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2014年5月22日 (木)

拙著『平安王朝』への批判にこたえての私的な手紙。17年前のもの

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 明後日は歴史学研究会大会である。一日目は歴史教育、二日目は地殻災害と文化財保存の問題なので、今年は両日でようと思う。
 毎年出るようにしていたのだが、職場の最後のころは体力がつづかず、3回に一回は出なかったことがある。

 三重県の津波碑のパンフレット『いのちの碑』を三重の新田先生から送っていただいたので、会場で必要な人には買ってもらおうと思う。500円です。顔をみかけたらいってください。

 今年も、卯の花が咲いた。この株だけが花がよく咲く。これを植えた20年近くまえ、戸田芳実さんがやった卯の花垣論を受け継ごうとした。その結果は「和歌史料と水田稲作社会」で一応は書いたのだが、書きたいことは途中までになっていて完了していない。すでに時間がなくなっているが、早く当面の仕事をやって、本来の仕事にもどらなければ申し訳ない。いろいろな人に申し訳ない。歴史学の仕事も、結局、そういう記憶と衝迫力で持続していく。

  以下は、拙著、『平安王朝』についてのある著名な古代史研究者からの手紙への反論です。この本は出したときに、吉田孝さんが呼びかけてくれて、たしか歴史学研究会の古代史と中世史で合同で書評会をもってくれた。高橋昌明氏が批判をしてくれて、ミスを指摘された。なにしろ政治史などをやったのは始めてであったが、いつもあわてて書くので、たしかに私の仕事にはミスがでがちである。これは弁解にはならないが、早く次の仕事がしたいという焦りのまま、突っ走るのがよくない。
 これからいろいろ修正の時間があるだろうか。

 さて、私への批判の手紙は、方法的なもので、とくに保存運動仲間なので遠慮がなく、強い批判をされた。そこで強い批判を返した。ある研究会で配布したことがあり、しかも、もう20年前のの手紙である。御本人に、歴史学研究会で会うかもしれないが、もう時効なので、勘弁してもらう。

 彼、O氏の仕事は傑出しており、強い親近感があるが、しかし、意見は違い、歴史学は、結局、おのおのの信じるところを進むほかないということである。

前略
『平安王朝』についての感想の手紙をもらいました。古代史の研究者との論争は望むところですので、少し、自分の意見の説明をしたいと思います。そのうちに、直接にはなす機会があればありがたいと思います。

 御手紙の順にそって、反論をします。

まず、私は、御手紙のいうようには、この本を「現代歴史学への批判の書」とは考えていません。現代歴史学、特に戦後中世史学の基本線をそのまま維持しているつもりです。同封の「歴史を通して社会をみつめる」という文章に、ありますように、従来の摂関政治・院政というシェーマは、いわゆる「武士発達史観」の裏返しであると考えています。そして、黒田俊雄氏によるこの「武士発達史観」批判は、中世史研究においては共通理解たりうる性格をもっています。私の意図は、「武士発達史観批判」を政治史にまで延長することにあります。もちろん、研究史に対する批判はあります。しかし、明示しませんでしたが、批判の対象は、率直にいって、アカデミズム政治史、たとえば土田氏、橋本氏、石井進氏などの平安時代・院政期政治史です。

 それらは全体として政治史の体裁をなしていない、特に平安政治史にかぎっていえば、異様に評価の高い土田氏の『王朝の貴族』はほとんど役に立たない。土田氏は政治史の何たるか、国家の何たるかがまったく分かっていない、と考えています。少なくとも、平安時代の政治史叙述のための基礎実証作業は、山中・角田の仕事の方が位置が大きいことは確実です。アカデミズムを駄目にしていたのは、王家の内部矛盾に踏み込んでタブーをおそれず議論することの忌避、頼朝を偉大な政治家と述べるような時代錯誤、非政治的・非階級的観点などなどであることは明らかです。私は、戦後歴史学批判なる論調が事実上、アカデミズム歴史学の免罪しか意味していない場合が多いことは、たいへんにおかしいと考えています。本書で述べたことの相当部分は、その職責からいって、当然にアカデミズムの側で議論しておくべき点が多かったはずです。

 さて、次に、本書の直接の執筆意図についてですが、御手紙が本書の執筆意図として挙げたのは、二点、第一は、「平安時代400年が一つの時代として総体的理解がなされていなかった現状への批判」、第二は「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論に対し、時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態を、摂関対天皇の図式からではなく王権の歴史として描き出してみせること」です。第一点は、ありがたい読みですが、「一つの時代としての総体的理解」とまでいわれますと、過分かつ少し違っていて、本書がねらったものは、あくまでも政治史の(と王権の歴史の)総体的理解に過ぎません。平安時代の総体的理解に政治史の総体的理解は絶対に必要であるとは考えますが、そこから先の社会経済史の理解(その運動と移行)こそが、もっとも困難な課題と考えているものです。


