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2014年8月

2014年8月15日 (金)

「在地領主」という言葉はそろそろ使用しない方がよい。

 在地領主という言葉は石母田さんが『中世的世界の形成』で全面的に使い出した言葉であるが、『中世的世界の形成』をよく読めばわかるように、石母田は「在地領主」という用語に何らかの意味で「古代的・過渡的な」様相を含意させている。

 石母田の実遠論で特徴的なのは、清廉――実遠の関係をはじめて論証し、多面的な実証をしたにもかかわらず、石母田が実遠のなかに「古代豪族」の様子を読みとろうとしたことである。もちろん実遠に「族長」を読みとろうとした訳ではないが、その側面が残ったとはしている。実遠を少しさかのぼれば「族長的土地所有」を発見できるというのが、石母田の生涯の考え方であって、ここに石母田首長制論の発生根拠がある。

 私はその事情をもっともよく知っていた「古代史研究者」は青木和夫氏であったと思う。青木の『古代豪族』は、石母田の首長制論と実遠論を統合したイメージを描いている。青木氏は石母田さんに私淑していたが、私は石母田さんにもっとも近い研究者であると思う。青木さんの『石母田正著作集』への解説は感動的である。

 石母田が正しかったのは、9世紀から11世紀までのを私営田領主とくくったことで、これは正しかった。大局的なところでは、石母田はしばしば正しい。しかし、石母田は私営田領主に「古代的様相」を認めた。これは間違いであったと思う。

 戸田芳実は実遠について石母田の実証に学んで、実遠に「都市貴族的な領主」という相貌を認めた。戸田の理解は都市貴族的な領主が「当国の猛者」として領主制の根拠を固めるのに失敗した。後を継ぐべき「猛者」的な男児がいなかったという単純なものである。私は、『中世的世界の形成』を読んで、その後に戸田の理解を読んだ時には納得できなかったが、徐々にそういうものだと戸田に賛成するようになった。

 石母田の実証が、あの段階で群を抜いたものであったことはいうまでもなく、戸田は、それに依拠して、その先をザッハリッヒに考える条件があった。そして実遠のイメージはどうみても戸田の理解が正しいのである。

 ただ問題は、戸田は領主制の段階論を明瞭にしなかったことである。石母田批判を最後までは完遂しなかった。

 以上、端的にいえば、在地領主という言葉は領主制の変化と段階規定が不明な段階で使用された用語であり、石母田の規定にもさまざまな問題があるということである。それ故に、学術用語として、この言葉を使用するのはやめようということである。私は私営田領主段階を留住領主制、院政期以降を地頭領主制という提案をしている。
 もちろん、現在の段階でも地域の領主という意味で在地領主という用語を使うことはかまわない。便利な言葉ではある。しかし、現在の段階で、石母田の仕事を受け止め、考え直そうとすれば、そう簡単に使って良い言葉であるとは思えない。


 今日は終戦記念日である。
 終戦記念日というか、敗戦記念日というかには、議論がある。事実は敗戦なのだから「敗戦記念日」を使うべきであるという意見も多い。それも一理はある。敗戦した人々に対して、つまり戦争に責任のある人々に対して語る時は、敗戦記念日でよいのであろうし、「終戦」という言葉に事柄を曖昧にするニュアンスをみるのはもっともである。
 しかし、私は、石母田のように「解放」「終戦」という気持ちで迎えた人々がいるというのを忘れないようにするには、やはり「終戦」でよいのであろうと思う。宮本百合子の『播州平野』の世界である。
 ともかくも、「在地領主」という言葉をどうするかというのは、いわば、歴史学にとっての「終戦処理」「敗戦処理」の一部であるのはいうまでもない。石母田に向き合うことである。

2014年8月14日 (木)

