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2014年5月

2014年5月29日 (木)

神話論――折口信夫の忘れられた見解からの出発

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 近くの園生市民の森のカラムシ(苧)。
 『中世の女の一生』で繊維生産を勉強して女性労働論として展開したとき、それを御読みになった新潟の繊維の研究家から麻をいただいて、自宅の裏に植えている。「肥え」付きの苗を送っていただいて、それを植えた。
 不勉強な話だが、カラムシは、この市民の森のカラムシがはじめてでないかと思う。自宅の麻よりたくましく、大きい。実際には密植して丈を伸ばすことがあると聞くから、もっと大きくなるのだろう。平安時代に史料の多い「皮剥布」の原料である。等価形態として利用される繊維についても論じたことがあるので、そのうちもう一度論じたいものだ。
 しかし、いまは神話論。いまやっているタカミムスヒ論の書き出しが決まった。安藤礼二氏の「産霊論」にも関わる問題であるので、早く仕上げたいものだ。

折口信夫の忘れられた見解
 天孫降臨神話の主催神がタカミムスヒであるということは、三品彰英の仕事以降、すべての神話学者・歴史学者が認めていることなのであるが、この神の性格をどう考えるかについては学者の意見は実際には、きわめて抽象的で曖昧であり、実際には分裂したままになっている。そのような研究史の状況については、第四章でタカミムスヒという神の名前をどう考えるべきかにふれて、詳しくふれることになる。

 ともかく、本論は、この神の具体的な性格をどうにか解明して、学説の融合と統一の道を開くために捧げられるのであるが、ただ、ここでは、私見にもっとも近接したものとして折口信夫の学説をかかげ、一つの導きの糸として提示しておくことにしたい。

 いうまでもなく、折口は、民俗学者であると同時に、近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家であり、神話論にとっては大事な位置をもつ学者である。そのタカミムスヒについての見解は、「ムスヒ」の神についての解説として展開されたが、ようするに、折口は、タカミムスヒの「ムスヒ」を「縁結び」などという場合の「ムスビ=結び」の神と理解し、ものごとを生み出すことを助ける神、「産霊の神」と解釈する立場に立っていた。これについては後にタカミムスヒについての研究史を紹介するときに詳しくふれるが、これは本居宣長以来の伝統的な神学的解釈であって、折口が早くから明示していたものである。丸山真男が、この本居―→折口の「ムスヒ」神論に依拠して、「歴史意識の『古層』」という日本政治思想史論を構想したことも学界ではよく知られている。

 しかし、この折口の議論には重大な錯誤があることは後に述べる通りであり、ここで「導きの糸」というのは、折口の「ムスビ=結び」神論ではない。つまり折口は、その晩年、新たな神道のあり方を打ち出そうとした。折口にとっては、第二次大戦の敗戦による天皇の「人間宣言」と国家神道の崩壊がきわめて大きな衝撃であったことはいうまでもない。折口は、その「人間宣言」の約一年後、「天子非即神論」という論説を発表し、そこで「今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」と述べている。折口が早くから国家神道に違和感をもっていたのは疑えない事実であるが、この論説で、折口は、国家神道を主導した学説は、「素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」と断言している。そして、折口は、明治時代以降、国家神道の下でむしろ抑圧されたり、軽視されたりしていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興する方向に梶を切ろうとしたのである。

 これは近代日本思想史における折口の位置からしても真剣な検討に値する問題であるが(参照、安藤礼二『場所と産霊』講談社、二〇一〇年)、ここでは、それが「ムスビ=結び=産霊」の神についての論説の再検討という形をとったことが問題である。折口は、タカミムスヒをトップとする「ムスビ=産霊」の神は「我々の信仰しつづけている神道」「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であると述べている。そして折口は、若い神道者たちを前にした講演において、この産霊の信仰について「あなた方は、神道の為に努力して頂くのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」とまで強調している。別の講演では、「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」として「民間神道」の意味を強調しているのも重大であろう。折口は「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」とまでいって、いわば民俗学によって、神道の宗教改革を実現しようとしたのである。

 折口が、その中で展開した「ムスビ=産霊」の神についての再検討においてもっとも重要なのは、一九四七年に発表した論文「道徳の発生」で述べた議論であろう。肝心なところを引用しておくと次のようになる。


 「この神には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である」(三四五頁)


 このようにして、折口は、「ムスヒ=産霊」の神という図式を越えて、この神に本来は「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」という性格があったことをみとめようとしたのである。そして、注目されるのは、折口が、「至上神=元の神」に「部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」(傍点筆者)という荒々しい自然神としての性格をも読みとろうとしいていたことである。折口は、この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」であるという捉え方も提出している(「道徳の発生」『全集』一五巻)。ようするに折口のいう「神道」の基礎にある考え方としての「忌み=謹慎」の宗教倫理の原点に、この至上神があるという訳である。

 ここに至上神が「天変地異を降すもの」であるとされているのがきわめて注目される点である。しかも「琉球・台湾・南方諸島にもっとも近似した神観」というのであるから、これを敷衍すれば「天変地異」として火山の噴火や地震が当然に視野に入ってきたのではないだろうか。しかし、残念ながら、折口は、この「至上神=元の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。とくに残念なのは、小川直之がいうように、この論文「道徳の発生」が発表された七ヶ月後に行われた柳田国男との対談でも、この論点が話し合われなかったことであろう。というのは、折口が、「天変地異」について「落雷」を例示しているが、早く柳田が、「雷神信仰の変遷」という著名な論文において同じようなことを述べているからである。これも決定的な文章なので、下記に引用しておこう。


 「久しい年代にわたって我々の国民に、最も人望の多かった『力を天の神に授かった物語』、および日本の風土が自然に育成したところの、雷を怖れて、これを神の子と仰ぎ崇めた信仰(中略)の第一に算えらるべきものは、賀茂松尾の神話として永く伝わった別雷神の誕生譚である。(中略、それは)雷神の奇胎するするところであって、いわゆる三輪式の説話と対照することによって、解読が始めて可能である。すなわちかって我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである。それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない」(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。


 これは折口の見解と実際上同じものである。「皇室最古の神聖なる御伝えと合致しない」、つまりアマテラスよりも古い神として「紫電金線」の神、稲妻を走らせる雷電の神という図式は、柳田・折口において共通するものなのである。というよりも、折口の議論は柳田の議論を下敷きにしていたのであろう。柳田と折口のあいだ、人間の生き方という点でも複雑な葛藤をふくんでいるが、しかし、やはりきわめて緊密な師弟関係にあったから、二人の対談で「既存者=元の神」について論じられなかったのは、当人同士にはあまりに当然なことはふれられなかったということなのかもしれない。

 第二次世界大戦が我々の国にもたらした影響と、敗戦後の状況は、すでに遠いものとなっており、その頃のことでわからないことが多くなっている。学問の歴史においても、そのころのことを取り戻すことはできないのであるが、しかし、ここに確認した柳田――折口の試論、つまり天変地異の神、雷電の神としてのタカミムスヒという忘れられた試論を「導きの糸」として、以下、天孫降臨の至高神・司令神タカミムスヒについて考えていくことにしたい。歴史神話学の根本問題を検討するにあたって、「導きの糸」を歴史学ではなく、民俗学・神道学に求めなければならないというのは、私のような歴史学徒にとっては大問題であり、こういうことになった理由を考えざるをえないという気持ちになる。しかし、この問題については、この研究を終えた後に、よく考えてみることにしたいと思う。

2014年5月28日 (水)

「研究と教育の統一」という命題の特権性の自覚。―歴研大会全体会(2)

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 これは学芸大の槻の木、ケヤキの木。月神は、桂だけではなく、槻にも降臨するのではないか。似た枝振りなのではないかと思う。


 さて、歴史学研究会全体会の話。レジュメに書き込んだメモを忘れないうちに文章化しておく。
 
 まず今野日出晴氏の報告「歴史教師の不在―なぜ『歴史教育』なのか」であるが、歴史学の現状をよくとらえていると思い、賛成のところが多い。私も50年代の歴史学と現在の歴史学がもっている「原初の問い」の共通性という意見は大事だと思う。石母田正さんがやろうとしたこと、などといわれると、私などはすぐに感動してしまう。

