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2014年7月

2014年7月24日 (木)

地震火山108災害文学としての『方丈記』、朝日カルチャーセンター

 明日は新宿の朝日カルチャーセンターで講演である。「『方丈記』と水」というテーマで、『方丈記』の災害文学としての側面を考えるのは重要なので、御引き受けした。

 昨日から準備をはじめて、だいたいできつつある。パワーポイントのデータをうつして若干の感想を書く。私は堀田善衛をよく読んだので、逆に堀田の『方丈記私記』をいつまでも褒めていられるか、歴史家にも一分の魂と考えてきた。そういう心理の下で、「平安時代末期の地震と龍神信仰」(『歴史評論』2012,10)を書いた。

 そして、必然的に、この論文では評価の高い『方丈記』の文章を災害にそくしてテキスト批判するという立場から、長明の見方を相対化しようとした。今回は、さらに相対化したいと思って昨日からやってきた。

 堀田善衛の『方丈記私記』で感心したのは、右の論文でも書いたが、堀田が長明は「家、住居というものに異様なほどに興味のある人」であり、無常どころか、現世への執着が深かったという指摘である。これは浅見和彦氏がさらに具体的に論証しており、確実な論点である。私も、右の論文で「『方丈記』が「家」というものについての偏執にあふれている」「彼にとっての執念は、都における賀茂社の神主としての身分に照応する居宅をもつことにあったに違いない」と書いた。

 ただ、今回考えているのは、長明は「家」と同時に「地」そのものへの驚異のようなものを考えたのではないかということである。つまり、下記のように繰り返される「地」という言葉である。ここに長明は一種の地盤喪失、ボーデンロースの感情を表現しているように思う。


遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。
軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。
所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。
むなしき地は多く、作れる屋はすくなし。
元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、
國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。
はしり出づればまた地われさく。
四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。


 そして、この「地」は網野善彦のいうところの自然としての大地であり、古語でいえば「な」である。「ナは土地、ヰは居。本来地盤の意。なゐ震り、なゐ揺り、で地震の意味であったが、後にナヰだけで地震。ナは満州語na(土・土地)と同源」(『古語辞典』大野晋、岩波書店)ということである。「なゐふる」が地震だったが、「なゐ」だけで地震という意味となった。これは自然としての大地を考えるとき、人々が古語をつかったということであろう。


 しかし、逆にこう考えてくると、やはり『方丈記』の評価が自分のなかで上昇してくるのを感じる。
 問題の部分を全部引用する。
 これを読むと、日本社会は、現在も変わっていないのではないかという感が深い。

 「人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし」ということにならないように、そして、いまでも長明のいうような社会的格差がかわっていない状況は、災害の関係ではどうにかするのが歴史的な経験を大事にするということであると思う。


 こう考えると、『方丈記』はやはり中学校で教材にしなければならないものだと思う。『竹取物語』はフェミニズム。『方丈記』は災害の感覚の問題であろう。

また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。

都の邊(ほとり)には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも登らむ。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震(ない)なりけりとこそ覺え侍りしか。

 かくおびただしくふる事は、暫しにて、止みにしかども、その餘波(なごり)しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ(ひとひまぜ)、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。

 四大種の中に、水・火・風は、常に害をなせど、大地に至りては、殊なる變をなさず。「昔、齊衡の頃とか、大地震ふりて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、猶この度には如かず」とぞ。すなはち、人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし。

 すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとの、はかなくあだなる樣、又かくのごとし。いはんや、處により、身のほどに隨ひつつ、心をなやますことは、あげて數ふべからず。

 もし、おのづから身かなはずして、權門のかたはらに居る者は、深く悦ぶことはあれども、大いにたのしぶにあたはず。歎きある時も、聲をあげて泣くことなし。進退やすからず。立ち居につけて、恐れをのゝく。たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして、富める家の鄰に居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、諂ひつゝ出で入る。妻子・童僕の羨めるさまを見るにも、富める家のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて、時として安からず。

 若し、狹き地に居れば、近く炎上ある時、その災いを遁るゝことなし。もし、邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。また、いきほひある者は貪慾深く、ひとり身なる者は人に輕めらる。寶あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身他の有(ゆう)なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの處をしめて、いかなるわざをしてか、暫(しば)しもこの身をやどし、玉ゆらも、心をやすむべき。

さて、しかし、カルチャーセンターでのお題は「水」なので、これからもう一がんばりである。

2014年7月17日 (木)

千葉の売り酒

 以下は千葉県史の月報に書いたもの。いつの何号だったか記憶がないが、あとで追加する。
 ともかくテキストが偶然でてきたので、挙げておきます。
 地域史にはほとんど関わらないで来たが、最近、自転車で千葉を歩くことが多く、かくてはならじとも思う。
 

 中山法華経寺の所蔵する日蓮上人筆の聖教には、書状などの反古を裏返してノートに仕立てて執筆されたものがある。これらの書状の多くは、当時、日蓮の外護者であり、下総国守護であった千葉氏の吏僚にあてられたものであり、そういう事情がなければ失われてしまったような日常的な手紙であるだけに、逆にきわめて価値が高いものである。ただ、この文書群は、たいへんに読みにくいことでも著名なものだが、本冊は、この文書群の新たに研究にもとづく翻刻を含んでいるということであり、中世史研究者としては、その成果を期待しているところである。

 この文書群の意味を知っていただくために、私が紹介してみたいのは、ある男が、おそらく主人筋の「御客人の御儲」のために贈り物を送り、同時に「千葉にて沽酒なんど候はば、買ふべき由」を使者に言い含めたと述べている手紙である(「秘書要文」紙背)。鎌倉時代後期、幕府は、鎌倉市中の酒甕を叩き割ったり、東国の「沽酒」「市酒」の販売禁止令を発したりしたが、この史料は東国地方都市における「沽酒」の史料として唯一のもので、特に千葉の町場に「酒屋」が出店していたことを示す希有の史料なのである。