非暴力という思想

 非暴力というものは何か。それは「ーーーでない」ということを意味するが、「ーーである」ということを表現しない。その意味でそれは不十分な言葉である。しかし、言葉は不十分であることによって豊かな内容をあらわすことができる。「非暴力」という言葉は、その事情をもっともよく示す言葉であろうと思う。それは子どもの言葉が豊かであるのと同じことである。子どもの言葉の豊かさを知るということが成熟の最低の条件である。我々の世代のなかには、かって非暴力という思想を一つの思想として認めないという考え方があった。それは成熟していないことの表現であったと思う。

 あるいはまた、それはカタカナの言葉、外国語が不十分であることによって豊かな内容をあらわすことがあるのと同じことである。外国語による概念や感覚の表現を嫌う人々、それを不十分であるという人々は、この事情を知らないのである。「アヒンサ」という言葉がある。これは非暴力というガンジーの思想をもっともよく象徴するといわれるヒンドゥー教などのインド宗教思想の言葉である。仏教でいえば「不殺生戒」である。この言葉によって我々はガンジーを想起し、インドを想起し、それによって「不」あるいは「非」という接頭辞を理解する。言語はその不十分性、何かを表現しきれていないという表示によって、さまざまな記憶と感情を含むことができる。

 非暴力というのはそのなかでももっとも重要な言葉の一つであると思う。それはすでに非暴力ということに歴史があるからである。二〇世紀の反植民地運動の中に位置づけられ、「非暴力・不服従」という言葉として歴史的な運動を表示しうる言葉となっている。「非」という接頭辞が豊かでありうるのは、そこに歴史があるからである。

 しかし、非暴力というものの積極的な内容は何か。それを探ることは現代においてもっとも重要な思想的営為の一つであると思う。思想というものを協同して深めていく上でのキーとなる問題であろうと思う。

 端的にいえば非暴力は怒りの姿である。非暴力が怒りであるというのは矛盾であるように思えるが、怒りのない非暴力という思想はありえない。「非」において認識されるのは、怒りなのである。怒りはあるが暴力ではないという認識である。それは怒りを怒りとして見つめる意識であって、怒りの内面性ということではないだろうか。

 怒りを避けるべきものであるかのようにいうのが今日の通念である。私は、この通念を、この世で実際に組織している人々がいるのではないかと疑う。怒る権利というものがあるとしたら、彼らは、それを人々の目にふれないところにおこうとしているのではないか。人々の目にふれるべきでないのは、怒りではなく憎しみである。怒りと憎しみは本質的に異なっている。憎しみは個的なものであるが、怒りはより深いものである。我々は「思想・信条の自由」をもつといわれるが、怒りは思想に属するとともに固有に信条に属する。


 三木清の「怒りについて」の断章は怒りについて語って余すことがない。三木は怒りの超越性をいい、瞑想性を語ってやまない。神の怒りを語り、「切に義人を思う。義人とは何か、――怒ることを知れるものである」と語った三木が牢獄で身体を掻きむしりながら死んだことを思うと、気持ちが暗くなる。怒りには時があったのであろうと思う。

 夜、目が覚めて考えていて、しかし、結局のところ、怒りとは何か。非暴力ということの内容をなす怒りとは何なのか。現代において、それは「神の怒り」ではありえな。それは人類史そのもののなかからでてくるものでなくてはならない。それは歴史の怒りとでもいうべきものであるほかないのだと思う。
 歴史学が豊かになったのは疑いをいれない。しかし、歴史学というものは何を伝える学問であるのか。歴史学は自己の豊かさに自足しているわけにはいかない。歴史学というものは歴史の怒りを伝える学問であるはずであったのではないか。

2014年8月12日 (火)

石母田さん

 先週から著書の序論部分の完成にかかって、ようやく終わった。今日は文章を直す。秋への準備にきりかえなければならない。

 以前にあった原稿に国土高権論をつけくわえたのだが、結局、都市貴族論・国土高権論の双方を石母田さんの話から始めることになった。「宇津保物語についての覚書」と『中世的世界の形成』である。その必要があって、石母田著作集を繰っていると青木和夫先生の解説に目がとまる。最近、青木先生が石母田さんについて厳しいことをおっしゃっていることを考えていただけに、青木先生の感情のこもった文章におどろく。何度も読んでいるはずであるが、

