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2014年3月

2014年3月28日 (金)

「ムスヒ」の神・タカミムスヒ論ーー本居宣長・柳田国男・折口信夫

 依然として神話論をやっているが、研究史のところが、当面、不要になった。もう一息である。

 研究史ですので、他の人の研究にはじゃまになりませんし、すでに自己の見解そのものは、『歴史のなかの大地動乱』などで書いていますので、ここで一度、自分のなかで固定したいと思い、ブログにあげておきます。

 今日は夕方から友人と津田沼の蕎麦屋で食事をし、呑む予定。蕎麦屋で飲むというのが好きです。

 柳田国男はさすがだと思う。

 このまえ、アーレントの映画をみた。千葉劇場という映画館。これはいい。毎回みたいがさすがに時間がない。

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これまでのタカミムスヒ論ーー本居宣長・柳田国男・折口信夫

1「物を生成す神霊」ーー本居宣長説

 タカミムスヒの神話における地位の高さにはじめて注目したのは、江戸時代の本居宣長である。つまり、本居の『古事記伝』はただ高御産巣日・高皇産霊などと表記されるタカミムスヒという神名を分析の対象とした。本居は神名の下半部の「ムスヒ」を問題としたのであるが、たしかに後に説明するようにタカミムスヒに関係の深い神としてカミムスヒ・イクムスヒ・タルムスヒ・タマツマルムスヒなどという神がいた。それ故、たしかに「ムスヒ」が、どのような種類の神を表現するのかが決定的な問題となる。本居は、この「ムスヒ」を「ムス」と「ヒ」に分解し、そのうちの「ムス」を「そは男子女子、又苔の牟須などいう牟須にて、物の成出るをいう」とし、「ヒ」を「霊異なるよしの美称」と説明した。「ムスヒ」とは「物を生成すことの霊異なる神霊」であり、「世に諸の事類も事業も成るは、みな此神の産霊の御徳なることを考へ知るべし」としたのである。「ムスヒ」とは、すべてのものの根本にあって物事を生成させる霊力をもった神ということになる。

 この本居の見解は、実は本居に対する厳しい批判からその研究を出発させている津田が、このタカミムスヒについての本居の解釈を認めたこともあって、その影響はいまだに根強く、たとえば政治学の丸山真男の「歴史意識の古層」という日本思想史論などが、この本居のムスヒの神の解釈にのっかって展開されていることはよく知られている(丸山真男『忠誠と反逆』筑摩書房、一九九二年)。

 しかし、この説明を乗りこえることが必要になっているのが、最近の研究状況であろうと思う。つまり、すでに溝口睦子が論じているように、この解釈は、「ムス」や「ヒ」という語彙についての厳密な解釈によるものではなく、「高皇産霊」「高御産巣日」というタカミムスヒの漢字表記の「産霊」あるいは「産巣」という部分に引っ張られたものである。本居の業績の大きさはいうまでもなく、ともかくもタカミムスヒという神を発見したことそれ自体に大きな意味があったことは特筆すべきであるが、しかし、これはいわゆる「からごころ」を排するという本居の初心にも反することではないかということになる。そうはいわないまでも、現在の学術レヴェルからいうと一種の素人語義論に近いものにもみえてくる。

 より正確にいえば、本居は、ここで学術ではなく、一種の原理的な神道神学の立場からタカミムスヒという神を論じているというべきなのかもしれない。しかし、結局のところ、このような説明によってタカミムスヒはアマテラスの鮮明なイメージの影に隠れ続けることになった。本居は、そもそもタカミムスヒを実態のある天地創造の至高神としてとらえようという指向はもっておらず、そうである以上、太陽の女神アマテラスのイメージと競いあうことはそもそも無理であったのである。