 歴史の学校教科書には、中世の市庭の絵として、『一遍聖絵』の備前福岡市の場面がでてくることが多いが、そこには酒壺を並べた酒屋が描かれている。その絵を教材として利用するにあたり、千葉県の学校では、右の文書(できればその写真)と組み合わせれば、授業の臨場感は一挙に増大するに違いないと思う。そもそも、この時代ともなれば、守護権力膝下の都市・千葉が、守護の吏僚層や町人が居住する相当発展した都市的景観を有していたことは確実である。そのような議論も県史の発刊を契機として進展するにちがいないが、それは、歴史教育だけでなく、地域の歴史文化全体にも影響を及ぼしていくだろう。

 そのような展望を期待しながら、ここでは、さらにもう一つの問題提起として、やはり日蓮聖教紙背文書の中に残っている「職長」という人物の書状にふれてみたいと思う。彼の書状は5通ほど残っているが(「秘書要文」紙背)、彼は、千葉氏の上級家臣に出入りして職人との関係を世話するような地位にいたとみられ、その内の3通は「半蔀」「曹司宿」などに使用する「懸金」を鍛冶に鋳造させている件についての報告書で、「金が候はずして、鎌倉の金にまち候て、つくらせ候ほどに作りさかりて候也」、つまり材料不足で鎌倉の鉄材の到来をまって作らせたので、一部納期が遅れたなどと弁解している。この鍛冶は、文脈からいって下総国の都市近郊在住であることは確実である。しかも、製品の若干の不備について、「けんろくがつくりて候へどん、かかる不覚候はず候」ともあることからすると、「けんろく」という名前で、本来は千葉家中でも、それなりの職人として名前が通っていたようである。

 この職長の書状は、いわゆる「金釘流」の極端に読みにくいもので(当時「大仮名」などといわれた)、自身、「物書き候はぬものの、(中略)、御手を見候にても候へ、見ほどかぬことのあさましく候也」、つまり無筆のため、(貴方の)書状をみても、「見ほどく」(読み解く)ことができないと嘆いている。そこからみても、職長の立場はほとんど町人に近かったと思われるが、彼のような人間が多く町場に居住することなしには、鎌倉時代の守護所は経営できなかったはずである。

 以上、書状の表面をたどってみただけで、さらに詳しく読んでいくと、実は興味深いと同時に、様々な疑念がわき出てくる。ただ、それも一つの醍醐味であり、是非、そのうち、所蔵者の御理解をえて、たとえば教材として必要な学校などをはじめ、千葉の住人ならば誰でも貴重な中世文書を写真で閲覧できる便宜が生まれることを期待したいと思う。
   (なお、史料の引用は、仮名を漢字に直すなど適宜変更してある)

2014年7月15日 (火)

金曜日の集会

 今日は学芸大で授業のあと、旧職場によって仕事の手伝いをし、「いのちの碑」(三重県の津波碑悉皆調査)を旧職場周辺で売ってもらう分をSさんに20部あづけ、T・Y・S・E・K・I君ととちょうどあった滋賀のUくんにもかってもらう(これは備忘メモ)。

 その後に、久しぶりに金曜日の国会前の6時からの反原発の集会にいった。集会といっても国会前の道のところに二列くらいで並んで、いろいろ叫んでいるだけであるが、今日は大飯原発の訴訟団の代表の人と弁護団の人がきていて、話していた。大飯原発の訴訟の代表は、小浜の明通寺の御住職がやられておられる。明通寺には貴重な古文書があり、私も読んだ。そしてもう30年以上前に明通寺にうかがい、お寺の方に御挨拶はしたわけだが、その時から長い時間が流れた。

 友人のN氏にばったり。その友人の若いSさんにはじめて会い挨拶。さらにおどろいたのは、大学院時代の友人のSさんに本当に久しぶりにあったこと。我々の大学院の時代は奨学金のプール制というのをやっていて、ちょうど、先日、最終の帳尻会わせをやるので、メールで連絡をとりあった。本当の偶然で、直接、御迷惑をおかけしましたということがいえた。彼女は以前とほとんど変わらず、元気そう。国会までいって抗議をしてくるなどという行動をする人々の相当部分は、前からそう考えていた人なのだと思う。もちろん、もう四〇年前なのだから、時代は大きく変わったが、しかし、同じメンバーで同じようなことをやり続けているという側面もあるのだろうと思う。「おけさ」ほど広まらない訳ではあるが。
 ようするに計3人の知人にあったということである。私は7時30分で失礼。いまちょうど8時でもう総武線のなかである。
 
