ル・グィンのSF『天のろくろ、The Lathe of Heaven』について
ル・グィンのSFでは何といっても『所有せざる人々』が圧巻だと思う。『ロカノンの世界Rocannon's World』、『辺境の惑星Planet of Exail』、『幻影の都市City of illusions』を読んできて『所有せざる人々』を読むという経験をしたので、シュヴェックとタクバの名前を覚えてしまった。
それと比較すると、『天のろくろ』はいわゆるSFらしいSFで、現実とは違う夢をみると、その通りに現実が変化していく。人々の記憶も世界も変わっていって、そこにケチな悪人が絡んでカオスとなり、破局寸前にまで行くという話だが、ややさびしげな恋愛と出会いの話がうまく筋のなかに入っていて、読後感のいい小説である。
題名の「天のろくろ、The Lathe of Heaven」というのは、『荘子』の「若有不即是者、天鈞敗之」という文章にある「天鈞」のことである。ル・グィンはこの「天鈞」を「ろくろ、轆轤」と理解した。このSFの第三章冒頭に『荘子』(第二三)が引用されている(訳は訳者の脇明子さん)。次のようなものである。
「天の助けを受ける者を天の子とよぶ。天の子は学ぶことによって、これを学ぶのではない。行うことによって、それを行うのでもない。論ずることによって、それを論ずるのでもない。理解しえなくなったところで理解を停止させるのは、最高の知恵というべきである。それを行いえないものは、天のろくろの上で破滅の憂き目にあうことになろう」。
ところがこの本に付された脇さんの訳者解説によれば、「原文の当該箇所にある『天鈞』という言葉は、日本ででているどの解説をみても『天のろくろ』という意味にはとれそうにないのである。たとえば中公文庫の森三樹三郎氏の訳によれば『もし限界を守るということに従わないならば、天鈞――すべてが等しいという自然の道によって罰せられ、破滅の憂き目にあうことになろう』という意味になる」ということである。
小説の題名が誤解にもとづいてつけられているというのだから、これは訳者としては困ったろう。『天のろくろ』というのが印象的な題であるだけに、それは当然である。
脇さんはこの日本の『荘子』解釈を信頼し、ル・グィンはようするに『荘子』を誤解した。もちろん、その誤解のもとは彼女が引用句をとった英語版の『荘子』にあるがとしたのである。脇さんは英語版の『荘子』の訳者が誰かを示していないので、そのうち調査をしたいと思うが、しかし、私は、ル・グィンの英訳で問題はないのではないかと思う。脇さんもいうように 「鈞」にはたしかに「ろくろ」という意味があるのである。
実は、私は必要があって、『荘子』(大宗師第六)にでる「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)について考えたことがある。それは、天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」というものである。これも日本の学者の翻訳をみると、この「大鑪」ついても抽象的な意味にしかとっておらず、右の森訳と同じように「すべてが等しい」というような意味にしていた。しかし、これはおかしいと思う。ということで先日、中国思想史のK氏に意見を聞いたのだが、たしかに、「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)というのをそのままの意味で比喩としてとってもよいのかもしれないということであった。
そもそも『日本書紀』(顕宗紀)、日本神話の至上神タカミムスヒのことが「天地を鎔造した」神であると説明されている。これは『荘子』の右の一節を典拠とした可能性がきわめて高い。そして、この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというで、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになる。それは益田勝実『火山列島の思想』が、八世紀、海底火山の噴火が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目していることに関係してくる(これはすでに『物語の中世』の文庫版のあとがきで書いたので、このブログに書いても若手の研究をじゃましたことにはならない。このあとがきはいまWEBPAGEにあげた)。
ようするに、ル・グィンの方が日本の学者よりも正しいのではないかということである。ル・グィンは「東洋思想」に興味があるようで、上記の『幻影の都市City of illusions』では老子の一節がキーとなって記憶を呼び戻す呪術とするという一節がある。これは読んでいても実に自然によめる。なにしろ、ル・グインは自分で老子を翻訳しているということなので、これも入手して読んでみるつもりでいるが、にわか仕立ての私などよりもよく知っているのかもしれない。
今日はY先生のお通夜である。上行寺東遺跡の保存運動で頼りがいのあった職場の先輩。昨日、御死去の連絡があった。10年ほど前にお会いしたが、玄関の横の部屋は詩集がならんでいた。
4・5年前にもまた連絡するから一度いらっしゃいといわれていた。こちらから御連絡するべきであった。十分でない生活をしていることをあらためて思い知り、うちのめされる。
世情はたいへんに問題が多い。
次は、この文章の下書きに入っていた『ドゥイノの悲歌』の翻訳、ついでにのせておく。
たとえ私が叫んだとしても、天使たちの序列の中の
誰にそれが届こう
もし、突然に一人が気づき、私を抱き寄せれば、私は滅びる。
その強大な存在の前で。美とはそのような恐怖の始まりであって、
私たちはそれに耐えることはできない。
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