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2014年4月14日 (月)

仕事と労働 WorkとLabour

 先週木曜から風邪。学芸大での非常勤講師を、今学期だけつづけることにしたので、金曜日はでて、土曜日も用があってでた。土曜日の会議は懇親会もあったが、風邪の熱を感じて直帰した。

 今日(日曜)も、夕方はかったら37度あるので、何もできなかった。「日本史の30冊」で青木和夫先生の『奈良の都』を取り上げるので、朝は横になって読書。
 しかし、青木さんの本の紹介や位置づけを考えるだけでも、歴史の話しを書く元気はなく、土曜日に講演を聴きながら考えたことを少しづつ書いている。こういうのは抽象論なので熱があっても書ける。

 一昨日、ジブリから『熱風』(4月号)という雑誌が送られてきて、この雑誌は非常に面白いのでよく読むのだが、今回は「人口減少社会」という特集で面白く読んでいる。これも若干紹介する。
Cci20140414

 さて日本の社会は、将来は協同社会を考えざるをえないはずである。いわばソフトな社会主義ということになろうか。歴史家として考えるとどういうことになるか、それについて考えることが多くなり、前から考えているので、その編別構成を考えた。久しぶりに総武線でメモしたことを下に書き写す。


1今の社会でできること、徐々に進められること、進んでいること。

(1)平和を維持し、災害素因をへらすこと。
 これは韓国・台湾・中国・フィリピン・ベトナムとの友好関係の維持が第一。とくに韓国との関係が重大。北朝鮮がある以上、心配なことはある。日韓の連携が何よりも大事。東アジア非武装地帯の形成から、国内的には、軍事費を削減し、自衛隊を縮小しつつ災害対策にふりむけ、さらに最大の無駄遣いとしての軍事産業を削減することまで進まなくてはならない。「平和」というのは、いうまでもなく、戦争を防止することだが、戦争は最大の社会災害である。これを起こさないようにするという感じ方は、実際には自然災害にそなえるための深謀遠慮を社会的な態度にしていくということと共通する側面がある。

(2)コミュニティといえる地域のあり方をどうにかして作っていくこと。
 ジブリの『熱風』に千葉大の広井良典氏が「地域からの離陸と着陸」という文章を書いていて、共感するところが多い。これまで何もやっていないのに口幅ったいことだが、地域のコミュニティというのは本当に大事だと思う。
 「地域のコミュニティ」というのは地域の自然をコミュニティのものとして感じるような地域のあり方をどうにかして作っていくということで、これはたとえば(私のもっとも大きな要求では)安全で緑多い自転車道路で郊外まででることができるという小さなことから、地域的な自然エネルギーの開発によるエネルギー自立まで、実際にはいろいろなことを含んでいる。

(3)仕事のネットワークを大事にすること。
 東日本太平洋岸地震大震災のときの救援で水道・下水道などの復旧に全国の同じ職能の人々がかけつけて大きな役割をしたというのは記憶に新しい。

 「仕事のネットワーク」というのは、小さな仕事から大きな仕事まで、日常的なものから科学的なものまで、仕事の人間関係とネットワークを充実させていくということになる。私たちの世代ではじめて社会問題に関心を引かれた場合に、よく読んだ本に岡村昭彦氏の『南ベトナム戦争従軍記』があったが、そこに、八百屋は八百屋の専門性、ジャーナリストにはジャーナリストの専門性と倫理というものがあるのだという一節があった。そういう意味での専門性である。誰でもやるべきことは、これを大事にしていくことだろうと思う。


 つまり、平和を守ること、そして地域のコミュニティを育てること、さらに仕事のネットワークを大事にすることという単純なことになる。これは今の社会でできること、徐々に進められること、進んでいることである。これがどう進むかが日本の社会の将来に大きくかかわるのは明らかである。


2積極的に考えるのが必要なこと。ー社会のシステムをどう考えるか。

社会システムを考えるということ。
 「平和を維持する」「地域のコミュニティ」「仕事のネットワーク」という三つは、結局、毎日毎日の生活と覚悟にかかわることで、より正確にいえば、いまの社会が持続させるためには、この三つのことを考えざるをえない。その意味では必然的に進まざるをえないことである。もちろん、必然的に進むというのは自動的に進むということではない。人間がともかく若干でも知性を働かせ真面目にやって、しかも友人・仲間・地域社会と楽しくやっていこうということが前提になってのことである。そうでなく、愚劣でもいい、ごまかしてもいい、自分さえよければよいという人が多くては、こういうことは自然には進まない。

 しかし、逆にいえば、このレヴェルでは、真面目であればよい、あるいは普通の協調性をもっていればよいということで、社会のシステムをどうするというようなことは考えなくてよいということになる。むしろ、こういう問題では、かならず意見の相違がでてくる。だからこの局面では、むしろ「平和のありがたさ」「地域のコミュニティの居心地よさ」「ネットワークのなかで仕事をすることのやりがい」というようなことのみを話していた方がよい。社会システムのような問題、つまり立場や出身背景などによってしばしば意見が異なるような問題について話し合わない方がよいというのが実際ではないかと思う。すくなくとも、社会システムの問題を議論するのは、このレヴェルとは別にしておいた方がよいと思う。