2折口信夫・柳田国男の挑戦

 この宣長的な説明を乗りこえる課題に最初に挑んだのは柳田国男ー折口信夫と続く日本民俗学の「固有信仰」論であった。(川田稔『柳田国男ー「固有信仰」の世界』)。つまり柳田は「雷神信仰の変遷」という著名な論文において「それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもないが、(中略)我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである」と述べている(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。つまり、「皇室最古の神聖なる御伝え」であるアマテラスよりも古い神として「紫電金線」の神、つまり稲妻を走らせる雷電の神がいたというのが柳田の想定である。この論文は、後にふれる柳田の「玉依姫考」と並んで、柳田の神道史研究の基礎にある論文であって、折口はそこから甚大な影響をうけていることは明らかなように思えるのである。

 そして、折口信夫は一九四七年に発表した論文「道徳の発生」において、この神に「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」という性格をみとめようとした。「日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観ーー素朴なーの最近似している」「元の神」の観念であろうとすることも興味深い点である。折口の主張のニュアンスは複雑であるが、ここで「元の神」は「神以前の有様」というレヴェルにある「既存者」であるという。「既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すおのと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」というから、これはようするに自然神であったというのであろう。この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」、ようするに折口の別の言い方では「忌み」ととらえられていることも重要であろう(「道徳の発生」『全集』一五巻)。

 これはタカミムスヒが「大風・豪雨・落雷」などの神威をもっているという考え方を折口がもっていたことを示唆しているといってよい。これは柳田国男の見解を前提としたもので、折口に師事した筑紫申真が、アマテラスの宗儀の前身である伊勢大神=高木神(後にみるようにタカミムスヒの別名)の神格を雷雨の神と考えたのは、この柳田・折口の見解を発展させたものである(筑紫『アマテラスの誕生』講談社学術文庫)。あるいは筑紫は、そのような意見をもつにあたって、折口の直接の示唆をうけていたのではないかとも思われる。

 ただ、折口は活字になっている限りでは、上記のような示唆にとどまっており、タカミムスヒが雷神であるという見解を明瞭には述べていない。この点では折口はきわめて慎重であって、むしろ折口は、『日本書紀』『古事記』に登場するタカミムスヒの姿には、「さうした伝えが欠けている。これはその点が喪失したものとみてよい」「元の神の性格が完全に伝わっていない」とし、その事情を探ることを重視したのである。

 これはそれとして正当な方法であったと思われるのであるが、折口は、このような「喪失」の事情として、二つの事情を考えた。その第一はタカミムスヒの神が太陽の女神「天照大神の蔭にかくれている神」となったという事情である。これは折口が一九二九年に発表した論文「古代人の思考の基礎」で述べた考え方であって(『全集』三巻)、アマテラスの本来の名前、大◆女貴=オオヒルメムチの「ル」は「ノ」と同じ助詞であって、この神名は「日の妻」を意味する。つまり、ヒルメというのは「日の神の妻・后」ということであって、彼女は「日の神につかえている最尊貴な、神聖な神の后」であり、神に妻として仕える「巫女」であった。アマテラスとは、この巫女が神格化して女神となった存在であるというのである。

 折口は「日本の信仰には、女神の信仰があるが、私の考えでは、女神は皆、もとは巫女であった」「天照大神も、かうした意味の神である。この点で、社々にある姫神と同じに考えることができようと思う」としている。そして別の論文では伊勢内宮の北にある荒祭宮が「日の神」であり、それと「交渉」する位置に「ひるめ」がいたのではないかという想定もしている(「天照大神」『全集』二〇巻)。折口は、ここでタカミムスヒ=高木神がアマテラスの仕える「日の神」(男性太陽神)であったかどうか、また荒祭宮の神がタカミムスヒであったかどうかについては断言をさけているが、そもそも折口はタカミムスヒがアマテラスの陰に隠れた状況を論じているのであるから、タカミムスヒこそがヒルメが仕えた神である可能性も考えていたようにみえる。