 『中世的世界の形成』を読んだのは学部4年のときだから、もう40年近くとりつかれていることになる。

 序論を書いていてもう一つ自分ながら驚いたのは、高橋昌明・木村茂光・斉藤利男・西山良平など、同世代の平安時代研究者への言及が多いこと。これはやはり同世代なのだと思う。世代の研究意識が自然にしみ通ってくるというのはどういう構造なのであろう。

2014年8月10日 (日)

安倍首相の広島と長崎での発言について

 安倍首相の広島と長崎での発言が昨年の原稿の使い回しであるということを知った。
 これはようするに、文章を書くということができる人がおらず、昨年の文章の原稿を実際にPCの上で切り張りして作成しているのだと思う。何というかいい加減なというのが最初の反応であった。国家中枢でそんなことをやっていてはいけないだろうと思う。
 けれども、広島のみでなく、長崎でも同じようなことをやっているというのは、「それで何が悪い」ということであるとしか考えられない。「それで何が悪い」というのは、これは闘争心理である。
 自民党党首が闘争心理をもつのはやむをえないと思うが、それは他の政党に対してのことであろう。もちろん、他の政党も国民の代表として国会に存在しているのであるから、国家の首相たるものがそういう闘争心理を露わにするというのは異様で、おかしなことである。
 しかし、広島・長崎にいる人々は国民である。国民に対して闘争心理をもつ、しかも安倍氏個人のみではなく、その周辺と官僚が闘争心理をもつというのは考えられないことである。こういうのはおかしい。
 原発再稼働も、こういう闘争心理でやるということであると思われるのが、恐ろしいことである。
 

2014年8月 5日 (火)

長文のあとがき

 このままになるかどうかわからないが、長文のあとがきをかいた。
 あとは序論部分に手をくわえるだけで、これで少し過去から自由になれる。

 東北と沖縄とガザと。
 こういう状況に少しでも職能を通じて関われるようになるのには、ともかく自分の仕事をまとめて自由にならなければ仕方がない。


あとがき
 本書は、私のはじめての研究論文集である。私は大学院修士課程で戸田芳実氏の指導をうけたが、戸田氏は晩年、「自分の学説をまとめ体系化する作業はやらない、自分にとって緊急かつ示唆的だと思われる論点を自由に追求し、新たな議論の展開は全てをあとの人に任せる」と語っていた。戸田氏が死去したとき、私はその追悼文を書いたが(戸田芳実氏と封建制成立論争」『新しい歴史学のために』二〇四号、一九九一年一一月)、その際、私も仕事を体系化するということは考えないようにしようと思い、研究論文集を出すことはしないという方針を決めた。論文集は、どうしてもまとまった構成やテーマを必要とするが、そもそも、論文とはようするに歴史家の仕事場に蓄積された事務文書であって、そのうち公開されているものは歴史学の「業界」の共有文書であるから、それは必要な人がコピーして利用すればよいという考え方であった。友人のタランチェフスキ氏に、研究論文集という出版形式は日本の歴史学界に独特のものではないか。ヨーロッパではあまり例がない。歴史家の仕事は歴史叙述あるいは主題の明確な大著を書くことであるというように聞いたことも大きかった。

 これは実際には自己合理化であったかもしれないが、ともかく自分の研究が、本書におさめた論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をきっかけとして、いわゆる社会史から政治史に変化し、研究テーマがいよいよ拡散するなかで、論文集を編むなどということは考慮の外にあったのである。

 私はこういう論文集についての考え方をかえた訳ではない。人文社会科学においても、論文をネットワークデータとして共有し、その類別・参照のシステムを作り上げるべき時期がきていると思う。そしてその基礎として、史料をネットワークで共有し、個々の史料にそくして研究の状況や進展を一望のもとにおくことが可能ではければならないと思う。私のようなものが、こういうことをいうのは空論にすぎないことは重々承知しているが、それにもかかわらず、論文集について考えるようになったのは、みっともないことであるが、ようするに発表した論文のミスや不十分な点を整えるために十分に加筆したいということである。

