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2014年7月13日 (日)

歴史学徒という言葉

 いま新幹線の中。一昨日から奈良だったので、できれば今日は生駒へ登ろうと思っていたが、雨がふってきて、疲労もあって、直帰である。

 昨日土曜は、奈良女子大学で集中講義。午前10時から、午後4時30分までというのはさすがに疲れる。最後は呆然としてきた。前夜、小路田氏と飲み過ぎた。

 題目は神話論。こういう題目で授業をすることになろうとは三,一一以前は考えたことがなかった。最初の二回分はパワーポイントで話した。そこまではよかったのだが、最後は少し詰め込みすぎたレジュメにそって話したので、口と感情に頭がついていかない。書かないままの筋書きをため込んでいるとエンジンがオーバーヒートしてしまう。はやく書いてしまわなければならない。

 「人類史1」という授業で自然系から人文系へ話がきりかわる最初を担当させられたようで、学生が熱心にきいてくれたのがありがたかった。学生が本当に若く感じられたのはショック。講義の終わった後、よってきた学生から、火山神と太陽神の関係について鋭い質問があり、呆然としているときで頭が働かない。奈良女の学生は優秀である。

 最後は東海大学の北條芳隆先生がきてくれて、コメントをいただく。何ともありがたく興味深い話で、宿泊は同じホテルであったので、今朝もいろいろ御話しをうかがう。考古学と神話学、文献史学の協同と相互討議のあり方を変えていかねばならないと思う。GPSの利用が大きな結果をもたらすことに感嘆。

 昨日の夜は懇親会。学生と院生の人たちに研究の内容をうかがう。「人を殺すということ」「武力とは何か」「上皇の配流」「巫女と医術」「仮名日記」「近代の日蓮宗」など。どれも面白い切り口で、こういうことは以前は可能でなかったように思う。学部卒論段階からオリジナルな研究が可能な時代になっているのだと思う。

 F氏もきてくれて、二次会に行き、地震のプロジェクトについて状況報告。「(私は)最後の御奉公」といったら、そうではないだろうと大きな目で見られる。後半は三人おのもおのもの先生たちの話である。網野善彦、近藤義郎、戸田芳実、都出比呂志、そして黒田俊雄氏など。同世代の仲間があった時には、よくこういう話になる。おのおのが影響をうけた先行世代の研究者との関係を整理することによって、相互にネットワークを紡ぎ直している訳である。F氏の意見に同感。

 二次会に同席してくれた、「能」の研究をするアーキヴィストから、授業で話した、「桂」と「月」について、能の「羽衣」の天女は月からくることになっていると教えられる。そして「月桂冠」というのは何でしょうと聞かれる。それは「酒」ですという訳にもいかないが、「月」と「桂」というのはやはり縁が深いのだ。これはあるいは桂の里近い松尾大社が酒の神であることに関係するのであろうか。
 
 以下は、歴史教育論について考えたこと。今年の歴史学研究会大会で今野日出晴氏の報告を聞いてから考えていることで、そのとき以降のメモを一昨日、奈良まで来る電車のなかでまとめたもの。
 ただ、上記のように考えると、事態の根本には大学学部における歴史教育のあり方があると考え直す。大学学部の教育内容が高度化するとともに、学者と教師のあいだの関係が変わっていく。相互乗り入れと相互批判が稠密になっていくという基礎過程をおくべきであると思う。

 
歴史学徒という言葉について
 「歴史学の研究と教育」という問題の設定の仕方はあくまでも歴史学の側からの捉え方となる。「歴史学徒」という認識を共有するというレヴェルで成立することである。それゆえに、それはある部分で狭さをもっていることは否定できない。

 歴史教育というものをみる場合に、教育一般の見方からみることは十分にありうる。そして、教育一般の側からみるという場合には、学術の研究という論理とはまったくことなる筋で問題が立てられることになる。実際上、いわゆる歴史教師もしばしばこの立場をとっていると思う。

 そこでは教育的な創造ということが第一の価値となる。世代間伝達の仕事において、先行する知識と思想・経験の体系を再創造、追体験するようにして伝える。そこから先への創造を次の世代に委ねる。子供たちが委ねられたということを実感できるように伝える。そういう仕事である。

 自分のことをふりかえってみると、学術の仕事は、しばしば人を緊張させる偏破な人格をもたらすように思う。教育は、それとはまったく異なる人格を必要とする。もちろんそれは学術と無縁のものではない。伝達するべき知識と思想・経験の蓄積のなかには学術の仕事が入っている。しかし、学術は、伝達するべき知識と思想の総体のなかで、あくまでもその一部に過ぎない。しかも教育者は、学術をふくむ、その全体をあくまでも主体的・内面的にうけとめ、いわばそれを人格化して、子どもに伝える。それはある意味では、一種の芸術あるいは劇場的な演技でもあると思う。そういう形で客観化された人間と人間の出会いである。その中枢部には教育学という別の学術がひかえている訳であるが、教育それ自体は学術ではない。

