ゴキブリの語源と鉢かづき姫
ゴキブリの語源のうち、ゴキが御器であるというのは動かない。御器といえば漆塗りの御椀を思い出せばよい。辞書に書いてあるのは、あれをゴキブリが齧るからということである。御器にかぶりつくからゴキブリというのであるということだが、ゴキブリは本当に御器をかじるのであろうか。
私は、これは「ゴキブリ」=御器かぶりだと思う。御器のようなものを頭にかぶっているから「御器かぶり」=ゴキブリなのではないかと思う。
ゴキブリの姿を思い浮かべて欲しい。頭から胸の部分が黒く光っていて、これが御器の部分である。そして、そこから茶色い羽がでているが、これは和服の袖を思い浮かべる。
先日、鉢かづきについての授業だった。院生のレポートは刺激的で、帰宅途中に感想を書いたが、時間切れであった。
授業の題目は「鉢かづき」なので、家にあった『こどものとも』はちかづき姫をもってでた。長谷川摂子再話のものである。
そこにでてくる鉢かづき姫の姿が頭にしみついていて、そののち、作ってあった鉢かづきのファイルをみていたら、ゴキブリの語源についての上記のようなメモがあった。
絵本をお読みになってみるとよいが、たしかに、鉢かづき姫の姿がみようによっては「御器かぶり」である。頭に黒い鉢をかぶって、袖がそこから流れていて、たしかに「御器かぶり」にみえる。鉢かづき→御器かぶり
御器、鉢は乞食の道具である。それが頭に付着してしまい、乞食を身体とする人間になってしまったというのが鉢かづきの物語の本質のところにあるというのが、『物語の中世』に入れた、私の鉢かづき論である。乞食の鉢が頭についてしまったが、これは顔を誰にもみられたことのないという意味でもっとも貴族的な女性である。
この『御伽草子』の最大の謎は「鉢をかぶる」ということだと思う。なぜ、鉢をかぶるのか、鉢は何を意味しているのかが「謎」として読んだものの心の中に残るかどうかが決定的な問題であろうと思う。私は、この「謎」は秘面ということが、歴史社会においてどういう意味をもつのかという重要な問題にかかわっていると考えている。ヨーロッパのマント、イスラムのチャドルをどう考えるかという物語なのである。
残念ながら、これを考えに入れた絵本はない。いま読めるのは、上記の長谷川摂子さんの再話のものであろうが、これはよいものだと思うのは、鉢かづきの絵がよい。ゴキブリのことを考えさせてくれたからいいというと画家に悪いようであるが、ーー
しかし、いかにも学者という、うるさいことをいうようだが、いくつか引っかかるところはあって、まず鉢かづきは子どものない夫婦の祈りに答えて観音様の「申し子」として生まれるのだが、絵本では、この漢音様が野原の小さな小屋の中にたっている。これは『粉河寺縁起絵』の場面からとったものなのであろうが、鉢かづきの話は長谷の観音のはなしである。長谷観音という設定は残しておいておいてほしかった。
長谷寺のことは奈良時代・平安時代のことを考えるときにはどうしても必要な知識である。真言宗豊山派総本山。「わらしべ長者」の話も長谷の観音の話である。『更級日記』にも著者が長谷観音に参詣する話がある。小さな子どもが保育園・幼稚園で鉢かづきの絵本で長谷観音という名前を覚え、中学校で『更級日記』を読んで、すべてを解説してもらうというような形で、日本の歴史文化を徐々に知っていくというようなルートを構想することが必要だと思う。
もう一つ、この絵本では、鉢かづきは川を流れていく途中に漁師に助けられるのだが、漁師のところで居着くということになった時に、それを聞いた「継母」が、「うらないし」の姿になって漁師の家に行き、「この子は鬼の子だ」と告げ口したために、鉢かづきは海に捨てられそうになったと書き換えられていることである。これは鉢かづきの物語をシンデレラ物語に書き換えたもののように感じる。
絵本作家と歴史文学・歴史学のあいだには、ほとんど連絡がないので仕方のないことであると思うが、いろいろ考えた方がよいことは多いと思う。
ゴキブリと鉢かづき姫というのが十分に上品であるかどうかは別として、民族文化というものを十分に理性的に学術的に仕立て上げ、上品なものにしていくことが、世情をみていても必要なことと思う。
民族感情が下品な形で表現されることはのぞまない。