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2014年6月 2日 (月)

東大教師が新入生にすすめる本

 堀田善衛の本が好きでよく読む。
 次は、『UP』東大出版会の宣伝紙に書いた「東大教師が新入生にすすめる本」の記事。相当前である。


1,印象に残った本。

『亂世の文学者』
 堀田善衛の第一エッセイ集。高校時代に神田の古本屋街でみつけた。最近ではさすがに読むことはなくなり、しかも今、ベルギーのルーヴァン大学に在外研究の機会をあたえられていて、本が手許にないので、どこにそんなに惹かれたのかを具体的に説明することはできないが、当時『文芸』に連載されていた堀田の青春自伝『若き日の詩人たちの肖像』を傍らにおいて、その「思想的」解説のようなものとして読んでいた。第二次大戦の中を生身の人間として生きた堀田の言葉は、高校生にも(あるいは高校生だからこそ)説得的で、一時は寝ても覚めても読んでいたように思う。続いて、堀田の「現代史小説」あるいは「歴史小説」、つまり『広場の孤独』『シベリアの森』『時間』『歴史』『海鳴りの底から』『審判』『スフィンクス』などもすべて読み、第二エッセイ集の『歴史と運命』も愛読した。一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で、その後、繰り返すことはなかった。その意味で、印象に残った本といわれると筆頭に挙がる。

『美しきものみし人は』
 この本の原版がでたのは一九六九年一月。私が読んだのは、文庫本になった一九八三年である。何故でたときに読まなかったのか。金がなかったのか、知らなかったのかはわからないが、一九六九年一月といえば東大では七学部団交と確認書締結のまさにその時で、私も大学一年の冬、ちょうど母校の国際キリスト教大学で学生運動への参加を周囲から説得されていた時にあたる。とても、このおもにヨーロッパ絵画を扱った本を読むという雰囲気ではなかったに違いない。もし、これをその時に読んでいたら、もう少し「文化的な」人間になっていたかも知れないと思う。私は、堀田氏がヨーロッパにすみついてしまい、堀田氏はそんなことをいわれたら大変に不愉快であろうが、美術評論家か、文明評論家のようになってしまったことがたいへんに不満であった。しかし、その事情が、これを読んでいると理解できる気もする。堀田氏は、この八月亡くなり、実は、私は出発前後のあわただしさに取り紛れて、そのことを知らずにベルギーにきてしまったが、偶然、唯一「文化的な」本としてもってきていて、氏の小説のあちこちを思い出しながら、愉しんで読んでいる。

2,これだけは読んでおこう。
 私の専攻は日本中世史だが、必読文献といえるものは少ない。そもそも学者の仕事は散文的な作業であって、本は道具にすぎず、道具はたくさんなければ仕事にならない。必読ということになれば、哲学と方法論。大学時代は当節流行のチャラチャラしたものは読まずに、何よりもマルクス、ヘーゲルその他、古典的なものを読んでほしいと思う。そういう常識がないと、少なくとも私のような凡人には根気強い仕事はできない(できなかった)。そこで、ここでは史料それ自体を挙げることとする。

『今昔物語集』(本朝)。文庫本にすると、四冊。『今昔物語集』の文章は簡潔で明解、きわめて読みやすい。大短編小説集のつもりで、全部読んでほしい。奈良・平安時代についての常識もつくし、何よりも、当時生きていた人々の息吹きが伝わってくる。そして、現在でも、そこから無数の研究課題を発見できると思う。石母田正氏の名著『中世的世界の形成』が、『今昔物語集』の一つの説話を古文書によって跡づけることから出発しているのは有名な話。

『御伽草子』。『御伽草子』を読んでいると、『今昔物語集』のもっていたような思想や文化の散文精神というべきものは何処にいってしまったのだろう。日本の中世というのは、それをなくしていく時代、やはり退歩の時代であったのではないかと悲しくなる。けれども最近、おそらくそうではなく、単純にみえる『御伽草子』の中には、むしろ中世の文化の多層化・複雑化の過程があらわれているのだと考えるようになった。『御伽草子』の周辺に存在する諸史料を読み抜き、いつか室町・戦国時代の文化の基底にあったものを考えてみたいというのが、私の夢。見果てぬ夢。

3,東大出版会の本
 笠松宏至氏の二冊の本、『日本中世法史論』『中世人との対話』および同氏が実際上の企画をになったといわれる『中世の罪と罰』を挙げる。また一緒に『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー)も読んでほしい。歴史家の場合でも、小説家と同様、その仕事の全体を読むことはいろいろなことを考えさせてくれるが、笠松氏は、現在の中世史学の常識の基礎部分を作り出すのに関わった有数の歴史家であり、その世界を知ることはかけがえのないものを与えてくれる。最初からテーマと方法のきまった論文でなく、まったく新しい史料の収集と本格的な解釈によって独力で自分の道を切り開いていくような論文を書くことは私にはできない。今になっても、読むたびにそう感じさせられるのはなかなかつらいものがあるが、最初に読む人は、そういう感じ方をしなくてもすむだろうと思う。

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