 討論の差異の応答も見事で冷静なもので、私のようなshort-temperな人間にはできないことである。頭がいいのだと思う。

 まず共感するのは、「歴史学と歴史教育という分業の形を前提とすることへの違和感」ということである。たしかに、この言葉は「歴史学と歴史教育」を区別するところから出発しており、きわめて問題が多い。野口剛「歴史の学びの原初的形態へ」(『歴史評論』749号)が、このような用語法は「形を変えた新たな純正史学と応用史学という二重構造」であるとしている通りである。俺は「歴史学」、あなたは「歴史教育」というのは、考えようによってはたいへんに特権的な言辞である。こういう用語法を再検討することは、大学院が歴史教師の履歴で多くなっているなかで実際的な意味をもっている(実質上は、歴史教師の定員が十分に補充されていないなかで、大学院履歴が競争の手段となっているような実情は問題が多いとはいえ)。

 「歴史学と歴史教育」ではなく、「歴史学における研究と教育」というのが正しい用語法である。その上で、歴史学における研究と教育が、一定の分業性をもっていることは事実であると思う。職業的な専念とディシプリンからみれば、一定の分業制は必然であると思う。しかし、それは現状の「分業」の形を前提とすることではない。専門性のもつ社会的役割についての合意を前提に、社会分業の形を組み直す方向を展望することが必要であり、そのなかで、より厳密な用語法と思想を共有する方向に進むべきであると思う。

 さて長くなるが、このより厳密な用語法を考えるためには、歴史学にかかわる(1)人格と(2)職業と(3)力能を区別することが必要であると思う。

 まずすべての前提になるのは、歴史学にかかわる人格の概念で、それは「歴史家」と「歴史学徒」という言葉によって定義されると思う。

 たとえば、私は、自称「歴史家」である。つまりいちおう職業歴をもち、それで長いあいだ生活してきて、また歴史というものの全体について考えるということを希望しているという意味で「歴史家」である。自分をそう呼んで自分を励ましているわけである。

 より事実に即して、またハンブルにいえば、私は歴史学徒である。この歴史学徒という言葉は、私の記憶では、阪神大震災を契機に作られた資料ネットのなかで生まれた言葉で、これは資料ネットの運動が歴史学にとってもっている意味を象徴する言葉であると思う。つまり、歴史というものを大事だと思い、歴史を学ぶということを学術としての歴史学にかかわって意思し続けている人とい意味での歴史学徒である。これは論文を執筆するかどうか、職業は学者か、教師か、あるいは編集者か、ジャーナリストか、あるいは直接に歴史学の仕事との関わりがないかなどとは関係ない。

 歴史家・歴史学徒というのは、ようするに人格の具体的な性格の一つとしてそれをもっているということであって、学問性を前提とした人格概念である。そして歴史学の学者も教師も同じ歴史学徒なのである。歴史学徒としては対等平等である。歴史学徒は、野口剛氏のいく「歴史の学びの原初的形態」を共有し、また今野氏のいう「原初的な問い」を共有する仲間なのである。これが原則である。


 第二の職業というのは学者と教師という概念であろうと思う。これは職業上の専門性を表現する用語であって、これで金をもらって、これで生きているということである。金をもらってきた、社会によって生かされてきたということにともなう責任が、ここにはかかってくる。その意味では、私は自分を学者であるというように自称できるように努力している。金ということを考えないのが学者であるというのは一つの無責任な俗物的言辞であり、ぎゃくに学者という言葉を使用しないというのはある場合は気取り俗物であり、ある場合は、「金をもらっている専門家でありながら何だ」という批判をさける甘さである。なお、この学者・教師というのは職能的には兼帯しうる概念である。たとえば大学の教員などは「学者であり、教師である」というのが普通で、俺は学者ではないというのは、その分の給料が只取りであり、不当利得であるということを自認するに等しい。


 第三の力能(あるいは機能)というのは研究と教育である。これは学者と教師に対応する側面があるが、しかし、力能と職業は一対一対応ではない。学者の力能において教育力量、研究力量などは両方とも必要になるし、教師の力能においても、同じである。いわゆる「研究と教育の統一」という範疇は、このレベルで考えることであって、これを実際には、しばしば大学にのみ極限してしまうのは、意識的にせよ、無意識的にせよ特権意識である。なお、「研究と教育の統一」という議論は、1970年代初頭の大学問題のなかで我々の世代には提起されたものである。つまり大学教養部の改革問題との関係で提起され、当時の学術教育運動のなかでは一つの合い言葉になっていた。それ自身は正しい側面をもっているが、しかし、この考え方は、前述の職業、人格ということを十分にふまえて考えないと、実際上は、大学あるいは研究職にのみ極限され、特権意識の温床になる。「教育だけでなく研究が必要だ」という意識のなかには「研究だけをしたい」という欲求がまぎれこむ。これは、歴史学徒としてUniteして社会に向き合い、協力しながら全力をもってその社会的な役割を果たそうという意識に逆行する。

 さて、今野報告で若干気になったのは、「歴史学と歴史教育という分業の形を前提とすることへの違和感」というのはあくまで正しいが、しかし、「歴史学における研究と教育」が現実には、人格・職業との関係において社会分業の形をとること自体は事実であることである。私たちは、現実の社会分業をそのまま前提にすることはできないが、その現実社会における分業のあり方を組み直すことを「制度」としても構想すべきことはいうまでもない。全体会で油井氏が問題にした「制度」と今野報告のいう「原初の問い」を総合して進んでいくということが必要なのであろうと思う。

 それにしても、石母田正がいわゆる国民的歴史学運動の反省を述べた文書のなかで(『戦後歴史学の思想』)、私たちは、私たちの動きを「現代社会における発達した社会分業のなかに位置づけるということについて、あまりにも無意識であった。サークル主義的であった」と述べていることの意味を考える。私たちは、あの頃から比べれば、たしかに「遠くへ来た」。しかし同じ道を歩んでいるのだと思う。

2014年5月26日 (月)

「歴史の細部に神は宿る」ーー歴研大会全体会(1)

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桂の木。自宅近くの小川へりの桂。桂に月が宿るというのは、カツラの木の、こういう密集した枝の中に月が隠れてしまうというイメージだと思う。「槻」の木というのも同じ枝振りのところがあるのではないかと思うが、これは確証・傍証をまだえていない。

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 下に掲げたのは有名な青木繁の「わたつみのいろこの宮」の絵。『古事記』によると、竜宮の門前の「湯津香木」(神聖な桂の木)の上にいたとある。しかし、これは「桂」になっていない。幹は横縞だし、葉は海藻のようだ。

 これは青木の仕事の評価とは別のことであるが、しかし、歴史学からみると、これは「細部に神は宿っていない」絵の例であるということである。微視的な視点が正確ではないというのは歴史学にとっては気になる問題である。

 青木の仕事は神話絵絵画の初期の例だが、神話絵画は、「皇国史観」全盛とともに非常に好まれるようになった。興味深いのは、第二次大戦前に製作された神話画はそれなりに考古学の成果をいかしていたということである。船などは考古学的な発掘情報、「はにわ」などにもとづいて作成されたという。考古学のなかでは、そういう絵の素材を提供することを好む心理もあったようである。
 
 しかし、それらは現在からみると、おそらくすべて「神は宿らない」絵であることは明らかになってしまった。


「歴史の細部に神は宿る」ーー歴研大会全体会(1)

 いま総武線車内の朝。昨日に続いて歴史学研究会出席。昨日は「中年」グループでのんで楽しく。関西から定年で帰ってきた高校の先輩ともばったり。「命の碑」は30部ほど購入してもらう。今日は近世史部会に顔をだして、買ってもらい、その後、特設部会「史料保全から歴史研究へ」で購入を御願いするつもり、リュックが重く、それを軽くして帰れるかが問題。