 なお、「社々にある姫神」というのは、柳田国男の論文「玉依姫考」(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)によったものであって決して折口の独断ではない。柳田のこの論文は、八幡・住吉・枚岡などの諸社の事例をあげて日本では巫女の神格化する例の多いことを詳細に論じてたもので、神道史研究において決定的な意味をもつものであることはよく知られているのである。巫女が神の妻となることを通じて巫女神となり、さらに独立した姫神となるというルートの存在は確実なものといってよい。折口は、これに依拠して、アマテラスの場合は「巫女神=姫神」が、その仕える古い「日の神」(男性)の姿を隠してしまったとしたわけである。前述のようにこのタカミムスヒという神の本質は『古事記』『日本書紀』の成立の時代、つまり天武天皇の時代に津田のいうような強い政治的な事情で「隠され」たのであるが、それを強調するのみでなく、その代わりにアマテラスが浮上してきた条件が、柳田・折口のいうような宗教的・文化的な事情によるものとみるのが適当であるように思う。

 なお、「大日?貴=ヒルメ=日の妻=巫女」という語源説が成立するかどうかについては、「ヒルメ」とはただ「日の女」という意味であって、「妻」とはいえず、「日」(太陽)の女神という意味にとるほかないという溝口睦子の批判がある(『王権神話の二元構造』吉川弘文館、二〇〇〇年)。私は、この溝口の批判は語義論としては正当なものであると考えるが、しかし、だからといって、アマテラスに巫女の姿の反映をみるという論理それ自体を否定することはできないと思う。柳田・折口の合作といってよいこの学説の説得力は高く、それだからこそ松村武雄・三品彰英などの神話学者によって支持されているのである。

3「結び」の神ーー折口説とその蹉跌

 さて、折口はタカミムスヒが「元の神」の性格を「喪失した」、第二の事情を、タカミムスヒがもっている「ムスヒ」という神の機能にもとめた。つまり、この神には「生産の根本条件たる霊魂付与ーーむすびという古語に相当するーーの力」「産霊神」としての側面がむしろ目立つようになったという訳である(前掲「道徳の発生」)。

 このタカミムスヒの「ムスヒ」についての解釈は、本居の見解を前提としているが、しかし、違うのは「むすび」という言葉に注目する天である。これは相当早くから考えていたことのようで、折口はすでに一九二七年に「”むすび”というのは、すべて物に化寓らねば活力を顕すことの出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱えられる時に、それに憑り来て其の力を全うするものであった」であるとのべている(「国文学の発生(第四稿)」『折口信夫全集』一巻)。よく知られているように、折口は、その最初期の著名なエッセイ「髯籠の話」で「青空の退辺より降り来る神」という観念、つまり神々は虚空を飛翔し、諸方に遍満する精霊を本質としているというアニミズム的な観念を打ち出した(『折口信夫全集』二巻)。そして、その魂を呼び寄せる目印として樹木その他に特殊な呪術性があると主張し、それを表現する「依代」という言葉を案出した。折口は、それにくわえて、精霊を呼び寄せ、固着させる呪術そのものを「結び」という言葉で考えた訳である。つまり、「外来魂」を物にやどす呪術が「むすび」であるというのであるから、これは折口の神道学説にとっては、「依代」論に対応するような緊要な意味をもっていたことになる。

 そして第二次世界大戦後、折口は「産霊の信仰」という特別講義で、宣長のようにタカミムスヒの「ムスヒ」を「ムス+ビ」に分解して理解するのではなく、「ムスヒ」は「結び」を意味するとはっきりと主張した。たしかに『延喜式』で火神カグツチを「火結神」と表記していることは、「ムスヒ」が早くから「結び」という意味で理解される場合があったことを示している。また『万葉集』(巻二、一四一)の「磐代の 浜松が枝を 引き結び まさきくあらば また帰り見む」という和歌は、この時代の人々が、魂を結合させるために木枝や草を「引き結ぶ」ことがあったことを示している。

