著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« 金曜日の集会 | トップページ | 地震火山108災害文学としての『方丈記』、朝日カルチャーセンター »

2014年7月17日 (木)

千葉の売り酒

 以下は千葉県史の月報に書いたもの。いつの何号だったか記憶がないが、あとで追加する。
 ともかくテキストが偶然でてきたので、挙げておきます。
 地域史にはほとんど関わらないで来たが、最近、自転車で千葉を歩くことが多く、かくてはならじとも思う。
 

 中山法華経寺の所蔵する日蓮上人筆の聖教には、書状などの反古を裏返してノートに仕立てて執筆されたものがある。これらの書状の多くは、当時、日蓮の外護者であり、下総国守護であった千葉氏の吏僚にあてられたものであり、そういう事情がなければ失われてしまったような日常的な手紙であるだけに、逆にきわめて価値が高いものである。ただ、この文書群は、たいへんに読みにくいことでも著名なものだが、本冊は、この文書群の新たに研究にもとづく翻刻を含んでいるということであり、中世史研究者としては、その成果を期待しているところである。

 この文書群の意味を知っていただくために、私が紹介してみたいのは、ある男が、おそらく主人筋の「御客人の御儲」のために贈り物を送り、同時に「千葉にて沽酒なんど候はば、買ふべき由」を使者に言い含めたと述べている手紙である(「秘書要文」紙背)。鎌倉時代後期、幕府は、鎌倉市中の酒甕を叩き割ったり、東国の「沽酒」「市酒」の販売禁止令を発したりしたが、この史料は東国地方都市における「沽酒」の史料として唯一のもので、特に千葉の町場に「酒屋」が出店していたことを示す希有の史料なのである。

 歴史の学校教科書には、中世の市庭の絵として、『一遍聖絵』の備前福岡市の場面がでてくることが多いが、そこには酒壺を並べた酒屋が描かれている。その絵を教材として利用するにあたり、千葉県の学校では、右の文書(できればその写真)と組み合わせれば、授業の臨場感は一挙に増大するに違いないと思う。そもそも、この時代ともなれば、守護権力膝下の都市・千葉が、守護の吏僚層や町人が居住する相当発展した都市的景観を有していたことは確実である。そのような議論も県史の発刊を契機として進展するにちがいないが、それは、歴史教育だけでなく、地域の歴史文化全体にも影響を及ぼしていくだろう。

 そのような展望を期待しながら、ここでは、さらにもう一つの問題提起として、やはり日蓮聖教紙背文書の中に残っている「職長」という人物の書状にふれてみたいと思う。彼の書状は5通ほど残っているが(「秘書要文」紙背)、彼は、千葉氏の上級家臣に出入りして職人との関係を世話するような地位にいたとみられ、その内の3通は「半蔀」「曹司宿」などに使用する「懸金」を鍛冶に鋳造させている件についての報告書で、「金が候はずして、鎌倉の金にまち候て、つくらせ候ほどに作りさかりて候也」、つまり材料不足で鎌倉の鉄材の到来をまって作らせたので、一部納期が遅れたなどと弁解している。この鍛冶は、文脈からいって下総国の都市近郊在住であることは確実である。しかも、製品の若干の不備について、「けんろくがつくりて候へどん、かかる不覚候はず候」ともあることからすると、「けんろく」という名前で、本来は千葉家中でも、それなりの職人として名前が通っていたようである。

 この職長の書状は、いわゆる「金釘流」の極端に読みにくいもので(当時「大仮名」などといわれた)、自身、「物書き候はぬものの、(中略)、御手を見候にても候へ、見ほどかぬことのあさましく候也」、つまり無筆のため、(貴方の)書状をみても、「見ほどく」(読み解く)ことができないと嘆いている。そこからみても、職長の立場はほとんど町人に近かったと思われるが、彼のような人間が多く町場に居住することなしには、鎌倉時代の守護所は経営できなかったはずである。

 以上、書状の表面をたどってみただけで、さらに詳しく読んでいくと、実は興味深いと同時に、様々な疑念がわき出てくる。ただ、それも一つの醍醐味であり、是非、そのうち、所蔵者の御理解をえて、たとえば教材として必要な学校などをはじめ、千葉の住人ならば誰でも貴重な中世文書を写真で閲覧できる便宜が生まれることを期待したいと思う。
   (なお、史料の引用は、仮名を漢字に直すなど適宜変更してある)

« 金曜日の集会 | トップページ | 地震火山108災害文学としての『方丈記』、朝日カルチャーセンター »

歴史教育」カテゴリの記事