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2014年5月10日 (土)

寝太郎とスモール・ハウス

 昨日はゼミ。自宅に帰ってから気分転換に自転車。近くの谷戸は田植がすんでいた。少し夕日である。
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 昨日は久しぶりの授業。私の論文、物ぐさ太郎論(『物語の中世』講談社学術文庫所収)のレポートをしてもらう。

 『御伽草子』の「物ぐさ太郎」を分析したものだが、毎回、その院生が歴史にふれる時の感覚のようなものがピュアにでてくるのでありがたい。

 いま、考えると、この論文の基礎は室町時代までは「ひとりうど」(独身)の生活というものが多かったという黒田俊雄氏の議論をもっとも大きな前提としていたことがわかる。そしてもう一つは昔の人々が精神的な失調というものをどう生きたか、そしてそういうように生きざるをえない人をどうみていたかという問題であった。これは物ぐさ太郎譚の根っこには寝太郎譚があり、寝太郎は顛癇の病、嗜眠症、ナルコレプシーを反映しているという論証を前提としていた。

 高村友也という人の『スモール・ハウス』という本を買った。副題に「3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方」とあって、ようするに雑木林のような土地の一画をやすく購入して、10万くらいの材料費で自分で家をたててしまうという話である。ただ、この本は、スモールハウスムーヴメントというのがアメリカにあって、これを軽いのりの文章で紹介したものである。もう一冊の本の方が実践向きなのかもしれない(実践向きの情報は著者のブログが参考になる)。

 歴史学者はヤドカリのように大量の史料と先行研究を「本」の形でもっていないと仕事ができないので、夢のまた夢であるが、この高村さんは哲学出の物書きなので、理想的な生活なのだろう。
 
 この人のブログがあって、ハンドルネームが「寝太郎」であるのに笑ってしまった。ブログには「毎年寝太郎」という言葉があったと思う。

 寝太郎君がんばれである。「小泉改革」なるものによって非正規労働が「自由化」されて、ここ20年ほどの間で年収200前後の若者が一挙にふえたという状況のなかで、「ひとりうど」がふえ、気分障害もふえているのはよく知られた話である。こういう変化がやろうと思えば20年でできてしまうのが驚くべきこと。逆にいえばひっくり返すのには20年でよいということか、あるいはもっと短くてよいのか、もっと長く懸かるのか、それは私には分からない。しかし、ともかくはシステムが変われば、変えれば変わるのだということを考えるべきなのだろう。

 そういうことを考えるのに、室町時代以前の「寝太郎」のこををしっておくのは悪いことではないと思う。「ひとりうど」の多い状態というのは昔もあった。しかし、それは別の社会的経済的構造のなかでのことで現在の歴史状況とは違う。我々がはるかはなれた時期の歴史のことを感じることができるということは、現在を相対化できる能力を我々がもっているということである。20年経てば社会は変えることができ、100年経てば変わっているのだ。

 ゼミでは、中学校では『御伽草子』』を読んだ方がよいとも話す。『御伽草子』の文章は「古文」としてわかりやすいもので中学生が読むのにちょうどよい。あるいは小学校高学年に無理して読ませるのがよいかもしれない。これは日本語教育の人の意見を聞きたいところである。なお、『徒然草』のようなひねった俗文学、俗物文学が教材とされることが多いが、ああいう低格文学の教材化は日本文化のためにもやめた方がよい(というのが石母田正さん以来の「中世史家」の意見である)。
 
 さて、昨日のゼミで、院生のレポートに触発されて考えたこと。

 論文では、物ぐさ太郎が「怠」「聖」「痴」「賤」の四つの属性をもっているという話を展開した。「怠」の側面は佐竹昭広大先生が展開した議論で、横着な下人を実態として想定、「聖」の側面は徳田和夫氏など文学研究者に多い議論で、流浪する神道者や聖を実態に想定(ひょっとこ)、「痴」は小松和彦氏が展開した議論で、実態として貴族や領主につかえる道化を想定、そして「賤」は乞食である。

 問題はこれら四つが違いすぎているという指摘であったが、これらの「下人」「ひじり」「道化」「乞食」は現実に存在した身分制の構造の四つの側面ということができるのであると応答した。私見では、「下人」がその根底にすわるのであるが。

 こういう実態論を正確に書き込んで、身分論についても述べ、この論文をもとにして専論を一冊にまとめてみようと思った。ゼミでの討論感謝である、

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