 N氏といろいろ話す。
 原発は本当に困ったことである。これが困ったことであるということは自明のことなのであるが、私のような立場だと、全体としては大学が共犯状態なのがとくに困ったことで、申し訳ないことである。
 学術世界なのだから、事実を正面からみつめ、学部を越えて議論をし、おかしなことはおかしいといわなければならない。大学は学術コミュニティなのだから、執行部に関係するものはそういう立場で議論をし、必要な意思表明をしなければならないはずである。しかし、そういうことにならない。これは大学の役所化、通俗化という事態とともに進んでいる。そして、それとはある程度つき合うことも、学術分野を維持するための必要な処世の仕方としてやむをえない部分があるのも事実である。しかし、これはシジフォスの労働であり、そのなかからは学問の発展はでてこない。これは学問論にとってきわめて大事な問題であると思う。
 これは結局のところ知識と知識層のあり方がここ40年ほどで大きく変わったということなのだと思う。
 今月号の『世界』にノーム・チョムスキーのインタビュー記事がのっていた。ようするに我々の世代が考えていた「知識人」というものは存在しない。知識世界に関係しているものは基本的にシステムを中心的に支える人々となっている。ということである。私たちの世代はインテリゲンチャは社会的な責任をもって行動するという考え方が生きていた最後の世代なのかもしれない。そういうものは幻想であるというのはその通りであると思う。
 結局のところこの問題は知識労働あるいは精神労働というものが「労働」になったということに関係している。しかも情報化を条件として学術活動も、相当部分が労働となったということである。もちろん、人文社会科学では、依然として自己の研究と教育を統合して相当の余裕をもって研究が行われることもある。しかし学術活動の全体はどうみてもシステム化され、細分化されて労働化している。そこでは「働きがいがある」「知的労働である」ということそれ自体が特権としてあらわれる。この知的労働の階層性が強い精神束縛性をもつのだと思う。つまり、精神労働ということになると、それを「自分で努力して獲得した、きれいな仕事」と考えて自己を差異化するというシステムが動き出す。これが経済的な意味での特権や優遇であった場合は、自己の特権性への自省が働く、しかし、努力をしても別に経済的な特権性が顕著である訳ではなく、(少なくとも経過的には)自己の労働は部品的な労働であるという状態だと、一九世紀から二〇世紀半ばまでのインテリゲンチャ論では勝負ができなくなる。知識労働も商品化、部品化をとげていて、その一部をなしている人にとって、異なる職種への想像力が働かなくなる訳である。異なる職種の日常性への想像力も働かなくて、歴史的過去への想像力が働く訳はない。
 これをどう考えるか、知識層の労働者化を悲観的にのみ考えるのか、新しい条件の登場であると考えるのかが分かれ道である。私はあとの方の考え方をとるので、自分の不真面目さと駄目さ加減はよく知っているものの、これはもう労働ということを通じて、労働ということを信じて、その先に労働によって獲得された世界の総合性と全体性があるのだというように考えて進んでいくほかないということである。ヘーゲルのいうように、もっとも人間的な苦闘としての労働である。
 これは先が見えないということである。先は簡単にはみえない、社会の状態も誰でも先がみえる訳ではないということを前提にして働き、仕事をしようということである。これは「戦後派歴史学」の誇り高き先輩達と自分のことを考えれば、そしてやってきた仕事の仕方を比べれば一目瞭然である。
 
 上記は5月23日のメモ。
 
 いま、7月五日。久しぶりに新幹線のなか、何人かの研究仲間との研究会で西へ。

2014年7月14日 (月)

牛尾山紀行(4)

牛尾山紀行(4)
 「金大巌」の一番上の五角形の巨岩は安定していて、よほどの地震でもない限り落ちては来ない。ただ、それをみていて想起したのは、976年(天延四)の近江京都地震で巨岩が落下したという記事だった。この地震については、西山昭仁氏の「天延四年(976)の京都・近江の地震における被害実態」(『歴史地震』28号)が詳しいが、そこに、崇福寺の記事がある。
「崇福寺法華堂南方頽入谷底。時守堂僧千聖同入谷死。鐘堂顛倒。弥勒堂上岸崩落。居堂上一大石落。打損乾角」〔扶桑略記天延四年六月十八日条〕
 つまり、近江の崇福寺では法華堂が南方に頽れて入谷底に落ち込み、時守堂の僧千聖が同じく谷に落ち入って死亡し、鐘堂が顛倒し、弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちて乾角を打損じたということである。崇福寺の本体は何度も痛めつけられているようだが、しばらく前、965年(康保二)に崇福寺は全焼しており、そのために崇福寺の本堂についての記述がない。その上の地震で、おそらくこれが最後の打撃となったのではないだろうか。注目するのは最後の部分で、「弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちた」というのである。
 この金大巌の巨岩は、相当の地震でも揺らぎそうになり。しかし、下の岩盤は少しずつ崩落しているようにみえる。『源平盛衰記』の記事に「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」というのは、こういう岩盤の「頽れ、割けて」いく様子を観察するところからうまれた描写のように思える。現場をみると、そういう想像が可能になる。『源平盛衰記』には師通の幽霊がでてきたとあるのだが、こういう場所で寝ていれば、人はいろいろな夢をみるだろう。
 しかし、登り始めてからまったくの無人である。4番目の曲がり角から5番目にかけて登っているとき、遠くに黄色い動物が道を横切って谷に降りていくのがみえた。犬か鹿かはわからないが大きくみえた。
 誰もいない山に登って、それを崇拝するという心情は神話的なものとしかいいようがないように思う。すくなくともそれをベースとしていることは確実であろう。もちろん、それは同じようにみえても個々人で違うものである。神話のような宗教心情になれば似ているところのみを考えがちだが、現実には、人によってニュアンスとプロットは大きく異なっているに違いない。むしろ、その種差の全体から神話の体系の基礎ができているのでらう。このレヴェルでの神話的な心情とは現代も原始も基本的に変わりはないのではないかというのが、私の考え方。
 ヨーロッパの13世紀以降ののゴシック建築の流行というのは、高さを求め、高さの中に神の目を見る人間の心理であるといわれる。それに対する神の顕現は塔への落雷であるというもの、よく聞く話である。あるいは、日本では、ゴシック建築の代わりをしているのが磐座なのではないだろうか。
 塔への落雷の神秘を解消したのがフランクリンの雷雲の放電の実験的な確認にあったとすれば、磐座からなる、この列島に棲むものの神秘的な感覚を最終的に「科学化」したのは、あるいはプレートテクトニクスの科学ということになるのであろうか。
 そういう科学化の過程は必然的なものであるが、そのなかで自然を搾取するのではなく、「自然への尊重・驚嘆」というものが純粋化していくことが希望であり、そのためには神話論も一定の役割を果たせると思う。