 それだから、ここから先は、個々人が考えることである。社会システムをどうするかということは考えざるをえない問題であるが、これは厳密に個々人の意見として一人で一人でじっくり考えることになるのではないかと思う。これはある場合は世界観や人生観にかかわってくる。

 ただ、ここで「社会システムを考える」というのは、たとえば社会の諸制度をどう設計するか、高齢化社会、人口減少社会の到来についてどういう政策を考えるかというようなことではない。ジブリの『熱風』でドワンゴ会長の川上量生氏が人口減少への対処について「理系的に考えると、重婚をみとめるとか、国家がそだてるとか、もしくは単純に子どもを持つ人に補助金を出して、子どもを持たない人には重税を課すとか、そういう制度設計の問題に帰着するんですよ。文系的なことで変えていこうとして「気の持ちよう」の話をいくらしても、何も生まないと思うんですよね。新しい考え方が世の中を動かした例って、いままでにほとんどなかったと思っているので」といっている。ふーむ。川上氏は情報論を読んでいると異世代という感じでよくできる人だと思うが、こういうのは社会に青写真のような改造計画をもちこむことである。これは一種の「社会工学」であって、社会を自動機械のように動かそうということで、ここでいう「社会システムを考える」ということとはまったく違う。

 「社会システムを考える」というのは、もっと基礎的なことで、ようするに社会というもの、そのものを考えるということである。社会を改造する制度設計ということになると、それは他人事だが、この社会を考えるというのは社会観を考えるということで、それを通じて世界観や人生観にもつながっていくので、これは一人一人で考えることができる問題である。

(1)「はたらくこと」のいくつかの意味
(イ)「はたらく」という言葉の意味

 問題の基本は「はたらく」ということをどう考えるかである。この「はたらく」という言葉は面白い言葉で『和訓栞』という江戸時代の語源辞書によると、もとの形は「はたる(徴る)」ではないかという。「徴る」というのは「強く求める、請求する」ということで、また「取り立てる、徴収する」という意味になる。この「徴る」の語源は、朝鮮語のpat(徴)と同じであるという説もあるが、「剥る」と関係があるらしく力ずくでせめ取るという感じである。『和訓栞』は、この「徴る=強く求める」ということを自分自身に対してする、「我が身をはたる」というのが「はたらく」という言葉のもとであろうという訳である。『万葉集』に「里長が収は課役はたらば汝も泣かむ」とあるように、最初は人をせめることを意味していたが、平安時代くらいにせめられている自分の外側にでて、自分を外からみて、自分が自分を「はたらかせる」というように使うようになったということである。

 たしかに「はたらく」という場合に、自分が自分の身体や脳髄そのものの外にいるかのように考える、いわば一度自分の外に出てトランスして、自分のことを見ているということが大事になる。これに対してまったく反対なのが「あそぶ」で、「遊ぶ」というのは霊の遊離している状態で自分のことも忘れてしまうということになる。「はたらく」ときはそういう風にボッとしてはいられない。

 これは言葉の説明は別として誰でも知っていることであるが、問題は、この「はたらく」には、だいたい二つの別の意味、二つの側面があるということである。その一つは「仕事」であり、もう一つは「労働」である。

 これは英語だと「Work」と「Labour」の区別になる。つまり、Workといえば「なすべき仕事、課題、作品」という意味になって、Home workといえば宿題、the Works of Bachといえばバッハの全作品などということになる。これはドイツ語ではヴェルクWerk、さらにさかのぼってギリシャ語のエルゴンergonになる。エルゴンというのは名詞ではエネルゲイアenergeiaになる言葉で、作品・成果、それらが能力として発現しているという意味になる。こういうことから、ある課題を成就するために能力をフルに発揮して集中している様子をエネルギッシュという訳である。これはある具体的な目的のためとか、ある特定の作品を作るために自分で自分の目の前に具体的な目的を設定して、自分で自分の意志を緊張させて「はたらく」ということになる。つまり日本語でいえば「仕事」がもっとも近い言葉になる。「仕事」というのは、本来、「為事」と書いたはずで、「する」という言葉の連用形「し」に「事」がついた形である。「事をなす」、目的を達成する、事業を成功させるというような意味であるといってよい。堅い言葉を使えば、「働き」のこのような側面は目的設定的な具体的仕事ということができる。

 これに対して「労働=Labour」というのは、努力する、苦労する、骨折りという意味が強くなる。労働という言葉がいつ頃から使われるようになったかは正確なところはわからないが、江戸時代の貝原益軒の「養生訓」に「身体は日々少づつ労働すべし、久しく安座すべからず」とあって、「体をつかってはたらくこと」という意味であることがわかる。そもそも「労」という漢字の意味は「疲れる、苦しむ、力を激しく使う、骨を折る」という意味で、労働というのは「はたらく」ことの内で疲れること、「疲れる働き方」をいうのである。「労」というのは倭訓では「いたわしい」と読むのが本来で「お疲れになって、おいたわしや」というわけである。