 昨日の総合部会全体会は面白かった。大黒報告「文字のかなたに声を聴く」、岩城報告「歴史資料としての手紙の可能性」、今野報告「<歴史教師>の不在」というラインナップで、大黒報・岩城告と今野報告がどう討論でマッチングするかが心配であったが、さすがに歴研で、最後にうまく問題がつまっていく。とくに私は専攻の時代が同じなので、今野報告に感動。彼は、殺生禁断論で修士論文を書いていて、歴史教育論を彼が強調する気持ちのようなものがわかる。

 三報告を通じて問題にされたのは、歴史認識の方法論の問題。古い言葉だと「歴史の追体験」ということ。人々が歴史を追体験するということを歴史学者が歴史史料を調査・研究して経験することをだぶらせてとらえるという方法意識についてであったと思う。それは一種の超越的な経験で、「ここではないどこか」に自身を連れ去っていくという経験のあり方である。逆にいえば、過去への超越、人間の記憶の下部構造への超越であるから、三木清流にいえば基礎経験ということになる。

 そういう事情が大黒報告では「彼方に声を聴く」、岩城報告では「公文書ではみえない生々しさ」、今野報告では「見えないものをみる」という言い方でいわれていた、

 ただ、追体験という言葉はさすがに古く、私などだと色川大吉や橋川文三の世界。私は、そういう歴史認識のあり方を重要だとは思うが、しかし、法則認識をふくむ歴史認識への回路が取りにくい言葉である。これの代わりに私は遡及的認識という言葉を考えている。過去を認識することによって、過去へ自分を連れ去ることによって現在へはね返る認識という意味。過去へ遡及することによって、そこに現在の問題の根を発見し、それによって現在を相対化する。それを過去に仮想的に身をおいてみて現在を超越する。そしてそういう経験を媒介にして現在のなかにより深く入っていくというようなこと。私は、その意味でなら、クローチェ的命題「すべての歴史は現代史である」をみとめている。

 呑んでいる時に話題になったのは「神は歴史の細部に宿る」という言葉。この言葉についての否定的意見があった。細部のみを大事にしている若手研究者がふえているのではないかということ。これは事実であるが、これは研究史の必然であり、しかもわれわれ自身がそういう状態をつくってきたというのが、私などの自己認識。

 しかし、ここでの問題はそれを越えて、「神は歴史の細部に宿る」という言葉の解釈である。この言葉は「神は歴史の細部に宿る」、つまり神の姿の片鱗が歴史の細部のなかに現れることである。神を歴史のなかに発見することということのベースにあるのは、歴史を我々の手から離れた存在として観照することであろう。討論で戸辺氏がいっていた言い方だと、そこに「所有」できないものとしての歴史があらわれるということである。どこへ進むともみえないとしても、我々すべてを押し流しているものがあるという認識である。それを前提にして神の片鱗を発遣する。歴史のなかに神の人格の片鱗を発見すること、よし正確な言い方をすれば、歴史の客観性(神)を具体的(人格として)に認識することがすべての基礎となる。現在にいたる歴史的条件を正確に認識すること(いわゆる法則認識)は、この発見と超越なしには生まれない。

 それに対して、呑みながらK氏がいった否定的な意味での「神は歴史の細部に宿る」というのは、歴史の細部をみる自己自身を神としてしまうことである。これは、この著名な命題の誤解であると思うが、細部に入りこむことは自己を「無」とすることであるが、その経験から現実に立ち戻るとき、自己を相対化できずに自己を「神」としてしまうという錯誤の道である。「歴史の細部に対して自己が神であるかのようにそびえ立つ」ということであり、これは実際上は、歴史の自己の恣意の下に置き、歴史を断片化して「所有」してしまうという倒錯である。このしばしば沖がちな倒錯。

 この問題は以前の記事に書いた「遡行的な歴史認識が、同時に微視的な認識を必須のものとしている」という事情にかかわっているが、くわしい展開はまた別の機会として、全体会の話にもどる。
(この項目続く)


2014年5月22日 (木)

拙著『平安王朝』への批判にこたえての私的な手紙。17年前のもの

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 明後日は歴史学研究会大会である。一日目は歴史教育、二日目は地殻災害と文化財保存の問題なので、今年は両日でようと思う。
 毎年出るようにしていたのだが、職場の最後のころは体力がつづかず、3回に一回は出なかったことがある。

 三重県の津波碑のパンフレット『いのちの碑』を三重の新田先生から送っていただいたので、会場で必要な人には買ってもらおうと思う。500円です。顔をみかけたらいってください。

 今年も、卯の花が咲いた。この株だけが花がよく咲く。これを植えた20年近くまえ、戸田芳実さんがやった卯の花垣論を受け継ごうとした。その結果は「和歌史料と水田稲作社会」で一応は書いたのだが、書きたいことは途中までになっていて完了していない。すでに時間がなくなっているが、早く当面の仕事をやって、本来の仕事にもどらなければ申し訳ない。いろいろな人に申し訳ない。歴史学の仕事も、結局、そういう記憶と衝迫力で持続していく。

  以下は、拙著、『平安王朝』についてのある著名な古代史研究者からの手紙への反論です。この本は出したときに、吉田孝さんが呼びかけてくれて、たしか歴史学研究会の古代史と中世史で合同で書評会をもってくれた。高橋昌明氏が批判をしてくれて、ミスを指摘された。なにしろ政治史などをやったのは始めてであったが、いつもあわてて書くので、たしかに私の仕事にはミスがでがちである。これは弁解にはならないが、早く次の仕事がしたいという焦りのまま、突っ走るのがよくない。
 これからいろいろ修正の時間があるだろうか。

 さて、私への批判の手紙は、方法的なもので、とくに保存運動仲間なので遠慮がなく、強い批判をされた。そこで強い批判を返した。ある研究会で配布したことがあり、しかも、もう20年前のの手紙である。御本人に、歴史学研究会で会うかもしれないが、もう時効なので、勘弁してもらう。

 彼、O氏の仕事は傑出しており、強い親近感があるが、しかし、意見は違い、歴史学は、結局、おのおのの信じるところを進むほかないということである。

前略
『平安王朝』についての感想の手紙をもらいました。古代史の研究者との論争は望むところですので、少し、自分の意見の説明をしたいと思います。そのうちに、直接にはなす機会があればありがたいと思います。

 御手紙の順にそって、反論をします。

まず、私は、御手紙のいうようには、この本を「現代歴史学への批判の書」とは考えていません。現代歴史学、特に戦後中世史学の基本線をそのまま維持しているつもりです。同封の「歴史を通して社会をみつめる」という文章に、ありますように、従来の摂関政治・院政というシェーマは、いわゆる「武士発達史観」の裏返しであると考えています。そして、黒田俊雄氏によるこの「武士発達史観」批判は、中世史研究においては共通理解たりうる性格をもっています。私の意図は、「武士発達史観批判」を政治史にまで延長することにあります。もちろん、研究史に対する批判はあります。しかし、明示しませんでしたが、批判の対象は、率直にいって、アカデミズム政治史、たとえば土田氏、橋本氏、石井進氏などの平安時代・院政期政治史です。

 それらは全体として政治史の体裁をなしていない、特に平安政治史にかぎっていえば、異様に評価の高い土田氏の『王朝の貴族』はほとんど役に立たない。土田氏は政治史の何たるか、国家の何たるかがまったく分かっていない、と考えています。少なくとも、平安時代の政治史叙述のための基礎実証作業は、山中・角田の仕事の方が位置が大きいことは確実です。アカデミズムを駄目にしていたのは、王家の内部矛盾に踏み込んでタブーをおそれず議論することの忌避、頼朝を偉大な政治家と述べるような時代錯誤、非政治的・非階級的観点などなどであることは明らかです。私は、戦後歴史学批判なる論調が事実上、アカデミズム歴史学の免罪しか意味していない場合が多いことは、たいへんにおかしいと考えています。本書で述べたことの相当部分は、その職責からいって、当然にアカデミズムの側で議論しておくべき点が多かったはずです。

