京都で
今、帰りの新幹線「ひかり」のなか。もうすぐ新横浜か。老僧の七回忌で、京都へ。昼の食事で、少しお酒を頂いて、気持ちよく寝ていた。「ひかり」にしてゆっくり仕事をやろうと思って、静岡くらいまでは神話論の仕事をしていたのであるが、急に睡魔に襲われた。
法事の席は左となりがNさん、右となりが吉野の方。Nさんには、以前、『歴史のなかの大地動乱』を差し上げたので、それを土木工学からどう感じるかという話。右の吉野の方とは、老僧と行ったことのある天川村の話となる。朝出て、昼に帰るという慌ただしさであるが、ぎゃくに身体はつかれないので、永遠の今である。
御経をとなえて真前をめぐられる和尚さまたちの姿には心をうたれる。そして師への五体倒地にも。
学術の世界は、このような同一感情というものをもつことはない。同世代でわいわいと飲むときくらいである。学術は宗教でもなく、芸術でもないから、これは当然のことなのかもしれないが、しかし、今のように一人で史料の分析と再構成のなかにもぐっていると、やはり「共同研究」というものについて夢をみた20代から30代にかけての感覚が遠くなったという感じがしてさみしい。
いま品川を過ぎた。
いま総武線。
これは神話論が最後の詰めのところへきていて、頭が疲れているためであろう。われわれにとっては頭は労働用具であるが、このごろ私の首についている重たい道具は少し切れが悪いようである。とにかく少し疲れている。
往路では岡田精司氏の『古代王権の祭祀と神話』を読んでいた。この黒い本は神話論の基礎で何度もよんだが、「古代」が素人の私にはなかなか読みこなせないままになってきた。重厚であるという意味で晦渋なものである。そう簡単には理解できない。ただ「記紀神話研究の現状と課題」という付編の研究史の部分と「あとがき」が明解なのがありがたい。私は、こういう旗幟鮮明、研究史の総括と方法論が鮮明というタイプの本がどうしても好きなのである。
それにしても、この本の「あとがき」はいい。
方法上の立場と神話論に関係する歴史学の社会的位置を率直に書き、掲載論文の初出リストを記し、そののちに、こうある。
「とにかく疲れた。そしてずいぶん遠回りをして漸く――というのが原稿を編集部の方に渡したあとの感想である。私が固有信仰と天皇制に関心をもつようになったのは、敗戦を境としてのすべての価値と権威の逆転に対するとまどいと驚きから出発する。しかしふりかえってみると、国学院という環境で学んだことから受けたものが小さくなかった。特に神道考古学や民俗学にふれえたことは、大きなプラスであった。学校を出てからずっと地方の高校に勤務しながら勉強してきたが、雪国の分校生活など不便な環境から無駄な努力を費やしたことも随分あった。研究環境にも、また健康の上でも決して恵まれたとはいえぬ条件にあったが、多くの先輩・友人たちの導きによってここまで辿りつくことができたーー下略」
ありがたい言葉である。
歴史学の神話論は、石母田正―岡田精司という線で現在にいたっている。御二人は師というわけではないが、私も、そこに五体倒地する立場である。これは個人にということではなく、学史の系統、学統に対する同一化ということであるが、それが人間によって構成されていることはいうまでもなく、私にもそうすべき人々はいるというのがありがたいことである。
ある和尚と、私のただ一人の師の戸田芳実さんの三人で飲んだことがある。もうはるかむかしのことであるが、しばらく後、和尚から師匠とはよいものだといわれたことを想起する。網野さんは、私には師がいないといっていたが、私は、やはり、この点は違うようである。よるべき学統と一人の師をもっている。
以上、これは学者の写経。
この黒い本は、大学の学部時代に図書館の本でかじった。それ以来であるが、ともかく今度こそは、この黒い本を頭に落ち着けることができそうな気がする。
もうすぐ稲毛。
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