 第二点の読みについては、率直にいって不満です。まず「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論」が政治史のイメージとしては、王権の免罪と美化になっていたこと、いわゆる不執政論の最大の根拠になっていたことという現状認識、これは中世史の研究者ならばすぐに理解いただけることだと期待していますが、お手紙の雰囲気では、我々の間での共通認識にはなりえないようです。そして「時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態」を分析することに、本書の意図があったのではなく、むしろ平安王朝、王家内部における熾烈な権力闘争の「日常的」存在を描き出すことを通じて、王権の歴史を描こうとしたものです。端的にいって「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論に太子、時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態を、摂関対天皇の図式からではなく王権の歴史として描き出してみせること」ぐらいの議論の建て方や志向などは、むしろ通説を補完する議論としてむしろ一般的なものであるというべきでしょう。

 お手紙では、以下、批判が続くことになります。まず「王の物語、それが血縁関係をどう構築するかという一点に絞られて叙述されるのはいいのですが、これが平安時代史だとは、いや平安時代の政治史だとはどうしても思えないのです。御著書の最後には宮廷政治史とありました、これならわかるのですが」という強烈な文言が登場します。これについては、まず、従来の摂関時代史は、たとえば後三条の血統論をとっても単純に血縁関係を論じていたという研究史の現実を見ていただきたいと思います。そして、「血」とは王の呪物的な身体の実態であるという王権論の基本問題をどう考えるかというレヴェルで議論が必要です。古代史研究者は、たとえばマルクスのヘーゲル国法論批判、その他の王権論を真剣に考えたことがあるのでしょうか。私は、最近の古代史研究者には理論の貧血・貧困を感じることがしばしばです。そして、私は、単なる王の血族的系譜論ではなく、それを王権内部の対立を導くものとして、特に天皇と皇太子の対立から院と天皇の対立という形態転化を追跡する形で問題にしていることは、序を読んでいただければ明らかです。これは「あまりなお言葉」というものではないでしょうか。問題にするならば、この内容に踏み込んで議論をしていただくか、理論全体を問題にするかで進んでいただきたいものだと思います。いずれにせよ、そのような議論を抜きにして、「宮廷政治史」を現在研究することの意味に否定的な態度をとるのは、現実には史料の多い「宮廷政治史」のような簡単な仕事でさえ、戦後アカデミズムは不徹底な仕事しかしていないということを免罪するものです。たとえば石井進氏は後三条天皇について「天皇は久しぶりに現れた藤原氏を生母としない天皇(宇多天皇即位以来、実に一七一年目にあらわれた)、(中略)摂関家との対立感情も強烈であった。帝王学を学んだ皇太子は、すぐれた学才をあらわすとともに「世の乱れたらんことを直させ給はん」と、摂関政治の是正に意欲を燃やしていた」としていますが(『日本歴史大系①』九三二㌻)、158㌻で述べたような、このような見解に対する批判が成功しているかどうかをお聞きしたいのです。

 なお、お手紙では、「私は奈良時代で政治史を追究しています。その基本にあるのは政争史ではない政治史です。奈良時代の政治史といえば、プレ平安時代史=藤原氏による政権独占体制の前史としての、天皇・藤原氏関係をえがく政争史を克服することが課題である」とされていますが、しかし、本当に奈良時代の「政争史」は政治過程の運動にそくして解明されているのでしょうか。私は、天武系王統が内部で最大限の殺し合いを展開するという形で展開した奈良時代政治史の運動過程を総体として理解し、天皇制がどのような母班を刻みつけられて登場することになったかを明らかにすることはきわめて重要であると考えています。たとえば「仲麻呂の乱」は知られていても、それが偽王を担いだものであり、王統内部の殺し合いと密接に関係して展開したこと、それは傾向としては天武系から天智系への王統交替を導き出すものであったことなど、古代史家にとってはあまりに当然のことでしょうが、それは国民的常識になっていません。それは古代史学界が政争史の全体的理解を打ち出しておらず、結局図式としては、「プレ平安時代史=藤原氏による政権独占体制の前史」という安易なシェーマに流されているためであると考えています。今でも、長岡京遷都は、奈良の宗教勢力から逃れるとか、水陸の要衝の地をしめるだとかいう常識がまかり通っている現実をどう御考えなのでしょうか。

