先日のNHKで「女性たちの貧困」の放映があり、一部をみた。
神話論がつっかえている。
一番むずかしいのが「月の女神」論であることを実感。
ここ四五日、イザナミが「月の女神」であるという松前健さんの議論に依拠して展開してきたが、その前提となっている、女媧(ジョカ)論にさかのぼって、森雅子さんの『西王母の原像』のなかの女媧原始を読んだが、女媧を月の女神であるという議論のあとを追うには、本当に中国神話論の勉強をしなければならないことがわかる。森さんの研究姿勢はすさまじいものがある。世界史というものを考えるには、比較神話学、神話系統論が重要な前提になることはしっている積もり。
しかし、これについていくのは、私にはさすがに無理。神話論が新しい形で問題になった時に、新しい形での議論に期待するほかない。
そこで今日からは、菊地照夫氏の論文の消化に転身して、対応する部分を書いている。
さて、先日のNHKで「女性たちの貧困」の放映があり、一部をみた。
2年半もの間、ネットカフェで暮らしている母親姉妹のケース。19歳の姉は高校を中退してアルバイトをしていて、14歳の妹は半年以上、中学校にも通えていない。私は、全体をみなかったが、連れ合いがみた。
放送することには意味があったろうが、しかし、これを放置しているのは、行政の責任であるという観点がないのは異常である。
以下は、「すくらむ―国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ」に掲載されていた唐鎌直義立命館大学教授のインタビューから。http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11835944779.html
自分のメモと日記の代わりです。
日本社会が異常であるということをまた考えさせられる。その事実を正面からつねに頭においておくことが必要なのだろ思う。
以下、引用。
生活保護受給者が少ないことが大きな問題
貧困世帯の9割が生活保護を受けられず
暮らす異常な日本社会
――今とりわけ生活保護バッシングが激しく、経済大国日本において餓死や孤立死が頻発するような状況です。
一番大きな問題は、生活保護を受給するためのハードルが高いということです。簡単にいうと、丸裸状態にならないと生活保護を受けるのが難しいという仕組みになっているのです。簡単に人は丸裸状態にはなれません。とりわけ今の日本社会の構造からいうと、どんなに貧しい高齢者でもある程度貯金は持っているし、それを大事にしています。すると、そのために生活保護を受けられないということになってしまう。他にもいくつか理由はあるのですが、実際に生活保護をもらうべき人がもらえないというのが日本の生活保護制度の最大の問題です。
これは研究者の推計によって変わりますが、私の推計では要保護世帯の約1割しか生活保護をもらえていません。貧困世帯の9割が生活保護をもらわないで生活しているというのが今の日本社会の状況なのです。そうすると、一方では30万円の貯金があるために生活保護を受けられない、または福祉事務所に行っても断られた人がいて、一方では生活保護をもらって生活している人がいる。前者からすれば腹立たしいわけです。同じような生活を送りながら、もらえない人が9割もいるわけですから。そうするとやはり生活保護受給者に対する攻撃が強まってきますよね。
日本において捕捉率が低いということ、生活保護をもらえている人が極少数だということが、バッシングにつながる大きな要因だと思います。政府などはそれでも生活保護受給者が増えていると騒いでいますが、日本の今の状況からすれば、とんでもなく生活保護受給者が少ないことが大きな問題なのだということを見る必要があります。
生活保護バッシング起きやすい日本と起きない欧州
――ヨーロッパの捕捉率と比較するとどうでしょうか?
たとえばイギリスの場合は捕捉率がとても高いのです。イギリスは行政の責任として福祉の制度ごとに捕捉率を発表する義務があるのです。日本の捕捉率はあくまでも良心的な研究者が自分で貧困率を測定してつくっているのですが、イギリスの場合は政府の責任として発表されています。日本とは全く逆で、政府がきちんと福祉施策に責任を持って実行し、貧困をなくしているのかを監視する意味もあって捕捉率が発表されています。イギリスでは貧困者のうち85%くらいが生活保護で救済されているという状況になっています。しかも実数として生活保護を受けている国民が多いので、地域で悪口も言えないのです。なぜなら隣の人が生活保護をもらっていたり、親戚縁者の中にも必ずもらっている人がいたりするから、簡単に生活保護バッシングなんてできないのですね。つまりイギリスでは、社会保障が国民のものになっているのです。ところが日本では貧困者の1割しか生活保護を受けられない状況になってしまっているので、イギリスとは逆の形として生活保護バッシングが起きやすいということですね。
ですから、ヨーロッパの場合は、貧困の状態にあれば生活保護が受けられる仕組みが出来上がっているので、構造的に生活保護バッシングが起きない。ヨーロッパでは、国民の誰しもがいつかは自分も生活保護をもらう可能性があるので、生活保護バッシングをすることはないのですね。
子どもに親を扶養する義務がない欧州と
オレオレ詐欺、振り込め詐欺まねく日本
――生活保護バッシングのきっかけになった芸能人の問題がありましたが、親を扶養する義務もヨーロッパにはないということでしょうか?
