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2014年2月10日 (月)

右遠俊郎先生の追悼会と梶井基次郎

Cci20140210


 昨日は高校時代の師、右遠俊郎先生の追悼会。
 明治神宮球場のそばの日本青年館で午後2時からであった。都心は大雪。総武線が快速は動かず、各駅停車も遅れ気味で、ぎりぎりにつく。絵画館のまえを本当に久しぶりに通る。

 右遠先生は2013年10月11日に死去。87歳だった。2009年に練馬区の島村記念病院にお見舞いしたが、気にかかりながらお見舞いにいけず、御様子は聞いたいただけに、喪失感が強かった。
 会でいただいた『右遠俊郎文学論集』をしばらく読むことになると思う。いま偶然に開いているのは「湯ヶ島での梶井基次郎」である。そこにはこういう一節がある。


 「だが、今の私なら『俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれはいつも私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした』(『檸檬の花』)という文章に、厳しく鞭打たれる思いがする。病む身に背負った強靱な精神による、仮借ない自己点検を私はそこに見る。反俗もまた俗悪と同じ水位にあると知って、さらに高い精神の飛翔を志すのだろう。とかく繊細な感覚と、精密な観察とを喧伝されるこの作家の、これは毅然と直立する倫理性の一面を示しているとはいえないか。


 私は右遠さんの文学評論が好きで、発表時に雑誌で読んだ原民喜論や、小林多喜二論、そして入院後にまとめられた国木田独歩論などを文学論を考えるたびに思い出すが、この梶井論は読んでいない。頁を繰ると、次はガルシア・マルケスである。

 しばらく、これを読んで、遅ればせながら、先生の全体にふれてみたいと思う。とくにその文学評論は読み直してみたい。会冒頭の新船海三郎氏の挨拶では、戦後派の文学精神の最後の一人といわれていたが、右遠さんは、多くの社会的なテーマをもった小説家でありながら、同時に、いわゆる近代文学から戦後派文学の全体について懇切な読書の経験をもち、しかもそれを評論としたという意味でも稀有の方だったと思う。私は高校の授業で右遠さんに堀田善衛の「広場の孤独」と中原中也と立原道造の詩の読み方を教わった。いまでもそれが自分のなかに残っているのをありがたいことだと思う。

 右遠さんは朝日茂さんの朝日訴訟に結核の療養所が同じだったということもあって支援する立場をとり、その機縁で明瞭な政治的・社会的立場を鮮明にして生きてきた文学者である。その面でもほとんど絶対的といってよい影響を受けたのだが、しかし、私は、高校時代、『地下生活者の手記』から始めて、ドストエフスキーを少し読んで、分かったようなことをいって質問したとき、沼袋のご自宅でジョン・ミドルトン・マリーのドストエフスキーの評伝を読めばいいといわれたことを忘れることはできない。マリーの本は手にとったが、ようするに、文学というのは主観的な戯れではないということを知らされたのだと思う。そこでドストエフスキーの世界から離れた。同じ書斎で、高校生らしい質問をしたときに、保立君のいうことは、存在論の問題か、認識論の問題かと反問されて、そういうこともあるのだと知らされたこともわすれがたい。

 けれども、昨日の追悼会では、姪の珠美さんが、叔父の好きであったことはパチンコとたばことコーヒーであったという楽しいお話しを聞き、テープに吹き込まれていた右遠さんの歌声を聞いた。これは私の知っている右遠さんとはまったく違う右遠さんである。本当に話が違う。そんなに自由に享楽的に生きてこられたのだ。

 そして珠美さんの歌う「旅順高校愛唱歌」を聞いた。『風青き思惟の峠に』に自叙されているように、右遠さんは旅順高校の出身で、この小説にも、この歌が出てきたと思うが、これが北帰行のもとの歌なのだということを始めて知った。隣にいた近現代史のA先輩もそれを知らなかったというが、私たちは、第二次大戦から戦後を生きた人々の現実の姿というものをやはり知らないままでいるのかもしれないと感じた。

 『右遠俊郎文学論集』の第五部は、追悼文集で、尾崎一雄・藤原審爾・夏堀正元、阿倍昭、色川武大、戸石泰一などの文学者への追悼文をめくっていると、いよいよ右遠さんのことを知らずに生きてきたという感情が迫ってくる。

 そして追悼会で驚いたのは国文の秋山虔さんのメッセージだった。秋山さんは『右遠俊郎短編小説全集』をしばしば読み返すといわれていた。私は昨年、必要があって『源氏物語』をはじめて本格的に読んだが、その前後にある人から秋山さんのことを聞いて驚いたが、しかし、そのときも右遠さんと秋山さんがそんなに親密な関係にあるということはまったくしらなかった。ようするに、私たちの世代は、先行する世代の交友関係のネットワークとその焦点を知らずに生きてきたのだと思う。
 そのネットワークをそのまま豊かに受け継いでくることができれば、現在の、この国の学芸世界の風景はすこしは違ったのであろうと思うが、この国の第二次大戦から現在へ至る曲折にも相当のものがあり、そのような経験の継続と、そのなかでの右遠さんのいう「思想的共生」の継承は細い細いものになってしまった。必要なのは二歩後退である。
 同期会のようなものにでる最大の楽しみは、先生の等身大の姿を知るということだろうが、亡くなった後になっても遅いことではない。One step foward, two steps back。

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