 さて、次に、本書の直接の執筆意図についてですが、御手紙が本書の執筆意図として挙げたのは、二点、第一は、「平安時代400年が一つの時代として総体的理解がなされていなかった現状への批判」、第二は「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論に対し、時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態を、摂関対天皇の図式からではなく王権の歴史として描き出してみせること」です。第一点は、ありがたい読みですが、「一つの時代としての総体的理解」とまでいわれますと、過分かつ少し違っていて、本書がねらったものは、あくまでも政治史の(と王権の歴史の)総体的理解に過ぎません。平安時代の総体的理解に政治史の総体的理解は絶対に必要であるとは考えますが、そこから先の社会経済史の理解(その運動と移行)こそが、もっとも困難な課題と考えているものです。


 第二点の読みについては、率直にいって不満です。まず「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論」が政治史のイメージとしては、王権の免罪と美化になっていたこと、いわゆる不執政論の最大の根拠になっていたことという現状認識、これは中世史の研究者ならばすぐに理解いただけることだと期待していますが、お手紙の雰囲気では、我々の間での共通認識にはなりえないようです。そして「時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態」を分析することに、本書の意図があったのではなく、むしろ平安王朝、王家内部における熾烈な権力闘争の「日常的」存在を描き出すことを通じて、王権の歴史を描こうとしたものです。端的にいって「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論に太子、時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態を、摂関対天皇の図式からではなく王権の歴史として描き出してみせること」ぐらいの議論の建て方や志向などは、むしろ通説を補完する議論としてむしろ一般的なものであるというべきでしょう。

 お手紙では、以下、批判が続くことになります。まず「王の物語、それが血縁関係をどう構築するかという一点に絞られて叙述されるのはいいのですが、これが平安時代史だとは、いや平安時代の政治史だとはどうしても思えないのです。御著書の最後には宮廷政治史とありました、これならわかるのですが」という強烈な文言が登場します。これについては、まず、従来の摂関時代史は、たとえば後三条の血統論をとっても単純に血縁関係を論じていたという研究史の現実を見ていただきたいと思います。そして、「血」とは王の呪物的な身体の実態であるという王権論の基本問題をどう考えるかというレヴェルで議論が必要です。古代史研究者は、たとえばマルクスのヘーゲル国法論批判、その他の王権論を真剣に考えたことがあるのでしょうか。私は、最近の古代史研究者には理論の貧血・貧困を感じることがしばしばです。そして、私は、単なる王の血族的系譜論ではなく、それを王権内部の対立を導くものとして、特に天皇と皇太子の対立から院と天皇の対立という形態転化を追跡する形で問題にしていることは、序を読んでいただければ明らかです。これは「あまりなお言葉」というものではないでしょうか。問題にするならば、この内容に踏み込んで議論をしていただくか、理論全体を問題にするかで進んでいただきたいものだと思います。いずれにせよ、そのような議論を抜きにして、「宮廷政治史」を現在研究することの意味に否定的な態度をとるのは、現実には史料の多い「宮廷政治史」のような簡単な仕事でさえ、戦後アカデミズムは不徹底な仕事しかしていないということを免罪するものです。たとえば石井進氏は後三条天皇について「天皇は久しぶりに現れた藤原氏を生母としない天皇(宇多天皇即位以来、実に一七一年目にあらわれた)、(中略)摂関家との対立感情も強烈であった。帝王学を学んだ皇太子は、すぐれた学才をあらわすとともに「世の乱れたらんことを直させ給はん」と、摂関政治の是正に意欲を燃やしていた」としていますが(『日本歴史大系①』九三二㌻)、158㌻で述べたような、このような見解に対する批判が成功しているかどうかをお聞きしたいのです。

 なお、お手紙では、「私は奈良時代で政治史を追究しています。その基本にあるのは政争史ではない政治史です。奈良時代の政治史といえば、プレ平安時代史=藤原氏による政権独占体制の前史としての、天皇・藤原氏関係をえがく政争史を克服することが課題である」とされていますが、しかし、本当に奈良時代の「政争史」は政治過程の運動にそくして解明されているのでしょうか。私は、天武系王統が内部で最大限の殺し合いを展開するという形で展開した奈良時代政治史の運動過程を総体として理解し、天皇制がどのような母班を刻みつけられて登場することになったかを明らかにすることはきわめて重要であると考えています。たとえば「仲麻呂の乱」は知られていても、それが偽王を担いだものであり、王統内部の殺し合いと密接に関係して展開したこと、それは傾向としては天武系から天智系への王統交替を導き出すものであったことなど、古代史家にとってはあまりに当然のことでしょうが、それは国民的常識になっていません。それは古代史学界が政争史の全体的理解を打ち出しておらず、結局図式としては、「プレ平安時代史=藤原氏による政権独占体制の前史」という安易なシェーマに流されているためであると考えています。今でも、長岡京遷都は、奈良の宗教勢力から逃れるとか、水陸の要衝の地をしめるだとかいう常識がまかり通っている現実をどう御考えなのでしょうか。

 これは政治史というものの理解の仕方に関わるのでしょう。お手紙は、政治史のなすべき仕事を「政策論レヴェルでの党派形成、政策論にもとづく政権抗争、実態としての国家権力の発現装置=官僚機構、天皇権力の展開」などと述べられていますが、これはあまりに静的な政治史の捉え方であり、実質上その政策論と制度論への解消というものです。政治史とは、政治を社会的政治的矛盾の焦点として位置づけ、何よりもそのようなダイナミズムをふまえることによって、運動としての政治、政治過程の展開を叙述することであったはずです。それは政争や「政策」などのきれい事では必ずしもない諸契機によって形成される党派の形成や術策、そして軍事史などの政治史の現象形態を「政争史」であるとして切り捨てることからは生まれてこないはずです。

 もちろん、本書が「政治を社会的政治的矛盾の焦点として位置づけること」に成功しているとはいいません。本書は政治過程における矛盾の焦点として王権の動きを追究したもので、政治的社会的矛盾全体との媒介の追跡は直接の課題としてはいません。しかし、いくつかの指摘はしたつもりで、たとえば、武家の登場が国家中枢の暗闘と関係していること、特に冷泉系王統と源氏の近接という論点を提起しています。これは、本書にとっては最大の仮説で、平安初期王統対立の中での師輔・花山・満仲の評価、尾張国司藤原元命の評価、小一条院から輔仁王への王統対立の中での源家の評価、そして源平対立の初発形態の評価などの問題と関わってくるもので、この点の批判を受けたいと考えています。

 さて、「御著書を拝読して驚かされたのは、国家権力とか、人民支配とかいった側面がスッポリ抜け落ちている。やはり平安時代における国家権力の、権力形態の構造分析、人民支配の内実、支配階級の支配の実相などが総体的に説明されて初めて平安時代政治史になるのではないか」という最後の指摘は、私にはお説教と響きます。これに直接にお答えすることはせず、以下、「王の身体の呪物性」「王の物語」「都市王権」という序での三つの執筆意図の説明と重ならない限りで、私の執筆意図とその前提を記しておきたいと思います。

第一には、日本史における天皇制の展開、そのハイタイムをどう捉えるかということです。私は、日本天皇制は、8世紀に国家権力全体の中に構造的に位置づけられ、挫折を経て、9世紀・10世紀・11世紀に古典時代を迎えると考えています。この点では吉田孝氏の見解と相似してくるでしょう。そして、平安時代末期の内乱を創出することによって、そのハイタイムは終了し、南北朝内乱でなかば自滅すると考えています。その政治過程の現象形態の特徴をなすものは都市宮廷内部における王の恣意の拡大とそれによる矛盾の再生産にあると考えます。これがデスポットというよりも、都市的な場の内部における恣意という形態をとったのが、都市王権の特質といえるのでしょう。ここで、重要なのは、やはり天皇制を歴史的な条件の中で見るということであって、それはほぼ400年ほどの期間、十全の形で存在したものに過ぎないというように、考えることです。その400年は、日本の政治支配と文化にとって決定的な意味をもったことも事実ですが、しかし、天皇制が実体的に同一論理で持続したとは、私には考えられません。この点、保立の議論は裏返すと皇国史観であるという御意見もあるようなので、念のため付言します。