ヨーロッパ諸国には、子どもが親を扶養する義務はありませんし、18歳を過ぎた子どもに対する親の扶養義務もありません。親が18歳未満の子どもを扶養する義務はありますが、子どもが親を扶養する義務などないのです。
18歳を過ぎた子どもに対する親の扶養義務があるのは日本だけですね。高等教育費の親負担があったり、いつまでも子どもの面倒を親がみたりという、日本の場合は親と子が経済的に強くつながっている。両者は精神的な愛情で結びついているのではなくて、経済的な関係でつながっているのです。
だから、オレオレ詐欺、振り込め詐欺は日本でしか通用しません。経済的なつながりが強い親子関係(親の甲斐性)を利用されているわけです。オレオレ詐欺、振り込め詐欺は日本以外の国にも「輸出」されるだろうと思っていましたが、そうはならないようです。
EUの国々では親子に経済的なつながりがありませんので、親が18歳を過ぎた子どものためにお金を貯めてスタンバイしていることなんてありえない。子どもが生活に困ったら国に公的扶助申請すればいいということになるわけです。けれども日本の親は、子どもに何かあった時のためにお金を用意してスタンバイしているのですね。大学生のときの教育費、30代になったら住宅ローンの頭金、孫ができたら経済援助、子どもが何か不祥事を起こしたら等々、とにかく何か子どもに問題が生じたら、親である自分ががんばろう、それが親の甲斐性だと思っている。あの富裕すぎる鳩山家でもそのようですね。しかしそれは本来、社会保障で引き取るべきことなのです。教育費も住宅費もそうです。そうすれば詐欺事件も起きないのですが、オレオレ詐欺、振り込め詐欺が成功してしまう理由は、やはり日本の社会保障の構造が大きな原因ですね。
「本当に困っている人」を助けられない
「福祉のパラドクス」の罠に陥る日本
――そうしたスティグマ(恥辱感)や「福祉のパラドクス」の問題も唐鎌先生は指摘されています。
厚生労働省の文書に、もう十数年前だと思いますが、福祉は基本的には「自助」でやっていくのが当たり前だと書かれていました。「自助」がどうしてもできない、「本当に困っている人」のために福祉はあるのだと厚労省は言うわけです。それで「本当に困っている人」が救われるのだったら、それはいいのではないかと国民は思ってしまうわけですが、これが要注意なのですね。
実は日本は、「本当に困っている人」だけを助けるための福祉に対して、国民の抵抗や運動が起きなかった国なのです。明治からずっと、そういうものでいいと思ってきた歴史があります。それがなぜいけないかというと、「本当に困っている人」だけが助けられるということは、そういう人たちは「国家公認の貧困者」になるということを意味します。そうすると、普通に生活して自分の尊厳を守りたいと思っている人は、「国家公認の貧困者」というレッテルを貼られるのだけは嫌だということになる。それだけは避けたいと思うようになるのですね。そうすると、「本当に困っている人」を助けるための福祉は、「本当に困っている人」が受けられなくなってしまうということです。
これを「福祉のパラドクス」と呼んでいますが、イギリスで新救貧法の時代にその現象が広がり、福祉が役に立たなくなっていきました。福祉の効率化を狙って、「本当に困っている人」だけを助けようとしたのだけれど、プライドがある市民は受けなくなってしまったのですね。どんなに困っても受けない。そこに市民の尊厳が築かれてしまう。「国の世話にはなってないのだから」と。それは福祉の失敗であるということに識者が気付いたのです。
福祉は「普遍主義」にする必要がある
だから福祉は、特定の対象者だけを救う「選別主義」ではなく「普遍主義」にする必要があるのです。「普遍主義」というのは、日本でいうと義務教育がそうですね。日本では義務教育は誰でも受けているから、義務教育を受けることに対してスティグマは感じないのです。国民という資格だけで誰でも必要な時に受けられる仕組みにしておかないとダメだというのが、本来の社会保障の発展方向です。こうした「普遍主義」が、1980年代半ばまでのヨーロッパの社会保障の発展方向でした。イギリスのNHS(国民保健サービス)や日本の義務教育のように、誰でも受けられるようにしようということが社会保障にとって最も大切なのです。