2014年7月13日 (日)

歴史学徒という言葉

 いま新幹線の中。一昨日から奈良だったので、できれば今日は生駒へ登ろうと思っていたが、雨がふってきて、疲労もあって、直帰である。

 昨日土曜は、奈良女子大学で集中講義。午前10時から、午後4時30分までというのはさすがに疲れる。最後は呆然としてきた。前夜、小路田氏と飲み過ぎた。

 題目は神話論。こういう題目で授業をすることになろうとは三,一一以前は考えたことがなかった。最初の二回分はパワーポイントで話した。そこまではよかったのだが、最後は少し詰め込みすぎたレジュメにそって話したので、口と感情に頭がついていかない。書かないままの筋書きをため込んでいるとエンジンがオーバーヒートしてしまう。はやく書いてしまわなければならない。

 「人類史1」という授業で自然系から人文系へ話がきりかわる最初を担当させられたようで、学生が熱心にきいてくれたのがありがたかった。学生が本当に若く感じられたのはショック。講義の終わった後、よってきた学生から、火山神と太陽神の関係について鋭い質問があり、呆然としているときで頭が働かない。奈良女の学生は優秀である。

 最後は東海大学の北條芳隆先生がきてくれて、コメントをいただく。何ともありがたく興味深い話で、宿泊は同じホテルであったので、今朝もいろいろ御話しをうかがう。考古学と神話学、文献史学の協同と相互討議のあり方を変えていかねばならないと思う。GPSの利用が大きな結果をもたらすことに感嘆。

 昨日の夜は懇親会。学生と院生の人たちに研究の内容をうかがう。「人を殺すということ」「武力とは何か」「上皇の配流」「巫女と医術」「仮名日記」「近代の日蓮宗」など。どれも面白い切り口で、こういうことは以前は可能でなかったように思う。学部卒論段階からオリジナルな研究が可能な時代になっているのだと思う。

 F氏もきてくれて、二次会に行き、地震のプロジェクトについて状況報告。「(私は)最後の御奉公」といったら、そうではないだろうと大きな目で見られる。後半は三人おのもおのもの先生たちの話である。網野善彦、近藤義郎、戸田芳実、都出比呂志、そして黒田俊雄氏など。同世代の仲間があった時には、よくこういう話になる。おのおのが影響をうけた先行世代の研究者との関係を整理することによって、相互にネットワークを紡ぎ直している訳である。F氏の意見に同感。

 二次会に同席してくれた、「能」の研究をするアーキヴィストから、授業で話した、「桂」と「月」について、能の「羽衣」の天女は月からくることになっていると教えられる。そして「月桂冠」というのは何でしょうと聞かれる。それは「酒」ですという訳にもいかないが、「月」と「桂」というのはやはり縁が深いのだ。これはあるいは桂の里近い松尾大社が酒の神であることに関係するのであろうか。
 
 以下は、歴史教育論について考えたこと。今年の歴史学研究会大会で今野日出晴氏の報告を聞いてから考えていることで、そのとき以降のメモを一昨日、奈良まで来る電車のなかでまとめたもの。
 ただ、上記のように考えると、事態の根本には大学学部における歴史教育のあり方があると考え直す。大学学部の教育内容が高度化するとともに、学者と教師のあいだの関係が変わっていく。相互乗り入れと相互批判が稠密になっていくという基礎過程をおくべきであると思う。

 
歴史学徒という言葉について
 「歴史学の研究と教育」という問題の設定の仕方はあくまでも歴史学の側からの捉え方となる。「歴史学徒」という認識を共有するというレヴェルで成立することである。それゆえに、それはある部分で狭さをもっていることは否定できない。

 歴史教育というものをみる場合に、教育一般の見方からみることは十分にありうる。そして、教育一般の側からみるという場合には、学術の研究という論理とはまったくことなる筋で問題が立てられることになる。実際上、いわゆる歴史教師もしばしばこの立場をとっていると思う。

 そこでは教育的な創造ということが第一の価値となる。世代間伝達の仕事において、先行する知識と思想・経験の体系を再創造、追体験するようにして伝える。そこから先への創造を次の世代に委ねる。子供たちが委ねられたということを実感できるように伝える。そういう仕事である。

 自分のことをふりかえってみると、学術の仕事は、しばしば人を緊張させる偏破な人格をもたらすように思う。教育は、それとはまったく異なる人格を必要とする。もちろんそれは学術と無縁のものではない。伝達するべき知識と思想・経験の蓄積のなかには学術の仕事が入っている。しかし、学術は、伝達するべき知識と思想の総体のなかで、あくまでもその一部に過ぎない。しかも教育者は、学術をふくむ、その全体をあくまでも主体的・内面的にうけとめ、いわばそれを人格化して、子どもに伝える。それはある意味では、一種の芸術あるいは劇場的な演技でもあると思う。そういう形で客観化された人間と人間の出会いである。その中枢部には教育学という別の学術がひかえている訳であるが、教育それ自体は学術ではない。