 いい加減で無鉄砲なところのある私は、新しい分野の研究に挑むのはよいのだが、あわただしいなかで、ミスを放置し、未整理のままにしてきた問題は多い。そういう中で、しばらく前から、既発表の論文について点検をし、あまりはずかしいことがないようにしたいという気持ちが芽生えてきた。学界というものが本当にあるとしたら、その整理済み事務文書棚においておいていただければありがたいと思う。

 知人の編集者から論文集をだすようにという懇切な要請を受けたのはもっと前のことであった。ただ、要請を受けたのは研究を始めたころにテーマとしていた交通論や漁業史論などであった。「見果てぬ夢」ではあるが、私は、これらの経済史こそが、方法的で学際的な視野を要求されるとともに実証的にもむずかしい問題であり、それゆえにこれこそ、研究者として挑むべき中心問題であるという考え方をいまだに維持している。しかし、それだけに、これはより根本的な研究を必要としており、御意向はありがたいものであったが、そのときの私には、(また今の私にも)とても具体的に考えられないというのが内心の気持ちであった。そして、研究テーマの拡散と多忙にかまけて要請に応えないままで過ぎたのである。

 しかし、しばらく前、職場を退職し残された時間を考えざるをえなくなるなかで、再度強い御勧めをうけた。私にも、そのご厚意の意味がよくわかるだけに、ともかく「研究論文集」なるものを出す方向に、はじめて動きだしたのである。ただ、三・一一東日本大震災をうけて開始した地震史の研究を優先するなどのこともあって、御懇請に応えるのが遅れてしまったが、そろそろ御約束をまもらねば友人としての義理が立たないということになり、この六月から本格的な編別構成の検討と必要な加筆をはじめた。

 本書に収録した論文の発表または成稿の原型と時期は次のようなものである。なお、表現などの微調整を除いて内容的な変更については、基本的には注などで【追記】と明記してある。研究が進んでいるなかで、一度発表した論文の追補・修正を【追記】ですませるのが適当でない部分があるということは承知はしている。しかし、本書におさめた論文は研究史のなかではほとんど孤立した位置にあるというのが実際であり、それに免じて御許しを願いたいと思う。

序論「都市王権と貴族範疇――平安時代の国家と領主諸権力」
 この論文は奈良女子大学「日本史の方法」研究会の編になる『日本史の方法』(創刊号、二〇〇五年三月)に発表したもので、その原形は二〇〇四年一一月に奈良女子大学史学会総会で行われたシンポジウム「平安時代論」での報告であった。本書序論として利用するにあたって必要な追補や修正を行った。それについてはいちいち記さなかったが、しかし、削除したシンポジウムの趣旨に関わる部分については下記に引用しておく。シンポジウムの組織と議論のなかで様々な教示をいただいた小路田泰直・西谷地晴美・西村さとみ・森由紀恵の諸氏に感謝したい。

 本来は、このような(都市王権というー追記)問題を立てる場合には、都市と農村の分業と対立という視座それ自身を理論的にふかめる作業から出発しなければならない。社会的分業に関する理論的研究としては、望月清司、黒田紘一郎などのよるべき仕事があるが、しかし、私は、これまでの理論作業には、都市と農村の対立がどのように精神労働と肉体労働の対立によって媒介されていたかという視角が欠如していると考えている。これについては簡単な試論を「情報と記憶」という小文で述べているのでそれを御参照願いたいが(『アーカイヴズの科学』上)、そもそも京都あるいは首都という範疇自身が、特定の観念形態を前提としており、それを捉え直すためには都市・首都が観念形態の領域におよぶ精神的中枢性を、どのように確保しているかを問わざるをえないはずである。そういう考え方から、私は、これまで、問題の理論的な再検討こそがもっとも重要な課題なのだと考えてきたし、それに関係する基礎的な理論研究を優先し(参照、「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三)、中間的な説明はできる限りさけてきた。

