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2014年6月

2014年6月24日 (火)

ゴキブリの語源と鉢かづき姫

 ゴキブリの語源のうち、ゴキが御器であるというのは動かない。御器といえば漆塗りの御椀を思い出せばよい。辞書に書いてあるのは、あれをゴキブリが齧るからということである。御器にかぶりつくからゴキブリというのであるということだが、ゴキブリは本当に御器をかじるのであろうか。

 私は、これは「ゴキブリ」=御器かぶりだと思う。御器のようなものを頭にかぶっているから「御器かぶり」=ゴキブリなのではないかと思う。

 ゴキブリの姿を思い浮かべて欲しい。頭から胸の部分が黒く光っていて、これが御器の部分である。そして、そこから茶色い羽がでているが、これは和服の袖を思い浮かべる。
 
 先日、鉢かづきについての授業だった。院生のレポートは刺激的で、帰宅途中に感想を書いたが、時間切れであった。
 授業の題目は「鉢かづき」なので、家にあった『こどものとも』はちかづき姫をもってでた。長谷川摂子再話のものである。
 そこにでてくる鉢かづき姫の姿が頭にしみついていて、そののち、作ってあった鉢かづきのファイルをみていたら、ゴキブリの語源についての上記のようなメモがあった。

 絵本をお読みになってみるとよいが、たしかに、鉢かづき姫の姿がみようによっては「御器かぶり」である。頭に黒い鉢をかぶって、袖がそこから流れていて、たしかに「御器かぶり」にみえる。鉢かづき→御器かぶり

 御器、鉢は乞食の道具である。それが頭に付着してしまい、乞食を身体とする人間になってしまったというのが鉢かづきの物語の本質のところにあるというのが、『物語の中世』に入れた、私の鉢かづき論である。乞食の鉢が頭についてしまったが、これは顔を誰にもみられたことのないという意味でもっとも貴族的な女性である。

 この『御伽草子』の最大の謎は「鉢をかぶる」ということだと思う。なぜ、鉢をかぶるのか、鉢は何を意味しているのかが「謎」として読んだものの心の中に残るかどうかが決定的な問題であろうと思う。私は、この「謎」は秘面ということが、歴史社会においてどういう意味をもつのかという重要な問題にかかわっていると考えている。ヨーロッパのマント、イスラムのチャドルをどう考えるかという物語なのである。

 残念ながら、これを考えに入れた絵本はない。いま読めるのは、上記の長谷川摂子さんの再話のものであろうが、これはよいものだと思うのは、鉢かづきの絵がよい。ゴキブリのことを考えさせてくれたからいいというと画家に悪いようであるが、ーー
 
 しかし、いかにも学者という、うるさいことをいうようだが、いくつか引っかかるところはあって、まず鉢かづきは子どものない夫婦の祈りに答えて観音様の「申し子」として生まれるのだが、絵本では、この漢音様が野原の小さな小屋の中にたっている。これは『粉河寺縁起絵』の場面からとったものなのであろうが、鉢かづきの話は長谷の観音のはなしである。長谷観音という設定は残しておいておいてほしかった。
 長谷寺のことは奈良時代・平安時代のことを考えるときにはどうしても必要な知識である。真言宗豊山派総本山。「わらしべ長者」の話も長谷の観音の話である。『更級日記』にも著者が長谷観音に参詣する話がある。小さな子どもが保育園・幼稚園で鉢かづきの絵本で長谷観音という名前を覚え、中学校で『更級日記』を読んで、すべてを解説してもらうというような形で、日本の歴史文化を徐々に知っていくというようなルートを構想することが必要だと思う。

 もう一つ、この絵本では、鉢かづきは川を流れていく途中に漁師に助けられるのだが、漁師のところで居着くということになった時に、それを聞いた「継母」が、「うらないし」の姿になって漁師の家に行き、「この子は鬼の子だ」と告げ口したために、鉢かづきは海に捨てられそうになったと書き換えられていることである。これは鉢かづきの物語をシンデレラ物語に書き換えたもののように感じる。

 絵本作家と歴史文学・歴史学のあいだには、ほとんど連絡がないので仕方のないことであると思うが、いろいろ考えた方がよいことは多いと思う。
 ゴキブリと鉢かづき姫というのが十分に上品であるかどうかは別として、民族文化というものを十分に理性的に学術的に仕立て上げ、上品なものにしていくことが、世情をみていても必要なことと思う。
 民族感情が下品な形で表現されることはのぞまない。

2014年6月15日 (日)

ル・グィンのSF『天のろくろ、The Lathe of Heaven』について

 ル・グィンのSFでは何といっても『所有せざる人々』が圧巻だと思う。『ロカノンの世界Rocannon's World』、『辺境の惑星Planet of Exail』、『幻影の都市City of illusions』を読んできて『所有せざる人々』を読むという経験をしたので、シュヴェックとタクバの名前を覚えてしまった。

