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2014年7月 9日 (水)

牛尾山紀行(2)

牛尾山紀行(2)
 いま11時40分、京阪坂本の駅から10分ほど。はるか昔に叡山から日吉大社は見学して廻ったことがあるが、その時は山僧が駆け下りたというきらら坂を無理矢理あがって叡山にでて、日吉に降りてきた。大津で泊まったように覚えているが、叡山の方の記憶が強く、日吉についての記憶は曖昧である。

 京阪坂本駅から歩き始め、将軍塚神社という神社があることに驚く。鳥居をこえ、日吉馬場をあがっていく。金蔵院、実蔵坊などの名前はいかにも室町の叡山の院坊という感じで、側溝に清水の流れる静かな馬場を登っていく。赤鳥居をこえて、日吉大社の東受付で牛尾宮への様子をうかがう。参拝料、三〇〇円。地図をいただく。牛尾山の神さまが東本宮に降りてこられているから、そこを参拝してから御山に登ってくださいといわれる。
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 東本宮の楼門を入って、樹下宮(旧称十禅師)とその拝殿に拝礼してから、参道を登り出す。樹下宮は、大山咋神の妻神の座す場.
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 樹下宮の奧(北)に本殿(およびその前の拝殿)があるが、軸線は一致していない。樹下宮はその東に拝殿をもっている。樹下宮とその拝殿を結ぶ軸線は東西方向で、東本宮の建物配置の軸線は南北と東西の二つがあることになる。これは興味深い。あるいは東に位置する八王子山の方向に軸線をそろえていたのが本来の軸線なのであろうか。いま、東本宮の楼門を一度でて、石段を下りて5メートルほど西へいってから、八王子山への参道にかかるが、もし右のような想定がなりたつとすると、むしろ樹下宮の後から参道にかかったのかもしれない。そうなれば、八王子が神体山であることは一目瞭然である。

 興味深いのは、樹下宮の掲示によれば床下に泉があり、この神は本来は泉の女性神であって、その神格は鴨玉依姫と表現されるとされていることである。柳田のいう日本の泉の神はヨーロッパと同様に女性神であるという泉の仙女論にぴったりの話である。それにしても床下に泉があるというのが興味深い。女神性を重視するとすると巫女の祭る社は本殿と横並びになるという柳田の意見で軸線の問題を考えるべきなのだろうか。素人議論はつつしまねばならないが、こういうのは現地に立たないと考えられない。それにしても十禪師というのは何度も文献で読んでいるが、はじめて面とむかう。華やかな感じの美しい社である。

 牛尾山の石段をあがって20分ほどか。広い道だが急な坂の直登が続いて、一昨日、昨日の夜の疲れがでている。4つ目の曲がり角に草が生えていたので、そこに座って休む。

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 自然の中で一人でいるという感覚はおそらく原始から変わらないような感情だろうと思う。そういう自然との一体感あるいは自然に支配されているという感情は昔と変わらないのではないだろうか。山に登ると、そこでは時間は止まっている。原始以来の不変のものをみているというのは、木曾駒に上ったとき、師の戸田さんと話したこと。
 もちろん、山に用もなく、一人で入るというのは、昔ならば狂気の証拠であろう。労働のために入るという慣れた場を通るという感覚こそ日常的なものかもしれない。しかし、原始の人も一人で山に入り、自然に圧倒されるという感覚は知っていたのではないだろうか。

 もう一つは、もちろん、この七曲がりの急坂は一〇〇〇年以上の時をかけて、日吉大社の営為によって維持されてきた。日枝神社の山王祭りの神輿上げと神輿下ろしの道である。 この道は実際には原始の自然のままではなく、自然の時は止まっていない。そして、目の前の杉の木も下草のシダも自然史のなかで動いている。しかし、そうではあっても、自然と人間の向き合い方は変わらないところがあるのではないだろうか。

 急坂の一曲がり目のところから、下をみると、さっき目の前にみえた神輿の保管庫が木々にかくれてみえない。神輿の保管庫は樹下宮をでて、登り口からさらに10メートルほど西にいったところ。ともかく、ここが日吉神輿の出動基地であったのだと思うと、その現場に立ったことのないまま、それらの史料を読んできた自分が不思議に思える。そして、神輿保管庫がすぐにみえなくなるような自然の濃密さのなかに平安時代の日吉神人たちがいたということを実感する。

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