 第二は、平安時代史研究の現状をどう考えるかということです。社会構成体の移行論が取り組まれないようになり、トリヴィアリズムが一般化し、制度史に対する否定的評論が忌避されるというような状況は学界として健康であるとは考えられません。どうにかして制度史は相対化せねばなりません。私は、制度史という研究分野が必要であることを否定はしませんが、少なくとも、制度の論理と社会的機能の分析につながらないような研究は嫌いです。さらに旧態依然たる「政治史」を放置したままでの制度史への入れ込みは、本質的には国家論的分析を深めることにならないと考えています。ようするに研究課題の選択の仕方が違うということなのですが、初心をいえば、どうにかして政治史を人民闘争史・民衆史との関係で考えたいということになります。そして、私は、尾張国解文論や後白河論の部分で、少しそのきっかけをつかむことができたかと考えています。また、「誰でもできる平安時代」という言い方が賛同を得られないようですが、実は、これは平安時代史料フルテキストデータベースの構築を行っている者としての感想であるということも付言しておきたいと思います。ともかくすべての勝負は社会経済史であり、構成体論とその移行論であるという立場は、まったく変わっておりません。

 第三は、歴史学研究の社会的文化的役割をどう考えるかということです。特に中世前期の研究者は、日本文学・平安文化論との対応をしなければなりません。中世史の中でもそのような役割が大きい分野であると思います。私は歴史学が物語をかたってよいとは考えていませんが、しかし、文化の中で、どのような役割を果たすべきかについては十分意識的でなければならないと考えます。
以上、長くなり、激越なことばも入っておりますが、私信ということでお許し下さい。

1997年7月12日
保立道久

2014年5月13日 (火)

地震火山観測研究計画の新方針とブループリントの問題点。

 歴史学研究会から依頼されて、特集の「3,11からの歴史学」に状況報告をせよということで、私も参加した科学技術学術審議会測地学分科会の次期研究計画検討委員会(主査、末廣潔)の2014年度よりの研究五ヶ年計画「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について(建議)」について書いている。
 締め切りを「少し」過ぎているが、建議の内容についての基本のところの下書きができたので、そこだけ御紹介したい。今日中に送らないと。
 全体は9月号掲載の予定。是非、御購入ください。
 
 なお、火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長が、九州電力川内(せんだい)原発の危険性を強調し、この建議には火山噴火の規模や様式は現状では予測不可能であると明記したということも報道されている。この建議は文部科学省HPからとれる。
 

 建議の全体的な特徴は一言でいえば「地震・火山の観測研究計画は、国民の生命と暮らしを守るための災害科学の一部として推進する」という方向転換を明示したことにある。これは当然のことにみえるかもしれないが、地震や噴火が引き起こす自然現象はあくまでも災害の誘因であって、災害の素因は人為的に作られた自然環境や社会環境の脆弱性にあるという災害科学の原則が正確に書き込まれているのが重要である。

 これはベン・ワイズナー『防災学原論』(邦訳築地書院、At Risk: Natural hazards,people's vulnerability and disasters再版2003)によるもので、同書は自然現象としてのhazardsと社会現象としてのdisastersを明瞭に区別し、とくに「先進」諸国によって構造的に作られた社会構造の脆弱vulnerability性が開発途上国における災害の決定的な要因をなしていることを明らかにした社会科学書である。これによって災害科学の諸概念と対策指針が国際的に根底から変わったといわれている。災害の「素因」を自然現象に求めてしまうイデオロギー的・文化的な偏見が払拭されていない日本において、これが公的に確認されたということには一定の意味がある。また地震学・火山学をこの意味で「災害科学の一部」とするということは学術的な批判精神を内在的なものととらえる方向を示しており、社会人文科学と協力して社会的な視野のもとに災害を防止する方向にシフトするという意思表明でもあると受け止めるべきものであると思う。

 もちろん地震学・火山学にとっては理学的な予測と基礎研究が基本的な位置をもつことはいうまでもないが、従来は、地震予知とは「いつ、どこで、どの規模の地震が起こるか」を予測することだというあまりに災害誘因の理学的予測に片寄った自己意識が一般的であった。これに対して、建議は「理学、工学、人文・社会科学の研究分野の専門知を結集して総合的かつ学際的に研究を進める災害科学においては、むしろ『前もって認知し、災害に備える』ことを幅広く捉えて『予知』という言葉を用いる方が妥当である」とし、「予知」の概念を「災害予知」(「災害の姿を予め知る」)に拡張した。従来の図式はいわゆる地震予知研究のブルー・プリントによるもので(「地震予知―現状とその推進計画」、萩原尊礼など有志グループ作成、1962年)、これが地震予知研究計画の出発や、大規模地震対策特別措置法(1978年)の前提となっていた。しかし、実際にこの文書を読めば一目瞭然のように、その視野はあまりに狭く、現実社会の脆弱性に対する見方が甘く、まさに青写真主義といわざるをえないものである。これに対して、建議は、予知という言葉を社会的な予知を含むものとして捉え直し、その立場から、歴史的・地理的・文化的な認識や社会工学、さらには防災行政の改善などを前提とする「災害の予知」という立場をとったのである。

 これは3,11の後に一次議論となった「予知」という言葉についての地震・火山学界の公的な回答であると考えることができるものである。地震火山列島で活動する自然科学・工学・社会人文科学の研究者たちは、この問題提起に答え、「国民の生命と暮らしを守るための災害科学の一部として推進」される「地震・火山の観測研究」に協力することを公的な責務と考えなければならないと思う。

2014年5月11日 (日)

神話学の勉強。

 神話論で依然として躓いている。
 まったくこれまでやったことのない分野なのだからやむをえないと考えて、もう一度、根っこから考えている。イェンゼンの『殺された女神』を全部読んだが、フレーザーの『火の起源の神話』を読まねばならないということになって、たしか以前少し読んだはずだ、書棚にあったはずだと思ったがない。

 そこでやむをえず古本を購入依頼。とどくまで仕事ができない。松前健さんの『日本神話の新研究』が種本なのだが、そのまま引き写すわけにはいかない。本当はポリネシアについてのR・W・Williamsonの英文の本をよまなければならないが、さすがにそこまではやってられない。

 しかし、考えてみると、いま考えているのは火山神論、自然神論なのだが、方法的に一番新鮮なのは、私には溝口睦子さんの神名についての論文である(「記紀神話解釈の一つの試み」)。岡田精司さんの重厚さと溝口さんの鋭さの間で「うろうろ」というとことである。

 自然神と一言でいうが、次に見事な引用する文章で、溝口さんがいう意味での「擬人化」というのは、これは現代まで存在するような意識のあり方だと思う。これは神話というよりも言語表現の問題だと思う。シナツヒコは「風さん」、オオゲツ姫は「ご飯さん」というのは言い得て妙であると思う。
 その溝口意見を認めた上で、物語・劇になることによって人格神が生まれる訳であるが、タカミムスヒとかカミムスヒとか、イザナキ・イザナミなどの「人格神」。自然神としての人格神は神話時代、古墳時代にも居たのではないかというのが最大の疑問。風さん、ご飯さんとは違って物語化した神、劇化した神にすでになっていたのではないか、そういう神も居たのではないかと考えたいのだが、まだ結論はでない。
 

 溝口さんの意見の中枢部、長いが、引用を許されたい。
 童話の世界と神話の関係という問題の捉え方が何とも好ましい。

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 我が家の老猫の調子が悪く、夜起こされることが続いている。いまも足下にいる。
少し元気になったのでほっとしているが、猫を人格化して捉えているのに失笑する。これはどういうことであろう。
 Deep ecologyというのはあるいは神話時代の復活であろうか。
 などということを考えていても実証研究は進まない。