 これは政治史というものの理解の仕方に関わるのでしょう。お手紙は、政治史のなすべき仕事を「政策論レヴェルでの党派形成、政策論にもとづく政権抗争、実態としての国家権力の発現装置=官僚機構、天皇権力の展開」などと述べられていますが、これはあまりに静的な政治史の捉え方であり、実質上その政策論と制度論への解消というものです。政治史とは、政治を社会的政治的矛盾の焦点として位置づけ、何よりもそのようなダイナミズムをふまえることによって、運動としての政治、政治過程の展開を叙述することであったはずです。それは政争や「政策」などのきれい事では必ずしもない諸契機によって形成される党派の形成や術策、そして軍事史などの政治史の現象形態を「政争史」であるとして切り捨てることからは生まれてこないはずです。

 もちろん、本書が「政治を社会的政治的矛盾の焦点として位置づけること」に成功しているとはいいません。本書は政治過程における矛盾の焦点として王権の動きを追究したもので、政治的社会的矛盾全体との媒介の追跡は直接の課題としてはいません。しかし、いくつかの指摘はしたつもりで、たとえば、武家の登場が国家中枢の暗闘と関係していること、特に冷泉系王統と源氏の近接という論点を提起しています。これは、本書にとっては最大の仮説で、平安初期王統対立の中での師輔・花山・満仲の評価、尾張国司藤原元命の評価、小一条院から輔仁王への王統対立の中での源家の評価、そして源平対立の初発形態の評価などの問題と関わってくるもので、この点の批判を受けたいと考えています。

 さて、「御著書を拝読して驚かされたのは、国家権力とか、人民支配とかいった側面がスッポリ抜け落ちている。やはり平安時代における国家権力の、権力形態の構造分析、人民支配の内実、支配階級の支配の実相などが総体的に説明されて初めて平安時代政治史になるのではないか」という最後の指摘は、私にはお説教と響きます。これに直接にお答えすることはせず、以下、「王の身体の呪物性」「王の物語」「都市王権」という序での三つの執筆意図の説明と重ならない限りで、私の執筆意図とその前提を記しておきたいと思います。

第一には、日本史における天皇制の展開、そのハイタイムをどう捉えるかということです。私は、日本天皇制は、8世紀に国家権力全体の中に構造的に位置づけられ、挫折を経て、9世紀・10世紀・11世紀に古典時代を迎えると考えています。この点では吉田孝氏の見解と相似してくるでしょう。そして、平安時代末期の内乱を創出することによって、そのハイタイムは終了し、南北朝内乱でなかば自滅すると考えています。その政治過程の現象形態の特徴をなすものは都市宮廷内部における王の恣意の拡大とそれによる矛盾の再生産にあると考えます。これがデスポットというよりも、都市的な場の内部における恣意という形態をとったのが、都市王権の特質といえるのでしょう。ここで、重要なのは、やはり天皇制を歴史的な条件の中で見るということであって、それはほぼ400年ほどの期間、十全の形で存在したものに過ぎないというように、考えることです。その400年は、日本の政治支配と文化にとって決定的な意味をもったことも事実ですが、しかし、天皇制が実体的に同一論理で持続したとは、私には考えられません。この点、保立の議論は裏返すと皇国史観であるという御意見もあるようなので、念のため付言します。

 第二は、平安時代史研究の現状をどう考えるかということです。社会構成体の移行論が取り組まれないようになり、トリヴィアリズムが一般化し、制度史に対する否定的評論が忌避されるというような状況は学界として健康であるとは考えられません。どうにかして制度史は相対化せねばなりません。私は、制度史という研究分野が必要であることを否定はしませんが、少なくとも、制度の論理と社会的機能の分析につながらないような研究は嫌いです。さらに旧態依然たる「政治史」を放置したままでの制度史への入れ込みは、本質的には国家論的分析を深めることにならないと考えています。ようするに研究課題の選択の仕方が違うということなのですが、初心をいえば、どうにかして政治史を人民闘争史・民衆史との関係で考えたいということになります。そして、私は、尾張国解文論や後白河論の部分で、少しそのきっかけをつかむことができたかと考えています。また、「誰でもできる平安時代」という言い方が賛同を得られないようですが、実は、これは平安時代史料フルテキストデータベースの構築を行っている者としての感想であるということも付言しておきたいと思います。ともかくすべての勝負は社会経済史であり、構成体論とその移行論であるという立場は、まったく変わっておりません。

 第三は、歴史学研究の社会的文化的役割をどう考えるかということです。特に中世前期の研究者は、日本文学・平安文化論との対応をしなければなりません。中世史の中でもそのような役割が大きい分野であると思います。私は歴史学が物語をかたってよいとは考えていませんが、しかし、文化の中で、どのような役割を果たすべきかについては十分意識的でなければならないと考えます。
以上、長くなり、激越なことばも入っておりますが、私信ということでお許し下さい。

1997年7月12日
保立道久

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