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2014年4月 4日 (金)

「対談、都知事選挙をめぐって」(河合弘之氏と海渡雄一氏)、『世界』について

 4月に入った。午前中にようやく神話論の基本部分のまとめを終わって、久しぶりに自転車である。神話論に本格的にとり組んで、1年である。ようやく全体がみえてきた。
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 外は春。花見川沿いを走って稲毛の海まで。
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 さて、都知事選挙について、細川前首相が立候補して、反原発候補の票が割れたことについて、いろいろな意見があるようである。今後、日本ではこういうことが増えると思う。政治的な諸問題は山積であり、研究者の世界でも大きな点での一致はあるとしても具体的な判断となると懸隔が広い。

 私は、日弁連の前会長、宇都宮氏の選挙の仕方は重要だと感じた。残念な結果にはなったが、首長選挙への立候補者のあり方としては引き継ぐべきあり方であると思う。宇都宮氏は早くから弁護士として貧困問題にとり組んでおり、たしか反貧困ネットの代表であったと思う。若いアクティブな人たちから強い支持をうけているようである。と同時に日弁連の前会長であるというのがいいと思う。

 結局、社会的な問題を解決していくためには、社会運動に生活をかけてフルタイムで活動する人々がいる結社団体や政党が必要である。アランの言い方だと、これが市民社会の保証であるという訳である。しかし、その上で、さらに(1)専門性をもった職能団体の動きと、(2)地域の日常的な住民運動が存在することがどうしても必要である。

 そういう社会的な専門性のネットワークやコミュニティに支持される人が、社会運動団体を代表して候補者となって、選挙によって首長の職につくということが理想的だと思う。国会の場合は政党なしには無理であるが、地方自治体の首長の場合は、それが自然であり、可能である。社会はそれによってしか変わっていかない。職業のネットワークと地域のコミュニティ、社会のアソシエーション、社会の連帯、連携の上にたって、しかし結局一人一票で全体の動きが決まっていくという雰囲気に進まざるをえないはずである。

  
 しかし、問題は、政治・社会運動と職能団体、地域団体の関係である。それは十分に整理して考えておくべきことだと思う。

 先日、京都からの帰りに買って『世界』(4月号)の都知事選についての記事を読んだ。とくに「都知事選挙をめぐって」という河合弘之氏と海渡雄一氏という弁護士同士の対談を読んで考えることが多かった。
 『世界』編集部が書いた、この対談を説明するリードは次の通り。  


 お二人は長年にわたり弁護士として脱原発運動にかかわってこられ、脱原発弁護団全国連絡会の共同代表をつとめてこられました。そのお二人が今回の 東京都知事選挙では、脱原発を掲げる二人の候補者が立ったことにより、河合さんが細川護煕候補を応援する勝手連の共同代表を、海渡さんが宇都宮健 児候補の選対副本部長をそれぞれつとめられました。脱原発運動の亀裂を心配する声もあります。そこで今日はお二人からお話をうかがいます。


 つまり、この対談は、これまで法曹界の中枢で原発に反対する住民訴訟を中心的に担っていた二人の弁護士が、今回の都知事選への前首相・細川氏の立候補への対応で、意見が異なり、それが脱原発運動の亀裂をもたらすのではないかという危惧もあってもたれたということであるようである。

 驚いたのは、法曹界のなかで、直接に政治的な判断だとか、相談だとかが行われていて、それが事態に大きく影響したということ自体である。

 つまり、河合弁護士が細川前首相・小泉前首相コンビの立候補の意思を知って、海渡弁護士に電話をして、宇都宮氏は降りるべきではないかといい、さらに1月15日に海渡弁護士に「脱原発勢力は鎌田慧さんが細川支持でまとめる。あなたの立場はわかるが、あなたの将来を心配している」というメールをしたということである。ようするに、「脱原発勢力は鎌田慧さんが細川支持でまとめ」、法曹界の関係者は河合弁護士がまとめるということである。

 こういうことには違和感がある。
 もちろん、御二人の議論は率直なもので読んでいても面白い。必要な議論なのだろうとも思う。河合弁護士の意見は「勝とうとする以上は、勝つ見込みがある候補に絞ろうとするのは戦略上、やっぱり当然だと思う」ということである。そういう意見はありうるだろう。

 しかし、いくらなんでもすでに立候補した候補に対して立候補辞退をいうのは、職業的な立場をこえて「政治」にかかわりすぎであるように思う。弁護士は、そこまでは政治にかかわらない方がよいのではないか。もちろん、市民として選挙運動をするのは自由であり、たとえば海渡さんのように日弁連の会長にいた宇都宮氏を事務局長として支えた続きのようにして選挙対策本部に入るということはあるだろう。そして、河合氏が同じように細川氏の選挙対策本部に入るということはあるだろう。それは個々人の意思であり、自由である。しかし、経過のなかで異なる候補者を押した場合、どちらかに辞退するようにいうなどというのは職能的な範囲をこえて政治的に動くということのように思う。