 しかし、このシンポジウムの組織過程で、小路田泰直氏から、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四年)で述べたことをもとにして、文明史の中での平安時代の位置について俯瞰的に論ぜよと要請された。右のような私の感じ方は御伝えしたが、しかし、世界史の段階などという問題について発言した以上、自己の研究範囲の全体像を他の分野の研究者にもわかるように展開するのは、研究者としての義務ではないかという小路田氏の正論には抗しがたかった。現在の社会諸科学が陥っている歴史的視座の喪失という危機的状況の中で、歴史学者も社会科学者の一員として、より明解な全体像の構築に努力すべきことは、誰もが認めざるをえないだろう。

 そこで、ともかくもこれまでの自分の仕事をつづり合わせる形で、全体像なるものに挑んでみることにした。しかし、こういう経過からいっても、本稿も理論というものを単純な定義集、あるいは実証成果を自己流に合理化したり説明したりするレトリックと等置してしまう歴史家の宿弊の内部にある。しかも、以下の説明は、世界史的な平安時代論というレヴェルは確保しておらず、シンポジウム組織者からすれば、このような中途半端な議論を要請したのではないということになるだろう。とはいえ、これが私の限度である。

第一章「平安時代の国家と庄園制」(『日本史研究』三六七号、一九九二年大会報告)

 この論文は、久野信義氏とならんで報告した一九九二年の日本史研究会の大会報告である。補論1には大会にむけての準備ペーパーの一部を「平安時代法史論と新制についてのメモ」としておさめた。これをきっかけに故川端新氏などの当時の日本史研究会の若手のメンバーとの交流の機会をもったことを鮮明に記憶している。諸氏の御意見や批判に十分に答えることができなかったことを、いまでも申し訳なく思っている。水野章二氏が大会報告批判を担当してくれたが、今回、補論2として「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」を執筆し、それに対する応答を行った。二〇年も経った今になっての応答は水野氏にはご迷惑なことと思うが、記録を残したく、御了解をいただければ幸いである。

第二章「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」(講座『日本の社会史』②,岩波書店一九八七年)
 私は、交通史と漁業史の研究から勉強をはじめたが、実証を深めないまま、その分野から撤退してしまった。この論文は、撤退にあたって、ともかく自分なりのまとめをしたというもので、そのなかで網野善彦氏のいうことを初めて理解したという記憶が強い。網野さんが保立君の書くものにはかならず僕への批判が入っているとぼやいているときいたのも、このころのことであるが、ようするに網野氏の学説に惹かれていたのだと思う。この論文の最後の部分でわかるように、この論文は静岡県磐田市にあった一の谷中世墳墓群の保存運動のなかで書いたもので、原稿の執筆期限が運動の山場と重なって現地と東京の保存運動の事務局仲間に迷惑をかけてしまったことは申し訳ないことだった。

第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『歴史民俗博物館研究報告』第三九集、一九九二年)
 この論文の原型は一九九一年三月一三日の歴史学研究会中世史部会の平安鎌倉勉強会での報告である。田村憲美氏を初め参会の方々の御教示に感謝したい。右にふれた一の谷中世墳墓群の保存運動の関係でご一緒した新幹線のなかで、この論文の構想を、網野善彦・石井進の両氏に聞いてもらったのは、私にとって貴重な記憶である。その時に上総広常や義経について考えていたことは無理の多いものであったが、網野さんは面白がって聞いてくれ、石井さんは納得する風情がなく、それは論文発表後も同じであった。今回は曖昧なところを書き直し、記述を全面的に追加した。これならば石井さんにも少しは応答をしていただけるのではないかと感じているが、こんなに早く、お二人のご意見をきくことができないという状態になるとは考えていなかった。

