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2014年5月29日 (木)

神話論――折口信夫の忘れられた見解からの出発

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 近くの園生市民の森のカラムシ(苧)。
 『中世の女の一生』で繊維生産を勉強して女性労働論として展開したとき、それを御読みになった新潟の繊維の研究家から麻をいただいて、自宅の裏に植えている。「肥え」付きの苗を送っていただいて、それを植えた。
 不勉強な話だが、カラムシは、この市民の森のカラムシがはじめてでないかと思う。自宅の麻よりたくましく、大きい。実際には密植して丈を伸ばすことがあると聞くから、もっと大きくなるのだろう。平安時代に史料の多い「皮剥布」の原料である。等価形態として利用される繊維についても論じたことがあるので、そのうちもう一度論じたいものだ。
 しかし、いまは神話論。いまやっているタカミムスヒ論の書き出しが決まった。安藤礼二氏の「産霊論」にも関わる問題であるので、早く仕上げたいものだ。

折口信夫の忘れられた見解
 天孫降臨神話の主催神がタカミムスヒであるということは、三品彰英の仕事以降、すべての神話学者・歴史学者が認めていることなのであるが、この神の性格をどう考えるかについては学者の意見は実際には、きわめて抽象的で曖昧であり、実際には分裂したままになっている。そのような研究史の状況については、第四章でタカミムスヒという神の名前をどう考えるべきかにふれて、詳しくふれることになる。

 ともかく、本論は、この神の具体的な性格をどうにか解明して、学説の融合と統一の道を開くために捧げられるのであるが、ただ、ここでは、私見にもっとも近接したものとして折口信夫の学説をかかげ、一つの導きの糸として提示しておくことにしたい。

 いうまでもなく、折口は、民俗学者であると同時に、近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家であり、神話論にとっては大事な位置をもつ学者である。そのタカミムスヒについての見解は、「ムスヒ」の神についての解説として展開されたが、ようするに、折口は、タカミムスヒの「ムスヒ」を「縁結び」などという場合の「ムスビ=結び」の神と理解し、ものごとを生み出すことを助ける神、「産霊の神」と解釈する立場に立っていた。これについては後にタカミムスヒについての研究史を紹介するときに詳しくふれるが、これは本居宣長以来の伝統的な神学的解釈であって、折口が早くから明示していたものである。丸山真男が、この本居―→折口の「ムスヒ」神論に依拠して、「歴史意識の『古層』」という日本政治思想史論を構想したことも学界ではよく知られている。

 しかし、この折口の議論には重大な錯誤があることは後に述べる通りであり、ここで「導きの糸」というのは、折口の「ムスビ=結び」神論ではない。つまり折口は、その晩年、新たな神道のあり方を打ち出そうとした。折口にとっては、第二次大戦の敗戦による天皇の「人間宣言」と国家神道の崩壊がきわめて大きな衝撃であったことはいうまでもない。折口は、その「人間宣言」の約一年後、「天子非即神論」という論説を発表し、そこで「今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」と述べている。折口が早くから国家神道に違和感をもっていたのは疑えない事実であるが、この論説で、折口は、国家神道を主導した学説は、「素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」と断言している。そして、折口は、明治時代以降、国家神道の下でむしろ抑圧されたり、軽視されたりしていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興する方向に梶を切ろうとしたのである。

 これは近代日本思想史における折口の位置からしても真剣な検討に値する問題であるが(参照、安藤礼二『場所と産霊』講談社、二〇一〇年)、ここでは、それが「ムスビ=結び=産霊」の神についての論説の再検討という形をとったことが問題である。折口は、タカミムスヒをトップとする「ムスビ=産霊」の神は「我々の信仰しつづけている神道」「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であると述べている。そして折口は、若い神道者たちを前にした講演において、この産霊の信仰について「あなた方は、神道の為に努力して頂くのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」とまで強調している。別の講演では、「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」として「民間神道」の意味を強調しているのも重大であろう。折口は「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」とまでいって、いわば民俗学によって、神道の宗教改革を実現しようとしたのである。

 折口が、その中で展開した「ムスビ=産霊」の神についての再検討においてもっとも重要なのは、一九四七年に発表した論文「道徳の発生」で述べた議論であろう。肝心なところを引用しておくと次のようになる。


 「この神には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である」(三四五頁)


 このようにして、折口は、「ムスヒ=産霊」の神という図式を越えて、この神に本来は「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」という性格があったことをみとめようとしたのである。そして、注目されるのは、折口が、「至上神=元の神」に「部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」(傍点筆者)という荒々しい自然神としての性格をも読みとろうとしいていたことである。折口は、この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」であるという捉え方も提出している(「道徳の発生」『全集』一五巻)。ようするに折口のいう「神道」の基礎にある考え方としての「忌み=謹慎」の宗教倫理の原点に、この至上神があるという訳である。

 ここに至上神が「天変地異を降すもの」であるとされているのがきわめて注目される点である。しかも「琉球・台湾・南方諸島にもっとも近似した神観」というのであるから、これを敷衍すれば「天変地異」として火山の噴火や地震が当然に視野に入ってきたのではないだろうか。しかし、残念ながら、折口は、この「至上神=元の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。とくに残念なのは、小川直之がいうように、この論文「道徳の発生」が発表された七ヶ月後に行われた柳田国男との対談でも、この論点が話し合われなかったことであろう。というのは、折口が、「天変地異」について「落雷」を例示しているが、早く柳田が、「雷神信仰の変遷」という著名な論文において同じようなことを述べているからである。これも決定的な文章なので、下記に引用しておこう。


 「久しい年代にわたって我々の国民に、最も人望の多かった『力を天の神に授かった物語』、および日本の風土が自然に育成したところの、雷を怖れて、これを神の子と仰ぎ崇めた信仰(中略)の第一に算えらるべきものは、賀茂松尾の神話として永く伝わった別雷神の誕生譚である。(中略、それは)雷神の奇胎するするところであって、いわゆる三輪式の説話と対照することによって、解読が始めて可能である。すなわちかって我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである。それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない」(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。


 これは折口の見解と実際上同じものである。「皇室最古の神聖なる御伝えと合致しない」、つまりアマテラスよりも古い神として「紫電金線」の神、稲妻を走らせる雷電の神という図式は、柳田・折口において共通するものなのである。というよりも、折口の議論は柳田の議論を下敷きにしていたのであろう。柳田と折口のあいだ、人間の生き方という点でも複雑な葛藤をふくんでいるが、しかし、やはりきわめて緊密な師弟関係にあったから、二人の対談で「既存者=元の神」について論じられなかったのは、当人同士にはあまりに当然なことはふれられなかったということなのかもしれない。

 第二次世界大戦が我々の国にもたらした影響と、敗戦後の状況は、すでに遠いものとなっており、その頃のことでわからないことが多くなっている。学問の歴史においても、そのころのことを取り戻すことはできないのであるが、しかし、ここに確認した柳田――折口の試論、つまり天変地異の神、雷電の神としてのタカミムスヒという忘れられた試論を「導きの糸」として、以下、天孫降臨の至高神・司令神タカミムスヒについて考えていくことにしたい。歴史神話学の根本問題を検討するにあたって、「導きの糸」を歴史学ではなく、民俗学・神道学に求めなければならないというのは、私のような歴史学徒にとっては大問題であり、こういうことになった理由を考えざるをえないという気持ちになる。しかし、この問題については、この研究を終えた後に、よく考えてみることにしたいと思う。

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