 以下溝口さんの論文より。童話の大好きな娘に入力してもらった。感謝。
 

 われわれはいま「――ヒコ」「――ヒメ」といった神名に対して殆ど馴れっこになってしまっているので、神様というものはヒコとかヒメで呼ばれるものだといった感覚すらあり、少しも珍しいことだとは感じられていない。しかし、このことの中には日本古代の思想の特質を考える上での非常に重要な意味がかくされており、又今問題にしている「神」概念と「神」以前の神霊観や自然観との違いの究明にとってもポイントになる重要な内容がふくまれていると筆者は考えている。
 こういった特色について、現在一般にはどう受け止められているかといえば、神名についてのこういった特にヒコ・ヒメ等の呼称は、一般に人格神であるしるしとして受けとられているといってよい。しかし一方、人格神観念の成立は、六、七世紀以降であるとみられている。このため例えば前川明久氏のように、ヒコを三世紀以降の称号とされながらも、ヒコを含む神名に限っては、六世紀後半、主として七、八世紀にかけて成立したとされるなど、一つの矛盾につきあたる。このようにヒコを人格神と規定してしまう限りこの矛盾はさけられないが、その矛盾からのがれるために、いま人格神ととる受け止め方自体を改めて検討し直してみるとどうなるか。
 例えばここにシナツヒコ(シナ=風、ツ=助詞「の」)、大ケツヒメ(ケ=食物)という神名がある。これはあきらかに風や食糧の擬人化である。ここまでは余り問題がない。問題はこういうものを直ちに人格神とすることができるかどうかという点にあるわけで、それを考えるためには先ずこの神名を一度自分の言葉として実感に即してとらえ直してみることが必要である。シナツヒコは現代語でいえば「風さん」とか「風の又三郎」といった語感に近い。つまりこういう言葉を口にしたときの「台風何号」といった時と違った風に対するひどく身近な感覚を思い起こしてみなければならない。自然に対するこういった、現代では童話の世界にしか生きていない現代と全く異なった感覚の異質さに目をむける必要がある。
 自然に対してこうよびかけることは、彼等が自然の中に抽象的な人格を認めたことを意味するのだろうか。古文献には「其磯名謂勝門比売也。」(仲哀記)と磯をヒメと名づけたり又島をヒコでよんだりする例があるが、これらも磯や島に人格を認めたためだろうか。そうではなく、これは彼等が自然と人間を同一視し、自然を人間と同じ延長線上にあるものとして考えていることを意味しているとみるのが正しいだろう。同じく擬人化するといっても、われわれのように自然と人間の違いをはっきり意識しながらたまたま自然を人間になぞらえてみるのとは根本的に思考の型を異にしている。
 シナツヒコは風そのものをさし、カヤノヒメは野そのものをさし、大ゲツヒメは食糧そのものをさしているが、そして同時にそれらは風や野そのものでありながら時に人間のような活動をすることもある。その転換の自由さにはわれわれに理解しがたい面もあるが、こういった思惟のあり方はの反映であり、そういった思惟の中における展開だと考えた時、はじめてよく納得できる。原始、未開という言葉が適当でないとすれば古代国家成立以前といい直してもよいが、とにかくその時代に固有の、それ以降とは異質な自然観、神霊観を背景に考えられるべきものである。

2014年5月10日 (土)

寝太郎とスモール・ハウス

 昨日はゼミ。自宅に帰ってから気分転換に自転車。近くの谷戸は田植がすんでいた。少し夕日である。
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 昨日は久しぶりの授業。私の論文、物ぐさ太郎論(『物語の中世』講談社学術文庫所収)のレポートをしてもらう。

 『御伽草子』の「物ぐさ太郎」を分析したものだが、毎回、その院生が歴史にふれる時の感覚のようなものがピュアにでてくるのでありがたい。

 いま、考えると、この論文の基礎は室町時代までは「ひとりうど」(独身)の生活というものが多かったという黒田俊雄氏の議論をもっとも大きな前提としていたことがわかる。そしてもう一つは昔の人々が精神的な失調というものをどう生きたか、そしてそういうように生きざるをえない人をどうみていたかという問題であった。これは物ぐさ太郎譚の根っこには寝太郎譚があり、寝太郎は顛癇の病、嗜眠症、ナルコレプシーを反映しているという論証を前提としていた。

 高村友也という人の『スモール・ハウス』という本を買った。副題に「3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方」とあって、ようするに雑木林のような土地の一画をやすく購入して、10万くらいの材料費で自分で家をたててしまうという話である。ただ、この本は、スモールハウスムーヴメントというのがアメリカにあって、これを軽いのりの文章で紹介したものである。もう一冊の本の方が実践向きなのかもしれない(実践向きの情報は著者のブログが参考になる)。

 歴史学者はヤドカリのように大量の史料と先行研究を「本」の形でもっていないと仕事ができないので、夢のまた夢であるが、この高村さんは哲学出の物書きなので、理想的な生活なのだろう。
 
 この人のブログがあって、ハンドルネームが「寝太郎」であるのに笑ってしまった。ブログには「毎年寝太郎」という言葉があったと思う。

 寝太郎君がんばれである。「小泉改革」なるものによって非正規労働が「自由化」されて、ここ20年ほどの間で年収200前後の若者が一挙にふえたという状況のなかで、「ひとりうど」がふえ、気分障害もふえているのはよく知られた話である。こういう変化がやろうと思えば20年でできてしまうのが驚くべきこと。逆にいえばひっくり返すのには20年でよいということか、あるいはもっと短くてよいのか、もっと長く懸かるのか、それは私には分からない。しかし、ともかくはシステムが変われば、変えれば変わるのだということを考えるべきなのだろう。

 そういうことを考えるのに、室町時代以前の「寝太郎」のこををしっておくのは悪いことではないと思う。「ひとりうど」の多い状態というのは昔もあった。しかし、それは別の社会的経済的構造のなかでのことで現在の歴史状況とは違う。我々がはるかはなれた時期の歴史のことを感じることができるということは、現在を相対化できる能力を我々がもっているということである。20年経てば社会は変えることができ、100年経てば変わっているのだ。

 ゼミでは、中学校では『御伽草子』』を読んだ方がよいとも話す。『御伽草子』の文章は「古文」としてわかりやすいもので中学生が読むのにちょうどよい。あるいは小学校高学年に無理して読ませるのがよいかもしれない。これは日本語教育の人の意見を聞きたいところである。なお、『徒然草』のようなひねった俗文学、俗物文学が教材とされることが多いが、ああいう低格文学の教材化は日本文化のためにもやめた方がよい(というのが石母田正さん以来の「中世史家」の意見である)。
 
 さて、昨日のゼミで、院生のレポートに触発されて考えたこと。

 論文では、物ぐさ太郎が「怠」「聖」「痴」「賤」の四つの属性をもっているという話を展開した。「怠」の側面は佐竹昭広大先生が展開した議論で、横着な下人を実態として想定、「聖」の側面は徳田和夫氏など文学研究者に多い議論で、流浪する神道者や聖を実態に想定(ひょっとこ)、「痴」は小松和彦氏が展開した議論で、実態として貴族や領主につかえる道化を想定、そして「賤」は乞食である。

 問題はこれら四つが違いすぎているという指摘であったが、これらの「下人」「ひじり」「道化」「乞食」は現実に存在した身分制の構造の四つの側面ということができるのであると応答した。私見では、「下人」がその根底にすわるのであるが。

 こういう実態論を正確に書き込んで、身分論についても述べ、この論文をもとにして専論を一冊にまとめてみようと思った。ゼミでの討論感謝である、

2014年5月 5日 (月)

三重県地震碑、津波碑の集成、『いのちの碑』

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 三重県の新田康二先生が作成したパンフレット『いのちの碑』です。
 
 2月に三重県高等学校社会科研究会の講演にうかがった際、先生方と一緒に私
も新田先生の案内と運転で、屈曲の多い道と急な坂道を通って案内 していただ
き、その徹底的な調査の御様子を知りました。

 副題に「地震碑、津波碑、遺戒碑、供養碑、墓碑など」とあるように、三重県
で新田先生が調査された100基の碑文に刻まれた碑文の翻刻、所 在地、大き
さ、建立年、想定される関係の地震・津波などのデータからなっています。
 明応地震津波、宝永地震津波、安政地震津波、東南海地震津波という三重県で
確認できる四枚の地震津波の関係地図があり、そこに各々の碑の所 在地がマー
クしてありますので、全体像を捉える上で至便です。

 最後のページには、「三重県の津波碑などの概況」という小論文もあります。
 それによると調査の目的は、(1)死者の声を聴くために釈文の集大成を行う、
(2)宝永・安政・昭和東南海地震での津波最大遡上高はどの高 さまで来たかの二
つにあるということである。