 折口はこの和歌を「いま、世の人がするように、浜の松の枝を結び合わせて、ここにいらっしゃる道の神に、自分の命や旅路の無難を祈っていくが、その祈った通りの効果が現れて、万一無事に健康でいたならば、ふたたびやって来て、この松を見たいものだ」という意味であると説明し、その信仰の心理は、自分の魂、霊魂の一部を「結び」の中に籠めてあたえるというものだとしている。実際、いまでも神社の神木や境内の木の枝にオミクジを結びつけ、厄を祓っていくが、それも同じようなことであるに違いない。

 ようするに、折口は、「むすぶ」というのは「水を掬ぶ(両手をあわせて水をすくう)」という言葉に示されるように、「外部に逸脱しないようにする」ということが本義であって、そのようにして「人間の身体のうちへ霊魂を容れる、霊魂を結合させる」ことであるというのである。折口によると、このムスヒ=産霊の神というものは、人間の霊魂を「結び」つける呪術、人間の身体と霊魂の関係をあつかう呪術を代表する神であるということになる。そしてここから「からっぽの肉体にも霊魂が入る訳で、それが人間の誕生の時ということになり、たとい、如何に尊い神のような人手も、産霊の技術が行われなければ生まれないだけでなく、神の威力を発揮することがない」という結論が導かれる。

 折口は、さらにムスヒの神の信仰が世俗化したのが「縁結び」の神の信仰であるという。つまり、「近世、男女の名前と年齢とを白い紙に記して、社寺の格子戸とか、境内の木の枝などに結びつけて、夫婦の契りを祈る風習が広く行われたのが縁結びの神の信仰で、これは大体、むすぶの神と発音されている」というのが、その説明である。これらを総合すると、折口はムスヒの神に生殖や性愛にかかわる神の性格を認めるということの直前までいっていたように思われる。

 ただ、残念ながら、折口は、右の「産霊の信仰」という特別講義を行ってしばらくしてから死去してしまい、結局、折口のタカミムスヒについての議論は中途半端なまま終わってしまった。そして、現在では、実は、折口の「ムスヒ=結び」という図式それ自体に大きな錯誤があったことが明らかになっている。つまり、本居から折口までは、タカミムスヒは「タカミムスビ」と濁音に読まれるのが一般であった。ところが、タカミムスヒの神名については、『日本書紀』に「美武須毗」と訓注があり、言語学の大野晋によって、この「毗」は『日本書紀』の場合かならず清音の仮名としてもちいられていることが明らかにされた(大野『上代仮名遣の研究』岩波書店、一九五三年)。溝口睦子が指摘しているように、これによって「ムスヒ」の神を「結び」の神であると説明する折口説は学説としては明瞭に破綻してしまっている(「記紀神話解釈の一つの試み」(中の二)『文学』一九七四年二月)。

 もちろん、柳田ー折口の議論の方向それ自体は、徐々にみていくように、筑紫申真・松前健・岡田精司・中村啓信などによって引き継がれており、いまだに重要な位置をもっているのであるが、しかし、現在の段階では、もう一度、すべてを検討しなおすことが必須となっているのである。

2014年3月25日 (火)

京都で

 今、帰りの新幹線「ひかり」のなか。もうすぐ新横浜か。老僧の七回忌で、京都へ。昼の食事で、少しお酒を頂いて、気持ちよく寝ていた。「ひかり」にしてゆっくり仕事をやろうと思って、静岡くらいまでは神話論の仕事をしていたのであるが、急に睡魔に襲われた。

 法事の席は左となりがNさん、右となりが吉野の方。Nさんには、以前、『歴史のなかの大地動乱』を差し上げたので、それを土木工学からどう感じるかという話。右の吉野の方とは、老僧と行ったことのある天川村の話となる。朝出て、昼に帰るという慌ただしさであるが、ぎゃくに身体はつかれないので、永遠の今である。

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 御経をとなえて真前をめぐられる和尚さまたちの姿には心をうたれる。そして師への五体倒地にも。

