今日はカツラの木を探して自転車。
今日はカツラの木を探して自転車。意外と早く見つかったので昼前に帰宅して、仕事の続きである。これがはっぱ。カツラは、秋の黄葉の美しさでも有名であるが、ハート形の葉は芳香をもち、抹香にも利用される。賀茂両社の葵祭では、葉形のよく似た二葉葵とともに装飾として用いられ、それが「葵かつら」といわれたことは早くは『宇津保物語』(楼のうへ)に記載がある。これは賀茂社においてカツラを神木とすることが先行し、その葉形が相似していることから葵がカツラとあわせて飾られたのであろう。
カツラについては、まずは松村武雄氏の大著のツキヨミの部分を参照して書きついでいる。松村武雄さんの四巻本『日本神話の研究』は古書で高かったが、石母田正さんが、ともかく、松村武雄の仕事がでたことによって基礎ができたといっているのを知って、神話論をはじめたときに購入。やはり役に立つ。
カツラを一枝折ってきて庭に挿し木をした。30メートルもの高さになる巨木の素質をもった樹木だが、私の生きているうちはまちがってもそんな高さにはならない。挿し木がつくかもわからない。
いずれにせよ、月の神話の解明の鍵はカツラである。
いま夕方までかかって、昨日の神話論のつっかえが、どうにか進んだ。昨日の原稿は没にしなくてもよさそうである。
カツラのお陰か、あるいは益田さんの読み直しがきいたか。 居直って、これで進もうと思う。
『古事記』はイザナキが月神ツキヨミに対して「汝が命は夜之食國を知らせ」と命令したと伝えている。この「夜の食國」という言葉は、「夜の国」と「食国」の二つにわけることができるが、まずこの「夜の国」ということの意味から検討を始めよう。
月神ツキヨミが「夜」の神であったことはいうまでもない。そして、「夜」の神、「夜」の神話については益田勝実の見解から検討を出発することができる。つまり益田はレヴィ・ストロースの『悲しき南回帰線』に描かれた、ブラジルのボロロ族の集落での夕方から延々と続く相談と呼び出しと、そしてそれが一頻りすんだ後に夜中まで続く舞踏と歌と吟唱の共同生活についてふれている。そして、それについていけないと愚痴をこぼすレヴィ・ストロースを「夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませる」と風刺している。ボロロ族にとっては「夜は聖なる半日として一日の最初の部分を占めていたらしい。単なる睡眠の時間ではなかった」。彼らにとって夜の意味はきわめて高かった。夜行性の彼らは必然的に遅くまで寝ているが、その後の狩猟や採取の労働はの集団的な打ち合わせはすんでおり、ある意味では、それは夜に呪物的に獲得したものを手配通りに処置する付随的な時間なのである。
重要なのは、益田が、そのような「原始的時間構造」こそが神話世界を作り出すのであって、そこでは夜空と夜の風景が人々の心の深層の真実となるといっていることである。益田は、これについて、次のような『播磨国風土記』賀毛郡の条のオオナムチの説話をかかげる。
飯盛嵩 右、然か号くるは、大汝命の御飯を、この嵩に盛りき。故、飯盛嵩といふ。
粳岡 右、粳岡と号くるは、大汝命、稲を下鴨の村に舂かしめたまひしに、粳散りて、この岡に飛び到りき。故、 粳岡といふ。 (『播磨国風土記』賀毛郡)
この飯盛嵩と粳岡という二つの山について、郡内の人々が「褻の日」と「晴れの日」で、どう見方が違ったかをたいへんに印象深く説明している。少し長くなるが全文を引用しておく。
かれらが褻の日の日中、野に出て仰ぐ山は樹木の茂った山そのものであり、山以外ではない。しかし、晴れの日の祭りの庭では、それは神々の世界の舞台・道具立てとなる。祭りの庭のかがり火の傍から、月明の夜空に浮かび出る山々のシルエットを望み見る時、かの山は、まぎれもなく、オオナムチの神の握り飯であり、この山は、同じ神が舂かせた米の糠の堆積となる。幻視は、晴れの日の祭りの庭の心の神秘が生むイメージであり、それゆえに、けの日のものごとのイメージ、かれらの生活体験に基く認識と、せめぎあうことはなかった。時間としては、それは夜に属するものであった。
(『火山列島の思想』)。
とくに傍点部に注目されたい。益田は、神話時代の人々の心性には「褻の日のものごとのイメージ」=昼の風景を普通に見るだけでなく、つねに「月明の夜空」の「晴れの日の祭りの庭」を幻視する二重構造の視覚がひそんでいたというのである。私も、神話時代の人々は、夜から夜に続いて、そこで永遠に静止している別世界―「国」というものをというもの直感しえる人々であったに違いないと考える。「夜之食國」という言葉については、現在の感覚からすれば、そのような「国」がどこにあるのかと反問することになるかもしれない。しかし、時間と空間の観念が明瞭に弁別されない神話的な「夜の国」というものが存在すると考えてよいのである。益田の言い方だと「時間は眠っている。時は過ぎ去らない。時がいっさいを押し流すというような思考法と異なる、信じて受ける者の心の働きがそこにあった」ということになる。