 これは学術の世界それ自体とは異なる世界だと思う。それは学術の世界を享受し、批判し、なによりも観察する目をもった教育者の世界である。教育者は本質的にはアカデミーには属さない。アカデミーの価値、つまり学術研究の価値は新たな真理の発見にあるが、教育者の世界は、その価値を最大と考える世界ではない。歴史を学ぶということはするが、歴史を自分自身で研究することには必ずしも価値をおかないという立場は当然に存在するのである。もちろん、歴史を学ぶ、それを教えるという中で研究に踏みこむということはありうる。たとえば、地域の現代史の教材を選択した場合、歴史学と意識していない場合でも、歴史的な観点から史資料や情報を蒐集し、歴史像を描き出すということをせざるをえない。これは研究である。また歴史の教科書であるとか、学術的な内容をもつ著書を執筆するということもありうるが、それはどういう形であれ、史料の蒐集・確認という意味での最低の研究を必要としている。歴史学における研究とはどのような意味であれ「史料」を蒐集し分析するということであって、それがふくまれていれば、それは研究である。大学院で学んだ教師が増えているということは、そういう研究と教育の双方に足場をもった存在を作りだしており、歴史学における研究と教育の強力な媒介となっていると思う。

 しかし、そのような史料研究を必要な場合はするにしても、基本的にはそれをしない、そこに価値をおかないという学び方はあるのである。それは、自然科学を教える場合に、すべての実験を自分でしている訳ではないのと同じことである。

 むしろ歴史学にとっては、歴史学の研究結果を、ともかく史資料に依拠した著作であると信頼していただき、広く読み抜いてもらい、するどく歴史学の仕事を観察し、批判する読者として教育者がいることも決定的な意味をもつ。あるいはそういう歴史の読み方、学び方こそが、もっとも「歴史する」こと、歴史的な視野・思想、そして歴史的な世界観ということにふさわしいものであるかもしれない。それに耐えうるような歴史学を作ることが歴史家の目的である。ここには研究者と教育者という異なる仕事のあいだでの相互尊重と対等性が存在する。

 真理というものは個人個人にとっての価値をもつ。どんなに知られた真理であっても、学ぶものにとっては常に同じ価値をもって追体験される。そのようなものとして伝えられねばならないというのが原則である。その真理がはじめて発見されたものであるということが、その真理に特権的な地位をあたえる訳ではない。

 しかし、そうはいっても、それでは、歴史をおしえることを自己のなかできわめて大事であると考えるようになった教育者は歴史学徒ではないのか。歴史をおしえることを自己の専門性として自覚している教育者は歴史学徒ではないのかというのが問題である。私は、それは広い意味での「歴史学徒」であるように思う。

 ある歴史教師の友人から、「歴史学徒」という言葉には若干の抵抗を感じるといわれたが、「学徒」ということがアカデミー所属を感じさせるということがあるのであろうか。しかし、歴史学徒というのは資料ネットで最初につかわれるようになったように思うが、そこでは歴史学徒とは、「歴史を学ぶ人」という意味でいわれているように思う。それはそれで勘弁してもらえないかと思う。歴史学界の側から、歴史学に深い関心をもち、歴史を学ぼうとする人々を「歴史学徒」、我々の仲間と考えるのは、これも日本社会のように人文社会科学への味方の少ない社会では、許してほしい言葉であるように思う。数学を教える教師は数学の専門性をもっており、数学徒といわれて疑問はもたないように思う。

 あるいは、現在、歴史学というのがあまりに曖昧なものでしかないから、「歴史学徒」という言葉に抵抗があるのであろうか。歴史学徒と自分を考えるほど、安定したものに歴史学がみえないということがあるのであろうか。
 もしそうだとすれば、結局、歴史者という言葉に戻るほかないのであろうか。古いことをいうようだが、『思想の科学』の人々が思想者という言葉を使っていたように覚えている。そういう意味で、広い歴史的な感覚をもって、歴史的な思考を思考スタイルとしてとっている人、それに関わって仕事をしている人という意味での「歴史者」である。

 私は、そういう意味での「歴史者=歴史学徒」が相互に対等平等として相互関係をもっていくために必要なことは、学者の側から言えば、やはり史料研究の場に教育者に参加してもらうこと、そして教育研究の場に研究者が参加していくこと、より端的にいえば「歴史研究」と「教材研究」の間に太い恒常的なルートを作ることであろうと思う。そして「教科書」というものは、子供たちへの教材ではあるが、同時に、そういう相互媒介のツールなのであると思う。
 同じことを教師の側から見た場合にどうなるか、それは私にはわからない。

2014年7月10日 (木)

牛尾山紀行(3)

牛尾山紀行(3)
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 七つ目の曲がり角の手前から石段が始まっており、そろそろかと思って、そこを曲がると上に神社の建物がみえる。曲がって上に自然に視線がいくとそこに懸崖作りの社殿がみえるという感覚が何ともいえない。これまで写真でみていた通りのたたずまいであるが、感動する。

 いま一二時一〇分。さっき休んでから10分ほどで上についたようである。

 左が三宮、右が牛尾宮と参拝マップにはある。パンフレットでは、両社のあいだに存在する巨岩は金大巌といわれている。五角形のような形の一枚岩で注連縄がかかっている。しかし、その基礎も岩で、三宮も牛尾宮も磐のうえにたてられているから、その巨岩の全体は本来の自然の形ではさらに巨大な感じをあたえるものであったろう。現在は写真にみえるように、両社のあいだには石の階段があり、この階段を上ると巨大な一枚岩がある訳であるが、この部分も本来は磐座であったろう。
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 二つの神殿がいつ頃から存在したかは証拠はないが、しかし、前述のように『源平盛衰記』に「八王子と三の宮との神殿の間に盤石あり」とあるのは平安時代の事実とみてよいのではないだろうか。もちろん、そのころは、巨大な磐座にちょんと仮屋のような社殿が載っているという感じであったのであろう。現在の二つの宮は秀吉の時代の建立であるが、このような懸崖作りがいつ作られたかはわからない。そもそも、現在は両社のあいだには石の階段があるが、それも平安時代の早い時期にはなかったものであろう。平安時代の宮ももっと素朴なものであったろう。規模が大きくなるのは、院政期、先にふれた大地震などをへてのことだろう。いまのような懸崖造りの神殿は早くて室町期ではないか。