 それと比較すると、『天のろくろ』はいわゆるSFらしいSFで、現実とは違う夢をみると、その通りに現実が変化していく。人々の記憶も世界も変わっていって、そこにケチな悪人が絡んでカオスとなり、破局寸前にまで行くという話だが、ややさびしげな恋愛と出会いの話がうまく筋のなかに入っていて、読後感のいい小説である。

 題名の「天のろくろ、The Lathe of Heaven」というのは、『荘子』の「若有不即是者、天鈞敗之」という文章にある「天鈞」のことである。ル・グィンはこの「天鈞」を「ろくろ、轆轤」と理解した。このSFの第三章冒頭に『荘子』(第二三)が引用されている(訳は訳者の脇明子さん)。次のようなものである。

 「天の助けを受ける者を天の子とよぶ。天の子は学ぶことによって、これを学ぶのではない。行うことによって、それを行うのでもない。論ずることによって、それを論ずるのでもない。理解しえなくなったところで理解を停止させるのは、最高の知恵というべきである。それを行いえないものは、天のろくろの上で破滅の憂き目にあうことになろう」。

 ところがこの本に付された脇さんの訳者解説によれば、「原文の当該箇所にある『天鈞』という言葉は、日本ででているどの解説をみても『天のろくろ』という意味にはとれそうにないのである。たとえば中公文庫の森三樹三郎氏の訳によれば『もし限界を守るということに従わないならば、天鈞――すべてが等しいという自然の道によって罰せられ、破滅の憂き目にあうことになろう』という意味になる」ということである。

 小説の題名が誤解にもとづいてつけられているというのだから、これは訳者としては困ったろう。『天のろくろ』というのが印象的な題であるだけに、それは当然である。

 脇さんはこの日本の『荘子』解釈を信頼し、ル・グィンはようするに『荘子』を誤解した。もちろん、その誤解のもとは彼女が引用句をとった英語版の『荘子』にあるがとしたのである。脇さんは英語版の『荘子』の訳者が誰かを示していないので、そのうち調査をしたいと思うが、しかし、私は、ル・グィンの英訳で問題はないのではないかと思う。脇さんもいうように 「鈞」にはたしかに「ろくろ」という意味があるのである。

 実は、私は必要があって、『荘子』(大宗師第六)にでる「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)について考えたことがある。それは、天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」というものである。これも日本の学者の翻訳をみると、この「大鑪」ついても抽象的な意味にしかとっておらず、右の森訳と同じように「すべてが等しい」というような意味にしていた。しかし、これはおかしいと思う。ということで先日、中国思想史のK氏に意見を聞いたのだが、たしかに、「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)というのをそのままの意味で比喩としてとってもよいのかもしれないということであった。

 そもそも『日本書紀』(顕宗紀)、日本神話の至上神タカミムスヒのことが「天地を鎔造した」神であると説明されている。これは『荘子』の右の一節を典拠とした可能性がきわめて高い。そして、この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというで、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになる。それは益田勝実『火山列島の思想』が、八世紀、海底火山の噴火が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目していることに関係してくる(これはすでに『物語の中世』の文庫版のあとがきで書いたので、このブログに書いても若手の研究をじゃましたことにはならない。このあとがきはいまWEBPAGEにあげた)。

 ようするに、ル・グィンの方が日本の学者よりも正しいのではないかということである。ル・グィンは「東洋思想」に興味があるようで、上記の『幻影の都市City of illusions』では老子の一節がキーとなって記憶を呼び戻す呪術とするという一節がある。これは読んでいても実に自然によめる。なにしろ、ル・グインは自分で老子を翻訳しているということなので、これも入手して読んでみるつもりでいるが、にわか仕立ての私などよりもよく知っているのかもしれない。
 
 
 今日はY先生のお通夜である。上行寺東遺跡の保存運動で頼りがいのあった職場の先輩。昨日、御死去の連絡があった。10年ほど前にお会いしたが、玄関の横の部屋は詩集がならんでいた。
 4・5年前にもまた連絡するから一度いらっしゃいといわれていた。こちらから御連絡するべきであった。十分でない生活をしていることをあらためて思い知り、うちのめされる。
 世情はたいへんに問題が多い。

 次は、この文章の下書きに入っていた『ドゥイノの悲歌』の翻訳、ついでにのせておく。


たとえ私が叫んだとしても、天使たちの序列の中の
誰にそれが届こう
もし、突然に一人が気づき、私を抱き寄せれば、私は滅びる。
その強大な存在の前で。美とはそのような恐怖の始まりであって、
私たちはそれに耐えることはできない。

2014年6月 2日 (月)