「選別主義」になってしまうとスティグマが強化されていくわけです。その上、バッシングも広まってくると、ますます受けづらくなっていく。そうすると「本当に困っている人」がどんどん潜在化してしまって、ますます大変な問題が起きてくると思います。
ですから生活保護の水際作戦の問題などが起きたときは、社会運動の側も、自治体だけを批判するのではなく、政府と厚労省を批判した方がいいと思うのです。なぜなら75%の財源は国が負担しているわけですから。窓口を自治体に任せておいて、責任は取らないというのは通りません。生活保護の問題は国の責任なのです。
政府は社会保障全体への攻撃を生活保護改悪から始めた
――日本社会では自己責任論がますます強まっています。生活保護改悪は社会保障全体への攻撃と一体のものと捉えるべきでしょうか?
もちろんそうですね。生活保護はセーフティネットの最終ラインを支える仕組みでもありますから、この生活保護を改悪していくということは年金にも影響が出るでしょうし、雇用保険などの所得保障にも大きな影響が出ます。連動する形で、低所得者援助制度(就学援助や生活福祉資金貸付制度)も含めて、幅広く所得保障に悪影響が及んでいきます。
ですから、日本政府は社会保障全体への攻撃を生活保護から始めたということです。改悪する理由としてよくあげられているのが、生活保護に国の財政が3兆5,000億円も使われているというものですが、イギリスなどと比べたら日本の方がはるかに低い財政負担です。国の財政規模に対してどれだけの割合が生活保護に使われているのかという国際比較をすると日本はどの国よりも低いのに、日本の中だけで財政負担の数字だけが取り上げられ攻撃されるというのは問題ですね。
低所得者向けの家賃補助制度があるイギリス
イギリスには低所得者向けの家賃補助制度があります。「ハウジング・ベネフィット」(住宅給付)と言いますが、これは1966年に「家賃割戻し制度」としてスタートしました。
それまでは日本と同じように、生活保護受給者だけに住宅扶助を支給していました。それを止めて、対象をもっと広げたのです。なぜかというと、被保護者に限定された住宅扶助では逆転現象を招いて、保護を受けていない人の生活が悪くなって、対立関係の温床になってしまうからです。それで低所得者に広げていったのです。
現在は、全世帯の2割ほどがこのハウジング・ベネフィットを受けています。生活保護受給の場合には家賃の100%、それ以外の低所得者には家賃の8割から9割を地方自治体が支給しています。もちろん地方自治体に対しては国が補助しています。家賃の8割を1年間保障されると、月5万円だったとしても年間60万円になる。この制度はイギリスでは所得保障に分類されています。住宅保障という名目ではなくて、所得保障制度の中でやっているところがすばらしいですね。
高等教育費が国民を苦しめている
――高等教育費の問題も深刻になっています。
これも大きな問題です。住宅問題と並んで教育問題は、日本の労働者にとっての2大問題(生活課題)です。日本では忘れられている社会保障の2分野と言えます。
とくに高等教育費が問題で、日本では基本的には親の負担ですから、地方から東京の私立大学に下宿生活で子どもを通わせると、4年間で授業料や仕送りを含めて約1,000万円かかると言われています。この金額が全部、日本の労働者に生涯賃金として跳ね返ってくるわけですね。
財界は日本の賃金は高いと言いますが、敢えて高くしてしまっているのです。こんなに高い教育費が親の負担になってしまっているのですから、その分賃金が高くなければ子どもを育てることも不可能になってしまいます。
ですから、日本の場合は、住宅ローンの返済と高等教育費の負担が高過ぎるのです。たとえば子どもが2人いたら2,000万円の負担になって、これが全部生涯賃金に跳ね返ってくるので、その分賃金が高くないと日本人は他の国の労働者と同じような生活を送れないわけです。そういうことを考えた上で、財界人は「高賃金論」を言ってもらいたいものですね。
高等教育費については、最近は親の負担ではなく本人の負担で、奨学金という実際はローンに過ぎない負担を背負って大学に来ている学生がたくさんいます。その上、大学を卒業してもまともな正規雇用に就けず、奨学金を返済することも難しい状況に追い込まれている若者が多くいるのも大きな問題です。