 このパンフレットを入用の方は、新田康二先生まで直接に御申し込みくださ
い。メールアドレスはnitta.ya@mxs.mie- c.ed.jpです。送料込みで482円ということです。
地震学、歴史地震学の方はお持ちいただいた方がよいと思います。


 千葉の朝日カルチャーセンターで古山豊先生にお願いして、千葉の元禄地震・
大津波について話しをうかがったが、各県各地で、こういうパンフ レットが必
要なのだと思う。


 なお、三重での現地見学について、2014年2月23日 (日)のブログに「地震火山
105志摩の津波碑、三重県高等学校社会科研究会の講演」という記事を載せてあ
ります。

「憲法9条にノーベル平和賞を」に賛同署名をしました

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 庭の雑草を小さなコップに入れた。こういうのは雑草ほどきれいである。
 以前書いた「和歌史料と水田稲作社会」で、水田稲作にともなって里の生態系になっていく「雑草」の問題を考えることが重要であることを知った。神話論にカツラが重大な位置をもつことを知ったので、これに味をしめて、この雑草論も早く手をつけたいものだと考える。こういうのは現物の知識が大事なので、もう少し暇がいる。

 表記、「憲法9条にノーベル平和賞を」に賛同署名をしました。
 いま3万5000人ほどの署名ということです。目標は100万ということです。
 たしかに最低100万はないとノーベル賞委員会が真剣に考えることはできないと思います。
 もっとふえてもよいように思います。
 歴史家としても、憲法の世界史的な意味、将来社会構想にとっての意味を強く考えるようになりました。けっして当然のもの、思想的に詰めて考えなくてもよいものではないと思います。
 
 下記にい呼びかけ人からのメールを添付します。
 


 保立 道久 さん、こんにちは。

私たちのキャンペーン「 世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください please award the Nobel Peace Prize to the Japanese citizens who have continued maintaining this pacifist constitution, Article 9 in particular, up until present.」にご賛同いただき、ありがとうございます。

Facebookの友達にもキャンペーンを紹介していただけますか?

以下に、友達へ転送できるメッセージの内容を用意しました。

ご支援を心から感謝します。今後ともご協力よろしくお願いします。

「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会 Executive Committee for “The Nobel Peace Prize for Article 9 of the Japanese Constitution”

---------

友達とシェアする際のメッセージ:

こんにちは。

突然ですが、Change.orgをご存知ですか?

Change.orgは「変えたい」気持ちを形にする、ソーシャルプラットフォームです。

先ほど、 「 世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください please award the Nobel Peace Prize to the Japanese citizens who have continued maintaining this pacifist constitution, Article 9 in particular, up until present.」というキャンペーンに署名しました。

一緒にこのキャンペーンを応援していただけますか?

以下のキャンペーンのリンクからネット上で署名ができる仕組みになっています。

http://www.change.org/ja/キャンペーン/世界各国に平和憲法を広めるために-日本国憲法-特に第9条-を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください-please-award-the-nobel-peace-prize-to-the-japanese-citizens-who-have-continued-maintaining-this-pacifist-constitution-article-9-in-particular-up-until-present?recruiter=69333769&utm_campaign=signature_receipt&utm_medium=email&utm_source=share_petition

ご支援を心から感謝します。

保立 道久

2014年5月 2日 (金)

今日はカツラの木を探して自転車。

Katuranoha


 今日はカツラの木を探して自転車。意外と早く見つかったので昼前に帰宅して、仕事の続きである。これがはっぱ。カツラは、秋の黄葉の美しさでも有名であるが、ハート形の葉は芳香をもち、抹香にも利用される。賀茂両社の葵祭では、葉形のよく似た二葉葵とともに装飾として用いられ、それが「葵かつら」といわれたことは早くは『宇津保物語』(楼のうへ)に記載がある。これは賀茂社においてカツラを神木とすることが先行し、その葉形が相似していることから葵がカツラとあわせて飾られたのであろう。

 カツラについては、まずは松村武雄氏の大著のツキヨミの部分を参照して書きついでいる。松村武雄さんの四巻本『日本神話の研究』は古書で高かったが、石母田正さんが、ともかく、松村武雄の仕事がでたことによって基礎ができたといっているのを知って、神話論をはじめたときに購入。やはり役に立つ。

 カツラを一枝折ってきて庭に挿し木をした。30メートルもの高さになる巨木の素質をもった樹木だが、私の生きているうちはまちがってもそんな高さにはならない。挿し木がつくかもわからない。

 いずれにせよ、月の神話の解明の鍵はカツラである。

 いま夕方までかかって、昨日の神話論のつっかえが、どうにか進んだ。昨日の原稿は没にしなくてもよさそうである。
 カツラのお陰か、あるいは益田さんの読み直しがきいたか。 居直って、これで進もうと思う。


  『古事記』はイザナキが月神ツキヨミに対して「汝が命は夜之食國を知らせ」と命令したと伝えている。この「夜の食國」という言葉は、「夜の国」と「食国」の二つにわけることができるが、まずこの「夜の国」ということの意味から検討を始めよう。

 月神ツキヨミが「夜」の神であったことはいうまでもない。そして、「夜」の神、「夜」の神話については益田勝実の見解から検討を出発することができる。つまり益田はレヴィ・ストロースの『悲しき南回帰線』に描かれた、ブラジルのボロロ族の集落での夕方から延々と続く相談と呼び出しと、そしてそれが一頻りすんだ後に夜中まで続く舞踏と歌と吟唱の共同生活についてふれている。そして、それについていけないと愚痴をこぼすレヴィ・ストロースを「夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませる」と風刺している。ボロロ族にとっては「夜は聖なる半日として一日の最初の部分を占めていたらしい。単なる睡眠の時間ではなかった」。彼らにとって夜の意味はきわめて高かった。夜行性の彼らは必然的に遅くまで寝ているが、その後の狩猟や採取の労働はの集団的な打ち合わせはすんでおり、ある意味では、それは夜に呪物的に獲得したものを手配通りに処置する付随的な時間なのである。

 重要なのは、益田が、そのような「原始的時間構造」こそが神話世界を作り出すのであって、そこでは夜空と夜の風景が人々の心の深層の真実となるといっていることである。益田は、これについて、次のような『播磨国風土記』賀毛郡の条のオオナムチの説話をかかげる。

 飯盛嵩 右、然か号くるは、大汝命の御飯を、この嵩に盛りき。故、飯盛嵩といふ。
 粳岡 右、粳岡と号くるは、大汝命、稲を下鴨の村に舂かしめたまひしに、粳散りて、この岡に飛び到りき。故、  粳岡といふ。     (『播磨国風土記』賀毛郡)


 この飯盛嵩と粳岡という二つの山について、郡内の人々が「褻の日」と「晴れの日」で、どう見方が違ったかをたいへんに印象深く説明している。少し長くなるが全文を引用しておく。


 かれらが褻の日の日中、野に出て仰ぐ山は樹木の茂った山そのものであり、山以外ではない。しかし、晴れの日の祭りの庭では、それは神々の世界の舞台・道具立てとなる。祭りの庭のかがり火の傍から、月明の夜空に浮かび出る山々のシルエットを望み見る時、かの山は、まぎれもなく、オオナムチの神の握り飯であり、この山は、同じ神が舂かせた米の糠の堆積となる。幻視は、晴れの日の祭りの庭の心の神秘が生むイメージであり、それゆえに、けの日のものごとのイメージ、かれらの生活体験に基く認識と、せめぎあうことはなかった。時間としては、それは夜に属するものであった。
(『火山列島の思想』)。