歴史学の研究史の学び方

 いま中央線。金曜。学芸大の授業が終わり、帰宅途中。

 しばらく前、「歴史家と読書――生涯に100冊の本を徹底的に何度も読む」という記事を書いたが、友人と食事しながら、歴史学における研究史の学び方という話になる。研究史については研究史を紹介する文章というものはあって、それは有益ではあるが、しかし、歴史学、とくに前近代史では史料との格闘が第一になるので、ある特別の研究者をえらんで、その人の本・論文をすべて読むというのが一番手早いと思う。そこから関係する研究者を次から次ぎに芋蔓を掘るようにして手繰っていくのである。

 これは小説家を一人特定して、その人の小説をすべて読むというのと同じである。「東大教師が新入生にすすめる本」というのをさきほどあげておいたが、そこに「一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で」と書いたが、歴史家の場合も同じようにして、その人を自分のなかに住ませてしまうことになる。

 その歴史家の仕事をすべて読む。しかもできれば、その論文なり、著書なりで利用されている史料を自分でも探しだして読んでみる。そうすると、この歴史家は史料をこういうように読むのかということが実感できるようになる。その歴史家は独自の方法や理論をもっているはずであるから、それを学ぶというのも重要であるが、しかし、それにはこだわらない。まずは、その歴史家が、その独自の方法なり理論なりによって獲得した史料分析力を自分に受けいれるのである。真似するのである。そしてできれば、自分でも、その歴史家の視角に従って、一本論文を書いてみるのがいい。その間は、その歴史家の方法や視角を全面的に信頼し、信用して勉強するのは当然である。なお、選択するのは、当然のことながら、独自の方法や理論をもっていてある程度の量を書いている歴史家がのぞましい。もちろん、自分の研究テーマを決めるためには、いろいろな論文を読むのが必要だし、史料を探るためにも、それは必要である。しかし、ここでいうのは、そういう実務論文ではなく、研究史に入りこんでいくための勉強ということである。

 けれども、それが終わった段階では、また別の歴史家のものを同じようにして読む。第二の歴史家もやはり信頼して読む。というよりも史料にそくして読んでいると信頼せざるをえないことになる。第一の歴史家のいうことと矛盾している場合があるはずだが、それは簡単にどちらかを捨てることはしない。両方正しいと信じて読んで勉強を続けていく。そうすると、第一の歴史家の視野とは違った視野の中に自分がおかれていることがわかる。最初はやや目がくらむかもしれないが、歴史は多様で複雑なので、第一の歴史家と第二の歴史家の視野が自分のものになって、ピントがあってくるということがあれば儲けものである。私たちは、そのとき、本当に歴史学の中に立ち入ったということになるのかもしれない。これを繰り返すわけである。

 私の場合は、まったく戸田芳実氏の仕事を通じて、すべての史料をみていた時期がある。戸田さんの『日本領主制成立史の研究』がまず来て、次ぎに戸田さんの盟友の河音能平氏の『日本封建制成立史論』がきた。大学院の間は、この二冊、そしてそれ以外の戸田・河音の論文や、二人の論文で参照されている論文を読んだ。
 そして、その後、稲垣泰彦・笠松宏至・黒田俊雄・網野善彦・大山喬平・石井進・永原慶二という順序で、当時活躍していた研究者の仕事に順次にとらわれていった。そういう世代なので、直接に御話を伺い、教えられた経験は本当に身に余るありがたさであった。御二人を除いてなくなられてしまったのは痛恨である。学者は、もちろん、書いたものを通じてしか関係しないというのが正論である。石母田正さんは『戦後歴史学の思想』でそう述べている。しかし、歴史家は職人なので、少し違うところがあるとも思う。史料を分析する息づかいのようなものにふれる、感じるためには、その人の姿をみるというのは意外に励みになった。

 こうやって読み抜いていって、徐々に読み抜いた本が100冊になるということなのだと思う。


 しかし、あるいはすでにそういう時代ではないのだろうか。

 つまり、現代歴史学も、私の専攻する「中世」では、石母田正・藤間生大・林屋辰三郎の第一世代、永原慶二・稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦などの第二世代、そして戸田さんたちの第三世代、さらに峰岸純夫・藤木久志さんたちだから、もう歴史学者の世代は何層にも重なっている。それを一つ一つ剥いでいくのは大変なことだと思う。
 私などは石母田正さんまでさかのぼったが、しかし、そこまでは要求できないように思う。

 今日は月曜。土日は滋賀県で研究会であったが、新しい議論がすでにでてきていて、それを追うなかでは、いまから研究を始める若手は、過去にさかのぼってはいられないのではないかとも思う。そこら辺は、私にはすでにわからない。
 いまは誰でも認めるように研究史は大きな曲がり角である。