 学術の世界は、このような同一感情というものをもつことはない。同世代でわいわいと飲むときくらいである。学術は宗教でもなく、芸術でもないから、これは当然のことなのかもしれないが、しかし、今のように一人で史料の分析と再構成のなかにもぐっていると、やはり「共同研究」というものについて夢をみた20代から30代にかけての感覚が遠くなったという感じがしてさみしい。

 いま品川を過ぎた。

 いま総武線。

 これは神話論が最後の詰めのところへきていて、頭が疲れているためであろう。われわれにとっては頭は労働用具であるが、このごろ私の首についている重たい道具は少し切れが悪いようである。とにかく少し疲れている。

 往路では岡田精司氏の『古代王権の祭祀と神話』を読んでいた。この黒い本は神話論の基礎で何度もよんだが、「古代」が素人の私にはなかなか読みこなせないままになってきた。重厚であるという意味で晦渋なものである。そう簡単には理解できない。ただ「記紀神話研究の現状と課題」という付編の研究史の部分と「あとがき」が明解なのがありがたい。私は、こういう旗幟鮮明、研究史の総括と方法論が鮮明というタイプの本がどうしても好きなのである。
 それにしても、この本の「あとがき」はいい。

 方法上の立場と神話論に関係する歴史学の社会的位置を率直に書き、掲載論文の初出リストを記し、そののちに、こうある。
 
 「とにかく疲れた。そしてずいぶん遠回りをして漸く――というのが原稿を編集部の方に渡したあとの感想である。私が固有信仰と天皇制に関心をもつようになったのは、敗戦を境としてのすべての価値と権威の逆転に対するとまどいと驚きから出発する。しかしふりかえってみると、国学院という環境で学んだことから受けたものが小さくなかった。特に神道考古学や民俗学にふれえたことは、大きなプラスであった。学校を出てからずっと地方の高校に勤務しながら勉強してきたが、雪国の分校生活など不便な環境から無駄な努力を費やしたことも随分あった。研究環境にも、また健康の上でも決して恵まれたとはいえぬ条件にあったが、多くの先輩・友人たちの導きによってここまで辿りつくことができたーー下略」

 ありがたい言葉である。

 歴史学の神話論は、石母田正―岡田精司という線で現在にいたっている。御二人は師というわけではないが、私も、そこに五体倒地する立場である。これは個人にということではなく、学史の系統、学統に対する同一化ということであるが、それが人間によって構成されていることはいうまでもなく、私にもそうすべき人々はいるというのがありがたいことである。
 ある和尚と、私のただ一人の師の戸田芳実さんの三人で飲んだことがある。もうはるかむかしのことであるが、しばらく後、和尚から師匠とはよいものだといわれたことを想起する。網野さんは、私には師がいないといっていたが、私は、やはり、この点は違うようである。よるべき学統と一人の師をもっている。
 
 以上、これは学者の写経。

 この黒い本は、大学の学部時代に図書館の本でかじった。それ以来であるが、ともかく今度こそは、この黒い本を頭に落ち着けることができそうな気がする。

 もうすぐ稲毛。
 

2014年3月24日 (月)

地震火山106遺跡の災害痕跡をデータベース化へ 奈文研、地震対策に

遺跡の災害痕跡をデータベース化へ 奈文研、地震対策に活用
 
日経3月24日の記事より。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2000J_Q4A320C1CR0000/ 
 全国の遺跡から巨大地震や津波の被害予測につながる情報を得ようと、奈良文化財研究所(奈良市)は20日、4月から災害痕跡のデータベース化に乗り出すと発表した。5年計画で実施。全国の発掘調査報告書から、地震や津波の痕跡を拾い上げて南海トラフ巨大地震の対策にも活用する考えだ。

 阪神大震災以後、各地で出土した災害痕跡への関心は高まっていたが、東日本大震災で古文書の記録や考古データを対策に反映させようとする動きが活発になった。

 地震の科学的な観測は明治以降と歴史が浅く、数百年以上の間隔で起こる地震の予測は難しいのが実情。869年に三陸地方を襲った貞観津波の痕跡の研究も東日本大震災に生かされなかった。