 英語のLabourも、つらさ、骨折りが基本となる意味で、もとはフランス語で、さらにもとはラテン語のlaborになり、hardship 、「重荷を負ってつまずきながら歩く」という意味であるという。面白いのは、Labourには産みの苦しみをする、お産をするというのが動詞になることで、「be in labour」というと陣痛ということで、出産の苦しみというのがLabourであることである。

 これはようするにどういう目的ではたらくのか、どういう仕事なのかは関係なく、身体と頭脳をつかって、自分の物質的肉体を使ってがんばること、苦しむことを指すということである。「養生訓」に「身体は日々少づつ労働すべし」とあるのを引用したが、「日々少づつ労働」というのは、どういう労働かは問題ではなく、どういう労働でもよいから、ともかくちゃんと体を動かせということである。「はたらくこと」の目的は、ここでは問題にはならない。捨象されている。ともかく自分の物質的肉体を動かせということである。この場合、Labourに出産という意味があることから分かるように、身体のいろいろな部分を動かせということになる。当然、Labourには頭を動かすことも入る訳で、頭脳労働でも単純労働の部分はLabourになる訳である。「働くこと」はこういう消耗労働といえるような側面をもっている。

 もちろん、骨折りとか、疲労とかいっても、そこには限度というものがある。労働の強度には平均というものがある。それは時代や民族などによって違うが、ある時代と地域をとってみればそういう平均的な労働は、確かに存在するはずである。それ故に「働き」のこのような側面は平均的労働ということができる。あるいはここで問題となるのは、達成するべき具体的な目的や仕事ではないから、具体性を捨象しているという意味では、堅い言葉を使えば、抽象的労働、抽象的人間労働ということができる。

 もちろん、私たちがやっていること、「働き」は実際には仕事workの側面と労働labourの側面が一体になっている。堅い言い方をすれば具体的仕事と抽象的労働は複雑に入り組んで一つの「働き」を構成しているということになる。これは日常語からは離れるかもしれないが、けれども、私たちが「今日の「働き」は、ここまでできた。しかし疲れた」と自分のことを考える場合、そこでは実際に「働き」というものの異なる側面を意識しているのである。
 「働き」ということを考える上では、WorkとLabourを明瞭に区別しているのは英語のよいところだと思う。私たちの言葉、日本語でも、この二つの意味を十分に区別して考えることは思考の習慣として大事ではないだろうか。エネルギッシュという言葉は日本語では、Workの意味か、Labourの意味かがよくわからない使われ方をしている。どちらかというとLabourの意味で使われているのではないかという感じがする。しかし、これはWorkの意味が強い訳である。人間にとって必要なのはWorkがエネルギッシュであることで、Labourがエネルギッシュというのは困ることなのである。


 ただ日本語にもいいところはあると思う。つまり、こういうWorkとLabourを区別して物事を考えていくというのはよく知られているようにマルクスがはじめた考え方であるが、マルクスはドイツ人なので、すべてをドイツ語で処理している。つまり、ドイツ語にはWorkとLabourの区別はないので、全部をアルバイトArbeitで表現している。そして仕事Workについては有用労働nützliche Arbeitとか具体的労働konkreter Arbeitなどという修飾語をつけ、労働labourについては抽象的人間労働abstrakt menschlicher Arbeitという修飾語をつける訳である。これは面倒くさい話しである。日本語では仕事と労働を使い分ければ直感的に話しが分かるのである。
 また英語もドイツ語をうけて、仕事Workについてはuseful labour、concrete labourといい、狭い意味での労働についてはabstract human labourなどと翻訳している。せっかく英語の方がドイツ語よりも便利なのだから、もう少しうまい翻訳を考えられないかとは思うが、残念ながら英語にはWorkとLabourの両方をふくむような適当な言葉がないから、これはやむをえないのだろう。そこでabstract human labourなどという複雑な言葉が必要になったのである。これに対して、日本語では、「働き」「仕事」「労働」というように、三つを正確に区別できる。日本語というのは物ごとを意外と正確にあらわすことができる言葉なのである。
 こういう「働き」というような言葉については歴史学でいうと、いわゆる概念史の研究が必要で、それを前提にして、学校でも早くから「働き」の二重の意味、英語との関係なども教えたほうがいいのではないかと思う。その場合に重要なことは「家族」と「家族のはたらき」から教えることである。そうすれば子どもにもわかるだろう。
 
 風邪頭では、この先はまたということである。
 月曜日、まだ頭がボッとしている。

 家の猫の調子が悪く、自分でうまく水が飲めなくなっている。
 今日の朝は起こされて、二人で介護だったので、まだ眠い。
 今日届いた浄水機能つきの猫の水飲み器にうまく慣れてくれればよいのだが。
 

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