神話学の勉強。
神話論で依然として躓いている。
まったくこれまでやったことのない分野なのだからやむをえないと考えて、もう一度、根っこから考えている。イェンゼンの『殺された女神』を全部読んだが、フレーザーの『火の起源の神話』を読まねばならないということになって、たしか以前少し読んだはずだ、書棚にあったはずだと思ったがない。
そこでやむをえず古本を購入依頼。とどくまで仕事ができない。松前健さんの『日本神話の新研究』が種本なのだが、そのまま引き写すわけにはいかない。本当はポリネシアについてのR・W・Williamsonの英文の本をよまなければならないが、さすがにそこまではやってられない。
しかし、考えてみると、いま考えているのは火山神論、自然神論なのだが、方法的に一番新鮮なのは、私には溝口睦子さんの神名についての論文である(「記紀神話解釈の一つの試み」)。岡田精司さんの重厚さと溝口さんの鋭さの間で「うろうろ」というとことである。
自然神と一言でいうが、次に見事な引用する文章で、溝口さんがいう意味での「擬人化」というのは、これは現代まで存在するような意識のあり方だと思う。これは神話というよりも言語表現の問題だと思う。シナツヒコは「風さん」、オオゲツ姫は「ご飯さん」というのは言い得て妙であると思う。
その溝口意見を認めた上で、物語・劇になることによって人格神が生まれる訳であるが、タカミムスヒとかカミムスヒとか、イザナキ・イザナミなどの「人格神」。自然神としての人格神は神話時代、古墳時代にも居たのではないかというのが最大の疑問。風さん、ご飯さんとは違って物語化した神、劇化した神にすでになっていたのではないか、そういう神も居たのではないかと考えたいのだが、まだ結論はでない。
溝口さんの意見の中枢部、長いが、引用を許されたい。
童話の世界と神話の関係という問題の捉え方が何とも好ましい。
我が家の老猫の調子が悪く、夜起こされることが続いている。いまも足下にいる。
少し元気になったのでほっとしているが、猫を人格化して捉えているのに失笑する。これはどういうことであろう。
Deep ecologyというのはあるいは神話時代の復活であろうか。
などということを考えていても実証研究は進まない。
以下溝口さんの論文より。童話の大好きな娘に入力してもらった。感謝。
われわれはいま「――ヒコ」「――ヒメ」といった神名に対して殆ど馴れっこになってしまっているので、神様というものはヒコとかヒメで呼ばれるものだといった感覚すらあり、少しも珍しいことだとは感じられていない。しかし、このことの中には日本古代の思想の特質を考える上での非常に重要な意味がかくされており、又今問題にしている「神」概念と「神」以前の神霊観や自然観との違いの究明にとってもポイントになる重要な内容がふくまれていると筆者は考えている。
こういった特色について、現在一般にはどう受け止められているかといえば、神名についてのこういった特にヒコ・ヒメ等の呼称は、一般に人格神であるしるしとして受けとられているといってよい。しかし一方、人格神観念の成立は、六、七世紀以降であるとみられている。このため例えば前川明久氏のように、ヒコを三世紀以降の称号とされながらも、ヒコを含む神名に限っては、六世紀後半、主として七、八世紀にかけて成立したとされるなど、一つの矛盾につきあたる。このようにヒコを人格神と規定してしまう限りこの矛盾はさけられないが、その矛盾からのがれるために、いま人格神ととる受け止め方自体を改めて検討し直してみるとどうなるか。
例えばここにシナツヒコ(シナ=風、ツ=助詞「の」)、大ケツヒメ(ケ=食物)という神名がある。これはあきらかに風や食糧の擬人化である。ここまでは余り問題がない。問題はこういうものを直ちに人格神とすることができるかどうかという点にあるわけで、それを考えるためには先ずこの神名を一度自分の言葉として実感に即してとらえ直してみることが必要である。シナツヒコは現代語でいえば「風さん」とか「風の又三郎」といった語感に近い。つまりこういう言葉を口にしたときの「台風何号」といった時と違った風に対するひどく身近な感覚を思い起こしてみなければならない。自然に対するこういった、現代では童話の世界にしか生きていない現代と全く異なった感覚の異質さに目をむける必要がある。
自然に対してこうよびかけることは、彼等が自然の中に抽象的な人格を認めたことを意味するのだろうか。古文献には「其磯名謂勝門比売也。」(仲哀記)と磯をヒメと名づけたり又島をヒコでよんだりする例があるが、これらも磯や島に人格を認めたためだろうか。そうではなく、これは彼等が自然と人間を同一視し、自然を人間と同じ延長線上にあるものとして考えていることを意味しているとみるのが正しいだろう。同じく擬人化するといっても、われわれのように自然と人間の違いをはっきり意識しながらたまたま自然を人間になぞらえてみるのとは根本的に思考の型を異にしている。
シナツヒコは風そのものをさし、カヤノヒメは野そのものをさし、大ゲツヒメは食糧そのものをさしているが、そして同時にそれらは風や野そのものでありながら時に人間のような活動をすることもある。その転換の自由さにはわれわれに理解しがたい面もあるが、こういった思惟のあり方はの反映であり、そういった思惟の中における展開だと考えた時、はじめてよく納得できる。原始、未開という言葉が適当でないとすれば古代国家成立以前といい直してもよいが、とにかくその時代に固有の、それ以降とは異質な自然観、神霊観を背景に考えられるべきものである。
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