教育格差は広がる一方
――今、子どもの貧困も大きな問題になっていますが、機会の平等も保障されないのが日本社会ということですね。
そうですね。子どもの貧困が広がる一方で、私立中学へのお受験ブームもあるなど、教育格差が大きく広がっていますね。教育機会の平等という価値観がなくなってきてしまっている面があります。
人生を100メートル走に例えると、スタートラインをほぼ99メートルの地点から1メートルだけ走ればいい人と、逆にスタートラインから50メートル下がって150メートル走らなければいけない人が出てきているような感じですね。それで競争しろというわけです。こういうのは本当に不平等だと思いませんか。
結果的には企業社会にも悪影響を与えると思います。なぜならば、能力のある人がたまたま貧しい家庭だったというだけで、その能力の発揮がつぶされるわけですから、それは大きな社会的損失になるわけです。その代わりに、経済的に恵まれて育ったために、本来の能力を発揮する気持ちさえなくした人が、社会生活の上で他人に迷惑をかけて過ごしていたら、非効率以外の何物でもありません。どこかの製紙会社の三代目社長のカジノ浪費106億円という、蕩尽生活が起きてしまうわけです。
『ハリー・ポッター』はイギリスの生活保護のおかげ
――一人ひとりの国民の潜在能力が生かされないという点で、日本では『ハリー・ポッター』の作者は生まれないということも唐鎌先生は指摘されていますね。
J.K.ローリングさんは離婚母子家庭で、生活保護(イギリスの所得援助)をもらいながら毎日喫茶店に行って、いつも2階の窓側の決まった席で『ハリー・ポッターと賢者の石』を書き続けたわけですね。イギリスだから可能だったのだと思います。日本だったら、母子世帯で30代の母親だったら真っ先に就労支援の対象になります。「毎日、就活しなさい」「月給5万円でも働いた方がマシです」ということになります。
そして、J.K.ローリングさんは、女性高額納税者の世界ナンバー2にまでなったわけです。イギリス政府は多額の税金をそこから取れたわけで、年間たかだか150万円くらいの生活保護費を出したおかげで、数十億円の税金を取り戻せた。エビでタイを釣るどころの話ではないですよね。そういう機会が、イギリスのように稼働能力者(若者)も受けられる生活保護にしておくと、増えるわけですね。
最近、イギリスでベストセラーになっている『ボブという名のストリートキャット』という本を読みました。小さいときに両親が離婚し、不幸な生い立ちを背負った薬物中毒のストリートミュージシャンが、ある日、怪我をした雄の野良猫(茶トラ)を助け、ボブと名づけたその愛猫を精神的な支えとして、生活保護制度や住宅給付制度に経済的に支えられながら、薬物中毒から抜け出していくというストーリーの実話本なのです。
ここでもやはりイギリスの福祉が大きな役割を果たした結果、一人のベストセラー作家が誕生したわけですね。ホームレスを支援する『ビッグイッシュ―』活動の実際面もわかって、非常に面白い本です。
こうした華々しい成功例は一部かもしれませんが、もっと小さなレベルで、普通の仕事に就いた人もたくさんいるわけです。そこはやはり福祉の果たす役割になっているわけですね。
国が生活保護費を100%負担
イギリスの生活保護は国が100%負担しています。日本も、もともと国が8割負担していたのですが、80年代にそれを7割に下げたのです。それに対して地方自治体から不満が噴出して今の75%に戻したのです。75%にしてから20年くらい経過していますが、あと10%国が負担すれば、自治体はかなり負担が軽くなり、給付しやすくなるのですが。本来は自治体の財政に影響がないように、国が全額生活保護の財政を負担すべきです。自治体財政に縛られる現状では消極的にならざるを得ないし、生活保護を積極的に出すケースワーカー自身が周囲から疎まれてしまいます。
冬期の暖房手当も
この他、イギリスには冬期の暖房手当もあります。低所得者を対象に、生活保護制度が3種類(所得援助、就労家族給付、求職者手当の所得ベース給付)と低年金の高齢者を対象にした年金税額控除があるので、全体では4種類になります。それらの受給者に対して、11月1日から寒冷気候手当(Cold Weather Payment)が毎週支給されます。貧困者が凍える思いをしないように、そういう仕組みがあるのですね。
