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2014年7月10日 (木)

牛尾山紀行(3)

牛尾山紀行(3)
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 七つ目の曲がり角の手前から石段が始まっており、そろそろかと思って、そこを曲がると上に神社の建物がみえる。曲がって上に自然に視線がいくとそこに懸崖作りの社殿がみえるという感覚が何ともいえない。これまで写真でみていた通りのたたずまいであるが、感動する。

 いま一二時一〇分。さっき休んでから10分ほどで上についたようである。

 左が三宮、右が牛尾宮と参拝マップにはある。パンフレットでは、両社のあいだに存在する巨岩は金大巌といわれている。五角形のような形の一枚岩で注連縄がかかっている。しかし、その基礎も岩で、三宮も牛尾宮も磐のうえにたてられているから、その巨岩の全体は本来の自然の形ではさらに巨大な感じをあたえるものであったろう。現在は写真にみえるように、両社のあいだには石の階段があり、この階段を上ると巨大な一枚岩がある訳であるが、この部分も本来は磐座であったろう。
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 二つの神殿がいつ頃から存在したかは証拠はないが、しかし、前述のように『源平盛衰記』に「八王子と三の宮との神殿の間に盤石あり」とあるのは平安時代の事実とみてよいのではないだろうか。もちろん、そのころは、巨大な磐座にちょんと仮屋のような社殿が載っているという感じであったのであろう。現在の二つの宮は秀吉の時代の建立であるが、このような懸崖作りがいつ作られたかはわからない。そもそも、現在は両社のあいだには石の階段があるが、それも平安時代の早い時期にはなかったものであろう。平安時代の宮ももっと素朴なものであったろう。規模が大きくなるのは、院政期、先にふれた大地震などをへてのことだろう。いまのような懸崖造りの神殿は早くて室町期ではないか。

 眺望はさすがによい。北の眺望はないが、坂本の町と大津の方面を眺望することができる。曇天でこれだけみえるのだから、快晴であったら、見事な眺めであろう。
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 座りながら、磐座ということについて、色々なことを考えた。磐座=巨岩というのは、それが巨岩であるということにのみ意味があるのではなくて、巨岩によってはじめて眺望がとれるということがあったのではないかと思う。つまり、岩にはさすがに大樹ははえない。大樹がはえれば磐座はくずれるはずである。逆にいえば、磐座=巨木が山頂に聳えている場合は、その磐座に登れば眺望がとれるということである。磐座によって、眺望を確保していたのではないか。磐座の神という存在は、眺望によって、そこにいる人間が神の目をもつということが内面化して神が析出されるということなのではないだろうか。

 そんなに磐座経験がない人間がいうのは恐れ多いが、山を登ってきて印象的であったのは、六つ目の曲がり角で、琵琶湖の北が眺望に入ったことである。ところが、その眺望は、斜面の樹木が伐採されていることによって入った眺望である。山中の道は、伐採がなければ眺望をあたえない。伐採を「切明」ということ、黒山の道を「顕路」とするというのが一つの宗教的善行であることは以前に述べた通りであるが(「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』岩波)、ともかく、いまでも日吉大社が伐採をしてくれるから、琵琶湖がみえるのである。参道の途中から琵琶湖がみえるというのは宗教的行事(つまり山王祭)にとっても必要なことなので、その手間をかけているのではないかと思う(降りてきてそういう目で神輿の保管庫をみたら周囲に倒木や伐採した丸太が集積されていた。これは輿道を維持するなかで集積されたのだろう)。

 おもに杉の木の樹林であるが、その成長力はすさまじい。この湿気のなかで、ぐいぐい伸びていく杉の木のエネルギーが感じられるようである。樹木の繁茂する亜熱帯の日本で巨石信仰が一般的な理由は(火山を別とすると)、ここにあるのではないだろうか。もちろん、これだけの巨岩だと、そこに登れば、周囲の木々をこえて眺望がとれたのではないかということを実感する。

 ともかく、自然を全体としてみるという経験が山に登ることによってえられるということは大きいのかもしれない。自然の全体をみるという経験は山に登るという経験なのだろうと思う。

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