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2014年4月 9日 (水)

東アジアの「近世」について

東アジアの「近世」について
 以下、提出済みのある論文の「おわりに」を掲載します。この論文は、後醍醐の禪律国家構想と室町国家の禅宗国家的な側面について概略を論じてみたものです。

  東アジアにおける近世を12世紀には始まるとしたいという持論です。
  内藤・宮崎のような「近世」という時代区分を取る場合にも、多くは日本における「近世」の開始は戦国時代あるいは江戸時代とするのが一般であるという状況に対して異論を述べたもので、宮崎のように「後進国である日本」は、早く中国的近世の影響をうけたほかに、ヨーロッパ的近世の影響をもうけた後に、はじめて「近世」段階に到達したということでは、中国と日本のタイムラグは約六〇〇年以上ということになる。
  しかし、六〇〇年以上も中国と日本における世界史的な時代区分に時代差をもうけることは、宮崎の世界史の共時性という問題提起それ自体の意味を曖昧とするのではないだろうかという意見です。
 さらに述べれば、私は16世紀における資本の原始的蓄積がメキシコと日本の銀山からの銀の流出をキーにして、環太平洋の富をヨーロッパが吸い上げることに根拠があった以上、世界史的な近代は、ここに設定されるほかないという意見です。それ故に、江戸時代は世界史的な近代の一環と時代区分するほかないということになります。それ故に、順にさかのぼって、その前は近世という言葉を利用するほかないだろうということになります。
 いずれにせよ、古代・中世・近世という言葉を日本史において一国的に使用するのは問題が多く、古代・中世・近世・近代という言葉は、世界史的な範疇として、同時的に存在し、相互に影響する世界史の波動を表現する用語として(宮崎市定・内藤湖南のような意味で)使用するべきであろうという意見です。
 しかし、さすがの宮崎市定にしても日本史には、それを適用していないということには驚きます。これは根本的には、結局、奈良時代を「古代」とする縛りが宮崎市定にjも強かったということを意味していると考えています。
私見では、奈良時代は東アジア中世へのキャッチアップの時代と捉えるほかはない(日本には「古代」は存在しない)というものですが、このような意見の具体相については、当面、このブログの通史の欄を御参照ください。
 

 東アジアにおける宗教と国家について共 時的な議論に進むためには、中国と日本の共時的な時代区分のあり方の議論が必要である。つまり、宋代の理学や禅宗は文化論的には宋代の「近世」と考える場合のキーとなっているが、そうであるのならば、この時期の日本にも「近 世」という同時性を措定できる可能性である。

 さて、よく知られているように、宋代を世界史的な「近世」の段階と評価するのは内藤湖南と宮崎市定の学説である。その根拠となっているのは、羅針盤、火薬などの技術、商業都市と地域的村落的市場、貨幣経済などの社会経済的状況とともに、文化論的には、大蔵経の印刷にはじまる文 字文化の普及であり、それらを前提とした一種の合理的な心術の形成というようにまとめることができるだろう。

 私は、すでに二〇年近く前に、この内藤・宮崎の時代区分論に賛同し、東アジアにおける「近世」はだいたい一二世紀には始まるとしいう見解を述べたことがある。これは北宋の成立する一〇世紀後半を「東アジア近世」の開始年代と考えるとすると、若干のタイムラグをみたとしても 一二世紀ころには日本においても「近世」の時代が始まったとしてよいという趣旨である。なお、このような私見はいわゆる「封建制」はヨーロッ パ的な意味における社会構成としては日本にも東アジアにも存在したことがなかったという理解を前提としている。社会経済史的にみても、この時 代を「近世」ということには大きな問題はないということである。これまで時代区分論の立場からは、建武新政の歴史的性格について、時代 的状況に応じた古代的な政権の一時的な反動的復活とか(永原慶二)、封建王政への接近と破綻(黒田俊雄)などの見解がだされているが、私見では、そのような理解は東アジア全体を対象とした時代区分論や社会構成論という視点から全面的に再検討するべきだということになる。