先ほど紹介した『ボブという名のストリートキャット』の中でも、これを受けられているから、冬の寒い日でも安心と書かれています。
それ以外に「冬期燃料手当」(Winter Fuel Payment)という高齢者専用の制度もあって、61歳以上の高齢者(具体的には、2013年度は1952年1月5日以前に生まれた人)を対象に、燃料費として一律に100ポンド(約1万7,000円)が支給されます。80歳以上になると2倍の200ポンド(約3万4,000円)になります。これは「61歳以上の高齢者全員にオートマティカリーに支給する」と書いてあるので、多分エリザベス女王にも支給されるのでしょう。自動的給付なのです。「どんなに支給が遅れても、12月25日までには必ず支給しなければならない」と書かれています。クリスマス給付の意味があるのでしょうね。
ようするに、高齢者にはこの冬期燃料手当が11月1日から一括支給され、低所得の高齢者には寒冷気候手当が毎週支給されるということになっています。ですから、高齢者が寒さで大変だということはないのです。こういう制度も所得保障制度としてきちんと準備されているのです。昔は15歳未満の子どものいる世帯にも、この冬期燃料手当が支給されていたのですが、最近はなくなったようですので、イギリスも悪くなっている面はありますね。
日本に「夏期冷房手当」を
私は、日本には「夏期冷房手当」をつくるべきだと主張しています。昨年夏に、高齢者がたくさん熱中症で亡くなりましたね。その時に夏期冷房手当が必要だと思いました。よくテレビなどで「お年寄りは暑さを感じない」とか「冷房が嫌いな人が多い」とか言われますが、昔のエアコンは除湿機能がなかったので関節痛を起こす人がいたのですが、今のエアコンは除湿機能が付いているので嫌いだと思う高齢者はそういないと思うのですが。
猛暑で人が死ぬのですから、冷房が嫌いというようなレベルの問題ではなく、やはり年金が低く電気代が高いから、冷房が使えないというところに一番大きな問題があるという点を見ないといけないのではないでしょうか。
「自立支援」「社会的包摂」で貧困問題は解決するのか?
――いま貧困対策として、消費税増税を容認したり、生活困窮者自立支援法を評価する動きがあったり、所得保障よりも社会的包摂をすれば貧困問題は解決するかのような言説も生まれています。この点について唐鎌先生のご意見をお聞かせください。
この点は、理論的な面でも大きな問題になっていると思います。慎重に考える必要があります。私も若い頃は、貧困原因の8割は社会的責任にあり、残りの2割くらいが個人に原因があるのではないかと考えていました。授業でもそう言っていました。個人を超えて社会の問題があるのだと言う一方で、一部自己責任も認めることで、なんとなく自分が研究者としてバランスを取っているつもりでいたという部分がありました。
しかし、貧困問題が深刻な状況になってくるのを目の当たりにして、ある時これではいけないと思ったのです。たとえば、自立支援をしたとしても、今、働くに値するような勤める先はどこにあるのか?ということです。労働者の4割近く(1,800万人)が非正規労働者となり、正規労働者になれたとしても、ブラック企業のような労働現場が増えている現状があります。自立支援と言っていても、結局、低賃金の無権利労働者をどんどんつくっていくことになります。
つまり、後始末をきちんと考えないでおいて、当面の貧困現象だけに対応していればいいということになってしまう。そうではなく、最終的にすべての人が、普通に働けば普通に幸せになれる方向性をつくっていかなければいけない。それは財界も国も含めて、全体でつくっていかなければいけない。そういう取り組みの中で、どうやって自立してもらうかを考えるというのならまだ分かります。でもそうではないのです。
私はよく「自立支援反対論者」だと言われるのですが、現在の社会の状況が自立できない仕組みになっているのだから、そこで個人に自立を強要するのは矛盾していると考えています。
経済的問題を「心」や「絆」にすり替えてはいけない