 眺望はさすがによい。北の眺望はないが、坂本の町と大津の方面を眺望することができる。曇天でこれだけみえるのだから、快晴であったら、見事な眺めであろう。
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 座りながら、磐座ということについて、色々なことを考えた。磐座=巨岩というのは、それが巨岩であるということにのみ意味があるのではなくて、巨岩によってはじめて眺望がとれるということがあったのではないかと思う。つまり、岩にはさすがに大樹ははえない。大樹がはえれば磐座はくずれるはずである。逆にいえば、磐座=巨木が山頂に聳えている場合は、その磐座に登れば眺望がとれるということである。磐座によって、眺望を確保していたのではないか。磐座の神という存在は、眺望によって、そこにいる人間が神の目をもつということが内面化して神が析出されるということなのではないだろうか。

 そんなに磐座経験がない人間がいうのは恐れ多いが、山を登ってきて印象的であったのは、六つ目の曲がり角で、琵琶湖の北が眺望に入ったことである。ところが、その眺望は、斜面の樹木が伐採されていることによって入った眺望である。山中の道は、伐採がなければ眺望をあたえない。伐採を「切明」ということ、黒山の道を「顕路」とするというのが一つの宗教的善行であることは以前に述べた通りであるが(「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』岩波)、ともかく、いまでも日吉大社が伐採をしてくれるから、琵琶湖がみえるのである。参道の途中から琵琶湖がみえるというのは宗教的行事(つまり山王祭)にとっても必要なことなので、その手間をかけているのではないかと思う(降りてきてそういう目で神輿の保管庫をみたら周囲に倒木や伐採した丸太が集積されていた。これは輿道を維持するなかで集積されたのだろう)。

 おもに杉の木の樹林であるが、その成長力はすさまじい。この湿気のなかで、ぐいぐい伸びていく杉の木のエネルギーが感じられるようである。樹木の繁茂する亜熱帯の日本で巨石信仰が一般的な理由は(火山を別とすると)、ここにあるのではないだろうか。もちろん、これだけの巨岩だと、そこに登れば、周囲の木々をこえて眺望がとれたのではないかということを実感する。

 ともかく、自然を全体としてみるという経験が山に登ることによってえられるということは大きいのかもしれない。自然の全体をみるという経験は山に登るという経験なのだろうと思う。

2014年7月 9日 (水)

牛尾山紀行(2)

牛尾山紀行(2)
 いま11時40分、京阪坂本の駅から10分ほど。はるか昔に叡山から日吉大社は見学して廻ったことがあるが、その時は山僧が駆け下りたというきらら坂を無理矢理あがって叡山にでて、日吉に降りてきた。大津で泊まったように覚えているが、叡山の方の記憶が強く、日吉についての記憶は曖昧である。

 京阪坂本駅から歩き始め、将軍塚神社という神社があることに驚く。鳥居をこえ、日吉馬場をあがっていく。金蔵院、実蔵坊などの名前はいかにも室町の叡山の院坊という感じで、側溝に清水の流れる静かな馬場を登っていく。赤鳥居をこえて、日吉大社の東受付で牛尾宮への様子をうかがう。参拝料、三〇〇円。地図をいただく。牛尾山の神さまが東本宮に降りてこられているから、そこを参拝してから御山に登ってくださいといわれる。
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 東本宮の楼門を入って、樹下宮(旧称十禅師)とその拝殿に拝礼してから、参道を登り出す。樹下宮は、大山咋神の妻神の座す場.
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 樹下宮の奧(北)に本殿(およびその前の拝殿)があるが、軸線は一致していない。樹下宮はその東に拝殿をもっている。樹下宮とその拝殿を結ぶ軸線は東西方向で、東本宮の建物配置の軸線は南北と東西の二つがあることになる。これは興味深い。あるいは東に位置する八王子山の方向に軸線をそろえていたのが本来の軸線なのであろうか。いま、東本宮の楼門を一度でて、石段を下りて5メートルほど西へいってから、八王子山への参道にかかるが、もし右のような想定がなりたつとすると、むしろ樹下宮の後から参道にかかったのかもしれない。そうなれば、八王子が神体山であることは一目瞭然である。

 興味深いのは、樹下宮の掲示によれば床下に泉があり、この神は本来は泉の女性神であって、その神格は鴨玉依姫と表現されるとされていることである。柳田のいう日本の泉の神はヨーロッパと同様に女性神であるという泉の仙女論にぴったりの話である。それにしても床下に泉があるというのが興味深い。女神性を重視するとすると巫女の祭る社は本殿と横並びになるという柳田の意見で軸線の問題を考えるべきなのだろうか。素人議論はつつしまねばならないが、こういうのは現地に立たないと考えられない。それにしても十禪師というのは何度も文献で読んでいるが、はじめて面とむかう。華やかな感じの美しい社である。

 牛尾山の石段をあがって20分ほどか。広い道だが急な坂の直登が続いて、一昨日、昨日の夜の疲れがでている。4つ目の曲がり角に草が生えていたので、そこに座って休む。

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 自然の中で一人でいるという感覚はおそらく原始から変わらないような感情だろうと思う。そういう自然との一体感あるいは自然に支配されているという感情は昔と変わらないのではないだろうか。山に登ると、そこでは時間は止まっている。原始以来の不変のものをみているというのは、木曾駒に上ったとき、師の戸田さんと話したこと。
 もちろん、山に用もなく、一人で入るというのは、昔ならば狂気の証拠であろう。労働のために入るという慣れた場を通るという感覚こそ日常的なものかもしれない。しかし、原始の人も一人で山に入り、自然に圧倒されるという感覚は知っていたのではないだろうか。