 これは学術の世界それ自体とは異なる世界だと思う。それは学術の世界を享受し、批判し、なによりも観察する目をもった教育者の世界である。教育者は本質的にはアカデミーには属さない。アカデミーの価値、つまり学術研究の価値は新たな真理の発見にあるが、教育者の世界は、その価値を最大と考える世界ではない。歴史を学ぶということはするが、歴史を自分自身で研究することには必ずしも価値をおかないという立場は当然に存在するのである。もちろん、歴史を学ぶ、それを教えるという中で研究に踏みこむということはありうる。たとえば、地域の現代史の教材を選択した場合、歴史学と意識していない場合でも、歴史的な観点から史資料や情報を蒐集し、歴史像を描き出すということをせざるをえない。これは研究である。また歴史の教科書であるとか、学術的な内容をもつ著書を執筆するということもありうるが、それはどういう形であれ、史料の蒐集・確認という意味での最低の研究を必要としている。歴史学における研究とはどのような意味であれ「史料」を蒐集し分析するということであって、それがふくまれていれば、それは研究である。大学院で学んだ教師が増えているということは、そういう研究と教育の双方に足場をもった存在を作りだしており、歴史学における研究と教育の強力な媒介となっていると思う。

 しかし、そのような史料研究を必要な場合はするにしても、基本的にはそれをしない、そこに価値をおかないという学び方はあるのである。それは、自然科学を教える場合に、すべての実験を自分でしている訳ではないのと同じことである。

 むしろ歴史学にとっては、歴史学の研究結果を、ともかく史資料に依拠した著作であると信頼していただき、広く読み抜いてもらい、するどく歴史学の仕事を観察し、批判する読者として教育者がいることも決定的な意味をもつ。あるいはそういう歴史の読み方、学び方こそが、もっとも「歴史する」こと、歴史的な視野・思想、そして歴史的な世界観ということにふさわしいものであるかもしれない。それに耐えうるような歴史学を作ることが歴史家の目的である。ここには研究者と教育者という異なる仕事のあいだでの相互尊重と対等性が存在する。

 真理というものは個人個人にとっての価値をもつ。どんなに知られた真理であっても、学ぶものにとっては常に同じ価値をもって追体験される。そのようなものとして伝えられねばならないというのが原則である。その真理がはじめて発見されたものであるということが、その真理に特権的な地位をあたえる訳ではない。

 しかし、そうはいっても、それでは、歴史をおしえることを自己のなかできわめて大事であると考えるようになった教育者は歴史学徒ではないのか。歴史をおしえることを自己の専門性として自覚している教育者は歴史学徒ではないのかというのが問題である。私は、それは広い意味での「歴史学徒」であるように思う。

 ある歴史教師の友人から、「歴史学徒」という言葉には若干の抵抗を感じるといわれたが、「学徒」ということがアカデミー所属を感じさせるということがあるのであろうか。しかし、歴史学徒というのは資料ネットで最初につかわれるようになったように思うが、そこでは歴史学徒とは、「歴史を学ぶ人」という意味でいわれているように思う。それはそれで勘弁してもらえないかと思う。歴史学界の側から、歴史学に深い関心をもち、歴史を学ぼうとする人々を「歴史学徒」、我々の仲間と考えるのは、これも日本社会のように人文社会科学への味方の少ない社会では、許してほしい言葉であるように思う。数学を教える教師は数学の専門性をもっており、数学徒といわれて疑問はもたないように思う。

 あるいは、現在、歴史学というのがあまりに曖昧なものでしかないから、「歴史学徒」という言葉に抵抗があるのであろうか。歴史学徒と自分を考えるほど、安定したものに歴史学がみえないということがあるのであろうか。
 もしそうだとすれば、結局、歴史者という言葉に戻るほかないのであろうか。古いことをいうようだが、『思想の科学』の人々が思想者という言葉を使っていたように覚えている。そういう意味で、広い歴史的な感覚をもって、歴史的な思考を思考スタイルとしてとっている人、それに関わって仕事をしている人という意味での「歴史者」である。

 私は、そういう意味での「歴史者=歴史学徒」が相互に対等平等として相互関係をもっていくために必要なことは、学者の側から言えば、やはり史料研究の場に教育者に参加してもらうこと、そして教育研究の場に研究者が参加していくこと、より端的にいえば「歴史研究」と「教材研究」の間に太い恒常的なルートを作ることであろうと思う。そして「教科書」というものは、子供たちへの教材ではあるが、同時に、そういう相互媒介のツールなのであると思う。
 同じことを教師の側から見た場合にどうなるか、それは私にはわからない。

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