 とくに傍点部に注目されたい。益田は、神話時代の人々の心性には「褻の日のものごとのイメージ」=昼の風景を普通に見るだけでなく、つねに「月明の夜空」の「晴れの日の祭りの庭」を幻視する二重構造の視覚がひそんでいたというのである。私も、神話時代の人々は、夜から夜に続いて、そこで永遠に静止している別世界―「国」というものをというもの直感しえる人々であったに違いないと考える。「夜之食國」という言葉については、現在の感覚からすれば、そのような「国」がどこにあるのかと反問することになるかもしれない。しかし、時間と空間の観念が明瞭に弁別されない神話的な「夜の国」というものが存在すると考えてよいのである。益田の言い方だと「時間は眠っている。時は過ぎ去らない。時がいっさいを押し流すというような思考法と異なる、信じて受ける者の心の働きがそこにあった」ということになる。

 そして倭国王権の一部は確実にこの「夜の国」に属していた。つまり、三宅和朗『時間の古代史』は、この益田の指摘をうけて、七世紀に中国的な朝政が始まり、それと平行して時刻制による官衙の運営が導入される以前には、政治は日の出前の時間に行われていたとする。つまり、六〇〇年に派遣された第一次遣隋使を記録した『隋書』東夷伝倭国条によると、隋の高祖文帝が倭国の遣隋使に、国の風俗を尋ねたのに対して、「使者言ふ、『倭王は天をもって兄と為し、日をもって弟と為す。天いまだ明けざる時、出て政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め、云ふ我が弟に委ねむ』と。高祖曰く『此れ太いに義理なし』と。是において訓へて之を改めしむ」(使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天が明けない時に王宮に姿を現してあぐらをかいて座り、太陽が昇ってくると、政治をやめて、あとは弟の日に仕事をまかせよう」と答えた。高祖は「まったく道理にあわないことだ」と教訓してこれを改めるようにしろといった」)ということである。

 これは王宮の周辺では夕方から夜行性の会議がはじまって、その結果が、午前二時か三時ぐらいに王のもとに届き、それから王が決定の諸措置をとって、「聖なる半日」の会議が終わるということであろう。ようするにレヴィ・ストロースが観察したブラジルのボロロ族の集落の会議の大規模なものを考えればよい訳である。

 問題は、「倭王が天を兄とする」という場合の「天」が何を意味するかということであろう。そして、それが「日」とは異なる夜の空である以上、「天」とは、星空であり、「月明の夜空」であったと考えるほかないのではないだろうか。もし『隋書』のいうことに一定の事実の反映があるのであるとすれば、それは神話時代の人々にとって夜空への関心が本質的な意味をもっていたことを示すのではないだろうか。そして、星空と月という場合に、もっとも能動的な天体は月である以上、より端的にいえば、「天をもって兄とする」というのは、七世紀以前の王権は月神を最大の神として崇拝していたということになるのではないだろうか。

 この問いは、本稿の全体で答えられることになるが、ともかく神話における夜空の理解において、これまで一般的であったのは、次にかかげる津田左右吉のような意見であった。

 神代史のみならず、上代人は全体に天界の現象には注意しなかったらしく、すべての文学を通じて、天界の自然現象を取り扱ったものが極めて少ない。上代人に暦の知識がなく、星の名などを殆どもたなかったのも、日月星辰の運行について注意することが、少なかったためであろう。一般に知識の程度が低かったからであることは勿論ながら、それに注意が向けられなかったことも疑いがない。支那においてもかういふ自然説話は余り発達しなかつたが、それでも淮南子天文訓などには、日が東から出て西に入るまでの行程に関する説話風の記述があり、日が馬を駆つて天を行くといふ空想の片影も、そこに認められないでもないやうであるが、シナ思想が著しく混入してゐる神代史でありながら、毫もかういふ説話の顧慮せられたらしい痕跡が見えないのは、上代の日本人が、天體の運行に興味を有たなかつたからではなからうか。かう考へて来ると、日の神(及び月の神)に関する物語が自然説話と見なせないのも、怪しむべきではなからう。日や月を生きたものとして、人として取扱ふことは、未開民族の説話に於いては普通の例であり、それによつて日月の性質や行動が説明せられてゐるが、神代史の日月二神の物語は、さういふ性質のものではない。

 興味深いのは、こういう意見が津田左右吉のみではなく、より早くから一般的なものであったことである。たとえば、文学史研究の先駆者として知られる芳賀矢一は「農業国で昼の疲れに早寝をするので、天体のことには注意が少なかった」(『国文学十講』明治三二年)と述べている。ようするに、農民は早寝・早起きで疲れて倒れるように眠ってしまうという訳であって、ここには一種の農民蔑視と愚民観がある。そして、それが一方で日本の国柄をもっぱら「農村」とみる農本主義的な歴史観に通じている。

 しかし、最近、勝俣隆『星座で読み解く日本神話』が、このような見方を厳しく批判して、農耕者は農作業の指標を月や星によっていたという当然の事実とそれに対応する民俗事例、そしてそれを前提とした『古事記』『日本書紀』の記述のなかに星の神話を読みとる作業を行った。これを前提とすれば、むしろ検討しなければならないのは、そのような夜空の神話が、なぜ『古事記』『日本書紀』の神話テキストにおいて無視されたのかという問題であるはずである。その意味では、右に引用した津田左右吉の「未開民族の説話に於いては普通の例」であるものが、なぜ「神代史の日月二神の物語」においては表面から隠されているのかということこそが大問題となるのである。こうして、津田の問題提起を視野を逆転して検討することが必要になるのである。

 さきほど東京大学出版会のUPが届き、ある文章を読んでいて憤激。「馬鹿につける薬はない」ではなく、「学者につける薬はない」ということであろう。怒っていて仕事が進まない。庭仕事をすることにする。

2014年5月 1日 (木)

益田勝実と岡田精司――苦しい時の神だのみ

 朝、仕事を始める。
 次の原稿が浮いてしまったので、メモに乗せておく。


 『火山列島の思想』からは、益田がレヴィ・ストロースを益田がどう読んだかがよくわかる。
 「夜」は益田勝実で理解するが、「食国」は岡田精司で理解する。
 
 月神ツキヨミの支配領域が、「夜之食國」(夜のオス国)といわれているのはよく知られている。
 この「夜」の理解については、神話世界では「夜」の意味がきわめて高かったという益田勝実の見解を参照することができる。つまり益田は「幻視は晴れの祭りの庭の心の神秘が生むイメージであり、(中略)時間としては、それは夜に属するものであった」という。

 印象的な記述を引用しておくと、「夜は聖なる半日として一日の最初の部分を占めていたらしい。単なる睡眠の時間ではなかった」として、レヴィ・ストロースの経験にふれ(『悲しき南回帰線』)、ブラジルのボロロ族の集落での夕方から延々と続く相談と呼び出しと、そしてそれが一頻りすんだ後に夜中まで続く舞踏と歌と吟唱に愚痴をこぼすレヴィ・ストロースを「夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませる」とまとめている。
 
 彼らは翌日は昼頃まで寝ているのであって、その後の狩猟や採取の労働は夜に呪物的に獲得したものを手配通りに処置する付随的な時間であるということになる。そのような「原始的時間構造」が神話世界を作り出すのであって、そこでは夜空と夜の風景が人々の心の深層の真実となるという訳である。益田はこういう消息を次のように語っている。

 「夜の海上を漕ぐ船人たちも、漆黒の空に神の弓矢を、神の櫛を、帯をみて、讃歎する。その眼に映じている三日月や宵の明星(あかぼし)の姿が、ありのままに見えないのではない。横雲は横雲――しかし、同時に、かれらの眼は、そこに神の愛用の美しい帯を現にみてもいる」(『火山列島の思想』)。

 益田は、神話時代の人々の心性には昼の風景を普通に見るだけでなく、つねに明瞭な夜を幻視する「二重構造の視覚」がひそんでいるとするが、私も、神話時代の人々は、夜から夜に続いて、そこで永遠に静止している別世界―「国」というものをというもの直感しえる人々であったに違いないと考える。

 「夜之食國」という言葉については、現在の感覚からすれば、そのような「国」がどこにあるのかと反問することになるかもしれない。しかし、「時の過ぎ去らない」夜の国、時間と空間の観念は明瞭に弁別されない神話的な「国」というものが存在すると考えてよいのである。

 文学として神話を理解するためには益田の仕事。歴史学として神話を理解するためには岡田精司の仕事である。
 月を考えるのには、その原点に戻る必要がある。

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