「社会的包摂」という考え方も全く同じで、「インクルージョン」ということですが、そういうひどい社会に包摂しましょうというわけですよね。バラバラになって無権利で働く社会に包摂してあげましょうとなってしまう。そうすると、非正規労働者は希望を持てないので、そういう社会に包摂されても何の意味もないと思うわけです。そういう社会からは善意のような形をまとった気持ち悪い行為の強調が導かれて来ると思いますね。東日本大震災で被災した人に「絆」を訴えるのと同じです。復興は経済的な問題なのに。
阪神淡路大震災のときも、政府が主張したのは住宅を喪失した人に「心のケアを」でしたからね。しかし善意とか道徳ということよりも、貧困をなくすためにはきちんと経済的な保障をしなければいけないということなのです。それを今の多くの研究者ははきちがえているのではないかと思います。
「社会的包摂」といえば、ホームレス研究の岩田正美さんや政治学者の宮本太郎さんなどが盛んに言っています。宮本さんの本を読むと、さまざまな社会問題が書かれています。今の日本社会の矛盾を取り上げています。だけれども最終的には、全部それを捨て去って、とりあえず「働かないよりは働くほうがマシです」という結論なのですね。それは財界の見解に一致するものです。だから、私たちは宮本さんが現状認識としてどこまで本気で考えているのか分からなくなります。本では一通り問題点を述べているのだけれど、その問題点が結論には反映されない論理構造になっているのです。だから、上っ面だけ読むと、貧困問題や非正規問題が取り上げられているので、ちゃんと目配せしているのだなと思うのですが、結論は新自由主義と同じなのですね。
「優しい新自由主義者」たちの限界
私は宮本さんのことを、竹中平蔵さんのような「冷淡な新自由主義者」ではなく、「優しい新自由主義者」だと思っているのですが、ご本人は自分のことをそう思っていないようです。今は「無自覚な新自由主義者」が沢山いるのだなぁと思っています。そういうことをもう少し新自由主義批判の先生方に掘り下げてもらいたいと思っているのですが、新自由主義を批判する人は、分かりやすい「冷淡な新自由主義者」ばかりを批判している。橋下徹さんや竹中平蔵さん、八代尚宏さん、鈴木亘さんなど。ああいう本当にクリアな、誰から見てもわかる新自由主義者だけを批判しているのです。そうではなく、今はもっと新自由主義が国民全体に内面化されてしまっている。研究者の間でも。
私が先ほど述べたように、2割どころか8割が自己責任を認めてしまっているということです。そうすると、最終的にはそれが貧困の社会的原因を追究しないで諦める言い訳になってしまうのです。厚労省の政策の免罪符になってしまう。こうして、ちょっと見ると「バランスがとれている政策を提唱する人」「偏った考え方の持ち主ではない人」が増殖するわけです。
何よりも生活の安定が必要
しかし、社会がまずきちんとすべきことをしないと、今日の貧困問題と日本人の生活問題は自立支援政策では解決できないということを私は言っているのです。だから社会的包摂なんて大きなお世話で、私たちが貧困者を取り込んであげましょうなんて、貧困者からすればありがた迷惑ですよね。昔、テレビドラマで「同情するならカネをくれ」と安達祐実さんが言っていましたが、今もそれと同じことです。それを非正規の人達は主張しているのに、それを聞いたふりだけして、とにかく同情して自立支援するからね、と言っているわけです。明確に「生活の安定が必要」ということです。先が見通せるような生活。貯金もできて、ちゃんとした家にも住めて。そういう経済的な課題を考えないといけない。政治学者にああいうこと言う人が多いですね。私は経済学者なので、貧困問題だけは経済決定論でなければならないと思っています。でも経済学者も怪しい人が多くなりましたね。
とにかく、そういう理由で自立支援が貧困の自己責任に結びついてしまっていると思います。それでも日本人は真面目だから納得してしまうのです。でも自立支援という名の自己責任追求でできることは、ほんの一部だと思います。社会の構造がきちんとしないと、今の問題は解決しないというのが私のスタンスです。だから社会的包摂論にも反対ですし、自立支援政策にも反対なのです。
所得保障と公的サービスの組み合わせで貧困をなくす