 これについて、ここで詳しくふれる余裕はないが、ただ、中国と日本における近世の成立のタイムラグをだいたい二〇〇年弱ほどとしていること については、建武新政論との関係で若干の説明を加えておきたい。というのは、実は、内藤・宮崎のような「近世」という時代区分を取る場合にも、多くは日本における「近世」の開始は戦国時代あるいは江戸時代とするのが一般だからである。宮崎自身、「後進国である日本」は、早く中国的近世の影響をうけたほかに、ヨーロッパ的近世の影響をもうけた後に、はじめて「近世」段階に到達したという意見を述べている。これだ と、中国と日本のタイムラグは約六〇〇年以上ということになる。もちろん、日本が「後進国」であり、中国とは大きく事情を異にしているという 点は当然ではあるが、しかし、六〇〇年以上も中国と日本における世界史的な時代区分に時代差をもうけることは、宮崎の世界史の共時性という問題提起それ自体の意味を曖昧とするのではないだろうか。

 ここでは文化論的な側面についてのみ見解を述べるが、宮崎のような理解は民族ごとの特殊条件を軽視しているように思う。つまりたとえば印刷文化をとればたしかに日本が中国的な印刷文化のレヴェルに到達するのは江戸時代のことであるが、しかし、中国のように広く巨大な人口をもつ国 家と日本との相違は大きい。人々の心術の様相を規定する文字文化のレヴェルはかならずしも印刷などの形態ではなく、文字の庶民普及や識字率の 方が根本的な問題であると考える。文字の普及と識字率ということになれば、日本のそれは相当に高いといえるのではないだろうか。

 また、問題の禅宗をとってみると、唐代に基礎をおかれた禅宗は宋代を通じて発展したが、それが日本に本格的に弘通しはじめたのは一三世紀までずれ込んだ。宋代の「近世」性を代表する朱子学となれば、これも江戸時代まで下がることはいうまでもない。しかし、言語と文字文化を異にする日本にとって「禅」はきわめて特殊な宗教であった。それは第一に中国的な文字文化と一体のものであって、また第二には儒教や道教、そしてそ の論理学とも深く関係するものである。禅が何度も移入されながら、日本に受け入れられなかったことには自然な理由があったといわなければならない。しかも、黒田のいう意味での顕密体制が禅宗の移入をさまたげたことは確実である。禅宗の移入の遅れは、そのような事情によるものと考え たいと思う。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、日本では「仏教東漸」ということをナショナルな国制意識とからめて立論する傾向が一般的であった。たとえば 一三世紀末期に成立した『野守鏡』に「和歌よく礼楽をとゝのふるが故に国おさまりて異敵のためにもやぶられず。仏法の流布する事も大国にすぐ れたるは、これひとへに和歌の徳也。宋朝には和歌なくして礼楽をたすけざるによりて、八宗みなうせつゝ、異賊のために国をうばはれたり」とあ ることが、それをよく示している。これこそ顕密主義そのものである。そして、この種のナショナルな国制意識が万世一系思想に対応するものであ ることは別に述べたところである(保立「現代歴史学と国民文化」『歴史学を見つめ直す』)。

 このような通念に対して、栄西は『興禅護国論』において、「インド・中国では仏道と戒律が廃れているという俗論を排し、戒律運動を表面に立 てた日本仏教中興の実現可能性を説いた」。日本のみが仏教の正統を伝えるという自尊になずむのではなく、むしろ遅れをとった日本が追い つかねばならない目標として、中国仏教と禅宗の先進性を強調する観点から、興禅護国を説いたのである。ここには禅の移入が平安時代以来の正統 的な国制イデオロギーとの対抗を必要とした事情が現れている。そのような経過をへた後にはじめて、鎌倉時代の後期、儒学と禅宗を中心にした政 治思想が国家と公武の貴族の間で本格的な議論の対象となる時代がやってきたのである。そこには、東アジアにおけるモンゴルの勃興という国際情勢と、それに対応する宋学と仏教思想の緊迫した問題意識の影響があったことは明かであり、それによってはじめて状況が突破されたというべきで あろう。このような事情を具体的に考慮しながら、世界史的な時代区分のタイムラグについて考えをつめていくことが必要であると考える。

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