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2014年6月 2日 (月)

歴史学の研究史の学び方

 いま中央線。金曜。学芸大の授業が終わり、帰宅途中。

 しばらく前、「歴史家と読書――生涯に100冊の本を徹底的に何度も読む」という記事を書いたが、友人と食事しながら、歴史学における研究史の学び方という話になる。研究史については研究史を紹介する文章というものはあって、それは有益ではあるが、しかし、歴史学、とくに前近代史では史料との格闘が第一になるので、ある特別の研究者をえらんで、その人の本・論文をすべて読むというのが一番手早いと思う。そこから関係する研究者を次から次ぎに芋蔓を掘るようにして手繰っていくのである。

 これは小説家を一人特定して、その人の小説をすべて読むというのと同じである。「東大教師が新入生にすすめる本」というのをさきほどあげておいたが、そこに「一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で」と書いたが、歴史家の場合も同じようにして、その人を自分のなかに住ませてしまうことになる。

 その歴史家の仕事をすべて読む。しかもできれば、その論文なり、著書なりで利用されている史料を自分でも探しだして読んでみる。そうすると、この歴史家は史料をこういうように読むのかということが実感できるようになる。その歴史家は独自の方法や理論をもっているはずであるから、それを学ぶというのも重要であるが、しかし、それにはこだわらない。まずは、その歴史家が、その独自の方法なり理論なりによって獲得した史料分析力を自分に受けいれるのである。真似するのである。そしてできれば、自分でも、その歴史家の視角に従って、一本論文を書いてみるのがいい。その間は、その歴史家の方法や視角を全面的に信頼し、信用して勉強するのは当然である。なお、選択するのは、当然のことながら、独自の方法や理論をもっていてある程度の量を書いている歴史家がのぞましい。もちろん、自分の研究テーマを決めるためには、いろいろな論文を読むのが必要だし、史料を探るためにも、それは必要である。しかし、ここでいうのは、そういう実務論文ではなく、研究史に入りこんでいくための勉強ということである。

 けれども、それが終わった段階では、また別の歴史家のものを同じようにして読む。第二の歴史家もやはり信頼して読む。というよりも史料にそくして読んでいると信頼せざるをえないことになる。第一の歴史家のいうことと矛盾している場合があるはずだが、それは簡単にどちらかを捨てることはしない。両方正しいと信じて読んで勉強を続けていく。そうすると、第一の歴史家の視野とは違った視野の中に自分がおかれていることがわかる。最初はやや目がくらむかもしれないが、歴史は多様で複雑なので、第一の歴史家と第二の歴史家の視野が自分のものになって、ピントがあってくるということがあれば儲けものである。私たちは、そのとき、本当に歴史学の中に立ち入ったということになるのかもしれない。これを繰り返すわけである。

 私の場合は、まったく戸田芳実氏の仕事を通じて、すべての史料をみていた時期がある。戸田さんの『日本領主制成立史の研究』がまず来て、次ぎに戸田さんの盟友の河音能平氏の『日本封建制成立史論』がきた。大学院の間は、この二冊、そしてそれ以外の戸田・河音の論文や、二人の論文で参照されている論文を読んだ。
 そして、その後、稲垣泰彦・笠松宏至・黒田俊雄・網野善彦・大山喬平・石井進・永原慶二という順序で、当時活躍していた研究者の仕事に順次にとらわれていった。そういう世代なので、直接に御話を伺い、教えられた経験は本当に身に余るありがたさであった。御二人を除いてなくなられてしまったのは痛恨である。学者は、もちろん、書いたものを通じてしか関係しないというのが正論である。石母田正さんは『戦後歴史学の思想』でそう述べている。しかし、歴史家は職人なので、少し違うところがあるとも思う。史料を分析する息づかいのようなものにふれる、感じるためには、その人の姿をみるというのは意外に励みになった。

 こうやって読み抜いていって、徐々に読み抜いた本が100冊になるということなのだと思う。


 しかし、あるいはすでにそういう時代ではないのだろうか。

 つまり、現代歴史学も、私の専攻する「中世」では、石母田正・藤間生大・林屋辰三郎の第一世代、永原慶二・稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦などの第二世代、そして戸田さんたちの第三世代、さらに峰岸純夫・藤木久志さんたちだから、もう歴史学者の世代は何層にも重なっている。それを一つ一つ剥いでいくのは大変なことだと思う。
 私などは石母田正さんまでさかのぼったが、しかし、そこまでは要求できないように思う。

 今日は月曜。土日は滋賀県で研究会であったが、新しい議論がすでにでてきていて、それを追うなかでは、いまから研究を始める若手は、過去にさかのぼってはいられないのではないかとも思う。そこら辺は、私にはすでにわからない。
 いまは誰でも認めるように研究史は大きな曲がり角である。

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