない。One step foward, two steps back。

2014年2月 1日 (土)

地震火山104津浪と人間  寺田寅彦

 この寺田の文章は、1933年のものである。3月の昭和三陸津波ののちに書いたもの

 「歴史の教訓」というものは同じことを繰り返しているということであることがよくわかる。

 繰り返さないということを考えるために何を考えなければならないかということを感じさせる。

 

津浪と人間  寺田寅彦

 昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。

 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。

 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。

 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」

 しかしまた、罹災者(りさいしゃ)の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」

 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。

 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。

 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。

 これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。

 風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏二十五度を下がる事がなかったとする。それがおおよそ百年に一遍くらいちょっとした吹雪(ふぶき)があったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらく我邦の津浪に劣らぬものとなるであろう。何故かと云えば、風のない国の家屋は大抵少しの風にも吹き飛ばされるように出来ているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降れば凍(こご)えるに相違ないからである。それほど極端な場合を考えなくてもよい。いわゆる颱風(たいふう)なるものが三十年五十年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。

 夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起らないとは限らない。

 さて、個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないものかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は百年の後には必ず入れ代わっている。役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。その法令が、無事な一万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合は猶更(なおさら)そうである。政党内閣などというものの世の中だと猶更そうである。

 災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎(やえむぐら)に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。

 昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ例えば津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする。二千年来伝わった日本人の魂でさえも、打砕いて夷狄(いてき)の犬に喰わせようという人も少なくない世の中である。一代前の云い置きなどを歯牙(しが)にかける人はありそうもない。

 しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟(ひっきょう)「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。

 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。

 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。

 科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺(ゆす)ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所(よそ)から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。

 津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。

 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。

 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では枉(ま)げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界(きょうがい)にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄(す)て鉢(ばち)の哲学も可能である。

 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材にはそんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。熱帯の住民が裸体(はだか)で暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂(い)われはないのである。それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効なものの一つであろうと思われるのである。

(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋(さび)れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。
(昭和八年五月『鉄塔』)
青空文庫より

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