 しかも、鎌田慧氏や河合氏は細川陣営として責任ある立場にいた訳ではない。勝手連ということであるということである。両組織の公的代表として、正式に統一候補について話しあうということならばあるであろうし、それがたまたま弁護士同士になったということはあるであろう。しかし、それもなしに、弁護士同士の知人関係によって話しをするというのは常識のある行動とは思えない。もし、それで海渡氏が説得されたとしたら、これは公的な問題を弁護しというムラ社会のなかで決めたということになる。そういう話しをすること自身が、厳密にいえばムラ構造の一種であろう。原発の訴訟団の共同代表の関係にいるというのも、あくまでも主体は原告自身のはずであり、弁護士は専門家・実務家としての代弁者である。真の意味での運動の当事者ではないということはわかっているはずである。

 現在の政治状況では弁護士のような見通しのきく立場にいる人に、いろいろな判断が要請されるということはあると思う。そこでともかくも「善意」で行動したということもわかる。それにしても、やはり、こういうムラ的な構造は、政治・社会運動と職能集団との関係としてはまずいのではないか。こういうことをいうのは、河合氏への批判ではなく。研究者・知識人の行動のあり方の問題として、ここには考えておくべき問題があると思うからである。こういうレヴェルで感じ方を共有することは大事だと思う。


 私は、ドイツのようにすぐに日本の支配的な政治家が原発の廃絶にむかって動くとは考えられない。原発の推進は、アメリカの意思、そして経団連と財界の強い意志という体制によって強力に支えられている問題である。そして独占的な利益に目がくらんで愚劣の基礎の上に展開した無責任構造である。これを突破するのは並大抵のことではない。ドイツではチェルノブイリ以降、長期にわたる反原発運動があり、自然エネルギーにむけての実際の前進があり、その上での決断である。この号の『世界』の記事だと「オーストリアの原子力へのノー」を参照されたい。オーストリアでは1978年の国民投票で原発推進が止まったのである。30年前。チェルノブイリの7年前である。
 私見では、そもそも日本の支配的政党は自立的な判断をする賢さをもっていない。ドイツの政治は、ともかく民族の内部で自立的に判断をし、議論をする力をもっており、財界もそれだけの見識を蓄積してきている。

 もちろん、細川氏や小泉氏が原発をやめるという意見をいい、そう行動しようとしたことはよいことである、これは常識で考えれば、従来のようにはやってられないということが誰でも分かるはずであるということである。しかし、細川氏は、選挙告示をすぎてもしかるべき公約すら発表しなかった。これは失態である。失態はだれでもあろうが、前首相がやることとは思えない。こういう動き方では、原発からの撤退ということが、どれだけ困難なことかを十分に認識していたとは思えない。

 とくに、小泉氏は首相のときに、原発の推進にも明瞭な責任のある人物である。政治家としての見識というものは、考え方の一貫性であり、剛直さであり、間違ったら間違ったということを潔く認め、過去の間違いを率直に反省することだ。それができない人間でも、原発推進の側にいたのがまずかったと思い、それを発言することはよいことではある。しかし、本当の意味での真剣さがあり、成熟した社会人であると思ってほしかったら、今後の行動でそれを示してもらうほかない。国民は個人としてはまったく対等平等である。前首相であるからといってなんの特権も説得性もない。


 私のような学者は、社会運動に部分的に参加したり、協力したりするのが限度である。政治や政策、政党の支持は当然にあり、思想信条の自由は当然のことであるが、しかし、政治の上での妥協だとか、連合だとか、具体的な動き方だとかは、学者の発言するべきことではない。私はそれが当然だと思う。そういうことをやれば、それは学者や弁護士や評論家という職能によってえている社会的地位や諸条件を別の形で利用するということで、私などからみると、一種の地位利用であるようにみえる。
 私たちは政治の専門家ではないので、個々の局面での政治的な責任はとれないことを覚悟するべきであると思う。それは、弁護士にしろ、ジャーナリストにしろ、小説家にしろ、評論家にしろ、基本的には同じことではないだろうか。職業と政治は違う。だから私たちは何よりも虚心になって、自分の仕事を通じて社会的な責務を果たしていくほかない。おのおのの学術や専門性を通じてすこしでも説得力を高め、そして隣接する分野との連携をつよめて意思ある人々の間で相互に議論しつつ総合性を高めていくほかない。そこに集中し、同じ職業の間、そして異なる分野間相互に信頼しあうルートをつけていくのが絶対的な近道である。それは下から支えていくことしかできないが、しかし、都合のいい短絡経路は存在しないと思う。

 なおもう一つ、河合氏の発言で気になった点。「細川氏が小泉人気を背景にしてブームを起こして勝しかない。保守と革新が一体になって脱原発へ進んでいく第一歩にしたい」という発言である。私は、「保守と革新」という考え方をしない。日本社会には「保守勢力」らしい保守勢力がいなくなってしまった。そもそも民族的な大局的利害、長期的利害というものを考える力が非常に弱くなっているのではないだろうか。さらにいえば、小泉氏は保守というにたる人物であろうかということである。

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