そして倭国王権の一部は確実にこの「夜の国」に属していた。つまり、三宅和朗『時間の古代史』は、この益田の指摘をうけて、七世紀に中国的な朝政が始まり、それと平行して時刻制による官衙の運営が導入される以前には、政治は日の出前の時間に行われていたとする。つまり、六〇〇年に派遣された第一次遣隋使を記録した『隋書』東夷伝倭国条によると、隋の高祖文帝が倭国の遣隋使に、国の風俗を尋ねたのに対して、「使者言ふ、『倭王は天をもって兄と為し、日をもって弟と為す。天いまだ明けざる時、出て政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め、云ふ我が弟に委ねむ』と。高祖曰く『此れ太いに義理なし』と。是において訓へて之を改めしむ」(使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天が明けない時に王宮に姿を現してあぐらをかいて座り、太陽が昇ってくると、政治をやめて、あとは弟の日に仕事をまかせよう」と答えた。高祖は「まったく道理にあわないことだ」と教訓してこれを改めるようにしろといった」)ということである。
これは王宮の周辺では夕方から夜行性の会議がはじまって、その結果が、午前二時か三時ぐらいに王のもとに届き、それから王が決定の諸措置をとって、「聖なる半日」の会議が終わるということであろう。ようするにレヴィ・ストロースが観察したブラジルのボロロ族の集落の会議の大規模なものを考えればよい訳である。
問題は、「倭王が天を兄とする」という場合の「天」が何を意味するかということであろう。そして、それが「日」とは異なる夜の空である以上、「天」とは、星空であり、「月明の夜空」であったと考えるほかないのではないだろうか。もし『隋書』のいうことに一定の事実の反映があるのであるとすれば、それは神話時代の人々にとって夜空への関心が本質的な意味をもっていたことを示すのではないだろうか。そして、星空と月という場合に、もっとも能動的な天体は月である以上、より端的にいえば、「天をもって兄とする」というのは、七世紀以前の王権は月神を最大の神として崇拝していたということになるのではないだろうか。
この問いは、本稿の全体で答えられることになるが、ともかく神話における夜空の理解において、これまで一般的であったのは、次にかかげる津田左右吉のような意見であった。
神代史のみならず、上代人は全体に天界の現象には注意しなかったらしく、すべての文学を通じて、天界の自然現象を取り扱ったものが極めて少ない。上代人に暦の知識がなく、星の名などを殆どもたなかったのも、日月星辰の運行について注意することが、少なかったためであろう。一般に知識の程度が低かったからであることは勿論ながら、それに注意が向けられなかったことも疑いがない。支那においてもかういふ自然説話は余り発達しなかつたが、それでも淮南子天文訓などには、日が東から出て西に入るまでの行程に関する説話風の記述があり、日が馬を駆つて天を行くといふ空想の片影も、そこに認められないでもないやうであるが、シナ思想が著しく混入してゐる神代史でありながら、毫もかういふ説話の顧慮せられたらしい痕跡が見えないのは、上代の日本人が、天體の運行に興味を有たなかつたからではなからうか。かう考へて来ると、日の神(及び月の神)に関する物語が自然説話と見なせないのも、怪しむべきではなからう。日や月を生きたものとして、人として取扱ふことは、未開民族の説話に於いては普通の例であり、それによつて日月の性質や行動が説明せられてゐるが、神代史の日月二神の物語は、さういふ性質のものではない。
興味深いのは、こういう意見が津田左右吉のみではなく、より早くから一般的なものであったことである。たとえば、文学史研究の先駆者として知られる芳賀矢一は「農業国で昼の疲れに早寝をするので、天体のことには注意が少なかった」(『国文学十講』明治三二年)と述べている。ようするに、農民は早寝・早起きで疲れて倒れるように眠ってしまうという訳であって、ここには一種の農民蔑視と愚民観がある。そして、それが一方で日本の国柄をもっぱら「農村」とみる農本主義的な歴史観に通じている。
しかし、最近、勝俣隆『星座で読み解く日本神話』が、このような見方を厳しく批判して、農耕者は農作業の指標を月や星によっていたという当然の事実とそれに対応する民俗事例、そしてそれを前提とした『古事記』『日本書紀』の記述のなかに星の神話を読みとる作業を行った。これを前提とすれば、むしろ検討しなければならないのは、そのような夜空の神話が、なぜ『古事記』『日本書紀』の神話テキストにおいて無視されたのかという問題であるはずである。その意味では、右に引用した津田左右吉の「未開民族の説話に於いては普通の例」であるものが、なぜ「神代史の日月二神の物語」においては表面から隠されているのかということこそが大問題となるのである。こうして、津田の問題提起を視野を逆転して検討することが必要になるのである。
さきほど東京大学出版会のUPが届き、ある文章を読んでいて憤激。「馬鹿につける薬はない」ではなく、「学者につける薬はない」ということであろう。怒っていて仕事が進まない。庭仕事をすることにする。
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