第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」(新稿)
 この論文の原型は、歴史教育者協議会の要請で、その会誌『歴史地理教育』七八八号(二〇一二年四月)の特集「平清盛と六波羅幕府」に書いた「院政国家と東国における平氏権力」という小文である。同誌からは、いちど平安時代史研究についての長いインタヴューをうけたことがあり(「文化でとらえ直す平安時代の社会」『歴史地理教育』七〇一号、二〇〇六年)、その続きのようなものである。ただし、拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して完全に書き直し、大幅に追補したので実際には新稿となっていることを御断りしておきたい。

 中心論点は『曾我物語』の理解で、これも石井さんの仕事に教えられながらも納得できない点を書いたものである。私はそもそも頼朝が嫌いであり、それが頼朝の実像をしつこく追究する上で有利であったと感じている。ただ、その意図が歴史学にふさわしい形で成功しているかどうかは、御批判をいただくほかない。
 私は、歴史学の道に入り始めたとき、当時世評の高かった石井氏の『鎌倉幕府』に一一八二年の頼朝は「関東武士団の期待にこたえる鎌倉殿として、もっぱら地味な日常の政治活動に沈潜した」とし、さらに政子の安産祈祷を自身で監督したとして、「いわばこの期間は、頼朝にとっての新家庭建設、鎌倉幕府の地がための時であり、政治家としての手腕をみがく時期であった」とあるのを読んで驚愕した。私にはこのようなことを述べるのが歴史学にとってふさわしいこととは思えなかったのである。その後、石井氏の人柄を知るようになり、その殺人的な多忙さの中での責任ある処世を目撃するようになったのち、この種の世俗的叙述を一つの方便として通史を叙述することもありうるのだと考えるようにはなった。

 しかし、私にとって、この違和感を明瞭に表明することは「鎌倉幕府」研究の重要な目的であった。『歴史学をみつめ直す』で記したように、石井氏には根本的な点で降参している身でありながら、本書は氏に対する過言をふくんでいるが、この点で、御許し願いたいと思う。ともかくも、院政期から鎌倉期におよぶ石井氏の仕事を徹底的に批判し、乗り越えることなしには、この時代の国家史・政治史の研究を刷新することはできないのである。

 なお、以下に、本書掲載にあたって削除した『歴史地理教育』掲載時の原稿の末尾を転載しておく。
 平氏政権論については、現在でも石井進の「平氏政権」(『日本歴史大系』(中世)、後に著作集三巻)が研究状況を総覧するにはもっとも適当であろう。石井の仕事は、この一〇〇年ほどをかけて日本の近代歴史学が積み上げてきた平氏研究を詳細に跡づけている。しかし、冒頭に述べたような立場からは、石井の概説をふくめ、これらが現代的な歴史意識の豊富化にはすでに対応できないものであることは自明なことであった。
 私見では、一一八〇年代内乱については、それらをすべて一度破棄する心づもりをする必要がある。鎌倉幕府中心史観という没概念な結果論、あるいは武士好きの俗論や、それを残している概説などに流されることがあってはならない。そして、この時期における王家の特殊な腐敗の状況を十分に確認した上で、社会構成論の原則論的な視野を明瞭に持ち、王家の王権と貴族階級の階級配置と地域分布がどのような関係にあったかを冷徹に究明していくことが必要である。
 ただし、私見のような社会構成論は、現在の学界においては明らかに少数意見であり、かつ上記の枠組みはまだ歴史叙述としても試されていないので、このこのような立論が歴史教育の場において本当に利用できるものかは、しばらく留保をしていただきたい。


第五章「義経・頼朝問題と国土高権」(新稿)
 この論文は拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して本書のために書き下ろしたものである。その一部はすでに「源義経・源頼朝と島津忠久」「補論、頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』二〇集、二〇〇七年)としてとして発表している。このうち付論の部分は、すべて、本論文に再編・合体したが、島津家文書の分析と島津忠久論については主題の関係で吸収していない。