 奈良文化財研究所は、新たに採用する専門スタッフのほか地質や堆積物の分析に詳しい研究員で痕跡を集めるとともに、地方の発掘担当者に呼び掛けて研究会を開催し、情報を共有するネットワークを深めていく。

 同研究所の難波洋三埋蔵文化財センター長は「考古学が何十年にもわたって蓄積してきたデータを使い、被害軽減に貢献できる重要な仕事になる」と話している。〔共同〕


 NHKの人から連絡があって、表記の記事を知る。本格的に進展することを願う。
 ともかく、3,11から3年目、歴史学・考古学の学界が体制的に問題に取り組んでいくということが出発したということである。ぎりぎりまにあったということであろう。

 ただ、気になるのは、第一に、奈良文化財研究所は文化財機構に属することである。これは本来は自然科学研究機構、人間文化研究機構という学術の世界に存在する巨大な二つの機構が、文部科学省などの全面的な協力と支持のもとに、日本の学術予算の相当部分を使用しているという自覚と誇りのもとに、学際的な研究として展開するべきものである。奈文研などの動きをふくむ予算は、地震火山観測研究計画の予算であるが、その全体でも4億強にすぎない。地震噴火のための観測装置やプロジェクトのためにはたしかに相当の予算がかかっているが、これは日本の情報社会のなかで、いわば経済的な意味での国土維持管理費である。必要な予算という点からみれば、純粋の研究予算は極端に少ない。

 自然科学研究機構と人間文化研究機構は、それを十分に知っているべき立場にあり、自ら責任をもって体制を構築しなければならないはずである。そういう動きが機構中枢から生まれてきていることを知らない。そういう普通の通常の常識感覚もないから、理研で顕在起きているような問題が起こるのである。そんなことは明らかだ。社会的責任と任務の意識が不健全だから、学問が不健全になるのである。分かり切ったことだ。

 第二に、考古学との関係では、責任が大きいのは歴史の文献の方でいけば「古代史」である。歴史学における地震史の研究のためには、考古学と文献史学の協力が必要であるが、そのさい、研究の内容からいって、文献史学の側では「古代史」に応分の役割を果たしてもらうことが決定的である。

 「古代史」のアカデミズムは、そのことを忘れているのではないか。若手の研究者は急速に仕事を始めているが、しかし、中年以上の中枢メンバーは遺跡保存運動に本格的に貢献したことがない。いわばサラリーマンである。

 古代史の文献学は、竹内理三・石母田正が取り組んだ伊庭遺跡の保存問題、そして鬼頭清明さんなどが取り組み奈文研が全力をあげた平城京の保存問題以来、考古学と協働して、本格的に文化財を守る運動を組織していない。それがいまになって否定的な側面がでてきている。

 「古代史」学界は、いわゆる貞観地震について、3,11前に一本も論文を提供していなかったということに傷みをもつことはないようにみえる。そういう声を聞いたことがない。これも非常識きわまる問題である。

2014年3月18日 (火)

る「地震及び火山噴火予知のための観測研究計画」平成25年度成果報告シンポジウム」

 東大で行われている「地震及び火山噴火予知のための観測研究計画」平成25年度成果報告シンポジウム」(3月12日(水)10:10 ~ 14日(金)に出席中。この集会については地震研のHPにでている。

 毎年、3月に地震火山観測研究計画の進捗状況を、こういう集会で確認し、総括して、次年度の研究計画を討議する集会ということである。しかも今回は、今年度で5年間の研究計画が終わり、来年から新しい5カ年計画がはじまるので、この5年間の総括もふくめてという大規模な集会である。

 この列島に棲んでいる人類が、ともかく、この列島の動きを自己認識しようとして、精細な観測装置と情報システムを作りだし、細かく細かく地殻の中と、その動きをみようとしている様子がわかる。その中心で研究している人たちが、300人くらい集まっているのであろうか。