生活というのは、所得とさまざまな現物サービスの組み合わせから成り立っています。両者のバランスを考えること、どこまで所得でみるのか、どこまで公的サービスでカバーするのか、住宅や教育も含め、その組み合わせ方をよく考えていくということです。ヨーロッパに習って。そうすることによって初めて日本の貧困問題は解決できると思います。所得だけでいいということではないですし、サービスだけやっていればいいという問題でもありません。その2つの最適なミックスを考えていくべきだと思っています。
社会的包摂を主張する宮本太郎さんの主張には、フワフワ感がありますね。宮本さんの研究者としてのリアリティはどこにあるのだろうと、いつも思います。「講壇社会主義者」になることを期待された人がそれに失敗して、「講壇資本主義者」になってしまったということではないでしょうか。でも「資本主義者」になるのだったら、まだ「冷淡な新自由主義者」の方が、その人なりのリアリティをしっかり持っていますよ。あの人には研究のリアリティが感じられない。だから「講壇」なのですよ。
外国の紹介よりも自国の研究を
宮本さんは今、学会でも「バランスがとれていて、適度に問題点も指摘している優れた研究者」と評価されています。私のある親しい先生も、「宮本さんの『生活保障論』を読んだが、結論が違うだけであとは全部賛成だ」と言っていました。私はそれにショックを受けました。その先生も、日本社会の貧困に関するリアリティを、どれくらいちゃんと持っていて発言しているのだろうと。
研究者は、最後はそこが問われると思います。自分が主張していることの一番の根源はどこにあるのかということです。それが研究の情念の核をつくっているのですよね。核がないから全てを指摘して、最終的には一番トレンディな包摂論に持って行くわけです。でも日本人は昔からそういう研究が好きなのです。全部外国の研究で論理構成するでしょう。昔はそれを「学問の植民地主義」と言ったものです。
今また、それが復活している気がします。イギリスやフランスやドイツの新しい議論を持ってきて、それを先に紹介するということに意義を見いだしている。日本の国民生活をもっと分析した方がいいのに。本来は、なぜヨーロッパのことを持ち出すかというと、日本人の生活を良くするためにヨーロッパの先例を持ってくるわけです。悪くするために持ってくるのではありません。でも今は悪くするために持ってくるのです。おそらくヨーロッパで言われている排除や包摂という概念は、日本で使われているものとは随分違うと思います。特にフランスの排除論は日本とは違うと思いますね。
――ヨーロッパの社会的包摂は、基本的に住宅保障や教育保障がきちんとあった上での、次のレベルでの社会的包摂というふうに考えればいいのでしょうか?
日本の場合は、宮本さんが主張するように、企業が包摂の努力をして「居場所」を提供するという方式です。「でもブラック企業に包摂されてもねえ」と若者は思っているでしょう。
ヨーロッパの場合は社会保障もきちんと構築して、労働を遂行する上での諸権利も賃金もきちんと整備して、その上でやっていくということだと思います。最低でも医療と介護の普遍的給付と最低賃金制は守られています。賃金と社会保障をきちんとすれば、放っておいても人は居場所と生き方を見つけることができるのではないでしょうか。余計なお節介は不要です。「小さな親切、大きなお世話」ということです。経済的な状況をきちんと整備してあげれば、人は自分で生きる力はあるのだということが分からないのでしょう。そのところは全然手を触れないで、お世話だけしようというのが自立支援政策ではないでしょうか。
以上が唐鎌さんのインタvユーの引用である。ここに移してから全部読んだが、学者として、歴史学者として、こういう問題にどう対応できるかを自省させられる。
神話論をやっていても、けっして現代から離れるということではないつもりである。世界史というものを違和感なく知識とするためには神話論は重要だと思う。
そもそも研究は3,11から始まった。
世界を基準にして考えるということを本当の意味で実現するためには、過去の神話についてまで一望の下におけるような学術の体系が必要なはずであると考えるのであるが、それにしても、私個人は道が遠いが、さて自分の仕事にもどろう。
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