第六章「鎌倉前期国家における国土分割」(『歴史評論』七〇〇号、二〇〇八年)
 国地頭論争で私も何か議論ができるかもしれないと思ったのは、それを新制論から見ていくという視角を佐藤進一氏の『日本の中世国家』における指摘と、大山喬平氏の論文「文治国地頭の停廃をめぐって」における「天下澄清」というキーワードへの着目によってあたえられたからである。この論文はもういちど大山説にもどって、第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」で議論し残したことを点検したものである。戸田芳実氏が亡くなるまえ、梅津の病院で、私も国地頭論に参加しようとしているということを御報告したところ、氏は、私の友人・後輩などはみな国地頭論に突き進むが、それがどういうことなのかがわからない。ほかにやることがあるだろうといわれて悲しい思いをしたが、ともかく私なりの結論をだすことができたと感じている。何がほかにやるべきことなのかは今後とも考えてみたい。

 第七章もあるが、これは略
 

 笠松宏至氏によれば、歴史学という学問は「抽象と論理を生命とする学問」(『中世人との対話』三頁)である。本書は抽象のみが多く、史料の徹底的蒐集と分析の上に磨かれるべき論理も甘いといわざるをえないものである。不足な点は重々承知しているつもりなので、残された時間のあいだ努力はするつもりではあるが、正直のところ、これが私の限界である。

 しかし、ともかくも努力はしなくてはならず、その方向を示すものとして、最後に網野善彦氏が亡くなられたのちに名古屋の中世史研究会で開催されたシンポジウム「中世史家・網野―原点の検証―」での報告、「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」(『年報中世史研究』三二号、二〇〇七年)を付論としておさめた。いわゆる戦後派歴史学のもった問題は、このような理論作業なしには批判することも受け継ぐこともできないというのが私見であるので、さらに抽象の度が過ぎるものであるが、目を通していただければ幸いに思う。

 二〇一四年八月四日           

2014年8月 4日 (月)

『中世の国土高権と天皇・武家』という本をだすことになり、

『中世の国土高権と天皇・武家』という本をだすことになり、はじめにとおわりにを書いた。
以下ははじめにである。
今日、編集者の人に会うのだが、何といわれるか、楽しみである。


はじめにーー本書の書名について

 本書は、平安時代と鎌倉時代最初期の天皇・院と武家が、この列島の支配の根源においていた国家的権能、国土高権がどのようなものであったかを論じたものである。土地制度、山野河海領有、「地本・下地」などの土地範疇論から法史論、さらには政治史にいたるまで対象はさまざまであるが、すべて「国土高権」ということをテーマとしている。

 前提にあるのは網野善彦・戸田芳実などの学説であるが、ともかく、国土高権の対象として、未開であったり、村落の間での争いがあったりする境界領域が重大な位置をもっており、その検討は当時の社会の歴史を考える上で必須の手続きである。平安時代の王朝国家にせよ、鎌倉時代の武臣国家にせよ、それが国家である以上、このような意味での国土を領有する権能は本質的な位置をもっていたのである。その帰趨が国家史・政治史を大きく左右したことはいうまでもない。

 本書の基本は、ここ二〇年ほどの間に書きためた論文であるが、第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」、第五章「義経・頼朝問題と国土高権」は、そのような視野から、源頼朝の「日本国惣地頭」としての国制身分の理解に関わって新たに執筆したものである。

 これらはいわゆる通説とは大きく異なるもので、その成否は読者にお読みいただき評価していただくほかない問題であるが、さらに『中世の国土高権と天皇・武家』という本書の題名も常識とは違う理解にもとづいており、これについては冒頭で説明することが必要であろうと思う。

 つまり、普通、「中世」といえば「鎌倉時代=武士の時代」の開始以降を意味する。しかし、私は井上章一『日本に古代はあったのか』(角川選書、二〇〇八年)と同様、「日本には古代はなかった」と考えており、逆にいうと、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するというほかないと考えている。そもそも日本は東西軸でいえばユーラシアの東端に位置し、また南北軸でいえばインドネシアからフィリピネシア、ジャパネシアとつらなる太平洋西縁の群島世界に属する列島である。この国の歴史がそこから離れて時代区分できるというのは幻想に過ぎない。