東大教師が新入生にすすめる本

 堀田善衛の本が好きでよく読む。
 次は、『UP』東大出版会の宣伝紙に書いた「東大教師が新入生にすすめる本」の記事。相当前である。


1,印象に残った本。

『亂世の文学者』
 堀田善衛の第一エッセイ集。高校時代に神田の古本屋街でみつけた。最近ではさすがに読むことはなくなり、しかも今、ベルギーのルーヴァン大学に在外研究の機会をあたえられていて、本が手許にないので、どこにそんなに惹かれたのかを具体的に説明することはできないが、当時『文芸』に連載されていた堀田の青春自伝『若き日の詩人たちの肖像』を傍らにおいて、その「思想的」解説のようなものとして読んでいた。第二次大戦の中を生身の人間として生きた堀田の言葉は、高校生にも(あるいは高校生だからこそ)説得的で、一時は寝ても覚めても読んでいたように思う。続いて、堀田の「現代史小説」あるいは「歴史小説」、つまり『広場の孤独』『シベリアの森』『時間』『歴史』『海鳴りの底から』『審判』『スフィンクス』などもすべて読み、第二エッセイ集の『歴史と運命』も愛読した。一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で、その後、繰り返すことはなかった。その意味で、印象に残った本といわれると筆頭に挙がる。

『美しきものみし人は』
 この本の原版がでたのは一九六九年一月。私が読んだのは、文庫本になった一九八三年である。何故でたときに読まなかったのか。金がなかったのか、知らなかったのかはわからないが、一九六九年一月といえば東大では七学部団交と確認書締結のまさにその時で、私も大学一年の冬、ちょうど母校の国際キリスト教大学で学生運動への参加を周囲から説得されていた時にあたる。とても、このおもにヨーロッパ絵画を扱った本を読むという雰囲気ではなかったに違いない。もし、これをその時に読んでいたら、もう少し「文化的な」人間になっていたかも知れないと思う。私は、堀田氏がヨーロッパにすみついてしまい、堀田氏はそんなことをいわれたら大変に不愉快であろうが、美術評論家か、文明評論家のようになってしまったことがたいへんに不満であった。しかし、その事情が、これを読んでいると理解できる気もする。堀田氏は、この八月亡くなり、実は、私は出発前後のあわただしさに取り紛れて、そのことを知らずにベルギーにきてしまったが、偶然、唯一「文化的な」本としてもってきていて、氏の小説のあちこちを思い出しながら、愉しんで読んでいる。

2,これだけは読んでおこう。
 私の専攻は日本中世史だが、必読文献といえるものは少ない。そもそも学者の仕事は散文的な作業であって、本は道具にすぎず、道具はたくさんなければ仕事にならない。必読ということになれば、哲学と方法論。大学時代は当節流行のチャラチャラしたものは読まずに、何よりもマルクス、ヘーゲルその他、古典的なものを読んでほしいと思う。そういう常識がないと、少なくとも私のような凡人には根気強い仕事はできない(できなかった)。そこで、ここでは史料それ自体を挙げることとする。

『今昔物語集』(本朝)。文庫本にすると、四冊。『今昔物語集』の文章は簡潔で明解、きわめて読みやすい。大短編小説集のつもりで、全部読んでほしい。奈良・平安時代についての常識もつくし、何よりも、当時生きていた人々の息吹きが伝わってくる。そして、現在でも、そこから無数の研究課題を発見できると思う。石母田正氏の名著『中世的世界の形成』が、『今昔物語集』の一つの説話を古文書によって跡づけることから出発しているのは有名な話。

『御伽草子』。『御伽草子』を読んでいると、『今昔物語集』のもっていたような思想や文化の散文精神というべきものは何処にいってしまったのだろう。日本の中世というのは、それをなくしていく時代、やはり退歩の時代であったのではないかと悲しくなる。けれども最近、おそらくそうではなく、単純にみえる『御伽草子』の中には、むしろ中世の文化の多層化・複雑化の過程があらわれているのだと考えるようになった。『御伽草子』の周辺に存在する諸史料を読み抜き、いつか室町・戦国時代の文化の基底にあったものを考えてみたいというのが、私の夢。見果てぬ夢。

3,東大出版会の本
 笠松宏至氏の二冊の本、『日本中世法史論』『中世人との対話』および同氏が実際上の企画をになったといわれる『中世の罪と罰』を挙げる。また一緒に『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー)も読んでほしい。歴史家の場合でも、小説家と同様、その仕事の全体を読むことはいろいろなことを考えさせてくれるが、笠松氏は、現在の中世史学の常識の基礎部分を作り出すのに関わった有数の歴史家であり、その世界を知ることはかけがえのないものを与えてくれる。最初からテーマと方法のきまった論文でなく、まったく新しい史料の収集と本格的な解釈によって独力で自分の道を切り開いていくような論文を書くことは私にはできない。今になっても、読むたびにそう感じさせられるのはなかなかつらいものがあるが、最初に読む人は、そういう感じ方をしなくてもすむだろうと思う。

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