 もう一つは、もちろん、この七曲がりの急坂は一〇〇〇年以上の時をかけて、日吉大社の営為によって維持されてきた。日枝神社の山王祭りの神輿上げと神輿下ろしの道である。 この道は実際には原始の自然のままではなく、自然の時は止まっていない。そして、目の前の杉の木も下草のシダも自然史のなかで動いている。しかし、そうではあっても、自然と人間の向き合い方は変わらないところがあるのではないだろうか。

 急坂の一曲がり目のところから、下をみると、さっき目の前にみえた神輿の保管庫が木々にかくれてみえない。神輿の保管庫は樹下宮をでて、登り口からさらに10メートルほど西にいったところ。ともかく、ここが日吉神輿の出動基地であったのだと思うと、その現場に立ったことのないまま、それらの史料を読んできた自分が不思議に思える。そして、神輿保管庫がすぐにみえなくなるような自然の濃密さのなかに平安時代の日吉神人たちがいたということを実感する。

2014年7月 8日 (火)

日吉大社、牛尾山紀行(1)

牛尾山紀行(1)
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 いま京阪電車の石山の駅である。7月7日
 いまから日吉大社の牛尾宮へ行く予定。牛尾山は神体山だが、「観光案内」だと登れるようにも見えるので、ともかく山腹までは行ってみようと思う。

 昨日、研究会で近江地震と日吉社神体山という報告をした。

 報告の中心は平安時代から江戸時代初期までの近江地震の史料を列挙して、これまでの地震学の研究に若干のことをつけ加えるという点にあった。二〇〇年から三〇〇年の間をおいて近江の各地の断層が動いて京都・山城をふくめ大地震が起こるという地震学では常識的な事実をおってみたというものである。ただそれだけでは能がないので、その最後に日吉社の神体山が地震の神の宿り場所と考えられていた可能性を論じた。これは基本部分はすでに活字にしたものなのでかかげさせていただく。

 電車は粟津・膳所・石場など歴史家にはなじみで、いろいろな想像の浮かぶ駅を通って、いま、浜大津。叡山大津神人の本拠である。次は三井寺。できれば帰りは三井寺にも参詣したい。

 空は曇天。京都側の山には雨雲がさがってきている。本当は自転車をレンタルして走るつもりだったが、この梅雨空のなか、とても無理である。


  一〇九五年(嘉保2)に八月に京都で「大地震」。九月には、時の天皇の堀河の周囲に物恠が跳梁し、「咳病」から「不予」。この時、堀河が祇園社に立願している。一〇月には叡山が美濃国司源義綱を訴える日吉社神輿の「動座」をともなう最初の嗷訴に突入するという大事件。日吉神輿の動座の最初。これに対して義綱を保護していたと思われる関白師通が「まったく神輿をはばかるべからず」という強硬姿勢をもってのぞんだために、武士が矢を放って神輿と神人を傷つけたことが山僧・神人の激昂を呼ぶ。これを伏線として、一〇九六年(嘉保3=永長1)、永長大田楽の熱狂が導かれた。この年、二月に地震があり、五月頃には旱魃と疫病の流行が始まっている。
 こういう事態のなかで、『源平盛衰記』(巻四、殿下御母立願の事)は右の叡山神人の負傷事件にふれて、叡山の衆徒が近江坂本にくだって七社の宝前で祈祷をし、八王子の前で師通に対して「鏑矢一つ放ち給へ」と祈祷をしたところ、八王子「御神殿より鏑箭鳴り出でゝ、王城を指して鳴行く」。「去る程に、関白殿の御夢御覧じけるこそ恐しけれ、比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝると覚え、打驚き給ふて浅猿と思し召す処に又うつつに東坂本の方より、鏑矢の鳴り来たって御殿の上に慥に立つとぞ聞こし召されける」。これによって髪の生え際に悪瘡ができ、これに対して、母の麗子が祈祷をし、八王子から「二年の命を奉る」(『平家物語』(延慶本)では三年)という示現をえたという物語を作りだしている。また『平家物語』(延慶本)では「山王」に憑依されて麗子に託宣をしたのが陸奥国からのぼってきた童神子とされているのも興味深い。
 そして、師通は、一〇九九年に寿命が尽き、1099年(承徳三)一月二四日の南海地震の直後、二月から「風気」を発して調子を崩し(『後二条師通記』二月二四日条)、三月下旬になって発病して、六月に死去したというのである。
 この師通が地震の地霊にやられたという伝承が、次のように語られているのが興味深い。『源平盛衰記』(巻四、殿下御母立願の事)
「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」
「関白殿薨去の後、八王子と三の宮との神殿の間に盤石あり、彼の石の下に雨の降る夜は常に人の愁吟する声聞へけり、参詣の貴賤あやしみ思ひけり、餘多人の夢に見けるは束帯したる気高き上臈の仰には、『我はこれ前関白従一位内大臣師通なり、八王子権現我魂を此岩の下に籠め置かせ給へり、さらぬだに悲きに雨の降る夜は石をとりて責押すに依て其苦堪え難きなり』とて、石の中に御座すとぞ示し給ひける」
『山王霊験絵巻』(第十二紙、詞書)
「八王子・三宮のあはひに磐狭間とて大なる巌あり、雨の降る夜は、かならず人の叫ぶ声聞こゆ。上下あやしみ思程に、関白殿束帯うるはしくて『八王□□□□のここに戒めおき給へるが、雨の降る夜は石のふとるによりて、その苦しみたへがたし、ただし其時も□□□□講(法華講)をきくにぞ、苦しみいささか軽む』と人の夢に見えたまひけり」。「駿川国大岡庄の役にてはじめおかれはじめし」
 牛尾山は標高三八〇メートルであるが、いわゆる神隠型の山であって、山頂に露出した岩盤は信仰と祭祀の対象であって、八王子宮には大山咋神、三宮には妃の玉依姫が鎮座している。前者の大山咋神は大国主命と同体とされる大物主神=大年神の御子神の系譜の中に「亦ノ名は山末之大主神。此ノ神は近淡海国之日枝山に座し、亦葛野之松尾に座す」と登場する。ようするに地震の神、オオナムチの分身なのである。