 群体として「国民」あるいは「民族」というものを考えてみると、その群体の一部の人々が地面に耳をあてることを仕事としていて、しかし、昨日・今日はそのなかで聞こえてきたことを相互に話しているという感じである。

 聞いていても、ほとんどわからない。八分の七はわからない。けれども、スライドには何度も何度も東北の地図、2011・3・11の震源や津波の地図、そして日本列島全体の地図がでる。そして、たしかにいろいろなことが分かってきているらしいということがわかる。たとえば丹波山地。丹波山地(京都から大阪)と琵琶湖西岸では地震が多い。とくに丹波山地(京都から大阪)では地震が定常的におきている。火山もなく、大きな活断層もないのにもかかわらず、地震が定常的に起きている。その理由は、丹波山地の下でフィリピン海プレートが降下している。そこから水がのぼってきて、山地の地下地盤を緩くするという事情であるそうである。

 今は地震発生予測システムの構築というセッションである。すべての観測データと過去データ(史料・考古・地質)をあわせてわかってきたことを巨大なコンピュータにいれて、地殻の運動をプレートレヴェルから個々の地域レヴェルまでシミュレーションをする。それを現場観測とモニタリングのシステムに接合する。そして、各地域で地震発生と予測のイヴェント・ツリーを作っていくという方向の議論があった。シミュレーション―モニタリング―イヴェント・ツリーのシステムによって、予測の制度を少しづつでもあげていくということは可能であるという見通しを地震学の人々がもっているように感じた。もちろん、それでもおそらく警報らしい警報をだせるのは、100年以上はかかるのであろう。精細な情報を確保していくためにはさらに長い時間がかかるのだろう。しかし、この列島に人類が棲んでいくためにはどうしても必要な仕事だと思う。

 昨年の科学技術学術審議会で一緒をした火山学のIさんに会う。学術の社会的な役割と科学の学術価値が矛盾する側面についての話しになる。私は、全体としては矛盾しないはずであるという楽観論。個々人の研究は細かくなるばかりだからさまざまな矛盾はでてくるが、学際的な研究をふくめて考えれば矛盾を乗りこえるところから新しい可能性がでてくるというようなことを申し上げる。
 
 土曜は、千葉の朝日カルチャーセンターの講演シリーズ「歴史から地震を読み解く」を聞きに行く。4回の講演の企画に参加したので、各回すべてにでて聞いた。千葉の地震の「歴史と予知」について、なかなか聞けない話しで勉強になった。

 今回は産業技術総合研究所海溝型地震履歴研究チーム長の宍倉正展氏の講演「地形や地層に刻まれた関東地震の歴史」。3,11の6ヶ月前に、宮城テレビで宮城県沖地震について話されたときのVIDEOが圧巻。「津波痕跡の調査結果からすると、近く99パーセントの確率で起こるとされている宮城県沖地震のマグニチュードは、従来の宮城県沖地震のレヴェルをはるかに超える可能性があります」という宍倉氏の発言をきいて、聴講の方々が驚いて大きく息を吸ったのきこえた。

 宍倉氏の講演の事前概要は次のようなもの。「関東地震は何千年,何万年とはるか昔からくり返し起きています。地震のたびに起こる地殻変動は房総半島の地形を形成し、津波は地層のしま模様となって残されています。本講座では地形や地層から関東地震の歴史を読み解き、そこから見える将来の関東地震像についてお話しします」。

 もう一度、何らかの形で、こういう講座をもちたいものだと思う。
 とくに小学校・中学校・高校で、地域の地震研究を基礎にした系統的なカリキュラムが必要だと思う。
 講演を終えた宍倉氏と飲む。宍倉氏とは、上の地震研の集会でもあったので、その観想。なにか、みていて、この列島に研究者が蟻のように群がって、聴診器をあてているという感じがしたといった。
 3年前の3月17日。地震研で行われた東日本太平洋岸地震直後の研究集会で会ってからは初めてのことである。いろいろなことを考えさせられた。

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