 そして、現在の段階で、こういう観点から日本史の時代区分を考えるとすれば、依拠すべき先行学説としては、内藤湖南、そしてそれを引き継いだ宮崎市定・谷川道雄などの世界史の時代区分を前提とするほかないということになる。たとえば、宮崎市定によれば、中世とは、世界史的には、ほぼ紀元二・三世紀から一二・一三世紀までの約一〇〇〇年の期間をいう。宮崎は、中世の開始をほぼ二〇〇〇年ほど続いた古代の都市帝国文明が、ユーラシア規模におけるフン族、そしてゲルマン民族の大移動の中で大きく動揺し、東の漢帝国、西のローマ帝国がほぼ時を同じくして崩壊にむかう時代に求める。この時代は、ユーラシア大陸の中央部に広がったヘレニズム文明の中で、いわゆる中近東地域が世界の富と文明の中心としての地位を確保し、たとえば乗馬や製紙の技術のような基本的な技術が国際的な連関をもって発展した時代であり、また仏教・キリスト教そしてイスラム教などの世界宗教という形をとって世界的な文明連鎖が成立した時代である。

 これを適用すれば、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するといってよいことになる。邪馬台国が「中世」であるといえば大学入試では失格であろうが、邪馬台国から古代が始まり、列島の歴史は世界史とは関係なく、「古代―中世―近世―近代」と進むなどという感じ方こそ歴史知識としてまったく無意味である。

 平安時代から鎌倉最初期までを対象とした本書を『中世の国土高権と天皇・武家』としたのは、こういう事情による。しかし、問題は、そうだとすると、本書の題名は、より正確には『日本中世後期の国土高権と天皇・武家』とすべきことになる。平安時代約四〇〇年は宮崎のいう世界史上の「中世」の時代の後半にあたるからである。しかし、中世後期というと世間でも、また日本の歴史学界でもだいたい室町時代のことをいうのが一般である。平安時代を中世というだけでも誤解を呼び、理解をえられないであろう現状の中で、そのような題名を選ぶのはいたずらに混乱を呼ぶと考えた。

 それに対して平安時代を「中世」と呼ぶことには、それなりの理由があるのである。つまり第二次世界大戦後の「中世史」の研究者の中には、平安時代を鎌倉期以降の歴史と連続的にとらえようという強力な潮流が存在した。そして平安時代の社会経済史は、石母田正の提起を受け、稲垣泰彦、永原慶二、黒田俊雄、戸田芳実、河音能平、大山喬平など、本来、「中世史」の分野を専攻とし、社会構造論的な方法を主軸とする研究者によって推進されてきたのである。その中で研究をしてきた私にとっては平安時代史は「中世」なのである。

 ただ問題は、そうだとすると鎌倉時代は基本的には「近世」になるということで、さすがの私も、それを明言するのには勇気がいったが、それでよいと考えるにいたった。そこで、最近、『岩波講座 日本歴史』の月報で、クリフォード・ギアーツを参考に「インヴォリューション=近世化」という考え方をとって、一二・三世紀以降は日本も「近世」化に突入したと論じたのである。一一八〇年代以降、いわゆる時代区分論についての議論が退潮していくなかで、こういう問題はどうでもいいというのが歴史学界の傾向になりつつあるのも実情であるが、ともかく、私は、逆に最近、「平安時代=中世」という確信をふかめている。

 以上が本書の書名についての説明であるが、なお、念のために申し上げておけば、「古代―中世―近世―近代」などという時代区分は所詮、一種の符丁にすぎない。こういうことをいうとすべてをひっくり返すようであるが、実際に、世界と日本の歴史が関連・融合したものとして、どのような段階とフェーズを歩んだかは、より具体的な歴史理論を再構築して考えるほかない問題であることは明らかである。その意味では本書の題名は経過的なものにすぎないことを御断りしておきたい。内容までも経過的なものであるということはこまるが、ともかく、以上のような御説明は冒頭にしておくことが必要であろうと考えた。

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