2014年7月 5日 (土)

エヴァ・ホフマンさんと崔善愛さんの対話会

 いま総武線のなか。池袋のジュンク堂でエヴァ・ホフマンさんと崔善愛さんの対話会があって、連れ合いと一緒に参加し、その帰りである。崔善愛さんの間近の席であった。
 たいへんに面白かった。楽しかった。

 エヴァ・ホフマンさんは1945年、ポーランド領ウクライナで生まれたが、生まれた村の人々はナチスにほぼ全員殺害されたが、ご両親と妹とともに、奇跡的に助かり、13歳頃までポーランドのクラフクで育ち、父親の判断で1960年にカナダへ移住。ニューヨークタイムズの編集者の後、その祖国喪失の経験とご両親のホロコースト経験をつめていき『Lost in Translation: A Life in a New Language』で作家・評論家として活動。

 崔さんは、在日韓国人のカソリックの牧師さんの家庭で育ち、ピアニストとして音大へ。ご両親とともに指紋押捺拒否の動きをしながら、アメリカ留学を決意し、アメリカでショパンの手紙を読み、ショパンの音楽の奥底にある社会的・政治的意思に驚嘆して、それを支えとしてピアニストとしての道を歩んできたという方。私は崔さんの本を愛読しており、そのCD「ザル」もよく聞くので、間近にすわれたのは楽しい経験。

 ホフマンさんも、クラクフではピアニストとしての本格的な訓練をしたということで、お二人の共通する話題のショパンの話、そして言語喪失、二つの文化のなかでの孤独あるいは、地盤喪失の問題が重なり合った対話となった。たいへんに濃密な話で共感するところが多かった。音楽と言語という話なので、これは良質の「哲学」の話のように聞いていた。
 崔さんは日本語、ホフマンさんは英語、通訳を早川さんがされる。ホフマンさんの英語は分かりやすく、我々でもほとんどわかると二人で喜んでいた。

 行きの電車では早川敦子さんの『世界文学を継ぐ者たち』(集英社新書)を半分ほど読みながらきた。ホロコーストが欧米の文学に何をもたらしたかという話であった。ヴァージニア・ウルフからはじまる説明を納得しながら読む。

 いわゆるカルチュラルスタディーズの研究に属する。歴史学にとってはカルチュラルスタディーズから言語論的転回へというのは簡単には了解できない問題である。けれども、途中まで読んでみて、カルチュラルスタディーズというものの背後にあるもっとも良質のものが何であるのかがよく分かったようにも思う。少なくとも、この本によって、ホロコーストの問題が現代文学に深い根を下ろし、そこから歴史を問う文学と思想の営みがあることがよくわかる。

 私は前近代の歴史学を専攻しているので、直接に、このレヴェルの問題にかかわることはできないが、しかし、太平洋戦争の問題は、前近代史の研究にも直接に関わってくるところが多々ある。いま、興味があるのは、第二次世界大戦前に行われた人類学・先史学の東南アジア研究をどう考えるかである。ジュンク堂で、対話会が始まる前に、神話論の棚をみたが、ゆまに書房から復刻されている第二次大戦前の神話論のシリーズをぱらぱらみる。東南アジアの神話についての言及が多い。

 さて、この関係で、驚いたことを一つ、報告。三品の名前は、現在ではあまり知られていないかもしれないが、神話学の中では、松村武雄に次いで大きな仕事をした研究者である。ただ、そのエネルギーの相当部分が朝鮮史の研究に捧げられていたのが、神話学一本で通した松村とは違うかもしれない。そして、三品は朝鮮史家としては、いわゆる「日鮮同祖論」の展開に責任のある学者であった。山尾幸久が戦後派歴史学の限界は、一九四〇年に出版された三品の『朝鮮史概説』の徹底的な批判から出発できなかったことにあるとまでいっているように、その仕事を継承するためには、東アジアとの関係でのさまざまなニュアンスをもった問題を詰めて考えておく必要があるような、重たい位置をもった研究者であるということができる(『古代王権の原像』)。
 しかし、私は、三品の初心それ自身は、やはり神話学にあったと思う。とくに興味深いのは、三品がアメリカに留学したときに、アメリカの人類学者アルフレッド・L・クローバーを師としたということである。三品はクローバーの著書『フィリピン民族誌』を翻訳をしている(横田健一と共訳)。先日、この訳書を古本で買うことができた(安い)。三品の時代的限界はあるのではあろうが、その視野はきわめて広かったように思われるのである。
 
 以上は、もう二・三ヶ月まえに書いたのだが、そのままになっていた。
 クローバーは『ゲド戦記』の著者アーシュラ・K・L・グィンの父にあたるが、これも先日、ルグィンの老子の翻訳を読んでいたら、彼女は、幼いときから父のもっていた老子を読んでいたとある。そして、その翻訳はポール・ケーラスのものであるということで本当に驚いた。鈴木大拙のアメリカでの協働者である。

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